海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.クリープ(5)

 いったい誰が悪かったのか? 

 どうしてこんなおっくうなことをさせられているのか? 

 二人の淑女は決して犯人探しなどしない。文句も言わない。関係ない友人に責任を押し付けたりもしない。

 ただ口をつぐみ、ただ粛々と、重荷を背負って果てしない階段を昇るだけだ。

 

「クソ。フミオのやろう……」

 

 かつてないほど凶悪な目つきで、カナタが額の汗をぬぐった。

 

「許せないわ。なにもかも、アイツの買い物したせいよ……」

 

 パンパンに詰まったビニール袋を全身からブラ提げて、カナタとルリコはエッチラオッチラと足を進める。

 古い造りの病院で、冷房もそこまで配備されていない。

 薬品と消毒液のにおいが充満する階段を上っていくうちに二人の頭は朦朧としていた。

 

「はあ……ひい……まさかエレベーターがブっ壊れてるなんてね……」

 

 息を切らしながら、ルリコがぼやく。

 二人は階数表示を見上げた。フミオの病室がある五階までは、まだ道半ばだった。

 

「ん……!」

 

 ここで折れたのはルリコだった。

 彼女は軽く震える指で、近くの出口を指差す。

 青黒い影に包まれた廊下の先に、午後の日差しに白く切り取られた箇所があった。二人の視線の先で「休憩所」の吊り看板が静かに揺れている。

 

「ん!」

 

 即座にカナタがサムズアップする。同意だ。

 二人は重いかかとを引きずって、廊下を歩いていく。

 近づくにつれて、休憩所の様子がよく見えてきた。廊下の中ほどが軽く膨らむ形で作られたスペースには、安い革張りのソファがいくつも並べられている。

 扇風機の風に揺れる観葉植物の葉が、彼女たちに『おいでおいで』をしているようだった。

 

「あらまあ、お嬢さん方……」

 

 先客は男一人。

 

「狭い町だが、よく会うもんだねえ……」

 

 新聞を広げ、ソファを広々占有していた男は、毛まみれのスネをソファの上からどかした。

 カナタとルリコは、顔を見合わせる。

 やたらと特徴的な男だった。まず目を惹いたのは首を固定する大きなギプス。なぜかルリコを見るなり引きつった頬には、爪痕のようなケロイドが刻まれている。

 ガサゴソ音を立てて新聞を畳んだ彼は、咥えていたタバコを消すための灰皿に手を伸ばす。

 

「あ、あイテテ……」

「別にいいわよ」

 

 痛みに顔をしかめる男を、ルリコが言葉短く制した。

 

「煙たいのは好きじゃないけど、吸うのはおじさんの自由だし」

「アタシも平気。ブンタもフミオも吸うし、そういう仕事してるから」

 

 カナタも同意してくる。

 だが、それだけ言われても、ケロイド男には、まだ気後れの色が見えた。

 

「いやね、そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、こっちの黒髪の美しいお姉さんがね……」

「ああ!」

 

 いまいちピンとこない様子だったルリコが、ポンと手を打った。

 

「アンタ、映画館の受付で私の髪の毛褒めてくれた人でしょ」

「お……覚えててくれたのかよ、お嬢ちゃん……」

 

 男はやたらと、ルリコにビクついて見せる。

 ケロイドをポリポリかく手はぎこちなかったし、立ち上がるタイミングを計るように、背後の廊下をチラチラ見ている。

 

「あによ、おじさん。私、アンタになんかしたかしら?」

「へっへへ……こっちの問題。失礼やらかして、またブチのめされちゃ大変だと思ってさ……」

 

 首筋のギプスをいじりながら、男が苦笑いした。

 

「ちょっと待ってブチのめす? 私がアンタを? いつ?」

「気にすんなってば。記憶にないなら、それが一番だからよ」

 

 気にするな、と言われて腑に落ちるようなルリコではない。

 いきなり覚えの無い暴力沙汰を()()()()()()()()()()()()語って、あげく泣き寝入り決め込んだ被害者みたいな態度を取ってくる。

 立てた新聞紙の向こうに顔を引っ込めた男の前で、ルリコは腕組みした。

 

「うわ。この牛乳、マジで牛乳ってカンジの味する」

 

 一方、自由気ままなカナタは喉の渇きに耐え切れずにパックの牛乳を取り出していた。

 ストローから、じゅじゅじゅ、と音を立てる彼女にルリコは耳打ちする。

 

「ねえ。このおじさんのこと、どれくらい知ってる?」

「ん……いろんなトコでバイトしてんのさ。前にレイジが園芸ハマった時、このオッサンが百万円のスプリンクラー売りつけようとしてきてさ」

「はァ!?」

 

 ルリコが勢いよく立ち上がる。

 それに圧されて、男は派手な音を響かせながらソファごと後ずさった。

 

「なによアンタ、ロクな大人じゃないじゃない!」

「ねねね値段盛ってんじゃねえよ! せいぜい二十万……くらいだって!」

「学生になんつー買い物させてんのよ!」

「いいぞ、ルリコ。やれー」

 

 カナタが拳を振り上げて応援する。

 二人そろった無敵の女子高生たちに、おじさん一人で勝てるはずがない。握り締めた新聞紙をくしゃくしゃにしながら、彼は助けを求めるように廊下を見回す。

 通り過ぎる患者やナースから注がれる視線は、冷たい。

 

「俺は、俺はマジメにバイトしてたダケなの!! ホント、『姉御』に命令されたとおりマジメに……」

 

 そこで、男の視線が少し下がる。

 彼の目はルリコの手に向けられていた。それは昨日の監禁事件で生々しく擦り切れた傷に、何枚も絆創膏を貼って処置したものだ。

 

「なに、オッサン。女性の傷に興奮するとか、そういうのなの」

「ちげーわ」

「私も、どうしてこんなケガしたか覚えてないのよね……」

「そら覚えてねえだろうよ……」

 

 虚無の表情で付け加えた男は、ギプスをさすった。

 

「あ、なんのこと?」

「いいえ。なんでもありませーん!」

「なんなのよ、このオッサン」

 

「オッサ……」と呟いたきり、男は続く言葉を口の中で押しつぶして、止めた。

 

「おい、オッサン」

 

 半目でケロイド男を睨んだまま牛乳をすすっていたカナタが、声を上げた。

 

「ルリコにも言ったれよ。『俺はおにいさんだ』って」

「だって怖いんだもん」

「いい年こいた大人がモンとか言ってんじゃないわよ」

 

 話しながら、ルリコはすでにどうでもよくなってきていた。

 

「あーもう。怒鳴ったらノド乾いてきたわね」

「ん」

 

 カナタから差し出されたパックを受け取って、ストローをズブリと突き刺す。

 閑散とした休憩所。軍人のように屈強な体つきをした男と向き合って、二人の女子高生が牛乳を吸う。

 あたりにはズゾゾと色気のない音が響き渡っていた。

 ブラインドから差し込む光の下、ビニ本とローションとパンツをぎゅう詰めにした袋が気恥ずかしそうに佇んでいる。

 通りかかる誰もが目を合わせないようにする。異様な光景だった。

 

 ■

 

「ああ……そういや、お祝いがまだだったな」

 

 カナタが、ルリコに向かって牛乳パックを突き出した。

 

「カンパイ」

「ん?」カナタの意図が読めなかったが、ひとまずルリコは応じる。

 自分のパックを軽くぶつけて乾杯した後に、改めて戸惑うことにした。

 

「乾杯って、何に?」

「家出したんだろ? これで、自由ってヤツなんだろ?」

「ああ…………そうね。確かに。自由に乾杯」

 

 カナタはニコニコでも、当の本人はテンションが上がりきらない様子だ。

 

「ンだよ。嬉しくねえの?」

「どうかしらね」

 

 カナタはしばらく怪訝そうにしていたが、窓際の壁に張られた一枚のポスターが彼女の注意を逸らした。

 インクの質が悪いのか、それとも掲示期間が長すぎたのか、青地に白い波を描いたはずのポスターはすっかり白く日焼けしていた。

 うっすら読み取れる日付は七月九日。

 

「にしまち……にしまちきょ……きょう?」

 

 でかでかと印刷された赤字を読もうとカナタが頑張る。

 

「きょ……きょ、さい!」

 

 おかしな声を上げているが、カナタだって必死なのだ。

 笑ってはいけない。笑ってはいけないと思いつつ──ルリコはついつい、唇を綻ばせてしまう。

 

西町涼水祭(にしまちりょうすいさい)、ね。テストに向けて、漢字の勉強も始めなきゃ」

「祭は読めたぞ!」

 

 カナタがむすっとする。

 

「そこは素直にほめてあげましょう」

 

 ルリコも、ポスターを見上げた。

 彼女の体の動きに合わせて、少しウェーブがかった黒髪が肩のラインに沿って流れ、細く白い喉元があらわになる。

 

「地方都市の祭りだから、期待はナシね。夕方、みんなで神社に集まって、縁日でりんご飴買ったり射的したり、無闇に高いだけの焼き鳥買ったり……」

 

 語りながら、ルリコはちら、と隣のカナタを見やる。

 

「それで、それでそれで!?」

 

 予想通りの反応過ぎて、苦笑しそうになった。

 彼女の様子は、ボールをちらつかされて、今にも走り出しそうな犬そのものだ。青い瞳を期待に輝かせた彼女は、身を乗り出すようにしてくる。

 

「巫女さんの踊り見たり──あとは花火を見たり、とかね?」

「浴衣は!?」

「フフン。あるんじゃない。レイジにねだってみれば?」

「アタシ、ルリコの浴衣見たい。ルリコ、きれいだもん!」

「私はどうかな……アンタも似合うんじゃない。黙ってりゃいい女よ」

 

 そこでルリコは、目の前にそびえる”心理的障壁”のことを思い出した。

 

 ガサリ。

 

 白い指をひっかけて、彼女は新聞の壁を押し下げる。

 向こう側から、気まずそうな男の顔が見つめ返してきた。

 

「…………ナンデスカ」

「オッサン、どうかしら。私たちの浴衣姿って」

「知らねえよ。ただでさえ女子高生に囲まれてるって、居心地悪いんだよ」

「何よお。アンタ、こんなカワイイ女の子二人もつかまえといて」

「捕まってんのは俺だろうが……!」

 

 面倒くさい男が面倒くさい女に絡まれているのは見ものだった。

 しかし、異臭がぷうんと漂った。

 目に見えない臭気の元が、彼女の頭の周りをひらりと舞って──やがて、離れていく。

 

「あん?」

 

 それが去っていった方向は、さっき上ってきた階段のあたりだ。

 誰かが半分ほど体を出して、彼女のほうに手を振っているのが見えた。それは子供の手で、灰色のフジツボが肌を覆っている。

 

「ンだ、あのガキ……ふつうに声かけりゃいいだろ」

 

 いったい何の用でこんな場所に現れたのだろう。

 少女の幻覚が階下に引っ込んでいったのを見送って、カナタはゆっくり腰を上げた。

 

「カナタ? どしたの?」

 

 ルリコの見つめる先で、カナタはしゃがみこんでいた。

 彼女の視線は床の上に落ちる。不快な艶を帯びた汚泥の塊が点々と落ちて、それらはやはり、階段に向かって伸びていた。

 

「アタシ、行く場所思い出しちまった」

 

 振り返って、カナタはあいまいに微笑みかけた。

 いけすかないガキを追いかけるのはしゃくだが、彼女が現れるとき、いつもレイジが深く関係している。

 確かめずにいる選択肢は無かった。

 

「先に戻っててくれ。すぐアタシも行く」

「え、ちょ、これ全部私に押し付ける気!?」

 

 フミオの嫌がらせのために用意したエロ本袋を示して、ルリコが目を剥いた。

 

「ルリコならいける! 大丈夫。ってヤツだ!」

「ど……どういう理屈よ!」

 

 ルリコが立ち上がったが、もう遅い。

 ガランとした廊下にスニーカーの足音を響かせて、駆け出したカナタの背中は既に遠い。

 

「……たいへんだねえ、オタクも」

 

 ケロイド男の声が遠く聞こえた。

 カナタがいなくなると休憩所はウソのように静まり返った。ガックリと肩を落としたルリコがソファに尻を沈ませる、その音で大きく響くほどに。

 

「はぁー……」

 

 彼女が漏らしたため息の陰鬱さは、差し込む陽の光でも隠しようがなかった。

 

「……カナタに本当のこと、言えなかったな」

 

 それはエロ本のことでも、売るほどもてあましたローションのことでもない。

 白く柔らかな肌に落ちた光の筋が、ルリコの頬を滑る。彼女の体は底なし沼にズブズブ呑まれるように、クッションに沈んでいった。

 彼女は目をつぶり、階段を駆け下りていく足音を聞く。

 祭囃子は、この場所には届かない。

 

 ■

 

「私ねえ」

 

 天井に貼られたマーブル模様のパネルを目でなぞりながら、ルリコは言葉を浮かべる。

 

「あんなコト言っといて、家に帰る気マンマンなの」

 

 男は何も言わない。

 新聞紙の向こう側から静かに煙の筋をくゆらせて、ルリコの言葉を受け止める。大方かたむいてきた日差しが、立ち上る紫煙にブラインドの縞模様を刻み付けていた。

 

「プチ家出なんて今まで何度もしてきたし、今回もきっとそう。でも、オッサンだって分かるでしょ。家の外に居場所を作るのは簡単じゃない。とくに、子供にとっては」

 

 ルリコは両手で顔を覆った。指の隙間から、魂が漏れ出すようなか細い息を吐く。

 

「どんなにひどい家でも、居場所は居場所。どんなにひでー母親でも、私は愛してほしい。愛されたいの」

 

 ガサガサ。ガサリ。

 

 新聞をたたむ音で、ルリコは顔を上げた。

 顔に特徴的なケロイドを持つ男が、じっと見つめてくる。

 

「あのさ。ちょっといいかな」

 

 そしてその顔は、どうしようもないほどこんがらがっていた。その困惑を表すように、咥えたタバコの火もひらめいている。

 

「おにいさん、さあ。そろそろ言ってもいいかな」

「いいのよ。分かってる」

 

 たまらず彼が何か言おうとしたのを、ルリコが手を伸ばして制した。

 

「……きっと。カナタは怒るってんでしょ。あの子、いい子だから。安心していてほしかったのよ。たとえ、今のうちだけでも────」

「だから微塵も思ってねえよ!!」

 

 男が、ハネ上がるように立ち上がった。

 その拍子に痛めた首をひねってしまったようで、彼は顔をしかめる。

 

「いでで……そっちの事情とかぜんぜん知らんし! すげえシリアスの最中に申し訳ないけどさあ! それ知らないヤツにいきなりブチまける内容じゃないよな!?」

 

 彼の手元のタバコから、ボロっと灰が崩れ落ちた。

 真っ赤に熾った灰の落ちた先は彼のズボンだった。それに気づいた男が「うわっちち! クソったれ!」と叫んだが、既に手遅れだ。

 灰を振り払った後、ズボンの太ももの辺りに、大きな穴が開いていた。

 

「お涙頂戴はよそで語れや!」

 

 そう言って、思いっきり灰皿にタバコを押し付ける。砕けた火の粉が、男の顔の首元まで舞い上がった。

 

「イキナリ重い話されて、単純に困ってんだわ!」

「────なによ」

 

 言い過ぎたかな……男の顔にほんの一瞬後悔が浮かんだが、それこそ余計だ。

 彼は真っ当な理由で真っ当にキレていたが──ルリコは怒鳴られたくらいでひるむような女ではない。

 

「なによオッサン、アンタ、オッサンのくせに私のボヤきも聞けないっての!?」

「オッサンは関係ねえだろ! ホラ見ろ! これこれ、俺のこれ!」

 

 ルリコの目の前に、大きな焦げ跡が突き付けられる。

 穴からピョロリとハミ出たスネ毛が、なんとなく情けない。

 

「ヤケドは顔だけで十分だっつーの! 声ばっかでけえクソ馬鹿娘が!」

「知るかバカ! 私をバカ呼ばわりとはどーいう了見よ! こちとら生徒会長ですケド!? 無敵なんですケド!?」

「そんなカードが学外で通用すると思ってんじゃねえぞ! パジャマ代払えや!」

 

 ぐいぐい押し付けられてくる男の太ももを、ルリコも負けじと跳ね返す。

 

「うわっ……やめろ! オッサンのくせにパジャマ一着も買えないワケ? あーイヤだイヤだ。毛の処理できない男ってそんなんばっかね」

「マジで傷つきそうなの禁止だろうが! いいからお前は、俺の静かな療養生活…………を……?」

 

 そこで男は黙って、振り向いた。

 あれほど静かだった休憩スペースには、いつの間にかひそひそ声が届いてきていた。

 男の動きに合わせて、数人の患者が後ずさる。みんな、引きつった笑みを浮かべている。

 

「なんだお前ら。ジロジロ見やがっ……」

 

 言って、男はようやく気付いた。

 今の彼はどう見ても、女子高生の顔面に下半身を押し付けようとしている百点満点の異常者でしかない。

 

「オウ……」

 

 ついつい漏らしたネイティブな嘆息が静寂に染み渡った。

 

「いや違うんですよ、これ」

 

 彼が弁解を図った瞬間、点滴スタンドが倒れる派手な音が響いた。

 

「これは、そのう……俺はただ、ここに開いた穴を見せてやってただけで……俺はあくまで、こいつに謝ってほしかっただけの人で……」

 

 なんということだろうか。

 男がかすれ声で最後まで言い終えたとき、その場には彼とルリコを除いて、誰も残らなかった。

 狂乱した野次馬たちは悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った後だ。

 

「きゃあ、へんたーい」

 

 彼の背後から、ルリコが棒読みで冷やかすように声を上げる。

 

「お、お嬢ちゃんねえ……!」

 

 青筋立てた男の前にいるのは、ただのクソ生意気なクソガキだ。

 さっきまでイカれた家庭事情を暗い顔で語っていたとは思えないほど、その顔はなんというか、『自然』だった。

 ケロイド男はあきらめて拳を下ろし、ソファに戻る。ただし、今度は距離をとって。ルリコとはほとんど対角線上だ。

 

「ねーえ。オッサン」

「おにいさん。だ」

 

 男は新聞を広げたまま、ぶっきらぼうに答えた。

 

「さっきの話、どう思う?」

「聞いてなかったのか。俺はただの分別ある通行人Aなの」

「大人って頼りになんないわね」

「ヒトサマの人生に軽はずみに関わろうとすると早死にするぜ。だがまあ────」

 

 中途半端に口を開いたまま、男はルリコの顔をじっと見つめた。

 

「何よ」

 

 ルリコがいぶかった。

 

「初めて映画館で会ったとき、髪のこと褒めたよな。あれ、ヨイショだから」

「あ!?」

 

 髪のことを言われて、さすがにルリコは黙っていられない。

 しかし彼女が凄んで見せても、ケロイド男は人が変わったように動じなかった。ゆっくり新聞を畳んで、膝の横に置いただけだった。

 

「きっとあいつら……いい友達なんだろな。髪、ボサボサだったし。ひでえ顔色でやせっぽち。なーんか……ガキのくせして暗い顔したコが来たなあって……」

 

 ルリコは、指で髪を梳いてみる。

 指どおりのいい、ツヤのある髪が陽の光にきらめいていた。

 

「お嬢ちゃんがデカい坊やに引きずられていった後、考えてみた。で、似てたんだわ。雰囲気が、ウチの姉御……上司にな」

「なんでそこで、アンタんとこのボスが出てくんのよ」

 

 ルリコが鼻を鳴らした。

 

「あの日の朝だよ。姉御が笑いながら、俺のトラックの前に飛び出してきたの」

「は?」

 

 彼女は耳を疑ったが、男も突拍子なさには気付いているようだ。煙のにおいが染み付いた指をもみながら、話を続ける。

 

「血まみれの姉御を八百キロのタイヤの下から引っ張り出してさァ。そこで『あーあ、もっとうまく轢けよ、アホ』って抜かしてくんだぜ。信じられっか。こちとらトラウマだっつーの」

 

 首のギプスが落ち着かないのか、男はしきりにその間に指を入れて、固定具の隙間を緩めようとしていた。

 

「とにかく、姉御は死にたがってる。んで……お嬢ちゃんも同じ顔をしてたぜ。

 疲れてダレて、イラついて。でも最後の一押しだけは誰かにしてほしいって感じのイヤなツラだ」

「は……なにそれ。私が死にたがってたって言うワケ? よく分かんないんだけど」

 

 ────こいつ、こっちが子供だからって適当こいてるわね。

 

 内心で舌打ちして、ルリコは静かに男を軽蔑する。

 おおかた、男が『姉御』と呼ぶ破綻者についても誇張された人物に違いない。まず、トラックに轢かれてピンピンしている人間なんてあり得ない。

 

「私、そんなに思いつめたことないわよ」

 

 薄く笑って、ルリコは傷だらけの手を見つめた。

 トラックの下敷きになってペシャンコのおせんべいになろうという思い切りも、度胸も、覚悟も、一度だって持てたことはない。

 ゆっくりとノドの奥で膨らんでいく綿の塊のような、閉塞感があるだけだ。

 

「映画館を出てくお嬢ちゃん見て、正直ホっとしたんだぜ」

 

 大口開いてあくびをして見せた男は、ポケットを探る。あいにくタバコのパックは空だった。

 

「『まるで別人みたいだった』──なんて、言うつもりじゃないでしょうね」

 

 ルリコが冷たく先手を打った。

 いよいよ手持ち無沙汰になったケロイド男は、パッケージのフィルムを細く解きながら、力強くうなずいた。

 

「だいたいそんなとこ」

「映画なんかで人生変わるとか言うの? アンタって、意外とロマンチストなのね」

 

 ルリコはこれだけバカにしてやってるのに、男はそれでも続けようとする。彼はますます面白そうになった。

 

「違うか。なら、もうひとつの方だな」

「もうひとつの方?」

「誰と観たか、さ」

「そんなの──」

 

 いつも通り憎まれ口を叩こうとしたが、ルリコにはそれができなかった。

 病院食の空容器を載せた台車が二人の傍を通りかかった。ゴロゴロと音を立てて転がるタイヤが遠のいていくまで、彼女は足元のタイルに刻まれた傷を数えていた。

 

「……そんなのが、大事なもんかしら」

「人は映画になれる──残念だが、映画は人にはなれない。だから、そうじゃないかって思ったのさ」

 

 男が何を言っているのか、完全に理解することは難しい。

 思い出すのはあの日、席についてすぐカナタと怒鳴りあいのケンカをしたことだ。

 くだらないポップコーンの押し付け合いから、予告編のヒマを潰すために世間話を始めて、それがいつしか、誰にも語ったことがない愚痴吐きになって──

 

「心当たりアリ。って感じ?」

 

 いつしか、ルリコはカナタの消えていった方を見つめていた。

 

「────映画館の暗闇ってさ。いろいろ、恥ずかしいこと言っちゃわない?」

「そうかもな。あの暗さは、特別だからな」

 

 糸のように細く解いたフィルムを指に巻きつけながら、男は言った。

 

 ルリコは「ほう」とため息をついた。

 

 どうしようもないガキだと思っていたカナタのほうが、よほど物事を深く理解していた。

 映画館の座席の上でいじけたように背中を丸めて「諦めて耐えていればなんとかなる」なんて抜かした彼女に、短く言った一言を、思い出す。

 

『死ぬぞ』

 

 よどんだ部屋の窓ガラスに叩き付けられた剛速球のような、いっそすがすがしいまでの宣告を。

 

「私……やっぱりまだ死にたくないな」

 

 ブラインド越しに広がる雲ひとつ無い空と、ルリコは初めて視線を交わした。

 澄み渡る青は、カナタの青だ。

 

「じゃあ生きるほうを選びな」

「ねえ、おっさん」

 

 話は終わったとばかりに新聞に目を戻しかけた火傷男が顔を上げた。

 ルリコが、真剣な顔で見つめてきていた。

 

「アンタ、私の顔が変わったって言ってたでしょ」

「おう」

「今どんな感じ? いい顔してる? それとも、まだブス顔の死にたがり?」

「だから、そういう大事なことを通行人(モブ)に聞くんじゃねえよ」

 

 男は苦笑した。

 

「一緒に映画見てくれるダチがいただろ。そいつらならきっと、答えてくれる」

「どうかなあ。町一番の口下手野郎と腐れ縁の自称元カレだし……」

 

 苦笑を浮かべたルリコが、細い肩をすぼめて見せる。

 

「ところでよ。アンタんトコの女ボスって、きれいな人?」

「ああ。美人。ウンザリするくらい、キレーなツラしてやがる」

「へえ……じゃ、似てるって言われたの、いちおう褒め言葉として受け取っとくわ」

「やめとけやめとけ!!」

 

 とたんに、男が猛然とかぶりを振った。

 とはいえそれは、芝居がかったしぐさだった。ここにやってきたとき、ルリコが纏っていた影はきれいに消えていた。

 だから男も楽しくなって、ついおどけてしまう。

 

「あんなん憧れたら人生終わるぜ。生活能力ゼロ。内臓いくつもやって交換してるくせに、懲りずに酒にひたってサツの世話なってる最強最悪のオトナコドモだぞ」

「なあに。交換って」

 

 くすくす笑って、ルリコは続けた。

 

「でもまあ、大変だものね。”壊れていない大人なんていない”か──」

 

 と、荷物をまとめて立ち上がろうとしたところで、ルリコは妙な空気に気づいた。

 あれほど愉快そうに笑っていた男の顔が凍りついている。

 

「今の、セリフさ……」

「なによ?」

「いやなんでもないデス」

 

 男の声はひどくかすれ、上ずっている。明らかになんでもある声だった。

 

「言いなさいよ。先に私の人生相談聞かせてあげたでしょ」

「勝手に聞かせてきたんだろうが……」

 

 男は黙って、あごをさすった。無精ひげのこすれるジョリジョリした音が、二人の間に漂う気まずげな雰囲気を際立たせる。

 

「姉御も同じこと言ってたんだよ。去年の忘年会で局長……超おエラい人にクラムチャウダーみたいなゲロひっかけながら。一字一句同じこと」

「ん!?」

 

 ルリコが声を裏返す。だんだん空気が張り詰めてきた。

 

「いちおう……確認するけども。その姉御って人、大きい?」

「悪い夢みてえなデカさしてるぜ。たぶんありゃ、電柱の血が混じってるな」

「電柱と人間の子作りとか悪夢ね……」

 

 ルリコは自分の膝を握り締める手に力が篭るのを感じていた。

 

「じゃあ。えっと……乗ってる車の色は?」

「クソみてえなクリーム色のバン」

「ツヤがなくてバンパー凹んでベコベコで、ミラー片方取れかかってる、借りパクしたレンタカー?」

 

 男がいたたまれなくなって吐いた「おっとォ……」という呻きが、静寂が痛いほどに立ち込める休憩所に響いた。

 

「もしかして私たち、同じ人のこと言ってる?」

「もしかしなくても俺ら、同じ人間の悪口言ってるよな」

「そういえば映画見に行った日、先生が体調不良とか言って休んでたわね……」

 

 ギゴゴ。

 

 ソファの脚が床を削った音だ。

 同時に立ち上がった二人は互いに目を合わせることなく、軽く会釈する。

 

「あ、じゃ……俺、そろそろ戻った方が良さそうだから……」

「ええ……ありがとう。私もなんかいろいろお世話になって……」

 

 意外な共通点。それはとある知人の存在。

 それが廃墟同然のマンションに住む町内指折りのダメ人間だという確認が取れたところで、二人はお別れを言った。

 

 ルリコは大荷物を抱え、男は首の痛みに呻きながら。

 気まずい空気を引きずったまま反対方向に歩き始めた二人は、一度も振り返らなかった。

 

 

 

 

 

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