海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.クリープ(3)

「いっでェーッ!!!?」

 

 病室を聞く必要は無かった。

 白く長い廊下に足を踏み入れたとたん、フミオの絶叫があたりにこだましたからだ。

 

「てっ、てめえ、何しやがんだ! 俺は骨折してんだぞ!?」

「うるせえッ! 飲酒運転で事故なん──あっ、すげー怖そうな看護婦さん……ヘヘヘ……すんませんね……ウチのアレがコレなもんで」

 

 何が起こったのか、激しく咳き込むフミオの声に、ブンタがわめき散らす声が被さる。

 

「えっ!? チカラ……おねーさん力強すぎじゃねえ!? あっあいだだだだ! 出てく! 出てくって!」

 

 病室からブンタがつまみ出されてきた。

 相手は仁王と間違うほどたくましい二の腕をしたナースだ。それが無言で腰に手を当て睨んでくると、さすがの『局長』も形無しだ。

 彼がペコペコするたび、ハゲ頭に午後の光が乱反射する。

 それは、フミオの見舞いに病院を訪れたカナタたちにとって、絶好の誘導灯だった。

 

「やべえ……あのねえちゃん、ウチに勧誘してみっかな……」

 

 何度も何度も病室のほうを振り返りながらブンタが歩いてくる。そこには例のナースが立って、彼に睨みを利かせ続けていた。

 

「よォ」

 

 今気づきました──なんて雰囲気で軽く手を上げて寄越すブンタを前にして、カナタとレイジに緊張が走る。

 

「なあに、アンタら。バケモノ見るような顔して。いつものオジサンでしょ」

 

 カナタは口を半開きにしたまま、レイジはわずかに身構えたまま動かない。それを見て、ルリコが不思議そうに首をかしげている。

 落ち着いているようで狂犬のような一面がある彼女が、記憶を失ったままでいることは幸運だったのかもしれない。

 メッタ撃ちにされて監禁され、記憶をいじられて町へ強制送還──事実を思い出したとき、怒り狂うルリコを引き止めておけるだろうか。

 

「ったく。運転うめえセガレを持つと苦労するぜ……おう。おめえらからも、バシーっと言ってやってくれや」

 

 目の前までやってきて肩をすぼめるブンタの赤ら顔。

 それをじっと見上げながら、カナタはどんな言葉を彼と交わしたらいいのか分からなくなる。

 

「ん。どったの?」

 

 どんぐりのような眼で見下ろしてくる彼が、昨日、監禁先で姿を現した『局長』であるのは間違いない。

 同時に彼は気前のいいバイト先のオーナーで、フミオの父ちゃんでもある。

 

「おやっさん……」

 

 そう、茫漠とした様子で呟くレイジも不思議そうにしていた。散々な目に遭わされたのは間違いないが、憎む気にはなれないようだった。

 

「なんだなんだ、おめえら。若ェクセしてボンヤリしちゃって」

 

 じっと見つめていると、ブンタは困ったように口元を歪めた。

 

「ま……若いうちはムチャするのも悪かねえよ。その調子で楽しんでくれや…………この町ン中でな」

 

 傾いた日差しが白く染め上げる廊下に、ズッタラズッタラとサンダルの音を残してブンタが去っていく。

 カナタとレイジは顔を見合わせることしかできない。おそらく彼は、知っていた。とっくに記憶消去が解けていることを。

 それでもこうして二人を自由にしてくれる理由が、彼女たちには分からなかった。

 

「ホラ、道のド真ん中でボーッとしてんじゃないの。行くわよ」

 

 しびれを切らしたルリコに言われて、二人はその後を追う。

 

「はーっくしょい! げほっ。げほっ、あークソ……思いっきりやりやがって……」

 

 咳とクシャミ。そしてフミオの悪態が、廊下中に響き渡っていた。

 その声の出所目指して、ズンズン進んでいくルリコ。その後に、何かを引きずるような猫背気味のレイジと、物珍しそうに手すりを撫でるカナタが続く。

 

「ほらフミオ。見舞い来てやったわよ。ありがたく…………わあ。なにそれ」

「おお、えほっ、よお……」

 

 病室を覗き込んだルリコが顔を引きつらせた。

 

「うわ」「おっ」

 

 続いて、カナタとレイジも。

 フミオのシーツの上は血まみれだった。鼻から滝のように鼻血を垂れ流しながら、彼は気まずそうに手を振ってくる。

 

 ■

 

「アンタ、ちゃんと手当てしてもらったの?」

「こりゃ今オッサンにブン殴られたんだよ……いでで」

 

 サイドボードのティッシュに手を伸ばそうとして、フミオは顔をしかめた。それをルリコが取ってやる。

 

「面目ねえ……」

 

 フミオは見るからに疲れていた。

 それは、事故やケガによるものじゃない。ここに三人がやってくる前、ブンタに散々説教されたらしい。

 

「あーホラホラ。強くチーンすると血止まらないわよ」

「あうう……」

 

 ティッシュを何枚か抜き去って、ルリコはそれでフミオの鼻を押さえてやる。

 わりとマジでガチの力で殴られた鼻っ面からは、そこそこひどい出血がある。粘つく血糊で手が汚れようと、ルリコは気にしない。

 

「……わり」

 

 少しシュンとして、フミオが頭を下げた。タタタッ、と血の雫が布団カバーに落ちる。

 

「いいって。アンタの面倒見るの、もう慣れたし」

「元カノと元カレ」

「カナタ。うるさい」

 

 窓際にもたれて面白そうに見物していたカナタに、ルリコの鋭い声が飛んだ。

 仕方なさそうに「へいへい」と言いながら、彼女はまだニヤついていた。

 

「もう……あとでシーツ替えてあげるから……」

 

 ルリコがベッドに腰を下ろして、マットレスが僅かに軋む。

 まったくもって、ぐうの音が出ないほど、カナタの言うことは正しい──ルリコの姿を見ないようにして、フミオは考える。

 ルリコは元カノ。そしてフミオは元カレ。すべては終わったことなのだ。

 そう分かっていても、嗅覚を取り戻した鼻で彼女の香りを捕らえるたびに懐かしくなってしまう。

『カネ、ないから。安モノしかつけらんないのよ』

 本人がそう言っていたが、ほんのり香る石鹸とシトラスが、フミオは好きだった。

 

「なあ、ルリコ──」

「ん?」

 

 部屋の隅に集められていた丸イスをヒョイと持ち上げて、レイジが歩いてくる。フミオのベッドサイドに下ろされた人数分のイスが、乾いた床に騒々しく音を立てる。

 

「俺、なんか力になれねえか」

 

 その音に紛れるほどか細い声で、フミオが囁いた。自分で情けなくなるようなかすれ具合だった。

 

「けっこうよ。アンタは自分の足治すのに専念なさいな」

 

 何食わぬ顔でそう返事して、ルリコはフミオの鼻を強くぬぐった。彼女もまた、フミオと目を合わせようとしない。

 彼がいったいどういうつもりで何を言ったか、彼女にはキチンと分かっている。

 

「けどよ……」

「いい、フミオ。私とアンタはアカの他人」

 

 ルリコの視線の先には、カナタがいる。

 イスにボンヤリ腰掛けて、まるでネコのように、何も無い部屋の隅を見つめている。彼女は時折、カナタの自由で奔放なところが羨ましくなる。

 それに比べて、自分がコンクリートの塊にしか思えない。底の知れない海に、がんじがらめにされて沈んでいくだけの存在。

 

「アンタが出来るコトはもうないし……私の地獄に付き合う必要も無いんだから」

 

 優しいのに圧倒的な拒絶の言葉だった。

「俺──」なおも食い下がろうとしてフミオは俯いた。言葉の先をどれだけ探しても、もうムリだ。

 ひたすらダサくなって、ルリコに気を遣わせることしかできないことに気付いてしまった。

 

「……カナタ」

「あん?」

 

 彼はいたたまれなくなって、助けを求めるように、カナタに声をかけた。

 

「この足だ。バイクの乗り方教えるつったけど、しばらくムリだな」

「いいからしっかり休めって」

 

 フミオとルリコの会話が聞こえていたのかいないのか、カナタの浮かべた笑顔は、励ますように朗らかだった。

 それはほんの束の間のこと。すぐに、彼女らしい小意地悪な笑みにとってかわる。

 

「それにィ? オマエが乗り回すの散々見たし。もう、アタシ大体覚えちまったしぃ?」

 

 得意げに胸を張るカナタにフミオが肩をすくめて見せる。

 

「カナタがそんな器用なワケないだろ」

「ンだよ。ビックリしても知らないからな」

 

 カナタが頬を膨らます。

 

「それにしても、思ったほどじゃないのね」

 

 ルリコは、ベッドの上に投げ出されたフミオの足を見る。

 大腿骨骨折は一大イベントだ。切ったり固めたり吊ったりして、普通だったら鼻血のことなんか気にしている場合ではない。

 じっと見られて気まずくなったフミオは、パジャマの胸元をかきながら目を逸らした。

 

「いや、マジで。最近の病院ってスゲーのよ」

 

 昨晩の事故を物語るのは、数枚の絆創膏と、その足を薄く覆うギプスだけだった。

 

「これで俺も、センセーと同じ”筋金入り”ってのになっちまったけどな」

「水につけると錆びる、だな」

 

 今まで一切口を開かず、カーテンの影と同化していたレイジが言った。

 

「そうそう。そんなテキトー抜かしてばっかだよな、あの人」

 

 フミオがあごをしゃくって、レイジを数歩だけ歩かせた。

 カーテンを閉めさせればいいものを、わざわざレイジを日よけ代わりにする。彼の巨体が落とす日陰に入って、彼は満足そうに胸の前で指を組んだ。

 それを見ていて、ルリコはとことん拍子抜けした様子だった。

 

「はあ……カナタ。みんなからカンパしてもらったおカネあるし、売店見てきましょ」

「おう。アタシも喉渇いた。楽しみにしてろよお、フミオ」

 

 女子たちのことを、フミオはボンヤリ見送った。

 柔らかな日差しの中で、廊下は少し霞がかったようになっていた。ボヤけた光の中、二人の背中が遠ざかっていく。

 やがて、頭の後ろで手を組んだカナタの姿が廊下の曲がり角に消えていって────フミオはポツリと呟いた。

 

「タバコ、吸いてェ」

 

 ■

 

「フミオには辛そうだな」

 

 一気に静まり返った部屋を見渡して、レイジが言った。

 四人用の病室。そこに一人っきり。患者が少ないのはいいことのはずだが──フミオはどちらかといえば、賑やかなのを好むタイプだ。

 今日から一人で過ごす夜は、さぞ堪えるだろう。

 

「いいよ。ウチのクラスうるせえし。たまにはこういうのも」

 

 そう言って後ろ頭をぐっと枕に押しつけて目を閉じたフミオ。それが強がりなのか本心なのか、レイジには分からなかった。

 

「笑えよ」

 

 ヘシ折った右足を視線で示して、フミオは言った。

 

「笑えん」

 

 彼に降り注ぐはずだった日光を背中に受けながら、レイジが返した。

 フミオが鼻を鳴らした。耳障りな嘲笑が壁と天井に跳ね返り、やけに大きく聞こえた。

 

「こいつはシツレイしたな。お前が笑えないヤツだっての、忘れてたぜ」

 

 どこか、トゲのある言葉だった。

 少しムっとして、レイジが身じろぎした。白い日差しが顔に当たって、フミオが目を細める。

 

「最近は……笑える。少しだけ」

「ハイハイ。でくの坊が強がってんじゃねえよ。らしくねえな」

 

 フミオはまた、笑う。今度は自嘲だ。

 バカなガキで、夜にバイクで走って事故──事故したっけ? まあいいや……そんな歌詞の歌、あったよな……とか何とか考えながら、彼はパジャマの胸ポケットを探った。

 タバコのパックと、IDカードがそこに入っていた。

 

「クラスのみんなが、心配していた」

「は。アイツらが!? マジでか」

「……そうだ。みんなが。フミオのことを気遣ってくれていた」

 

 少し言い淀んでから、レイジは繰り返した。

 

「まったく。バカどもが。俺なんかのことより、テメーの頭を心配してろ。あの調子じゃ来年も高校二年のままだぞ」

「そういう言い方はよくない。俺も期末テストは不安だが」

「るせえ。黙ってろ」

 

 いつになく、フミオは攻撃的だ。

 彼を刺激しないようにして、レイジは丸イスに開いた穴をじっと見つめた。

 クッションの薄いイスはカバーが破れ、白いスポンジをはみ出させている。米粒大の黒い虫のようなものが、その隙間から這い出てくるのが見えた。

 

「レイジ、外の空気吸いてえんだけど」

 

 タバコのパックをトントン叩きながら、フミオが言った。

 

「ああ。いいだろう」

 

 フミオがウンウン言ってバッグの中からライターを引っ張り出す。

 その傍らで、レイジは折りたたみ式の車椅子を広げ始めた。ムスっとした顔のフミオをお姫様抱っこして、その上に座らせる。

 

「クッソ情けねえ……」

 

 フミオが舌打ちした。

 

「いいだろう。たまには、こういうのも」

「お前はな。こっちは散々だ──なんか俺とお前の力関係、分かるみてーじゃん」

 

 目を合わせようとしない彼が乗った車椅子を押して、レイジは歩き出した。

 尻のすわりがよくないシートの上で不機嫌に頬杖ついたフミオは、すでに偏屈ジジイの貫禄を見せていた。

 廊下に出た車椅子は、さび付いた自転車のような音を立てながら進んでいく。建物に染み付いた甘ったるい消毒液のにおいを掻き分けて、二人はエレベーターを目指す。

 

「入学式のこと、お前、覚えてっか」

「それなりにな」

 

 それなりどころではない。

 入学式でバカみたいな理由でケンカしたこと。ルリコに両成敗され、三人仲良く血まみれになって病院に担ぎ込まれたこと。

 レイジもフミオも、すべて昨日の出来事のように思い出せる。

 

「……あン時のルリコさあ。超ムリしてたじゃん?」

 

 新入生代表として彼女が登壇してきたとき「きれいな子だな」と思ったのは覚えている。

 真新しい制服。清潔な笑顔。弾むような声。彼女が体育館の中に集まった生徒たちを見渡した瞬間、それまでのダラけた雰囲気が、一変した。

 

「ネコかぶってた」

 

 だが、今のレイジにはよく分かる。あれは、ムリにムリを重ねて、なんとか取り繕った仮面だった。

 

「だな。いきなりブチ切れたり大口開けて笑ったり──そっちのほうが、ずっとルリコらしいぜ」

 

 車椅子が軽く揺れる。

 狭く薄暗いエレベーターの中で、回数表示のパネルがオレンジに濁った光を投げかけてくる。

 目指すは屋上。咳払いのような軋みを上げて、疲れきった鉄の箱が上昇を始める。

 

「おかしなことを、聞いてもいいだろうか」

 

 狭いエレベーターの中で、二人は壁を見つめる。

 壁の大きな鏡に映る男たちはどちらも顔色が悪い。彼らの違いは、座っているか立っているか──その程度のものでしかない。

 

「俺とお前の仲だろうが。イチイチ聞くな」

 

 鏡の中で、フミオの目元に落ちる影が濃い。

 

「ルリコと付き合い始めたとき、どうやって告白したんだ?」

「んあー…………そうねえ……」

 

 フミオがシートに深々と体を埋め、考え込む。

 彼の指先が、記憶のインデックスを探るように虚空をさまよう。やがてそれは彼の右肩のあたりで、何かを見つけたようだった。

 

「キスとか別にいいから。とりあえず付き合ってみね? ……って言ったはず。だ」

 

 パチン。その指先を鳴らして、フミオは言った。

 そしてルリコが『いいわよー、キス無しなら』と答えて、二人は交際開始。そして、たったの一週間で空中分解──というのが、レイジの知るすべてだ。

 

「一年前にも同じコト話したぞ。てめえはスクワットに夢中だったみたいだが」

「それは……本当にすまん……」

 

 重たそうな上半身を丸めて謝ってくるレイジのことを、フミオは見上げた。

 この野郎は、これほど苦々しい顔ができる男だったろうか。人の話を聞き流して何とも思わなかった男が。いつから? なぜ? 

 

「はは」

 

 乾いた笑い声を洩らすフミオのことを、レイジが怪訝そうに見ている。

 

「なんつーの? 心境の変化、ってヤツ?」

 

 チン。エレベーターが目的地に到着したことを知らせる音。

 重たいドアがゆっくり開いて、そこから白々しいほど澄んだ青空が視界に広がった。

 

「お前ってあんま、他人(ヒト)のこと気にしない系だったじゃん」

 

 レイジはフミオを乗せた車椅子を押して、屋上に干された無数のシーツの間を通っていく。

 シーツはカーテンのように風にはためき、白い反射光を纏って空とシーツの境界をあいまいにする。

 

「ここらでいいぜ」

 

 青緑色のフェンスに車椅子を横付けする。

 フミオは病院着の懐をまさぐって、タバコとライターを取り出した。ジッポーは、この前のゴタゴタでなくしていた。

 今日は素っ気のないガスライターと、緑色のパッケージが鮮やかな「わかば」だ。

 

「病院は健康のために来る場所だと思うが」

 

 一応、友のために、レイジは苦言を呈しておく。

 

「そんなトコに灰皿置いてんだぜ。イカれてんだろ」

 

 少し離れた場所にある灰皿をレイジが抱えて持ってきた。

 巨大なワイングラスのような、独特な形状をしたものだ。フミオはすでにタバコを咥えて、彼が来るのを待っている。

 

「たしか『誰かのために火を灯すのはイイコト』だったか」

 

 太い指で難儀しながら、レイジはライターを操ってタバコをつけてやる。

 

「まあでも──調子こいて火ダルマになってりゃ、世話ないわな」

 

 慣れない銘柄を吸ったせいか。それとも、かつての自分が語った哲学を蒸し返された苦味か。空に紫煙を立ち上らせるフミオは、少しばつがわるそうだった。

 彼の指につままれたタバコが、ゆっくり身をよじりながら灰になっていく。

 

「フミオ。親が……」

 

 ほどけていく紫煙をフミオが眺めていると、レイジが聞いてきた。

 

「ん?」

「父親がいるって、いいものなのか」

 

 レイジはフェンスの向こうを見つめていた。その顔はいつもどおり。何を考えて、何を感じているのか分からない仏頂面。

 どんな風にもなびかない黒髪の下で、彼の黒い瞳も動かない。レイジはやはり、岩のような男だった。

 

「ああ──いいぜ。すごくいい」

「どういうところが?」

「酔っ払ってバイクで事故ったって言ったら、助走つけてブン殴ってくれた。死ぬほど痛ェし、血もドバドバ出たけど……な」

 

 赤紫色になってきた鼻をさすって、フミオは苦笑した。彼には見えないが、背後でレイジも唇の端をわずかに緩めていた。

 

「だけどな。俺とオッサンは血のつながった親子じゃねえ」

 

 ふと風が止んで、地面から立ち上る熱気とセミの声が二人を包み込んだ。

 

「モノホンの父親ってのは、俺が十歳の時に町の外に行っちまった。それきり、手紙も電話もよこさねえ」

 

 彼はタバコに、ほとんど口をつけない。ただただ灰になってボロボロと崩れていくさまを、彼は目に焼き付けるようにして見つめていた。

 

「その話、前にもしたことが?」

「いんや。こんなん、ベラベラ喋れるようなコトじゃねえだろ」

 

 軽くレイジを見上げて、フミオは口の端で陰鬱な笑いを作る。

 

「喜べ。ダチの中じゃ、お前だけだ。これ知ってんのは」

 

 フミオの中で特別オブ特別のトップシークレットだ。

 そんなヒミツを明かしてやっても、190センチの筋肉の柱は、揺るがぬ姿と面持ちでそこに立っている。

 

『もっとハッチャケたら?』

 

 ──というのは、レイジとツルみはじめた頃にルリコが言った言葉だ。

 もちろん、今ではそれがどれだけムチャな要求だったか、彼女は身に染みて理解したわけだが。

 フミオはこの男が持つ、独特の沈黙が好きだった。

 

「俺は……お前を見ていると……」

 

 太陽を背負い、巨大な黒い影となって立つレイジを、彼はもう一度見上げる。

 

 レイジは空っぽな男だ。

 

 だからいい。

 

 フミオは、この男がたまらなく好きだ。

 彼自身、最近になって自覚したことだが、それ以前からも愛着はあった。

 空っぽで、不出来で。

 人間らしいことがまるで何も出来ない。

 人の群れの中にいるくせに、人間になれないし、自分が人間になれるという希望すら、おそらく持てやしないのだろう。

 

 この世でいちばん救いがたい、哀れな欠陥品。

 

 彼を見ていると────フミオはひどく安心する。

 

 俺はまだ、マシ(ニンゲン)なのだと思える。

 だからレイジ、どうか。

 変わらないでくれ。どうか、かわいそうなままでいてくれ。近頃、強く願うようになった。

 

 ■

 

「フミオ?」

「なんでもねえよ。なんでも」

 

 不思議そうに首をかしげるレイジに手を振って、フミオは背もたれに頭を預けた。

 レイジという巨大な空洞には、何の期待も含まれていない。フミオがどれだけ己の弱みを裏返しても軽蔑しないし、哀れんだりしない。

 ただそこにあって、彼の言葉を受け止めてくれるだけの器。

 

 の、はずだった。

 

「オッサンには感謝してる……でも正直ようやると思ってた。ただの、田舎町の酒屋ごときが。ってな」

「フミオ。そういうのは、やめてくれ」

 

 空洞が、不協和音を奏でた。

 フミオは軽く顔をしかめて、ひと呼吸置いてから続けた。

 

「ああ、ああ、失言だろうよ。俺はオッサンのこと、軽く見てた。

 ホントにすごいんだ、あの人は。しょうもない男のどうしようもないガキ引き取って、メシ食わせて高校にまで通わせて……」

「どうしようもないガキなんかじゃない」

 

 大きな手が、軽く背を打った。

 フミオはいつの間にか、腹と腿がくっつくほど前かがみになっていた。

 

「胸を……張ってほしい」

「やめろや。傷に響くんだよ、でくのぼう」

 

 彼の手から伝わる暖かさを、しばらく黙って受け止めていた。

 そして心底気持ち悪く思いながら、彼は体を起こした。

 骨ばった腰に冷たく当たる座面がやけに気になった。レイジに毒づきながら、フミオは身じろぎする。

 

「フミオにはカッコいいバイクがあるし……なにより、いい父親だっている」

 

 薄っぺらい合皮のシートは、フミオの体には合わない。

 

「へェ……カナタにも、毎晩そうやって慰めてもらってんの?」

 

 背後の男も、そうだ。過去も中身もないぼんやりした男が、少ない言葉を尽くして必死に励まそうとしてくれている。

 そこにフミオは、言い様の無い居心地の悪さを感じている。

 

「カナタは……」

 

 そこで、レイジは言いよどんだ。

 さっきからずっと苦しげなフミオと話して忘れていたが、彼もまた、巨大な問題を抱える身だった。

 

「慣れないことしなくていいんだぜ」

 

 空洞に向かって、フミオは吐き捨てた。

 穴は、慰めを言ったりしなくていい。虚無に返事をする義務は無い。

 そうあるべきだったレイジの異変に気付き始めたのは、彼が『俺とカナタで海に行く』と言い出した瞬間だ。

 あのときの目。言い終えた後の、妙な熱っぽさ。

『フミオとの約束は後回し』と言われたときに感じた不安をリフレインして、フミオは噛み締める。

 すべての変化の中心には、やはり、カナタがいる。

 

「でも、あったわ。オッサンと……立派な『父親』といて、ああこりゃダメだな、って感じた瞬間」

 

 青空に走った亀裂のようなフェンスの網目を、フミオは指でなぞった。

 

「俺も立派だって、勘違いしちまったコトだ。同じように、困ってる誰かを助けられるって、思い込んじまったコトだ」

 

 ────誰か? 

 

 この二人の間で、確認を取る必要はない。ルリコのことだ。

 

「力になってやりたかった。英雄(ヒーロー)みたいに現れて、ズバーッ!

 ……快刀乱麻ってヤツだ。ま、結局俺様はフラれて、こんなとこでしょぼくれてんだけどな」

 

 煙と一緒に吐き出されたフミオの声は、最後はほとんど掠れて、聞き取れなかった。

 

「ルリコ、俺のこと恨んでるだろうな」

「どれだけ頑張っても、どうにもならないことはあるだろう」

 

 その横からレイジが歩み出て、手すりにもたれかかった。痛いほどに熱せられた金属の手すりが、レイジの肘を焼く。

 

「でもよ。俺たちは本当にベストを尽くしてきたのか。ルリコのためになること、してやれたか」

「……ままごと、だろうな」

 

 空洞が吐き出した言葉に、フミオは胸を突き刺された思いだった。

 

「クソ。言われなくても分かってんだよ」

 

 濃い毒を含んだフミオの投げかけに、レイジは答えなかった。

 時刻は午後4時を過ぎて陽の光が僅かに傾いてきた頃。ビルの間からふくれっ面を覗かせた黄色い入道雲と、遠くから聞こえる祭囃子のリハーサルが、本格的な夏の訪れを彼に予感させた。

 

「俺は最近、自分がオトナなのか、ガキのままなのか分からなくなっちまってる」

 

 いつの間にか根元まで燃え尽きたタバコを、フミオは一瞥した。

 

「ちゃんとしたオトナになって、ちゃんとした力と、ちゃんとした言葉でアイツ(ルリコ)を助けてやりたい……」

 

 フミオは残熱を恐れるように吸殻を握り締める。

 

「でもオトナって、どうやったらオトナなんだ?」

 

 熱さも、痛みも、何の手ごたえも感じなかった。砕けて、その指をすり抜けていく白い灰を、レイジはじっと見つめる。

 

「十七歳で夏で、一番元気で一番バカ。だったんじゃないのか」

「ハ」

 

 余計なことばっかり覚えてンだな。と、フミオは思わず苦笑した。

 

「俺ァもう、恥ずかしいコトはしたくねえ。ガキのまんまは、イヤになったのさ」

 

 ブンタのようになりたい。それが、今フミオの中にある(ウィッシュ)だった。

 ――いくらなんでも、レイジにそんなことまで言えるほど、フミオは恥知らずになれない。

 彼がフェンスを殴りつけた音が、夏空にむなしく響いた。

 

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