共同階段の踊り場から見下ろす駐車場は、まるで異世界だ。
日差しはさわやかで、風も涼しい夏の朝。だというのにそこだけ、粘つくような殺気が毒蛇の群れのようにひしめいていた。
マンションの敷地外では鳥と蝉の合唱が始まっていた。だが、四方をボロボロの鉄筋コンクリートに囲まれた空間に響く音は向かい合った二者のかすかな息遣いだけだった。
「センセー……あんた、強いんだっけ?」
四階から見下ろすアスファルトの地面が波打って見えた。
これからどうやら、レイジとキリエの殺し合いが始まるらしい。
町の外に行きたい。障害を排除するために限界を超えたい──だからギリギリの戦いがしたいというレイジに縋られ、「あっそ」と根負けしたキリエ。
自分をボロボロにしてもらえる。
そう知ってレイジが顔を輝かせた瞬間を思い出すたび、カナタは胸が締め付けられる。
「もう痛い思いすんなって、アタシ散々言ってきたろ……」
手すりに深くもたれた彼女は、目の前に下りてきた前髪をふっと吹く。
「ガチぶっ殺しでいいってハナシでしたね」
駐車場では、キリエがいつもの便所サンダルを脱ぎ捨てたところだった。裸足が砂利の上を滑り、
その構えは極端な前傾姿勢を特徴とする。
張り詰めた弓そのもの──ギャラクティックテコンドーの唯一にして基本のスタイルだ。
「はい。俺もそのつもりで行くので」
その声はレイジのものだ。
カナタは軽く身を乗り出して、真下を覗き込む。そこに立つ彼の顔は見えない。
短い黒髪は風が吹いてもそよがず、シャツの下から隆々と筋肉山脈をそびやかす背筋と相まって、まるで岩のような彼のたたずまいを一層強調していた。
「俺に殺されても、文句は言いませんね」
聞いてるカナタがゾクッとするほど物騒な言っているのに、彼の背中は一切揺らがない。
ダラリと両腕をたらしたまま、彼は歩きはじめる。
履き古したスニーカーのヒモを引きずりながら、彼は両肩をほぐす。
「今日こそ勝たせてもらいます。師匠」
「あっそ、つまりいつも通りってコ──」
ドシュッ
キリエの言葉を、鈍い衝突音が遮った。
彼女の体が、固まっている。レイジの無警戒な足取りにあわせて彼女が気を抜いた瞬間、顔面めがけて、レイジの丸太のような脚が激突したのだ。
ゴングがなる前の攻撃は完全に反則だ。二人の間に
「うっわァ……」
朝の空気が、揺れた。
かなり離れた場所から開戦の一撃を見守ったカナタにも、あまりの威力に空気が歪む瞬間がハッキリ見えた気がする。
ハタリ。一滴の赤が、アスファルトに落ちた。
「ぷっ」薄く笑ったキリエが鼻血をかんだ。
「なんでアレくらって無事なんだよ、キリちゃんは……」
今のは打撃なんてナマやさしいものではない。
レイジのハイキックは解体現場で使う重機の一撃、もしくは爆薬に匹敵する。
カナタは、アレを受けた怪物の首がゴムボールのように弾ける瞬間を見たことがある。
「んー……おっけ。なかなか効きますね」
だというのに、鼻血一滴。
歯茎の根元まで丸見えになるほど、キリエは大きく口を歪めて笑う。
「な──」
レイジも静かに驚愕した。
カナタからは彼の背中が、わずかに引きつったのが見えた。
今のは『試し』だ。レイジがガチンコで殺しに来てるのか、そしてキリエが自身のマジモンをぶつけていいのか……それを測るため、あえて殺人キックに顔面を晒した。
それを耐え切る頑丈さは、鍛えてどうこうなる次元ではない。
思いッきり人間をやめちゃっている。
「んじゃこっちのターン開始──」
レイジが、軽く退く。
無意味……巨大な三文字が、キリエが右足を引く動作とともにカナタの脳裏に浮かんだ。
その脚は、解き放たれる瞬間を待つ一本の矢だ。
直後、離れた場所にいるカナタでさえ、首筋に刃物をあてがわれたような
びゅっ──と。ムチが空気を裂くような音。
瞬き一つの間に、レイジの姿が消えていた。
それまで直立していたキリエは、映像のコマが飛んだように蹴り込んだ後の右足を宙に浮かせている。
ズドォン……
「あわっ」
低く、鈍い爆音と共に建物全体が揺れた。
カナタはあわてて手すりをつかんだ。
砕け落ちた塗装の破片が、彼女の頭にハラハラと降りかかる。
カナタはおそるおそる、階下の様子をうかがった。
最初に目に入ったものは、散らばったレンガとコンクリートの破片だ。
彼女がいる棟の外壁が、巨大な鉄球を衝突させたように窪んでいる。粉塵が煙となって舞い上がり、むき出しとなった鉄筋から瓦礫が剥がれ落ちる。
何がそれだけの破壊を引き起こしたのか? この場に居合わせたものにとって、それはあまりにも愚問だ。
「当たっちゃうのか……やっぱダメだな。今のレイジくんじゃ」
不気味なほどの静けさの中に、キリエの呟きがこだました。
人間一人。それも190cmオーバーの巨漢を、サッカーボールのようにシュートしてのけた。
反動で、蹴りの軸足は足首まで舗装の中に潜り込んでいた。
「カナタさーん!」
今まで完全に蚊帳の外だと思っていたところにいきなり声をかけられて、カナタはドキリとする。
「殺ったりしませんから。なるべく、ですが」
チロリと軽く舌を出してみせるキリエ。
「でもまあ、力のカゲン間違って殺しちまったらメンゴ。って感じで。よろしく」
「俺を殺すなんて、できませんよ」
衝突で開いた穴が崩れる。
「あの『防衛局』にも。たとえ、師匠が相手でも」
瓦礫があたりに散らばり、衝撃でクモの巣状に駐車場を引き裂いた亀裂の上に、血が染みたスニーカーが歩み出す。
土ぼこりが晴れる中、レイジが姿を現した。そのシャツは肩が裂け、胸板が露わになり、全身に刻まれた傷がうごめいている。
「もっぺん。いえ、何度でも。お願いします」
血と泥まみれの顔をしばらく押さえていた彼は、その手をゆっくりどける。
衝突の威力で破裂した右目が、空っぽの眼窩の中で風船のように膨らんで再生していく。
焦点の合わなかった瞳孔がキリエを捉え、暗い光が戻る。
彼の不死性を誇示するように彼の体は瞬く間に治っていくが、カナタの目に、それはどこか痛々しい。
「フー……」
レイジは両目を閉じ、それから唇を引き締める。レイジの声がマンションの壁面に反射する。
「俺はいくらでもやれますよ。好きにブン殴ってください。痛いのも、辛いのも。カナタの前で倒れた俺が、許せないんです」
「あのバカ……マジでまだやる気かよ…………」
なんて危うい覚悟と決意なんだろう。カナタは手を強く握り締める。
普通の人間だったらとっくに死んでいるようなケガを何度も負いながら、キリエというバケモノの中のバケモノに向かっていく。
カナタにはむつかしい言葉が分からない。
だから代わりに、レイジに感じる印象を告げるとすれば、それは「愚直」の一言に尽きる。
「俺はカナタのために負けられない。二度と」
レイジも拳を固め、キリエと対峙する。
ここまで圧倒的な力量を持つ相手に平気で突っ込んでいくのは、もはや愚直ですらない。ただの「愚」だ。
「それは、『カナタさんのため』にですか?」
「はい」
力強く頷くレイジの前で、キリエはジーンズのポッケに手を入れてごそごそしている。しばらくして彼女は例のスキットルを取り出した。
「『カナタさんが海に行きたいから』キミもそうする、と?」
「はい」
「あっそ……」
やる気マンマンで即答してくるレイジを前に、キリエはあくまでそっけない。
すでに、戦闘態勢ではない。肩の力は抜けているし、構えも解いた。その視線はレイジよりも、指先でもてあそぶキャップに向けられている。
「……おもんな」
酒を数滴垂らして、彼女は舐めた。
形はいいが、色のあせた唇がジリジリする。
質の悪いアルコールは、彼女の頭をほんの一瞬だけ麻痺させたが、それだけだった。あとに残されたものは虚脱感だけ。
キリエは天を仰いで、軽く目を瞑る。
自分の頭の中にポッカリと開いた虚無の中へと、落ちていくようだった。
「……ここらでひとつ、ヒミツをバラしましょう」
「秘密?」
問いながら、レイジの体が前に大きくのめった。
そのまま──発射。彼の巨重が前に踏み出す衝撃に耐えられなかった靴底だけが、その場をハラハラと舞う。
すでに、その速度はカナタの目で追えるものではない。
「私。『本業』は防衛局の職員です」
「なぜ──ッ」
レイジの頭と体は別々の温度で動く。
たった一言で恐ろしく
疾走の勢いそのままに繰り出されたパンチは、相変わらず破壊的な威力を秘めている。それが向かう先はキリエの顔面。
「下っ端の下っ端の底辺のザコですが。ね」
彼女は顔を軽く反らす。当たれば顔面が無くなるようなパンチを難なくかわす。
「昨日コードC……脱走の報告がありました」
ドシッ
レイジと通り過ぎざま、その後ろ足の甲に、キリエの
山ひとつが足に乗りあげてきたような衝撃だ。
思わず前にのめったレイジの延髄めがけ、強烈なエルボーを直撃させる。
「アホな高校生が監視網に引っかかって記憶処理。でもって送還──キミらでしょ」
「なぜ今、そんなことを……」
彼女はレイジの足を軽く払った。
筋肉の塊という超重量物は、いともたやすくバランスを崩す。
「まずは敵を知ることが大事」
倒れ行くレイジが、キリエめがけて豪腕を伸ばす。
彼の太い指が左腕に食い込んでも、彼女は涼しい顔のままだった。
その余裕を、今日こそブチ壊す────レイジはそのまま、地面とキスすることを選ぶ。だがキリエと道連れだ。
百キロをゆうに超える体重を利用して、彼は師匠の体勢を崩しにかかる。しかし、彼女は軽くステップを踏んで、それを阻止した。
宙に舞ったのはレイジだけ。
彼の肉体が凄まじい音を立てる。シャツ越しにも分かるほど筋肉が隆起し、耳障りな音を立てながら全身にひねりを加える。
トッ
しなやかに彼は着地した。
バランスを取り戻すための無茶な空中制動。その衝撃で外れた関節を、無表情でハメ直す。
「お、おお……」
踊り場まで響いてくるほどの鈍い音を聞きながら、カナタが思わず声を漏らした。
サーカスか、はたまた仲良くタンゴを踊っているような、キレのある動きだった。
しかし、交わされる言葉の内容はひたすらに不穏だ。
「答えてくれませんか。キリエ先生。師匠。どうして俺に──いや」
レイジは手を振り払って飛び退く。
彼の視線が、不安げに見下ろしてくるカナタと交錯する。
「……なんで、そんなことを俺たちに?」
「教え子に聞かれたことには誠実に答える。教師の義務です……いや。そんなのウソだな」
ふっと。軽く息を吐いて、キリエは酒をあおった。
「簡単なコトです。私、ヤケクソになってんですよね」
「ヤケ……クソ……?」
キリエの言っていることがよく分からない。
怪訝そうに眉を下げるレイジを前に、キリエはスキットルの飲み口をじっと見つめた。
「局のトップのオッサンは勇ましいこと言ってるだけ。そいつに『待った』を掛けられて地下でジメジメしてるうち、私の腕は錆び付いちゃった」
トン、と。レイジの頭を軽く叩いたものがあった。
「もう腹も立たないし。本当に、マジで、『あーあ』って感じ」
彼の背筋を、一滴の冷や汗が滑り落ちる。
知らないうちに、キリエの長身が落とす影の中に飲み込まれていた。金属の塊のように冷え切った彼女の指が、その額に触れている。
すべてに見放されたアルコール中毒者は、ただ、ぼんやりとレイジを見下ろしていた。
「ほんのちょっぴり、見せてあげますか。キミの、ギリギリってやつ」
まずい──レイジの脳に響き渡る警報。
それよりも早く、キリエの手が彼の両肩をつかむ。なんの変哲も無い、手入れをサボった丸爪が、ギギュッと音を立てて肉に食い込む。
直後レイジの体は、まるでボールのように真上に放り投げられていた。
「わ」
カナタが声を上げた。
垂直に打ち上げられてきたレイジと目が合ってしまった。
お互い、顔が引きつる。ここは四階だ。
そして昇りきれば、当然の帰結として落ちることになる。夏休み前の期末の範囲にも含まれている、自由落下だ。
「レ、レイ──」
ジ。と言う前に、ビタンという湿った音が下から響いた。
その音はすぐに消えず、マンションのコンクリート壁に反射する。徐々に甲高くなっていく反響を聞きながら、カナタは恐る恐る、下を覗き込んだ。
「キミは強い。それはウソじゃありません」
ひかれたカエルのように大の字に伸びたレイジの前に、キリエがしゃがみこんでいた。
「人間の檻の中なら、レイジくんは最後まで生き残れる。でも、それだけじゃダメ」
砂利を鳴らして、キリエの爪先が地面をこする。
レイジの巨体を蹴り転がして仰向けにしながら、彼女の語りは淀みなく続いていく。
「檻をぶっ壊して出ようっていうなら、外で待ち構えてる怪物たちと殴り勝てる力がなくちゃ。たとえばあの、サイボーグ忍者とかね」
キリエに無造作に蹴り飛ばされるまで、レイジは何もできなかった。
巨体の彼が、誇張抜きでサッカーボールのように軽々と空を舞い、駐車場の真反対まで飛んでいく。
「防衛局が飼ってるサイボーグは何人かいるけど……その中でも、やっかいなのに目ェつけられましたね。アイツは……」
ドォン。衝撃波がカナタの方まで伝わってきた。
外壁との激突の瞬間、レイジの体は軽くバウンドし、駐車場の上に投げ出された。瓦礫まみれの地面の中に、血が染みたシャツが埋もれていく。
「アイツはサイアクの最強って感じ。私と同じくらい強いですよ……マジで。これウソじゃないから。今、センセイは別の意味でギリギリのこと言ってますからね」
どこかふざけた調子でキリエがしゃべり倒す。そんなのお構いなしに高くなっていく太陽が、駐車場の一角を照らし出す。
血が飛び散った花壇に落ちた大柄な影が、ゆらりと立ち上がる。
泥まみれになったレイジは、もごもごと口を動かしていた。
やがて血と一緒に何かを地面に吐き捨てる。砕けた歯だった。口元を拭って、朝日を受けて輝く犬歯を、彼はじっと見つめた。
「師匠」
「それは恥ずかしいからやめろと言いましたよね」
「……キリエ先生。一つ、いいですか。外に行くなら力が必要。そう言いましたね」
足元の地面をほじくり返してキリエはあくびをする。
レイジはシャツの右肩をつかむと、そのまま乱暴に破り捨てた。
「そのシャツ縫ったらまだ使えたろ」
カナタが頭を抱えた。
「これじゃ足りませんか」
「おやおや。私、男性の裸にあんま耐性ないんですがね……」
突拍子もないことをしでかしたレイジを見てキリエは呆れていたが、あらわになったレイジの肉体を鼻で笑うことは決してない。
それが努力と痛みと狂気で形作られたものだということを、彼女は知っているからだ。
山脈のように激しく隆起した筋肉は、生物の肉というより、恐ろしいほどの力で引き絞った鋼線に質感が近い。
「どんな怪物も……それこそ、俺の『憤怒』だって、この体で押さえ込んでみせる」
爪先が破れたスニーカーで地面を踏みしめて、レイジの体がゆっくりと加速を始める。
「ほかには何もいらない」
レイジは爆発的に距離を詰めた。走るスピードが頂点に達したとき、ほとんど彼は飛ぶように、見えないワイヤーで急速に巻き取られるように、キリエの眼前に躍り出る。大きく振りかぶった拳を、今まさに、
「とんだ寝言を聞かせるもんですね」
キリエの言葉で、レイジの拳がすっぽ抜けた。たたらを踏むレイジに向かって、キリエは指を一本立てて「待て」のポーズをとる。
「先生がこの町で最強の個人、という前提で話をしましょう。その前にちょっと水分補給」
つかつか壁際まで歩いていって、キリエはいつものスキットルを取り出し、高くあおる。
滝のようにウイスキーを口の端からこぼしながら飲んでから、彼女は思い切りむせた。
「あーたまんねえ……それで…………あ待って」
キリエが予断のない足取りで歩き出した。
つい身構えてしまうレイジの前を横切って、彼女が向かったのは近くの植え込み。
その体を、思い切り折る。
「うええええっ! おえええええ──っ! ……うっ……ぺっ……ぺっぺ……よし……」
”最強の個人”が聞くに堪えない声を上げて胃を裏返すのを。レイジも、そしてカナタも黙って見守るしかなかった。
「それで……先生が人生コントロールできてるように見えます?」
レイジには何も言えなかった。
どう答えても失礼になるとか、そういうのではなく、目を逸らしていた真実を、いきなりキリエに突きつけられたからだ。
「別に究極の力を手に入れたって自由に生きられるわけじゃない。幸せになれるわけじゃない。アルコールを控えることも、怒りを収めることも、目の前で死ぬ子供を助けることも」
酒で口をゆすぐキリエの目つきは暗い。一拍おいて、キリエはレイジを見据える。
「何をしてきました?」
「俺は」
「七年あったのに、馬鹿みたいに体を鍛えただけ」
レイジの胸の中で熱い塊が爆発した。
「ほかに何もいらない、じゃない。欲しい物、何も見つけられなかったんでしょ」
何も言わずに当たれば即死の蹴りを手加減なしでキリエに放つ。首を刈り取るような軌道で飛んでくる蹴りをかわしたキリエが、レイジの軸足を払う。
「あのクソ施設で拾ってやった時のまま。からっぽ」
巨体を地面に重々しくたたきつけられて、レイジがあえぐ。それでも彼は立ち上がってくる。蹴る。かわされる。転ぶ。
そんなやり取りを何度も、何度も繰り返す。
顔面を強打したレイジの額から赤いものが飛ぶ。微動だにしないキリエを中心にして、飛び散る血が放射線を描いていく。
「もういいだろ! やめろ、オマエら、やめろよ!」
たまらなくなったカナタが声を張り上げた。
「アタシは別にレイジが強いからここにいるんじゃなくて……オマエ、やめろったら! それ、封印するって言ったろ!」
口元の鮮血をぬぐって、レイジは立つ。
その指先についた血が煙を上げて蒸発していく。彼の右腕が光り始めているのがカナタには見えた。
「大丈夫だ。俺は強い。大丈夫なんだ」
いつも通り何を考えているか分からないぼんやりとした声。うつろな目。
惑星のド真ん中へと永遠に落ち続けていくような巨大な穴に見えた。
「あ……」
何か彼に叫んでやろうとして、カナタは自分の体に邪魔された。
歯の根が震えて止まらない。手すりを握り締める手はじっとり汗ばんで、指の間に脂のような粘りを残す。
怖い。
ほんの一瞬だけ、レイジが恐ろしい怪物に見えた。
ゆっくりとキリエに向き直っていく彼の姿にどれだけ彼女が目を凝らしても、それはやっぱりいつもの筋肉ダルマでしかない。
レイジはレイジ。ほかの何者でもない。いくら自分にそう言い聞かせても、カナタの体には得体の知れない寒気が残ったままだった。
「へーえ……使っちゃうんですか。奥の手ってヤツ」
黒い炎のフチが、徐々に輝きを増す。
まるで空間に無数の針が伸びてくるように、キリエは全身の皮膚がピリピリと痛むのを感じていた。
「センセー死ぬぞ! あれヤバいんだって!」
カナタの叫びが、うなりを増していく黒い炎が。キリエには心地よい。
「ハ」
あたりに立ち込める空気のヒリつきを──自分に向けられた、濃厚な殺意を胸いっぱいに吸い込む。
それはキリエという錆まみれのエンジンが、数年ぶりに取り込んだ、立った一呼吸分の空気だった。
殺気と狂気。そして大量のアルコール。
「殺しますよ、先生」
混合された鬱憤の中で、小さな火花が散った瞬間──―
「ははははッ! 殺せるモンなら殺してみろってんだ!」
爆発。
レイジの秘めた死の光を前にしたキリエもまた、常軌を逸している。血走った目をカッ開いて唾を飛ばしながら、彼女は諸手を広げて挑発した。
「逃げろ! 死にてえのか!?」
キリエの豹変ぶりに驚きながら、カナタが目を白黒させた。
「この私が生きてえように見えるんですかァ!?」
レイジが虚無の光を宿した腕を振りかぶる。飛沫のように舞い飛んだ黒い火の粉が、彼の足元のアスファルトを水玉状に消失させる。
■
「やめろ! オマエら! ホントにやめろったら!」
カナタが叫んだ。
止めなきゃ──身を挺してでも。
できるかどうかは勘定に入れていない。ただ、キリエとレイジが本気でマジの殺し合いをするのは「よくない」のだと、一瞬で脳が結論を出した。
「だって、家族みたいなモンだろ……!」
それを聞いた二人がどんなに顔をしかめようが、カナタの知ったこっちゃ無い。
駆け出そうとした彼女が、体重を預けていた手すりにグっと力をこめた。
瞬間──
「カナタッ!」
「あーん?」
血相を変えたレイジが叫ぶ。
頭上に目をやったキリエは、四階から宙に放り出されたカナタの姿を認めた。
管理する気のない管理会社。そして筋肉戦車の度重なる衝突。
そこにカナタがチョイと一押ししたのが完全にトドメとなった。
踊り場は完全崩落。
(あ……やっべ……)
カナタからはすべてがスローモーションに見えた。
見上げるレイジの顔が面白かった。そして、教え子の命の危機だというのにキリエはやる気なさそうな三白眼。
「くっ」
レイジの判断は一瞬だった。
極限圧縮された黒い光を振り払い、駆け出す。
キリエに向かって放たれるはずだった光の散弾は明後日の方向に怒涛となって放たれた。
分厚いアスファルトの層が、シュッと音を立てて一瞬で蒸発する。
「ンだよ……いいとこだったのに……」
つまらなそうに呟いたキリエの傍をつむじ風がすり抜けた。
黒い煙となって立ち込めるアスファルトを纏った大きな背中が見える。レイジだ。
地面にカナタが激突するまで、残り二メートル。
降り注ぐ大量の瓦礫を前に、レイジの体が大きく沈み込み────そして跳躍。
(レ──)
カナタは、自分に向かって飛んでくるレイジに手を伸ばした。
力強い手がカナタを抱き寄せ、そしてレイジは空中でぐるんと体を翻した。
カナタの視界で天と地が逆転し、正しい位置に戻る。彼女が息をつく間もなく、再び重力の手が二人を絡め取った。
ごりっ
着地の瞬間、レイジの腰あたりから嫌な音が響いた。
カナタに覆いかぶさるような姿勢で着地したままのレイジの背中を、頭を、大量のコンクリート片が打ちのめす。
「大丈夫だ」
こわばったカナタの手を握って、レイジは笑う。
鈍い音を立てて、彼の頭を巨大な瓦礫が直撃した。頭の形が変わるほどの一撃を食らって、それでも彼はぎこちなく笑ったままだ。
痛みを感じないのではない。痛みを理解できていないから、そうしていられる。
「大丈夫なワケねえだろ……」
彼の額から垂れる血の量は異常だ。
それをカナタに降りかからないように腕で受けながら、彼は大柄な体を使って破片を受け止め続ける。
最後の一片から彼女を庇いきるまで彼は微笑んだままで、そしてカナタはどんどん面持ちを硬くしていった。
やがて一本の鉄骨が地面を打つグワランという音が響き、それっきり静かになった。
「なーんでやめちゃったんですかね」
二人に背中を向けたまま、キリエが呟いた。
直後、彼女の右足が霞んだかと思うと、彼女の頭上に降ってきたコンクリートの塊が爆発した。
呆気に取られた二人の前でキリエは粉々になった塵を頭から被る。彼女の右足は垂直に振り上げられていた。
たった一撃で巨大な瓦礫を粉砕したのだ。
「レ……レイジ!?」
カナタの背中がじんわり暖かい。
手をやると、真っ赤に染まっていた。血だ。それも、大量の。
「カナタがケガしなくてよかった」
それはすべて、レイジの体から搾り出されたものだ。
彼の着古したジャージの膝を貫いて、折れた下足の骨が杭のように突き出している。
彼のケガは見慣れたつもりなのに、濃紺の生地とそれを湿らせる血液、そして真っ白な骨のコントラストに、クラリとしてしまう。
「? どうした……」
「レイジ……オマエな……!」
ゴッ
「よかった。じゃねえよ大バカたれ……」
殴られた事実を受け入れられないように、レイジは不思議そうにしていた。
実感がわかないのは殴ったほうのカナタも同じだ。チュンチュンと鳴き始めたスズメたちが、電線の上から彼らの様子を見物している。
「いっ」
やがて、カナタの顔が痛みに歪んだ。
「ってえええええ……!」
レイジの体は、岩のように硬い。遠慮なく殴りつけたらどうなるかなんて、カナタも良く分かっている。
それでも、殴らずにはいられなかった。
「か、カナタ!? どうしてこんなことを」
「ンだよ、オマエ。またケガしやがって。また傷こさえやがって……」
「お、俺が今、飛ばなかったらカナタがケガしてた」
「分かってる! 分かってンだよ、そんなこと!」
煮えたぎる怒りを迸らせながら、カナタは手首をさすった。
「ふあわ」
一気に蚊帳の外になってしまったキリエが、タイクツそうにあくびをかみ殺していた。
その間もレイジの肉体は再生を続けている。
彼の足の肉がモゾモゾ動いて、皮膚を突き破った骨をゆっくり飲み込んでいく。これだけのケガをして、レイジは気にもかけない。
カナタの表情は暗い。
「その。俺は……もしかして、どこか、ケガしたか。俺は、またマズったか」
「……ちげえ。カンペキに無傷だよ」
ヘマをしたからカナタが機嫌を損ねた──レイジはそう思っているようだが、違う。真逆だ。
「そんな大怪我してアタシを……ッ! くそ!」
そんな風にカナタが声を荒げると、レイジは困ったように眉根を寄せる。
記憶喪失の七歳児に体張らせて、痛い思いをさせて、おまけに「ありがとう」すら言えずにブン殴って、勝手にキレて……
自分のことをサイテーだと、カナタは思う。
こういうことがおきる度、レイジを人間らしくするという約束をまったく守れていない自分に吐き気を催す。
「ん、で」
乾いた足音と一緒に、気だるい声が這ってきた。
二人が振り向いた瞬間、大きな大きな影が彼らを飲み込む。
「いいんじゃないですか。私と戦ってたときよりずっといい動きだ。攻撃を中断して、走り始めたときの判断も。でも──」
悪夢に出てくる電柱のように大きなキリエが、長い人差し指を伸ばす。その先にいるのはカナタだ。
「私との戦いに夢中になって、カナタさんのこと吹き飛ばすところでしたね?」
「あ……」
カナタのすぐ横で、レイジのノドがゴクリと大きな音を立てて鳴った。
そこで長身の教師は改めてカナタに向き直り、距離を測るように目を細めた。
「カナタさん。あとちょっと……五センチくらい、アゴ引いてもらっていいですか?」
「え? あ……」
彼女が指示に従った瞬間、レイジの顔面が弾かれるように上方を向いた。
「うああっ!?」
驚いて飛びのいたカナタの目の前で、キリエの片足が垂直に振り上げられている。コンクリートの塊を一瞬で粉砕する足でレイジの頭を蹴り上げたキリエは、今度はその踵をレイジの脳天に突き刺した。
レイジは顎から地面に叩きつけられて、小さなクレーターを作る。
「クソ弟子が。これにて破門です」
ペチャンコになって倒れたレイジに唾を吐きかけると、キリエは踵を返した。
「はー、スッキリした。たっぷり発散したので、これでしばらくは大人しいでしょ」
「ハッサンて、キリちゃんが?」
「そんなんレイジくんに決まっ──」
キリエは言葉半ばで立ち止まって、激しい音を立てて胃袋をひっくり返しはじめた。
「うわ……これ昨日食ったヤキトリじゃん。だいぶ胃腸弱ってンな……」
聞くに堪えないキリエの呟きを背に、カナタはレイジに向き直る。
顔半分地面に埋めたまま見上げてくる彼を前でしゃがみ込んでから──はっと気付いて、スカートのすそを押さえる。
レイジは自分の顔からひねり出した血だまりの中で首をかしげる。
なんで彼女がスカートの中を見られたくなかったのかも、きっと彼にはわからない。
「カナタ……」
掠れた声が、血の匂いと一緒に地面から漏れた。
「なァ。アタシ思ったんだけどさ、レイジ……」
カナタが六月の中ごろにレイジと出会ってから、ほとんど一ヶ月が過ぎた。
好きなもの、好きな献立、好きな映画。彼のことを、なんとなく理解したつもりでいた。
それでもたまに、彼のことが理解できなる瞬間がやってくる。
それが、今だ。
「……やめっか。海」
ややあってから、カナタがようやく切り出すと、精も根も尽き果てたようにブっ倒れていたレイジが目を見開いた。
「なぜ!?」
「オマエが傷つくから」
少し間を置いて言ってから、カナタは伸ばした人差し指で、レイジの額を軽く弾く。
「俺はカナタのためなら、いくら傷ついても構わない!」
「おやおや。ゲキアツ」
レイジの声が壁面に反響する中、クリーム色のバンにもたれていたキリエが小さく驚いた。
リセットされた記憶の影響と、語彙の少なさのせいで、もとから恥ずかしいことを平気で言うような男だった。が、ここまで必死に何かを伝えようとする姿を見せるのは、これが始めてだった。
「海に行くのはアタシの夢だ。アタシの夢で、オマエの夢じゃねえ」
カナタは軽く、レイジのズボンのシャツの袖をつまんだ。
破れた布地を何度も何度もクイクイと引っ張りながら、彼女は途切れ途切れに、偽りのない言葉を紡いでいった。
「アタシのためって言って、レイジがこれ以上自分をナイガシロにするのって。なんつーか、気分悪ィ」
マンションの外を通る国道。
そこを通って中心街の幼稚園に向かう園児たちの明るい声が、この廃墟に立ち込める重苦しい空気と皮肉なほどのコントラストを描いていた。
レイジにできることは、口をポカンとあけて、自分が「運命」と呼んだ少女の次の言葉を待ち受けることだけだ。
「もちろん、海を諦めるつもりはねえ。だけど──今のオマエとはイヤだ」
「やだって。俺が?」
「ああ」
カナタはレイジから目を逸らした。
音の速度で動いて、鉄板を歪ませるほどのパンチを放つ男が、途方に暮れた捨て犬のような顔をしている。それが見るに堪えなかった。
「オマエがムチャしすぎるなら、コンビ解消。そういうカンジだ」
穏やかで爽やかな、夏のいい朝だった。
そこに転がっているレイジに少しでも詩的な感性があるのなら、それを皮肉だと表現するほどには。
「オマエのやりたいことって、なんだ?」
残酷な問いだと思いながら、カナタは聞いた。
「カ……カナタと海に行く」
「それは……アタシの夢だろ」
レイジは何か言い返そうとしたが、それより早く深海の青を宿したカナタの瞳が見上げて来た。その色に飲み込まれたようになって、彼は言葉を詰まらせる。
「待ってくれカナタ。俺には他に何もない。何もあげられないんだ!」
「そんなのいいから
カナタに言われた一言がよほどショックだったようだ。彼は目の前からカナタが立ち去った後も、不細工な彫像のように虚ろな目で同じ場所を見つめ続けていた。
「どうかな。アレで」
「うーわ」
やってくるカナタを見つめるキリエの顔が引きつっている。
彼女の背後ではレイジがふらふらと動き出して、ふらふらと自室がある棟の階段を登っていくところだ。
それを残された二人が見守っていると、彼は踊り場にたどり着く前に段差で躓いてズベーンとコケて、階段を滑り落ちてきた。競りに出されるマグロのように、一気に。
「完ッ全にトドメ刺しましたね」
レイジは死体のように転がったままだ。ピクリともしない。
「なんとでも言えよ」
痛々しいレイジの姿を見ているだけで駆け寄りたくなる衝動を、ぐっとカナタは我慢した。
「アタシは、もうアイツに傷ついてほしくないんだ」
彼女は駐車場の隅に目をやる。
そこではレイジが振り捨てた黒い光によって引き裂かれたアスファルトが、シュウシュウと音を立てていた。
鉄骨がある。
上半分を丸く消し飛ばされた錆の塊は、やはり、もの言わず立ち続けている。