海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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4.それはきっと、光さえ食らう光芒(5)

 

「レイジ……もう……うわあッ!」

 

 棘皮人間に性差は無い。

 “つくり笑い”もそうだ。男性的な印象を受けるシルエットこそしているが、肩幅が広くやや筋肉質なだけで、その股ぐらには何もついてない。

 

 はず、だ。

 

 あれが人の姿をしているのは、あくまで嘲笑のためのマネゴト──それが今からどんな『人間らしさ』を披露しようとしているのか、レイジは理解できない。

 

 理解したくもない。

 

「カナ────クソ、クソ、クソ!」

 

 血相を変えたレイジが“うそ泣き”が張り巡らせた糸の中に突っ込んでいく。

 

 マズい。

 このままでは凄まじくマズいことが始まる。ドス黒い予感が彼の胸の中で膨れ上がっていく。

 

 俺が悠長にやっていたせいだ。勝てたと思って“うそ泣き”を甘くみたせいだ。

 アレほど大事にしろといわれた『にんげん』を捨てようとしたからだ────

 

 黒い糸に絡まったレイジの指が推進力に耐え切れずにへし折れる。

 そんなことがどうでもいいほど彼の胸は痛んでいた。

 親しい人間が目の前で傷つけられ、汚されるのを目の当たりにする痛みを、彼は初めて知った。

 レイジは吠えるように触手にかぶりつき、歯で裂き、引きちぎった。

 一歩、また一歩、進むごとに食らいついては吐き捨てる。

 もどかしい速度で向かってくるレイジの反応すら“つくり笑い”は楽しんでいるようだった。

 なおも暴れ続けるカナタの頭を乱暴に掴み、ぐいっと起こしてレイジの無様さを焼き付けようとする。

 

 無数の触手が皮膚を裂き、肉を抉るたび、レイジの全身から赤い霧のように血が散った。

 それでも彼の足は止まらない。自分を進ませているのが怒りなのか焦りなのか、彼にはもうわからない。

 怪物に陵辱されそうになるカナタを見ているだけで胸の中がぐちゃぐちゃになる。

 もはや狂気に駆られるように足を前に運び続ける彼の前で、しおれた肉壁の一部が、風船のように膨らんだ。

 膨張する肉塊が、引き伸ばされた皮膜を髪のように垂らし、女の輪郭を模した何かが、まるで胎内から産み落とされるように身をよじった。

 

 そこに現れたものは──

 

「お前」

 

 “うそ泣き”だった。

 壁になかば埋没した下半身が大きく膨らんでいる。壁を本体の防御に使うと見せかけて、実際は壁が本体。

 今まで見てきたどの棘皮人間とも違う。

 “つくり笑い”が邪悪さなら、この”うそ泣き”には狡猾さが備わっている。

 

(どうする!?)

 

 ゆらりと顔を上げた”うそ泣き”を見て、レイジは必死に自問する。

 

(どうすれば、俺は──!?)

 

 時間が無かった。

 このままでは腹の中のキリエだけでなく、開ききった隔壁の先の病院にいるフミオや患者を危険にさらすことになる。

 

「レ……がぼっ、がぼぼぼっ」

 

 そして何より──水に沈められるカナタの悲鳴が心を炙る。

 

「……こいつか……?」

 

 ひしゃげた彼の掌に、黒い炎が浮き出てくる。

 光をも喰らう奔流が、彼の手の中で脈打ち、怒りと共鳴するように形を変え、膨れ上がる。

 レイジの切り札。すべてに等しく終わりをもたらす虚無の光だ。どうしてこの力を、これほどのピンチまでもったいぶってきたのか? 

 

『私との戦いに夢中で、カナタさんのこと吹き飛ばすところでしたね』

 

 脳裏にキリエが現れて、言葉のバットで彼をブン殴った。

 

 ドゴンッ

 

 内臓を直接殴打されたような衝撃が、錯覚ではなく現実としてレイジを襲った。

 肉の壁から現れたのは”うそ泣き”だけではない。腐肉で形作られた巨大な脚が、彼の横っ腹に突き刺さったのだった。

 

「がああッ」

 

 レイジをして、これほどの衝撃を受けたのは初めてだった。

 吹き飛んだ彼の体は通路の壁に、床に、天井に──スーパーボールのように跳ね回った。

 ミキサーの回転に巻き込まれたように、彼の全身が砕け、潰れ、肉と血のシャワーがあたりを赤く染めていく。

 めちゃめちゃに破壊されながら、レイジが見たものは”虫”だ。

 

 ドシャッ

 

 突き立った瓦礫に背中から激突したレイジは、そのままグッタリと動かなくなった。

 

 動こうとする意思はあった。だが肉体がそれに応えてくれない。

 血にまみれた四肢は床に散らばり、徐々に冷えていく。カナタを庇ったときの傷が残された腕も、彼女の髪に触れた指も、もう戻っては来ないのだ。

 

 地響きを立てて迫ってくる巨体を、血に染まった視界で見つめる。

 その姿はあまりに奇妙だった。

 目を惹いたものは巨大なハサミと、振り上げた尾。重厚な甲殻を打ち鳴らして進むたびに、通路が揺れる。

 サソリに酷似した怪物が、単眼に冷たい光を宿してレイジを見据えていた。

 その頭部にあたる部分から“うそ泣き”の腰から上が生えている。彼女が汚泥をこね回して作り上げたのは、一匹の奇怪な節足動物だった。

 

「カ、カナ、タ……」

 

 中途半端に再生された手足で、レイジは立ち上がろうとする。

 それを、真上から打ち下ろされたハサミが叩き伏せる。彼の体は陥没する床に巻き込まれ、砕かれる。

 “うそ泣き”は学習する。

 レイジという人間の異常なタフさを知っている。だから絶え間ない破壊を浴びせる。肉を剥ぎ取り、四肢をもぎ、回復の隙を与えない。

 いずれその打撃が彼の心にも届くことを、彼女は本能的に理解している。

 

(ああ──)

 

 機械的に繰り返される攻撃を受けながら、レイジの意識は徐々に薄れていく。

 衝撃が脳に浸透したのか、それとも頭蓋が割れて思考に必要な部分が流れ出ているのか。

 すべての感覚がぼやけて、よく分からない。

 

(俺の本当の望み(ロマン)って、一体なんだったんだ)

 

 三発目までは、まだ数えていた。

 でも、それ以降はどうでもよくなった。

 痛みも、骨の砕ける音も、ただの雑音になった。

 

(しょせん、俺はカナタの鮮やかな夢に相乗り(タンデム)しないと何もできない、でくのぼうだったのか?)

 

 俺は、俺は、俺は──

 

 空っぽな空洞でしかないレイジに、“うそ泣き”の攻撃はよく響いた。

 彼の体はとっくに陥没穴の底に沈み、黒い水面に浮かんでくる赤色だけが彼の居所を示している。

 

 やがて興味を失ったように“うそ泣き”は穴をまたいだ。

 巨大な尾を振りながら旋回し、カナタの方に向き直る。

 

(カナタ……)

 

 穴から這い上がろうとするレイジに、もはや“うそ泣き”は見向きもしなかった。二人のいる場所から、カナタの姿が良く見えた。

 その最期を一緒に見届けて、完全に心を打ち砕く──怪物は、そんな趣向を用意したつもりだったのかもしれない。

 

 だが、そこで繰り広げられていたものは“うそ泣き”の、そしてレイジの想像を超えたものだった。

 

「こンのおぉ~ッ!」

 

 ゴッキン。

 

 鈍く、湿った音とともに、“つくり笑い”の首が不自然な角度に曲がった。

 押さえつける力が弱まったタイミングを逃さず、カナタの体が“つくり笑い”の股の下から滑り出る。

 もちろん彼女はただの女の子だ。かけっこはかなり早いが、特別な訓練なんて、一度も受けたことがない。

 怪物たちの爪や牙は彼女の肌をあちこち引っ掛け、打ち据えられたあちこちに青黒いアザが浮かんでいる。

 

「どりゃァーッ!」

 

 掛け声が冴え、彼女を捕まえようとした怪物がのけぞる。

 砕かれた牙がパラパラと振り落ちる中、カナタは傷だらけの体を支えるように、柄を両手で握りしめる。

 どれだけもみくちゃにされても、彼女は決して武器を手放そうとしない。

 そして何より、戦う意思を。

 

「あうっ」

 

 抵抗をやめようとしないカナタに業を煮やした“つくり笑い”が力任せに彼女を殴り飛ばした。派手に上がった水しぶきの中から、すぐに彼女は立ち上がる。

 濡れたウロコの隙間から滲んだ血が、ダラリと垂らした手の先から滴る。それでもカナタは絶対に諦めない。

 暗闇でも光を放つ瞳は、窮地で一層激しく輝く。レイジの側から、その瞳はまるで青く燃えているように見えた。

 

「カ────カナタ!」

 

 “うそ泣き”の振り下ろしたハサミが彼のすぐ近くを打った。

 衝撃で激しく押し寄せる波濤にもまれて転がりながら、レイジは全身の力を振り絞る。

 足場は最悪で、再生した手足はまだぎこちない。それでもカナタの名を口にした瞬間、彼を縛り付けるようだった重力がフッと軽くなった。

 まるで朝目覚めた時のように、自然に起き上がることができた。

 

「おう。どした、レイジ!」

 

 不敵な笑いを含んだ彼女の声が、通路の向こうから迸った。

 もはや“つくり笑い”は必死だ。何度も何度もカナタを小突き回し、押し倒そうとする。そのたびに彼女は間一髪で彼のカギ爪をすり抜ける。

 感情らしいものを持たない怪物に意地を張らせるほどのしぶとさで、カナタは立ち続けた。

 “つくり笑い”も怪物なりの理屈があって彼女に執着し続けているのだろう。だが、()()()()()()()()()()

 カナタは決して、やられ放題で済ませるような女ではない。

 

「くたばれェッ!」

 

 彼女のウロコを剥ぎ取ろうとする“つくり笑い”の口めがけて、巨大なレンチを思い切り突っ込んだ。

 いかに知性のない怪物といえど、鉄の棒が前歯すべてを叩き折って飛び込んできたなら、さすがにひるむ。

 そのままの勢いでコケて尻餅をついたカナタだが、立つ。何をされても、何度でも立つ。

 

「はーっ……はーっ……アタシは──まだまだ、元気だぞ! 負けてないぞ!」

 

 相方のふがいなさに呆れたように“うそ泣き”が甲殻の隙間から熱い蒸気を噴き出した。

 足元でつぶれたレイジには見向きもせず、巨大な尻尾を揺らして旋回すると、地響きを起こしながら彼女の元へと向かっていく。

 より確実に、よりむごたらしく、カナタを処刑しようというのか。

 この圧倒的絶望の中で、むせ返るほどの汚泥と海水の臭いがレイジの鼻をつく。

 しかし彼が絶望のふちに沈みかけるたび、不思議な香りが彼を抱きしめた。花のようで、潮のような──あのとき、カナタと初めて触れ合ったときに感じた匂いを。

 

「アタシは続ける。オマエはどうなんだ、レイジ!?」

 

 今までに無いほど痛みが、世界が、鮮烈に感じられる中で、二人の視線が交わる。

 

「……そうか」

 

 レイジはようやく、カナタの力強さがどこから来るのかを理解した。

 彼が彼女を見るとき、彼女もまた、見つめ返しているのだ。

 ”うそ泣き”に何度潰されても、戦うことをやめようとしないレイジを見ている。だから彼が立ち上がる限り、カナタも決してくじけない。

 

 それはレイジも同じだ。

 

 冷たい海のそこで「生きろ」と言ってカナタがレイジの胸に熾した火が、今や二人の魂を繋ぐ炎となって燃え盛っている。

 たった一度の人工呼吸(キス)が、長い時の果てに永久機関を作り上げたのだった。

 

「信じる……こういうことだったのか」

 

 黒い光を宿したレイジの右手が、空気が爆ぜるような音を立てて握られた。

 

 ■

 

「待て」

 

 カナタに向かう”うそ泣き”が足を止めた。

 

「延長戦だ」

 

 レイジの姿を捉えた“うそ泣き”が、羽虫を払うような動きで大鋏をなぎ払った。

 しかし、それが彼の体を打ちのめす瞬間は永遠に訪れない。

 “うそ泣き”が感じたものはインパクトの衝撃ではなく、ひどく速く、恐ろしいものがレイジから放たれたという実感だった。

 

 黒い光の筋。

 

 それが“うそ泣き”を掠めた瞬間、時が止まった。

 

 ぐわん。

 

 うなりをあげて巨重が宙を舞う。

 正体は半ばから切断された”うそ泣き”のハサミだ。それは操り手を失い、勢いのまま分厚い鉄の壁面に突き刺さった。

 

 塵が舞い、通路が震える。

 しかし音はしない。震えを伝えるだけの空気が存在しない。陽炎のように立つレイジの周囲で燃え盛る光が、酸素、光、音──すべてを食い荒らしていく。

 

 ”うそ泣き”はのけぞったまま、動かない。

 

 それは明らかにショックを受けていた。

 子供が戯れに手を出した虫に刺された瞬間のように、完全に心をへし折って砕いたはずの小人が自分の腕をもぎ取っていった事実を受け入れられないでいた。

 そして、この世界の真の支配者が目の前で目覚めてしまったということを。

 

「カナタがそこにいる。だから俺は負けない」

 

 自分が戦い続ける理由を、もっともシンプルな形にする。

 レイジに纏わりつく炎が勢いを増し、世界を侵食する。空間が、時間が、すべての価値が等しくなる。

 あらゆるものは彼の前で、焼き尽くされ、黒く焦がされるものに過ぎない。

 レイジがゆっくりと右腕を突き出した。

 その周囲でパチパチ弾ける白い光は、彼の肉体と一体化した『黒い光』が周囲の空間を噛み砕く時に発せられるものだ。

 触れたものを消滅させる光を秘めた掌が閉じていく。

 

 小指。音が裂けた。

 

 薬指。熱が凍った。

 

 中指。時間が溶けた。

 

 人差し指。世界が息を潜めた。

 

 そして──親指が、光を閉じる。彼の周囲の空間がタガを外されたように崩れて歪む。可視光すらネジ曲げる超質量が、彼の手中で甲高い産声を上げる。

 

 それを成すのはレイジが七年血の汗を流して鍛え上げた肉体に他ならない。

 今までは暴走し、無秩序に散弾として放たれるままだった光を極限まで圧縮、凝集。乾いた氷が砕けるような音を立てながら、結晶化させる。

 

 彼の手の中で、黒い光は物理的な硬度を獲得する。

 輝きが臨界に達した瞬間────レイジはそれを無造作に振りかぶる。使い方を誤れば、大事なものを傷つける力。

 

 だがそれをボールのように投げつける瞬間「外れるかもしれない」という考えは微塵も存在しなかった。

 

 爆発音。

 

 光は鋭く、どんな目を持ってしても捉えることができない。

 彼がもたらす破壊は、その直後に訪れる空気の叫び声で始めて理解することができる。

 

 光は、一瞬で駆け抜けた。

 巨大昆虫の胴体を貫いた光は、カナタを引き裂こうとする棘皮人間の集団を削り取るように消滅させた。

 

「カナタ、許してくれ!」

 

 爆発。

 光が突き抜けた遥か彼方がカッと真っ白に輝いたかと思うと、衝撃波と熱風が通路を吹き荒れた。

 それすらかき消すほどの声で、レイジが吼えた。

 

「俺は約束を破ってしまった!」

 

 黒い煙と死が渦巻く通路の中で、吹き飛ばされた棘皮人間の死骸がうずたかく積もっている。死体の山がモゾ……と動いた。

 死骸を押しのけて、よろよろと立ち上がってきたものがいた。

 

「おい、レイジ。そりゃどの約束だ!?」

 

 カナタだ。

 倒れてもがく“つくり笑い”も戦慄して動けない“うそ泣き”も蚊帳の外。カナタが元気に怒鳴って──そして笑っているのなら、そこは彼ら二人の居場所になる。

 

「結局傷だらけになるし、ヤベー光は使いやがるし……」

 

 半分血で染まった白髪頭を軽く振って、カナタは白い歯を見せた。見ているだけで気持ちが軽くなるような、そんな爽やかな笑みだった。

 

「……ま。今回はアタシもオマエのこと言えねえわ」

 

 深く刻まれた腕からは、この瞬間も鮮血がこぼれている。だがそんな痛みなど忘れるほど、今の彼女は上機嫌だった。

 なぜなら、レイジの調子がよさそうだからだ。

 今の彼に“からっぽ”なんて言葉は似合わない。

 考えて信じて、死に物狂いで願い(ロマン)を掴み取ろうとする一人の『にんげん』だ。

 

「埋め合わせは俺が作った卵焼き。それでいいか」

「ハハ……オマエのグチャグチャ卵焼きでか……?」

 

 弱々しく伸びてきた“つくり笑い”の指が、カナタのシューズに触れた。そろそろ最終ラウンドを始める時だ。

 

「サイコーじゃん。楽しみにしてるから、ちゃっちゃと片づけちまおう」

 

 やりたい放題してくれた相手にカナタがレンチを思い切り振り下ろすのと同時に、レイジが光を再結晶する。

 狙いは仰角六十度先。“うそ泣き”の頭。その命を新たな力で削り取り、今度こそ地球上から消滅させる! 

 

 “うそ泣き”も呆然としたままで終わるつもりはないようだ。

 彼女が残りのハサミを構えるのと、レイジの必殺球の炸裂は同時に起こった。

 光の束を解き放つ瞬間、彼は力の本質を僅かに理解した。この力は、以前の無秩序な破壊とは違う──彼の意思で熾った炎だ。

 

 カナタを守るために、そして自分自身の意思(ロマン)自分自身の意思を問うために放たれる、世界を食らう光だ。

 

 その狙いが外れることは決して、絶対に、断じて、ない。

 

 燃える“破滅”が“うそ泣き”の顔面に突き刺さった。

 とっさに回避をはかったようだが、その結果は無残なものだった。

 顔を半分以上削り取られた“うそ泣き”が、ヴェールの破片を撒き散らしながらギギギギョギョユと金切り声を上げる。

 叫んでいる。攻撃が効いている。

 

 しかし────

 

「ちっ」

 

 レイジが飛びのいた。

 怒り任せに振り下ろされた巨大な足が、レイジの体を掠めて床に突き立つ。

 頭の半分、片方のハサミを失ってなお“うそ泣き”の巨体は脅威だ。そして新たな形態に変化した黒い炎は強力すぎる。

 高すぎる貫通力と精密性がアダとなって、大型トレーラーを極細のドリルでほじくって解体するような戦いを強いられる。

 “うそ泣き”に一気にトドメを刺すには、一点ではなく面を攻める爆撃が必要だ。

 

 レイジはカナタに目をやった。

 彼女の周囲では床一面の汚泥が泡立ち、新たな棘皮の怪物を生み出そうとしているところだ。あまり猶予はない。

 

「おうおうレイジ、なんてツラしてんだ、まったく!」

 

 もう原型がないほどボコボコにした“つくり笑い”の体からレンチを引き抜いて、カナタは鼻血を拭う。

 黒く染まったレンチを握る彼女の腕が、地面と水平に持ち上がっていく。

 

「アタシはいつでもオマエを信じてる。忘れんな」

 

 そのホームラン宣言を目の当たりにしてレイジは笑った。

 こんな自分に、両手で抱えきれないほどの信頼を投げつけてくれるカナタに、感謝して、少し呆れて、レイジは心の底から笑った。

 

「そうだな。俺もカナタを信じる」

 

 黒い炎を纏った拳をレイジが構えるのと同時に巨大な虫が破壊された鋏を振り上げた。

 

「ガ」

 

 その巨体が天井に擦るほど仰け反ったと思うと、突如として”うそ泣き”が身をよじって苦しみだした。

 狭い通路のあちこちに体を叩きつけ、悶え、それがピタリと止まった瞬間。

 

「ぶっはあ~~!」

 

 ぼっこり膨れた”うそ泣き”の腹を突き破って、人間の左腕が現れた。

 激しくもがく怪物の頭を殴りつけながら、黒染めになった数学教師が這い出てくる。

 

「キリエ先生!?」

 

 この土壇場で派手な登場をしてくれる。

 やがて彼女は怪物に振り落とされ、瓦礫まみれの床をゴロゴロ転がった。

 大の字になった彼女の髪は粘つく液体で顔に張り付き、最悪度がいつもの三割増だ。

 

「せんせ……師匠!」

「あらまあ、今朝破門したバカ弟子じゃないですか!」

 

 レイジとキリエ、生徒と教師、弟子と師匠。視線が交わる。

 滅茶苦茶な状況にも関わらず、二人はお互いを指差し、あまりにヒドい見た目に我慢できずに声を上げて笑った。

 

「おっと」

 

 腹を割かれた怒りか、ヒステリックに振り下ろされた脚の合間をかいくぐって、キリエは手に握っていたものをレイジ目掛けて投げる。

 

「──できます、ね」

 

 挑戦的に笑ったキリエが”うそ泣き”目掛けて、拾い上げた石つぶてを投げた。

 それは鉄板に銃弾が当たったときのような音を立て、”うそ泣き”の頭を弾く。彼女の怒りの矛先を変えるには十分だった。

 

 床も壁も無視して縦横無尽に飛び回るキリエが“うそ泣き”を引き付ける間に、レイジは半壊したケースを見つめた。

 

 今や封印は完全に解かれ、長大な鞘が姿を見せている。

 樹脂製のグリップをしっかり握り締める。

 

 根元に取り付けられたトリガーを引く。キシュ、という音と共に鞘の内部から白霧が立ち上った。

 過冷却された単分子の刃が、彼の目の前に現れた。

 黒い刃の側面には無数のスリットが平行に刻まれている。柄からゆっくりと這い出た銀色の液体(ナノマシン)が溝に浸透し、刃を妖しく輝かせる。

 忘れるはずがない──彼の宿敵、あのサイボーグ忍者の武装だった。

 

「よし」

 

 細かいことを考える必要はない。これは強く、まさに彼が欲していた兵器だ。

 レイジにはそれで十分だった。

 

「よっしゃ、任せますよ!」

 

 キリエの声が響いた瞬間、彼女は天井からぶら下がったケーブルに飛びつき、大きく跳躍する。

 

「ヒョオ~~ッ!」

 

 とてつもなく楽しそうなキリエの奇声。

 高速で迫った“うそ泣き”のハサミの上を滑るようにして回避した彼女が、その顔面にひねりを効かせた強烈なキックを叩き込む。

 大ダメージを受けた"うそ泣き"がよろめいた。

 

 その顔がゆっくりと、ブレードを構えるレイジに向けられる。

 怪物からレイジが感じ取ったものは、慣れ親しんだ感情だった。それは怒りだ。

 どうやら一発大逆転、ピンチに叩き込まれた“うそ泣き”は、この状況に追いやられたそもそもの原因がレイジにあると考えたようだった。

 

 散々もがれ、砕かれた脚でまだ残っているもの。そして人型部分の手足をも総動員して、“うそ泣き”が地面を掻く。

 瓦礫、鉄骨。すべてを跳ね飛ばしながら向かう先にいるのは、レイジだ。

 鋼鉄の床材に深々と爪跡を残しながら突撃してくる怪獣を前にして、彼は静かにブレードを構えた。

 

 レイジはブレードを構える。

 大上段? いや。中段? いや────それはいかなる剣術にも存在しない構えだ。

 ただブレードを片手一文字に構え、突っ込んでくる“うそ泣き”の胴体ド真ん中に切っ先を向ける。

 

「ブッ!」見ていたキリエが吹き出した。

 

「ははっ、ホームランの構えじゃねえか!」カナタが手を叩いて笑った。

 

 レイジのホームラン宣言が”うそ泣き”の突進の勢いを増す。

 

 激突に備えてバッティングフォームを取るレイジの腕を伝って黒い炎がブレードを這う。過冷却されたブレードが、更に冷たい黒い炎によって構造耐久性の限界まで冷やされていく。

 虫の王が、耳をつんざくような咆哮を放つ。

 それ以上の大きさで、レイジが吼えた。

 

「おおおおおおおおおッ!」

 

 ジャストミート。

 両者の体が激突した瞬間、巨体に押し潰されるよりコンマ一秒早く、ブレードが“うそ泣き”の胴体奥深くに斬りこんだ。

 バランスを崩して前のめりに倒れる“うそ泣き”に巻き込まれる寸前、レイジの目には、病的に細い怪物の胴体が上下にキッチリ分断される様が鮮明に焼きついた。

 やれることは全てやった──そう感じた瞬間、レイジの口から自然と言葉がこぼれた。

 

「サヨナラ……ホームラン、だ……」

 

 万感の思いをこめてレイジは呟いた。

 野球のことは、あまり詳しくない。

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