「これはカナタの作った卵焼きじゃない」
「は? 何言って──」
首をかしげたカナタの周囲に、さっと影が降りた。
「危ないッ!」
彼女が気づいたときには、すでにレイジに突き飛ばされていた。
空中でひねりを加えながら、降ってきたものの正体を確かめる。ヘドロで形作られた黒い筒──ダクトか何かの破片だ。
「レイジッ、──うっ」
ズリッ
無様な着地だった。
思いきりカーペットを巻き込んだ彼女は、バランスを崩して顔面から卓袱台に叩き付けられる。
とっさに顔をかばって倒れた彼女の上に、ひっくり返ったテーブルの上からフキンやリモコンが降り注いだ。
全身が痛い。
だが、カナタは自分のことより、かばってくれたレイジのことが心配だった。
カーペットを跳ねのけて立ち上がると、彼の体をすぐ見つけることができた。
その巨体は、真っ二つに折れたエアダクトの下敷きだ。
「カナタ、無事か」
レイジの声からダメージを感じられない。
このダクトは、見掛け倒しだ。所詮ヘドロの塊でしかないので、重さもたいしたことはない。
大変なことになっているのはレイジよりも、どちらかというと部屋そのものだ。”つくり笑い”の襲撃に、レイジの『黒い光』の爆撃とヘドロによる浸水。配線がバカになったようで、二人の頭上で照明がチラついていた。
「おらよ、つかまれ。まったく、どうしてオマエはいっつもアタシのために……」
レイジの手を握って――カナタは固まった。
「カナタ?」
その顔が、白い。
修正液をブチまけたような白さは彼女のもとからの色だ。しかし、今の彼女は、それどころじゃない。血の気が引いた白さ、というのだろう。
不安げに見上げてくるレイジの前で、カナタは軽くよろめく。
「……オマエ……前にも……あの会議室で……」
ダクトに押し潰されたレイジ。
それを見るのは、初めてじゃない。
薄暗い部屋。明滅する照明。血まみれになって倒れる、彼の体――――
カナタの頭が揺れる。見えない大きな手で両側から捕まれて乱暴にシェイクされるような気分だった。
『ショック療法。ってやつ』
面白くなさそうに毛先をいじっていた少女が、真っ黒なダクトを蹴り付けた。幻影の足がすり抜けた瞬間、ダクトの破片は溶けてヘドロの塊に戻る。
あとには呆然と、汚泥にまみれたレイジが立ち尽くすだけだ。
『カナタちゃん。思い出して』
折れてひび割れたフローリングの板目に沿って、黒い水が広がっていく。それを見ていると、カナタは頭の内側にぞわぞわとしたものを感じる。
楽しい夏の記憶に、ヒビが入る。彼女の頭を振り回す手はどんどん力強くなる。まるで、そこに隠されたものを暴き出そうとするかのように。
「うっ」
ヘドロの臭いがよりいっそう強く感じられて、カナタが口元を覆った。
『あの日きみが見た海の青さを作ることなんて、絶対にできやしない』
めまいを引き起こすほどに立ち込めた汚泥の臭気と、そして熱気の中。少女の顔つきに、もはや少女らしさは残っていない。
罪人の爪を一枚一枚丁寧に引っぺがしながら問い詰める尋問官のような無機質な冷たさだけが彼女の
少女は一歩、カナタに近づいた。
『本当の青は──』
そして静かに、宣告する。
『きみの瞳の中にしかない』
カナタは雷に打たれたようだった。
思い出そうとするたび、偽りの「青」が色あせていく。
あの時見たはずの、潮風にきらめく波面の記憶が─―隣で見守るレイジの笑顔が。ばらばらと崩れ落ちていくような幻聴とともに、隠されていた嘘があらわになる。
バーベキューの煙は安っぽい綿細工に。
パラソルの影は地面に描かれた落書きに。
卵焼きの匂いは甘ったるいビニールの香りに。
あったはずの風景が、すべて薄っぺらな背景美術に戻っていく。
「なん、だ、これ……」
呼吸が震えていた。
たった半日前のことのはずなのに、どれだけ記憶の頁を指で探っても、その色が思い出せない。
バーベキューの思い出。それは風景ではない。もはや「海にいった」という、ただの記号だ。
■
レイジがリュックサックを放り出した。
それは姉との絆でも、思い出でもない。量販店で買ってきた小道具だ。トサ。と軽い音を立てて泥沼に着地したリュックが、ゆっくりと沈んでいく。
彼なりに、悔しいのだろう。下唇を噛んで、じっとカナタを見つめてくる。
それを静かに見つめ返すカナタの中でも複雑な感情が渦巻いていた。温度、ニオイ――すべてを思い出した。それは陽光の差すビーチではなく、暗く冷たい地下施設の中で感じたものだ。
「マジかよ。やられたな……」
「ああ。俺の、責任だ……」
レイジが軽く、うつむいた。
帰りのバスで感じた違和感。マンションでそうめんをつついている時に襲ってきた奇妙な感触。
今なら、その原因がよく分かる。
「アタシら、この町から出られねえのか」
『そだよ。カナタちゃんたちはスタートしてすらいなかったんだ』
パチパチパチ。
世界で一番うれしくない拍手を、少女が送ってよこす。
海辺でバーベキューをしてサメと泳いだ記憶など、二人の頭からアルコールと共に
あるのは無力感。
大人たちに捕まって、いいように思い出を書き換えられたという事実だけだ。
『あいつらは人の記憶を消したり作ったりできる。でも、二人には……少しばかり効きが悪いみたいだね』
「なんで、アタシらには効かないんだ?」
カナタが聞くと、少女はゆっくり目を逸らした。
『……ホラ。きみらの使ってる消しゴムだって、同じところ何度もこすりすぎると、紙が汚れてくるじゃん?』
腕に絡みつくフジツボをいじりながら、少女が続けた。
『あんな感じ。……じゃないの?』
最後まで目を合わせようとしない少女。
軽い口調とは裏腹に、その目の奥には、何かを隠しているような気がしてならなかった。
『わたし、けっこう口固いよ? そんなことより、掃除でもしたら?』
少女の言うことに従うなんて、カナタはまっぴらごめんだったが、実際その通りだ。
とにかく部屋の中が泥まみれだった。全身クタクタで、おまけに夜遅い。だが、こんなところで寝るのはイヤだ。カナタは脱衣所に置いてある雑巾を取りに行くことにする。
白い素足が、ぬちょ、と音を立てて泥の塊に沈む。
部屋も、人も。ついでにこの町ごと──どこまでも、泥まみれだ。
「おい、レイジ。後片付けするから手ェかせよ」
カナタが振り返ると、レイジは固い面持ちで少女を見下ろしたままだった。
「俺たちは、負けてしまったのか」
『きみらの敵は「防衛局」。強いよ、あいつら。今のレイジじゃ勝てないかも』
「あぁ? 敵だ?」
奇妙な引っ掛かりを覚えて、カナタが目を細める。
確かにレイジはボコボコにやられたが、彼らの振る舞いはかなり紳士的だった。
挑発があったとはいえ無用な戦闘を仕掛けたのは彼のほうだったし、トドメを刺した装備はテーザーライフルだ。
狙いは分からないが、命まで取られなかった。こうして家にも帰してくれた。
「……なぁ、ガキンちょ」
カナタはふと立ち止まる。ぬかるんだ泥の上で、目を細めた。
「オマエ、なんかさっきからレイジのこと煽ってねえか……」
やはり、少女は信頼できない。
違和感に首をひねるカナタだったが、その前に動いたのはレイジだった。
「……すまない」
カナタが見つめる先に、レイジのつむじがある。
「俺は、カナタを危険にさらしてしまった」
「……はあ?」
何言ってんだコイツ――カナタが首をかしげる。
深々と頭を下げてくる彼の表情は知れない。
だが、カナタと彼とは多少の付き合いだ。彼が本気で気に病んで、申し訳ないと思っていることだけは伝わってくる。
たとえそれが、すさまじく突飛でスジ違いだとしても。
「あのさ。海行きたいって言ったのアタシだし」
カナタの前で、レイジの姿勢がより深くなる。
──このままじゃ、額をこすりつけて土下座するどころか、レイジのフィジカルで床を突き破り、階下の天井に「すまない」の文字を刻みそうな勢いだ。
とっさにしゃがんで、カナタは彼の体を受け止める。
「ちょッ……そもそもヨソクフノーだろ。途中でテッポーもった軍隊でてきて囲まれるなんて」
「──すまない。すまないッ!」
『そうだね。残念だけどレイジは負けた』
そこで彼の暴走に勢いをつけるようなことを、すかさず少女が言った。
「おいおいおい待てよ。アタシ別に、連中に傷つけられたりは──」
「くそ!」
レイジが力任せに床を殴りつけた。ズン、という衝撃でカナタは尻が1cmほど宙に浮いたような感じがした。
分厚いフローリングが陥没し、拳の形にヘコんだ穴が残される。
「すまないカナタ。俺は、またしても君を守れなかった」
「また?」
『レイジぃ。あれはさあ……』
困ったように笑った少女がレイジに目配せをする。
彼らの「以前」とは映画館のトイレ。少女がレイジに見せた幻覚のことを指すのだが、そんなことをカナタは知らない。
そして彼が手にかけてしまったカナタの幻影のことも。それを彼が、どれだけ気に病んでいるのかも。
「────へえ。仲いいんだな、オマエら」
『お構いなくー、ちょっと、ごっこ遊びしただけだから。ね?』
「あれは”ごっこ”で済むものではないだろ」
レイジの顔は険しいが、少女に向ける眼差しには親しみがこめられている。
レイジと少女の間には、特別な絆がある。七年の付き合いと一ヶ月そこらの関係で張り合うのは無謀──そう分かっていても、カナタはムカついてしまう。
少女とレイジを奪い合う構図になっている自分に気づいて、さらにムカついてくる。
「そんなコトより。オマエ、またやりやがったな」
「あ」
カナタに言われて、レイジが我に返った。
彼の右腕は陥没した床の穴に突っ込まれたままだ。
引き抜かれたレイジの拳が潰れ血を滴らせているのを見て、カナタは迷うことなく動いた。
近くに干してあった彼の替えのパンツを取り、引き裂いた。
「あ、俺のパンツ……」
「うるさい。自傷癖の筋肉野郎はパンツがお似合いだ」
白いブリーフにじわりと赤い血が染みていく。
「すまない」
「さっきからそれ、パンツに謝ってんの。それともアタシ? それともオマエの体に?」
「俺のケガはすぐ治るから、こんなこと……」
カナタがギロリと鋭い視線を投げつけてくる。
「黙れ。オマエはしばらくパンツ巻いてろ、パンツマン」
静まり返った部屋の中、しばらくの間響くのは、パンツを引き裂く音とレイジの息遣いだけだった。
『────で。あきらめる?』
そんなわけないよね。少女の黒い目が語り掛けてくる。
「それでも俺は、諦めるワケにはいかないんだ」
「へえ。なんで?」
言おうとしたことを、カナタに先取りされて、少女は少しむっとした様子だった。
「カナタと約束した。そうだろ?」
『だね。もうひとがんばりだ』
少女がレイジに笑いかけるのをカナタはじっと見つめていた。
窓際に歩いていって、残ったイスに腰掛ける。
「カナタ。どうかしたか?」
『カナタちゃん?』
不安なわけではない。約束を、ずっと守ろうとしてくれることも、うれしい。それでも、血に染まったレイジを見ていると、カナタは胸の奥がチクリと痛む。
「アタシいろいろ言っちゃったし、たしかに約束もした。けど……これ以上レイジが傷つくなら──」
「オラーッ!」
バッキン。カナタの声を掻き消すように、鈍い金属音が玄関から響いてきた。
「な、なんだ……?」
『うわ。やっぱ来た』
先に音の出所に向かった二人。それを追いかけるカナタの足取りは、重い。
「この不良ども! いるのは分かってんだ、修正してやるからツラかせや!」
バールのようなものを打ち付けられた玄関戸が、ガンガン鳴っている。誰がそんなことをしているのか、カナタには分かる。
「やべ……センセーだ」
「えっ!?」
レイジが勢いよく振り向いた。
そうしている間も、暴力的なノックは止まるどころか激しさを増している。
気まずそうに目をそらす少女を見ても、ベコっとヘコみはじめた鉄扉を見ても、カナタの心は動かなかった。
「カギ、開いてんだけどな……」
アル中の暴れん坊が突っ込んでくる瀬戸際なんだから、もっと焦ろうよな──自分にいくら言い聞かせても、カナタの心はじんわり落ち込んだままだった。
バコン。扉が、大きくひしゃげる。
「キ、キリエ先生」
ドアを壊されちゃたまらんとレイジが声をかけた直後、
「うらああああッ!」
ドッカン。
扉が吹き飛んだ。
分厚い鉄扉がクルクル回転しながら飛んでくる。フローリングに惨い傷を残しながら、その勢いは止まらない。もはや殺人ノコだ。
ズンッ。
レイジがそれを受け止める。
彼の体がわずかに後退し、二の腕に大蛇のような血管が浮き出る。
「おうおうくそガキども……」
ちょうつがいが、近くの壁に突き刺さっていた。ドアが蹴破られた衝撃で銃弾のように弾け飛んできたものだ。
「このキリエちゃんのドタマかち割ろうとしといて居留守決め込むたあ、いい度胸してるじゃねえか……!」
もうもうと煙るホコリの中に現れたキリエは、ヤバいくらい笑顔だ。
相変わらず手入れされていないモジャ髪に割れた酒ビンの破片が引っかかっていて、クリスマスツリーみたいだった。
そんな彼女の浮かべた笑みも、ガラスの飾りつけに負けないほど輝きまくっている。
愉快なのではない。キレすぎて笑うしかできない段階なのだ。
「いらっしゃい。センセー」
目と鼻の先に迫った鉄扉を軽く押しのけて、カナタが前に出た。
鉄の塊をレイジが受け止めていなければおそらく死んでいただろうが、そんなことがどうでもいいくらい、投げやりな気分だった。
「あのビン、やったのアタシ。お詫びにそうめん食ってく?」
「……あ、あれー?」
一方のキリエはひどい肩透かしを食らってしまった。
彼女が暴れるまでもなく、荒れ放題泥まみれの室内と、しょげた顔で立ち尽くすカナタ。
「もしかして……入ってこないほうがイイ雰囲気でした?」
「キリエ先生!」
そして、レイジ。
こんな状況で、鉄扉を勢いよく放り出して駆け寄ってくる彼だけがやる気に満ち溢れた顔をしている。
それがいっそう、室内にわだかまるどうしようもない「ヤッチャッタ感」を引き立てていた。
「なん……なんですか。キミばっかりイキイキしちゃって」
「俺と殺し合いをしませんか」
「はあ?」
キリエの眉が、ピクリと動いた。
「ついに打っちゃいけないトコ打っちゃったんですかァ!?」
「俺は海に行きたい。でも、今のままじゃダメなんです」
勢いよく両手をレイジに掴まれ、キリエがイヤそうに身をよじった。彼女が助けを求めるように見つめてくるが、カナタは「やれやれ」と首を振ることしかできない。
「どんな苦しい思いをしたってかまわない。俺を、鍛えなおしてください……!」
「……これで満足かよ、くそガキ」
カナタが隣に目をやる。
「こうなったらアイツ、トコトンまでいっちまうぞ」
そこに立っていたはずの少女は影も形もなかった。
ただ、水溜りがテラテラと輝いている。じんわりと黒いモヤが広がる水の中で、一匹の赤い小魚が跳ねていた。
じっと見つめる彼女の目の前で、それは見る見る動きを弱らせていき、やがて泡のように砕けて、黒い泥の中に消えた。