目を覚ました時、レイジは水溜りの中に倒れていた。
黒い水の中にほとんど沈んでいた体を起こした瞬間に、途方もない寒気を感じた。
そして痛み。
とにかく寒くて、痛い。全身の毛穴に鋭い針を突き立てられているようだ。
「俺は……流されたのか?」
レイジは
あの黒い津波は幻ではなかった。彼の目に、周囲の悲惨な有様が飛び込んできた。
ねじれたガードレールや割れた窓ガラス、泥に沈んだ車の屋根。
流れに巻き込まれて、彼と一緒に流されてきた看板や自転車、黒く染まった衣服の山が、じめりと濡れた町並みに散りばめられている。
「どこまでやってきた……?」
そしてそこは、彼が知らない町だ。
彼は相当な時間気を失っていたようで、あたりは狂おしいほどの夕日に染め上げられている。橙と黒との鮮烈な陰影の中に広がる風景は、明らかに七区のものではない。
レイジが太い首を回して見渡すが、中心街にそびえるビル群れは見当たらず、見慣れた山の稜線も、広がる田園も、見当たらない。
あたりの建物は明らかに古く、木造のものがちらほらと立ち並ぶ。
濡れて木目が浮き出た戸袋から滴る水を見ているうちに、足元の黒い泥から立ち上る、言いようのない生臭さが彼の鼻をくすぐった。
それがなぜか、懐かしい。
『こっち』
もはや聞き慣れた声だ。
はっとしてレイジが顔を上げた先で、少女がスカートの裾を軽く押さえる。
近くのブロック塀に腰掛けて、彼女が見下ろしてきていた。
『おっとと……はしたないマネするところだったよ』
この濡れた町に充満する独特の空気が、ざわりと動く。
液体のように粘りをもった風に流されて、少女の黒いショートヘアが軽く泳いだ。
『とにかく、急ごう。それ、間に合わなくなるよ』
「な──」
少女が指差すものが自分の腕だと気づいた瞬間、レイジは強烈な違和感に襲われた。
右腕を、黒い水溜まりから引き抜くと同時に、その正体があらわになる。指先が激しく
そう感じた直後、関節がギチリと勝手に曲がった。
まるで、自分ではない何かが、彼の体を奪おうとしているかのように。
『その水は、生き物を壊しちゃうから──レイジの体は頑丈だけど、まだ完全じゃない。目覚めさせないと』
「目覚めさせる?」
『とにかくそこは危険。早く上がって、こっちに』
痛みは外側だけのものではない。
今は血管を、内臓を、黒い水に苛まれているのが分かる。痛みに支配された体を何とか引きずって泥だまりから抜け出る。
『歩ける?』
「あ、ああ……問題ない」
『よし。じゃあ、ちょっとお散歩しようか』
オレンジ色の光に染め上げられた見知らぬ街並みは、まるで子供の落書きのように不自然でぎこちない。
ブロック塀はまるで薄っぺらい紙のように見え、電柱は斜めに傾いている。
そんな画用紙にクレヨンで描いたような世界だが、確実にこれが白昼夢の類でないと突き付けてくるものがある。
それは彼の頭上で、電線にぶら下がってフラフラと揺れていた。
死体だ。
黒い津波の犠牲者だろう。
全身を黒一色にすさまじく汚された男の死体の首に、電線が深々と食い込んでいる。その顔は泥に埋もれて判別できず、目だけが白く濁って見開かれていた。
そんな状態で生きているはずがない──が、力なく垂れた男の腕が、小刻みに痙攣しているような気がした。
『行こう。”それ”はもう、終わってる』
目の前の状況を受け止めきれず、立ち尽くすレイジに向かって、少女が淡々と告げた。
『きみの運命はそれじゃない。あの子、気が短いとこあるから、待たせるとヘソ曲げるかも』
「ま、待て、あの子って──」
言いながら、少女の素足は既に通りの向こうを歩いている。
夕風に吹かれてゆれ続ける死体をじっと見ていたレイジだったが、今の彼にはどうすることもできない。
ビクビクと震える男の死体から目を背けて、彼は少女の後を追う。
どことも知れない場所に導かれていく間、死体の数は増え続けた。
「大丈夫か」
倒れている人影のひとつに近寄ってレイジはその体に手をかけた。
とたんに激しい違和感に襲われる。黒く変色した皮膚は、人肌というより目の粗い紙ヤスリに質感が近い。その顔に当たる部分には目鼻口がなく、生きている証である僅かな胸の上下にあわせて、たまにピクピクと痙攣を繰り返している。
そんな風に異様な変質を遂げた人体が、濡れそぼった通りにいくつも転がっている。
「……今、助けを呼んでくる」
それは気休めだ。
レイジは立ち上がって歩き始めた。
体調は最悪だ。頭はズキズキと痛み、右腕はドス黒い腫れに覆われて目も当てられない。
彼の状態にシンクロするように、町並みの異様さも露骨になる。
延々と続く駐車場、意味を失った道路の白線、公園ではいくつかの遊具がめり込むように融合していた。
夕日の中で、すべてが現実の皮を被った悪夢だ。
しかし、うろんな景色の中を少女に続いて歩いていくと、急に妙に精密な風景に出くわした。
キャラメルの板のようだった板塀に鮮明な木目が現れてきた。
看板の文字も読める────
知らない町の、知らない地名。
ざざあ、ざざあ、という木々の葉が擦れる音を聞きながら夕日の差す町を歩いていくと、町の姿が更に鮮明になっていく。
白い壁に青い洋瓦の一軒家。
レイジはその前で、足を止める。少女の姿はいつの間にか消えていた。
「ここに、何がある?」
庭先に目を引くものがあった。
それは午前一時にテレビを点ければ見れる、砂嵐に酷似していた。ぼんやりした灰色のノイズの塊はレイジの膝頭ほどの高さがあり、その後ろには犬小屋が建っている。
「犬……?」
反射的にレイジは手を差し出してみるが、ノイズに意思があるはずもない。黒い膿疱に覆われた彼の指先が触れるなり、まるで腐った果実を潰したように黒く粘ついた塊に変わった。
茜色に染まった家の壁と柔らかそうな芝生を見ているとレイジの失われた記憶の底に埋もれた何かが、激しく揺さ振られるのを感じる。
だが、やはり、その正体は掴めない。ただ、引き寄せられるように玄関まで行って、震える手でドアノブを回す。
そして、海があった。
■
「────は?」
そう反応することしか出来ない。
振り返ると、薄っぺらな、舞台装置のような家の残骸がある。
ゆっくりドアノブを離して、彼は目の前いっぱいに広がる”海”と向き合った。
それは海というには少々奇妙すぎる代物だ。
青々とした液体をたたえた巨大な壁が、彼の視界いっぱいに広がっていた。
その中では無数の小魚が泳ぎ、差し込んだ夕日のヴェールと一体になって水中を踊る。水族館で、水槽を横から見た時の風景そのものだ。
ざざぁ、ざざぁ。
木擦れの思っていたものは波の音だった。
首が痛くなるほど見上げても果ての見えない水の壁と、その音が、目の前にあるものがまぎれもない”海”なのだとレイジに確信させた。
問題は、どうしてこんなものが、こんな場所にあるのか、ということだ。
ここまでに見てきた蜃気楼のような町も十分奇妙だが、この"海”の荒唐無稽さは比べ物にならない。ここは、関東平野のど真ん中だ。
海は、五十キロ歩いてようやく見えてくるはずのものだ。
魚の大群が銀色の腹を夕日に光らせて通り過ぎていった。誘われるようにレイジは青い壁の中に右腕を、
「ッ!」
沸騰した油の中に手を突っ込んだようだった。
レイジも、この不意打ちには流石に焦った。鍛え抜いた反射神経で、ほとんど一瞬で手を壁の中から引っこ抜いた──つもりだったが、そうはならなかった。
肘の辺りから、長手袋を脱がすように彼の皮膚が筋肉ごとズルリと剥ぎ取られた。
レイジにとって苦痛は慣れ親しんだものだ。
今の彼を驚かせ、打ち震えさせているものは、無残に破壊された腕の断面に起こったことだ。
血は出ない。
肉が黒く変色し、ここまでの道のりで見かけた蛹人間と同じ質感の皮膚に覆われている。手首から先を失った骨は、長い風化に晒されたように腐食してボロボロ崩れていく。
骨の破片、そして水中に取り残された腕。一瞬の後に、それらが意志を持ったように動き始める。骨は無数の蟹に、そして、腕は何度か身もだえするようにうねった後に、まるで魚のようにくねりながら、どこかへと泳ぎ去っていった。
「俺の、体……」
勝手に泳ぎだした肉の塊のことなんてどうでもいい。
おぞましく破壊され、吐き気を催すほどの痛みを送り込んでくる腕の残骸を見つめながら、レイジは嘆息した。
「治らないのか……いつもみたいに……」
深夜、どうしようもない胸を焼くほどの熱に浮かされるように鉄骨を殴り続け、肩の辺りまで腕を破壊したことがある。それでも疲れて一時間ほど気を失っているうちに完治した。
だが今は──
「ここに入ったら、俺も死ぬのか」
『そうだね。死ねる、と思うよ』
いつのまにか隣に立つ少女を一瞥すらせず、心を奪われたように、レイジは青い壁を見つめ続ける。
どんな傷ですら瞬時に回復する肉体をも破壊する、圧倒的な死の壁を。
『レイジは、生まれてくる前に死んでしまうんだ』
「俺はすでに生まれている。生きている」
『…………本当に、そう思う?』
青い壁は、まるで底知れぬ深海のように暗く、その奥で巨大な影がゆらゆらと蠢いている。
レイジには、少女の言いたいことがよく分かった。
『変わりたいと、感じたことはない』
「いつだって」
──石動黎時には、十歳になるまでの記憶がない。
フミオとルリコ、そして先生。ほかに、体温を感じる繋がりを持っていない。
常に孤独で、常に理解されず、迫害されることすらない。
それを悲しめるほどの人間味すら、ない。
「俺のことは、俺が一番分かってる」
『…………きみは、欠けてるね』
ただ毎晩ふつふつと
それがレイジなのだ。
この惨めでうつろな皮袋の中で、それだけがレイジと呼べる部分なのだ。
果たしてそんなものが真っ当な命と呼べるのか? 毛布の中で傷だらけの腕を見つめながら自問した夜の数なんて、彼はとうに忘れた。
「ここで、俺の憤怒を終わりにできるか?」
突飛な考えに取り付かれていることは理解している。
死に憧れがあるわけでもない。
毎朝の地獄の時間を耐え凌げれば、俺はなんとか続いていけるのだ──そう思って、今日まで食いしばってきたのだ。
だが、目の前にその可能性を突きつけられると、どうしても心が引っ張られた。
「これが俺の運命、とでも?」
運命が君を待っている──と告げて、ここまで彼を導いてきた少女の姿は消えていた。
レイジは腕の残骸から突き出した骨を握り締める。それは彼の常人離れした握力を受けるまでもなく、まるでパイ生地のように粉々に砕けていった。
ちゃぽ。
水の壁が、まるで『おいで』と囁くように揺れる。
銀色に輝く小魚の渦が彼を誘うようだ。黒くて、大きい、クジラか何かのシルエットに蹴散らされ、それは無限に広がる水の中に遠ざかっていく。
レイジは更に一歩踏み出した。
水の壁は、死は、ほとんど目と鼻の先だ。
ちゃぷ。
無事なほうの手も、レイジは壁の中に突っ込んだ。今度はそれほど痛みを感じない。
繊維を解くように崩れた左腕は、無数の赤い魚に形を変えて、壁の中へと舞い散っていく。
青と赤の乱舞に幻惑され、更に一歩。
爪先が、鼻の先が、壁に飲まれる。
レイジはまるで、誘われるように──
「……ヒト?」
この圧倒的死をもたらす液体の中に目を凝らして、それを見つけてしまった。
「女の子だ」
舞い踊る無数の魚と巨大な影の中、銀色の輝きが漂っている。
水の中に差し込む夕日を反射しているものは、はじめ、巨大なクラゲか何かに見えたが違う。
髪の毛だ。
長い長い髪の毛が、水中で花弁のように広がっているのだ。
うねるような白い髪の中心に女がいる。
崩壊しつつある両腕の痛みも忘れてレイジは見入る。
ドレスのような衣服のすそが、壁の中の海流に弄ばれ、彼女の白い肌と髪に水影が
それはまるで、打ち捨てられた人形のように見えたが、わずかに開いた唇から、小さな気泡が浮き上がる。確かに生きている。
閉じた目蓋の周りに、きらめく星屑のような輝きが見える。銀色の睫毛が壁の中の水流にそよぐたび、魚の群れが恐れたように散っていく。
まるで「この少女が、この壁の中心である」とでもいうように。
とにかく美しい女だった。
同時に、魂を感じることができなかった。
遠く離れたレイジの側から、彼女の呼吸も拍動も感じることができるにも関わらず、閉ざされた目蓋の内側にある瞳を想像することができない。
彼女がどんな風に話して、笑うのか、レイジには分からない。
生きているが、死んでいないだけ。
はじめて見た時、人形のようだ──と感じた理由は、それなのだろう。
『レイジ』
頬に触れられた気がした。彼の耳元で、あの少女の声がする。
『助けてあげて』
「俺が?」
『そうだよ。これは現実なんだ。夢の中とは違うんだ」
「俺は……暴れて……壊すことしか、できない」
『だからこそ。君の手で何かを助けるんだ。君の手で、作り出すんだ』
「ごぼっ」
水の中から、泡の砕ける音が聞こえた。
ばっと振り返ったレイジの視線の先で、女のまつげがふわりと動く。
瞼がゆっくりと開かれていく。
ゆっくり、ゆっくり。
レイジが全身の痛みを忘れるほど。水の揺らぎを忘れるほど。
時間が水飴のように固まってしまったのではないかと思わせるほどの時間をかけて、彼女の隠されていた双眸が輝きを取り戻していく。
青。
水の壁の色などとは比べ物にならないほどの圧倒的な青。
『きみの運命の色』
それを見た瞬間にレイジの頭の中に広大な水平線が広がった。この湿った町を包み込む不快な臭気が一瞬で洗い流され、代わりに清々しい潮と、花のような香りが彼の鼻腔に満ちていく。
レイジには記憶が無い。
物心ついた時にはこの町の施設にいた。だから、青くたゆたう無限の水平線など見たことがない。
「海の、色だ──」
それでも彼は、開かれた女の瞳に海を見出してしまった。
彼の心にその青さが触れる。
レイジが固まっている前で、水中の女は動き出す。
折れてしまいそうなほど細い首であちこち見渡して、困惑した様子で、徐々に、自分が水中で目覚めたということを理解し始めたのだろう。
やがて彼女の視線は遠くを見つめ始めるように細まり────壁の外にいるレイジの姿を認めた。
レイジと彼女の間には、数十メートルの距離と、揺れ動く水の隔たりがある。彼女のほうから、レイジの姿が見えるはずがない。
それが分かっているのに、レイジは、彼女に見られたと感じた。
彼女の瞳の青の中に、レイジが沈む。
どくん、と、彼の胸の中で力強く心臓が打った。
「ごぼぼ?」
驚いたように彼女の瞳が見開かれ、口からおびただしい量の泡が吹き上がった。
「あっ!?」
レイジは思わず声を上げた。
女の顔が苦悶に歪んだ。今までの超然とした表情がウソのように彼女は喉元を押さえ、手足を激しくバタつかせ始める。
その瞳はずっと、レイジを見つめている。助けを求めているのか。
苦しんでいる。溺れている。
「助けなければ……!」
じゃぼ。
水の壁が激しく波打ち、一滴の水をレイジの顔に飛ばした。
「ぐっ!?」
右の視界が闇に閉ざされた。とっさに右目を押さえた彼の手の指の隙間から、ズルリと這い出てきたものがある。透明なカサに、赤いスジを描くクラゲだ。
クラゲは視神経であったはずの触手の束を引きずり出してくると、それは彼の足元に落ちて、力なく広がった。
たった一滴でこのザマだ。
『どうする。私は、どっちでもいい』
「ぐっ……どっち……でも?」
『その体は、ぐちゃぐちゃだ。このままだったら死ぬ。前に進んでも、ヘタを打てば死ぬ』
どのみち、あの子は、死ぬだろう。
もがき苦しみ、あの美しい青い瞳を苦悶の中に埋もれさせていく女を見つめながら、レイジは全身に無力感がのしかかってくるのを感じていた。
『でも、きみがその手で選択するのなら──』
遥か遠く、水面を求めるように伸ばされた彼女の手が、だらりと力を失っていく。
女の顔に見えるもの。
それは、諦めだ。
────あーあ、やっぱダメか。
そんな類の。
一片の希望すらなく、目の前に差し出された暗い運命を、ただ黙って飲み干すような。
レイジが、毎朝鏡の前で見てきたような。
□
俺は夢を見る。
それは女が目の前で死ぬ夢だ。
何もできない自分を見つめ続ける夢だ。
□
「は」
レイジは短く笑った。
何ヶ月か、何年ぶりか、心底からのもので。
たったそれだけで顎が痛くなるほどの間、彼が忘れていたやり方で。
「俺が自分で選ぶなら?」
『────後には、選んだっていう事実が残る。君が選んで、君が変わるんだ。運命をつかんで、目覚めるんだ』
女の口から、泡が漏れる。
レイジの指先が、壁に潜り込む。
「そうだな。俺は変わりたいのかもな」
少女の唇が、そっとレイジの頬に触れた。