海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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3いずれ茜に変わる瑠璃色へ

 

「べえええ──っく、しょおい!」

 

 病棟全体を揺るがすような特大のくしゃみが聞こえて、カナタは足を止めた。

 泥の痕跡は、数メートル先の曲がり角の向こうに続いている。

 

「あー、ちくしょうが。この私のウワサしてんのは、どこのどいつだっつーの……」

 

 その曲がり角から、巨大な黒い塊がヌルウっと現れた。

 その体も、頭も、濡れそぼった繊維質に覆われている。その隙間から、血走った目がギョロリと動いてカナタの姿を捉えた。

 そんなものがいきなり姿を現したもので、カナタは思わず、床から数センチ垂直に飛び上がってしまった。

 

「げげェーッ!? もずくのバケモン!」

「違います」

 

 どうやら違った。

 

「ほら先生ですよ。センセイ」

 

 髪の毛お化けは面倒くさそうにモジャ髪を持ち上げた。

 スダレのように顔にかかった前髪の下から覗いた顔色は、死人一歩手前の土気色。カナタたち2-Aの担任、樋口キリエは今日も酒臭い。

 

「あ……あ……キリちゃんか。なんでここいんの?」

 

 まだ心臓をバクバクさせたまま、カナタが引きつった顔で聞いた。

 

「地下でファッションショーをやってましてねえ」

 

 キリエの言葉はテキトーに違いなかったが、彼女の姿は、いつもとまるで違った。

 釣り人が使うような古びたバカ長靴(ウェーダー)を履き、濡れた髪を顔面に貼りつかせたその格好は、深海から這い上がってきた怪物そのものだ。

 

「んで、そっちはなんです?」

 

 キリエが小さく、あごをしゃくった。

 

「アタシはフミオのあほの見舞い」

「ああ、飲酒運転ですね。なかなか将来有望……」

「センセー、なんでビショビショなんだよ」

「こっちです」

 

 キリエが背を向けて、ついてくるようにと角の先を目で示した。

 彼女についていってカナタが曲がった先では、明らかに病院のレイアウトから浮いたものが待ち構えていた。

 まるでクライムサスペンスに登場する銀行の金庫を思わせる、重厚な金属扉。その横には電子錠が取り付けられている。

 

「どうぞ」

 

 カナタは促されるままに、半開きになった扉の隙間から中の様子を伺った。

 階段だ。

 コンクリート製の素っ気無い階段が、十数メートルに渡って地下へと伸びている。明かりは中ほどに置かれたLEDライトのものだけ。

 階段を降りきったところには、また扉。

 

「ここ数日で、どこもかしこも浸水しやがりましてね」

「ひたひただ……」

 

 キリエの言うとおり数十センチも浸水している。

 両開きのドアの隙間から押し寄せるささやかな波が、ライトの投げかける光の下で揺れていた。

 

「ここもかよ。プールも映画館も、潮水でダメになっちまってたぞ」

「地の底にでかい海でもあるんですかね──なんちゃって」

 

 と言いながら、キリエは犬のように体を振るった。彼女のまとった水滴が舞い散り、隣に立つカナタに容赦なく降りかかる。

 

「排水ポンプでなんとかやり過ごしてたようですが、とうとう故障したってなカンジでして。こうして私が原因追求中です。やんなっちゃいますよ、ホント」

「マジでな」

 

 一瞬でビショ濡れになったカナタが、ゲッソリして呟いた。前髪から滴る水は、かなり塩辛い。

 

「……にしたって。どうしてセンセーが?」

「イナカの若手公務員ってのは、どこもかしこもこんなモンですよ」

 

 床に広げられたビニールシートの上に、キリエはドッカリ座りこんだ。

 そこに雑多に広げられた大小の工具が衝撃で踊り、金属音をかき鳴らす。

 

「若手は経験。何事も経験。どこで役に立つかわからねーモンを、延々、延々……」

 

 スパナやレンチの中でうずくまる彼女自身、使い捨ての道具であるかのようだった。

 その首が、ガクリと落ちる。

 

「もームリ。先公(センコー)とか。ノリでなるもんじゃねえわ、やっぱり」

 

 いつもの取り繕ったような教師の皮すら投げ捨てて、彼女はボヤいた。

 

「センセーって、なんでセンセーやってんの?」

「なんでだっけなあ……もう思い出せないや」

 

 彼女は遠い目をしたまま、ウェーダーのポケットを探った。表面に薄く水を纏ったスキットルを取り出し、中身を一気にあおる。

 

「はー、うめ……」

 

 キリエの頬に、徐々に赤みが戻る。

 ようやく息を吹き返したように、彼女は床に大の字に寝転がった。

 

「センセー、下で何か見た?」

 

 カナタは鉄扉の隙間から、その先に広がる闇を見つめ続けていた。

 

「なにか? そりゃ、西町のヒミツがたっくさん詰め込まれて……」

 

 そこで、キリエの目が床に残った汚泥の筋を捉えた。

 小人の足跡のように小さな泥が、地下に向かって伸びている。

 黒いタール状の泥は真新しく、いまだに粘りを残した雫が地階の浸水に混じって広がっていくさまが見て取れた。

 

「ふむ」

 

 いつの間にかカナタの背後に立って下階の様子を観察していたキリエが、スキットルを仕舞い込んだ。

 

「カナタさんって冒険好きですよね?」

「いいのかよ、町のヒミツなんだろ」

 

 不安そうに、カナタが聞く。

 いくらいい加減といっても、キリエは防衛局の人間だ。

 たとえ爪先だろうが町の外に出ようものなら飛んでくる集団が、こんなコト許してくれるもんかね──と思っている彼女の前で、キリエは既に準備を始めている。

 

(かま)やしませんよ。若いモンはなんでも経験。でしょ?」

 

 シートの上に放り捨てられた工具の山から、キリエは一本のパイプレンチを拾い上げた。異様に大きい。子供の片腕ほどもある。

 それを何度か素振りして、彼女は手ごたえを確かめた。

 

「ほい。最悪の最悪って時は、こいつでなんとかして」

「おわっ……とと……」

 

 ヒョイと投げ渡されたレンチをキャッチして、カナタは重さのあまりよろめいた。ところどころ塗装のはげた赤いレンチは、確かに武器として頼りがいがありそうだ。

 

「最悪の最悪の時は──これでキリちゃんの頭のネジ締めなおせって?」

「それで直れば、ここまで落ちぶれてませんよ」

 

 ワハハと二人でひとしきり笑ったあと、むなしい空気が漂った。

 

「……ほんじゃ行きましょか」

「……オス」

 

 キリエが先に立って、金属扉をくぐる。

 ちょっぴりションボリした彼女の背中が小さく見えた。

 

「ンー」

 

 扉のすぐ内側に立てかけてあったケースの上で、キリエは手をさまよわせた。

 

「それ何?」

「転ばぬ先の杖というか……」

 

 二メートルほどの細長い金属製のケースの表面には様々なマークがレーザー刻印されていた。工事現場で見たことがあるようなものから、カナタには馴染みの無い警告表示まで。

 なかでもひときわ目を惹いたのは、中央に配された、枝を咥えた鳥のシンボルだった。

 

「すずめ」

「ハトです」

 

 バッサリ切り捨てられて、カナタがむくれる。

 キリエがためらったのは、ケースに施された厳重な封印のためだった。

 黄色に黒字で『CAUTION』の文字が隙間なく並ぶテープと、管理用のICタグによって丁寧に封じられている。

 中身を知らないカナタでさえ、そこからただならぬ威圧感を感じ取った。

 

「これ、開けるたびに始末書なんですよ」

「『本業』のほうの道具?」

「そうそう。また備品壊すと局長(ハゲ)がウルセーしなあ……」

 

 下唇を噛んで考えていたキリエは、やがて観念したように「まいっか」と呟いた。そして、長大なケースを軽々と担ぐ。

 

(相変わらず細いのに、すげえチカラ……)

 

 ぼんやりそんなことを思いながら、カナタはザブザブと浸水の中を進む。

 

「そっちは靴、いいんですか?」

「これ、アタシの一部だから」

 

 カナタのスニーカーが水の中でほどけて肉の塊になる。

 無秩序に絡まったウロコとヒレがヒクリと動くと、かすかな水音を立てながら素足を形作っていく。

 

「ほら、アタシって自分の体いじれるだろ?」

 

 真珠色の爪が光る足先を持ち上げて、カナタは得意げに笑った。白く、細い指の間には薄い膜が張っている。水かきだ。

 

「わあ、すごい」

 

 無感情に言い放って、キリエはLEDのランタンを高く掲げた。

 

「ところでカナタさん……最近、生徒会長の妹さん見ました?」

「マリコを?」

 

 猫のような顔つきをした、小麦色の肌のピアス女。その名前がキリエの口から出てきたことを少し意外に思いながら、カナタは小さくかぶりを振った。

 

「そうですか。最後に見かけたとき具合悪そうだったので。病院で会えないかなと思ったのですが……」

「ルリコ来てるぞ。直接聞いてみりゃいいじゃん」

 

 カナタの返事にキリエは一瞬足を止めたが、やがて、ケースを担ぎなおして先を歩き始めた。

 

「冗談でしょ」

 

 小ばかにしたような物言いにモヤモヤさせられたが、カナタは何も言えない。

 ルリコとマリコの姉妹仲はぐちゃぐちゃだ。時々、ルリコの前で妹の名を出すことをためらうほどに。

 

 

 ■

 

「おいコラ、タバコやめろつったでしょ!?」

「お、おお……ルリコ……戻ったかよ」

 

 汗ドロドロで病室に戻ってくるなり、早速ルリコのツッコミが炸裂した。

 沈みゆく陽の光が、窓際に置かれた銀の灰皿で鈍く反射している。輝きに目を細めたルリコが、その渋面をすばやく旋回させる。

 

「アンタも! 付き合いで吸ってんじゃねーわよ! 見損なったわよ!」

 

 レイジの口から、タバコがポトリと落ちた。火はついていない。

 急にどんなものか気になって、フミオに一本せがんだだけだ。

 湿ったタバコを何度かお手玉しながら、彼はルリコの姿を見つめた。

 

「あ、ああ……すまない」

 

 いったい何をどれだけ買い込んだのか。ルリコはパンパンになったビニール袋を両手からブラ提げている。

 

「こちとら階段のぼりまくって虫の息よ。感謝してよね」

「エレベーター使ったらいいだろうが」

「故障中だったのよ」

 

 フミオとレイジは同時に首をひねった。

 彼らが屋上に向かったとき、エレベーターは動いていたはずだ。

 まるでカナタとルリコを病室から遠ざけるように故障が起こったことになる。妙なタイミングだった。

 

「とにかくコレ、みんなの募金で買ったアンタの差し入れ。大事に使いなさいよ」

 

 ベッドの横まで歩いていったルリコが、フミオに袋を押し付けた。

 

「使うって。生々しいな!」

 

 袋の中身は、言うまでもなく実用性重視のエロの山だ。

 思わず大声を上げたフミオだったが、その手は雑誌の束をぎゅっと掴んだまま、離す気配がない。そのエロガキっぷりに呆れながら、彼女はそっと、ベッドに腰を下ろした。

 

「およ。カナタは?」

「……はぐれた。なんか散歩だって」

 

 ルリコの買ってきた差し入れを片付けていたレイジが、フミオの前に紙パックを置く。

 

「何だよあてつけか」

 

 牛乳のパックだ。ヘシ折れた足を指差して、フミオが目を尖らせる。

 

「牛乳を飲むと、骨が作られると聞いた」

「ついでに、キレる若者にもカルシウムが効くって言うわね。アンタの『憤怒』ってヤツも、これで少しは収まるんじゃない?」

 

 不意を突かれて、レイジはぐっと言葉に詰まった。

 

「ところでさあ」

 

 改まった様子で、ルリコが言った。

 

「私、自殺とかしそうに見える?」

 

 まるで世間話を振るような切り出し方で彼女が言い放った瞬間、窓から強い風が吹き抜けた。

 カーテンレールに吊られた薄紅色の風鈴がチリリンと涼やかな音を響かせる下で、レイジとフミオは顔を見合わせた。

 

「な……なんでいきなり、そんなこと?」

 

 恐る恐る口を開いたフミオだったが、ルリコはあっけらかんとして言った。

 

「こないだから、ずっと気になってたのよね。私、ほら、かわいいじゃん? でも、美人薄命っていうじゃん」

「自分でそれ言うかよ……」

「そりゃ自信あるから。元カレの──やっぱりフった記憶なんて全くないけど。フミオ、感想聞かせてよ。アンタの選んだ女でしょ」

 

 ルリコに詰め寄られたフミオの視線が泳ぐ。

 助けを求めるようにレイジを見てくるが、彼には何もしてやれない。

 何かやってやろうという時のルリコを止めるのがどれだけ難しいか知っていたし、何より、フミオに問いかける彼女の面持ちは、真剣だった。

 

「きれいだよ。別れたの、ずっと後悔してるくらいには」

 

 気の遠くなるほど長い数秒の沈黙。その後に、フミオは弱々しく微笑んで言った。

 

「んで、死にそうにも見えねえ。俺が言ったトコで、響くかどうかは知らんけど」

「アリガト。レイジ、アンタは?」

「俺も?」

 

 ベッドのスプリングで反動つけて、ルリコが起き上がった。

 その衝撃で足の骨がズレたフミオが背後でうめくのに目もくれず、彼女はレイジをまっすぐ見つめてくる。

 

「俺の意見は、どうでもいいんじゃないか」

「そうかもしれない。でも、聞いておきたいのよ」

「どうして」

「どうしても。確認、みたいな」

「何の?」

 

 いままでレイジが一度も見たことの無い表情で、ルリコが見上げてくる。

 困っているような、笑っているような。

 

「そいつの何確かめるってんだよ」

 

 そんなフミオの軽口も聞こえないほどに、じっとレイジの顔に見入っていた。

 確かめる──自分が発した言葉の意味を、彼女自身掴みきれていないようだった。

 

「私、きれいでしょ」

 

 たぶん、違うんじゃないか。レイジはそう思った。

 およそ一ヶ月前、焼肉屋で彼女に「美人だ」と伝えた時、機嫌を損ねた理由が、今なら少し分かる気がした。

 制服はところどころ綻びて、それでも丁寧に繕われていた。メイクも髪もきちんとして、十分にきれいだ。

 だが、彼女が言ってほしいのは上ッ面のことじゃない──レイジは無表情の下で、鈍い頭を必死に働かせる。

 考えて考えて……ふと気づいた。

 いつの間にか、ルリコの顔がずっと近くに見えることに。

 

「……背筋が、伸びたな」

「ンだよ、そりゃ」

 

 ようやくレイジが発した一言を聞いて、ルリコは目を丸くした。フミオは呆れたようにベッドにふんぞり返った。

 

「しゃんとした、と思う」

「そう?」

 

 ルリコの手は、自然に彼女の胸元に。

 青いスカーフを握り締める姿を静かに見据えながら、レイジは深く、うなずいた。

 

「…………そ。よかった」

 

 レイジの言葉を噛みしめるようにしていたルリコは、ややあって呟いた。

 何かのスイッチが入ったようにテキパキとした動きでベッドの周りを片付け、自分の通学かばんを拾い上げる。

 その目が──病室端の洗面台に据え付られた鏡越しに、自分の姿を捉える。

 

「んじゃ、いっちょ突き抜けてみましょうか。この夏を」

 

 鏡の中の黒髪の少女が、コクリと頷き返してきた。

 フミオは、その変わりように胸騒ぎを覚えた。レイジに続いてルリコまで、遠い遠いところに飛んでいってしまうような気がした。

 

「え、オイ、どこ行くんだよ?」

「人生を買い戻しにいく」

 

 ルリコが、勢いよくドアを開け放った。

 その向こうに続く廊下は、目を焼くほど鮮やかな茜一色だ。

 吹き抜ける風がルリコの髪をさらい、生き物のように舞い上がる。黒髪は夕風と遊びながら、ゆっくりと茜色に染まっていく。

 その美しい光景に言葉を失った男二匹を前に、ルリコは照れたようにクスっと笑った。

 

「詩的表現。ってヤツよ。あんまりポカンとしないでったら」

 

 入学式の壇上で見たものより。キレたり叫んだりしている時とも違う。

 ずっとずっと、自然な笑顔だった。初めて見るのに懐かしさすら感じるほどのルリコ自身を、彼女は初めて人前でさらけ出したのだった。

 

「……まあ。買うって言っても、現実的にはテントとランタン、あとは寝袋ってところだけど」

「は? 人生? 寝袋? なんで……いきなりアウトドアに目覚めた。っつーワケ?」

「どうでしょうねえ」

 

 はぐらかすようにルリコは肩をすくめた。

 その仕草ですら小さな鳥が水面を見て首をかしげるようで、無邪気で、そして可憐だった。

 

「うまくいったら、理由はそのとき教えてあげる」

 

 すでに廊下に歩き出していた彼女は「ばいばい」と後ろ手を振った。

 あとは一切脇目を振らず、彼女はまっすぐ歩いていく。遠ざかる足音はすぐに風音と時報のメロディに紛れ──やがて、その姿も暮れなずみの中に溶けるように紛れて消えた。

 

「なんか、ルリコのやつ……」

 

 しばらくして口を開いたフミオは、自分の声のかすれっぷりに驚いた。

 軽く咳払いして、調子を取り戻そうとする。

 

「もしかして、自分で解決しちゃった系……?」

 

 男たちは顔を見合わせることしかできない。

 

「俺とフミオが悩んでいる間に、か」

「なんだったんだろうなあ、さっきの時間」

 

 フミオはギプスの上から足をさする。

 文字通り一陣の風のように去ったルリコが残していった雑誌が目に入る。彼はウンザリしたようにため息つきながら表紙を眺めた。

 あの焼け付くような茜色を見た後だと、どんなグラビアも形無しだ。

 

「やっぱさあ……ルリコ、強ェよな」

 

 結局のところ、袋とじにハサミを入れながらフミオが何気なく放った一言がすべてだった。

 微苦笑を浮かべて彼に頷いて見せたレイジだったが、すぐにその表情が険しくなった。

 

 ベッドの横には来客用のイスが三つ。

 レイジと、ルリコと、そしてカナタが座っていたときのまま、そこに並べてある。

 

「なんだ、その気色悪いの……」

 

 フミオも異常に気づいた。

 それがきっかけだったかのように、病室の中に鼻の奥を殴りつけるような悪臭が漂い始める。

 出所は、イスの上だ。カナタの香りが微かに残るカバンに、粘つく黒い汚泥がべったりと擦り付けられている。

 横に置かれた飲みかけの牛乳パック。

 その飲み口で、黒い塊がミミズのようにピクピクと痙攣していた。

 窓から吹き込む風に乗って、腐臭が室内をかき回す。

 

「カナタを……」

 

 レイジの中に、猛烈な嫌な予感が膨れ上がる。

 

 彼は立ち上がり、廊下の先を見据えた。

 

「カナタを探してくる」

 

 フミオの返事を待たず、疾風のように走り去っていった。

 

「そうかい」

 

 病室に一人残されたフミオは、ぽつりと呟いた。

 

「いいな。答え出せてないくせに、最後には、そうやって走り出せるのか」

 

 彼はベッドの上で軽く寝返りを打って、痛みに顔をしかめた。

 

「どいつもこいつも大したもんだぜ。ちょっとムカつくくらいにな」

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