「土壇場で出し惜しみたあ、たいした肝っ玉ですねえ」
レイジの腕を握る手に、キリエはぐっと力を込めた。
今も大量の体液をタレ流す“うそ泣き”の巨体の下敷きになったレイジは、不思議そうに彼女のことを見上げる。
「出し惜しみ? 俺はいつでも全力ですが──」
「ン。それ、それですよ。右手」
ぬめった音を立てて、レイジの腰から上が現れる。
キリエが指し示す彼の右手には、黒光りするブレードが握られたままだ。時間が経っても、必殺の一撃を放った残熱が彼の指先に宿っている。
彼の掌は過熱した鉄のように熾って、まだ指の動きがぎこちない。
「師匠の刀だって、しっかり使えましたし」
「ひでえバッティングでしたよ」
ズリッ。
泥と体液の混じった音を立てて、レイジの両足が姿を現す。“うそ泣き”の下敷きになった衝撃で、彼の膝から下が、あらぬ方向を向いていた。
「メジャー行き目指してんなら諦めたほうがいいですね。才能ないから。じゃなくて、私が言いたいのは────っうりゃ!」
「どわっ!」
タイミングを見計らって、キリエがレイジの体を一気に引っこ抜いた。
勢いで二人がごろごろと転げる。
バランスを失った“うそ泣き”の死骸が崩れるように倒れ、巨大なハサミが落ちた衝撃で、通路に溜まった水が津波となって押し寄せる。
「げぇーッ! ぺっぺっ、鼻ンなか入っちゃった……」
「ゲホッ、ガホッ」
潮水を頭から被った二人が激しく咳き込む声が、通路に木霊した。
両手をついてオエオエとやりながら、レイジは、自分の前髪から滴る水が透明になっていることに気づく。
棘皮人間が現われたことを物語る、打ち上げられた死体が放つような腐臭もかなり薄らいだ。黒い怪物たちの死体は溶けて、ただの泥の山になりつつある。
「観客なら、キミがヘッポコホームランを決めたおかげでみんな帰っちゃいましたよ」
まだ形が残っている棘皮人間のむくろを、キリエが踏みつけた。
それはヒトの形をした泥でしかない。鉄板をも引き裂く恐ろしい怪物であったものは、長靴の底であっけなく崩れて、水の底に沈んだ。
「うん。見事なモンですねえ」
レイジの手から当然のようにブレードをひったくると、キリエは復旧した照明の下でかざした。あれほどの酷使にも関わらず、カーボン複合材の刀身にはヒビひとつ見えない。
刀をクルリと翻して鞘に納める彼女の背後で、レイジが恭しく頭を下げた。
「恐縮です。師匠」
「キミじゃなーい。あんなムチャクチャして折れない刀に言ってんです」
真顔のまま水面に顔を突っ込んだレイジのことなど見向きもせず、キリエは開きっぱなしになった隔壁の向こうに視線を馳せた。
「おおーい!」
ブンブン手を振って、カナタが小走りにやってくるのが見えた。
その腕はパックリ裂けたままで、泥まみれの姿は痛々しい。
「キリちゃーん! レイジっ! ぶじかー? アタシが“つくり笑い”のヤロー倒すトコ、ちゃんと見てたかーっ!?」
そんなことになっても相変わらずの元気印に、キリエは心が救われるようだった。それは、彼女の足元で瓦礫に背をもたせたレイジも同じだ。
「よかった……」
そう呟いて天井を仰ぐ彼は、戦争映画に出てくる兵士のようだった。
フィルムの登場人物であったのなら、そこで一本タバコでも咥えたまま天に召されていくのだろうが──彼に宿った無尽の再生力は、決してそれを許さない。
ゆっくりだが傷がふさがり、折れた膝は正しい位置を調整するようにぐりぐりと静かに回転を続けている。
「で。出し惜しみっつーのはですね」
カツン。キリエが
「キミの力のことですよ。呼び名がないようなので仮に
「……仮でつける名前のボリュームではないのでは?」
キリエの爪先が、直りかけのレイジの足を小突いた。
そんな痛みくらいで彼は顔をしかめたりしないが、師匠の機嫌を大いに損ねたことだけは、よくわかった。
「…………じゃあ、『光バラ撒くやつ』でいいです。ロマンのねーやつですね」
「それで。その。俺のシャイニ、シャ、シャイング? が……?」
「恥ずかしくなったからもういいです──はじめからアレをブッ放せば、わざわざ私が助太刀しなくても勝てたよねって。そう言ってるんです」
そっぽを向いていたキリエが、チラと視線だけ送って寄越す。
鳩が豆鉄砲食ったような顔のレイジと目が合った。
「だって、師匠に当たるじゃないですか」
キリエが言っていることの意味が、ぜんぜんまったく理解できない──といった様子で、彼はそう返した。
「ふえっ、わ、私に? 私なんかの心配したんです?」
彼女にとって、その言葉はとことん予想外だったようだ。
目を丸くしたキリエが大きく首をかしげると、モジャモジャの髪にデコレーションされた水滴がきらめいた。
「あ?」
レイジには、キリエの言っていることがますます分からない。
「巻き添えを出すやつはクズの役立たずって言ったのは師匠では?」
「そ、そそ、そこまで言いましたっけね……?」
「俺にとってキリエ先生は大事な人です。だから」
「ちょ、ちょっと待ってください。面と向かってそんな恥ずかしいこと言われると私……」
レイジの言葉をさえぎるようにキリエが両手を振り回す。
まるで照れる少女のような仕草だったが、何気ない所作ですらコンクリートブロックを粉砕するような達人だ。
ブオンブオオンと物騒な風音を放つ掌が秘めた破壊力は未知数だった。これ以上骨を砕かれたくないので、レイジは軽く後ずさる。
「……あの。気遣われるの、慣れてな────」
ズズン。
指先をいじるキリエがむずがゆそうに口を開いた時、“うそ泣き”の巨体が振動した。
「な、ァッ!?」
驚愕の声を上げたのはカナタだ。
隔壁の前で立ち止まった彼女の体を覆うように、大きな影が立ち上がっていく。
徹底的に打ちのめされたにも関わらず、“うそ泣き”はまだ生きていた。
胴体に開いた無数の穴からは内臓がドロリと漏れ出し、大半が切断された脚は一歩踏みしめる度に自重でひしゃげ、体液を吹く。
それでも“うそ泣き”は止まらない。死肉と成り果てた体を引きずり、着実に隔壁のほうへと進んでいく。
「カナタ──っぐう!?」
飛び出そうとしたレイジはつんのめって、顔面から床に倒れ込んだ。下敷きにされた衝撃で砕かれた足が、まだうまく繋がっていない。
「逃げろ! 逃げてくれ!」
彼の目の前を這いずっていく“うそ泣き”は見向きもしない。急いで鞘を拾い上げるキリエですら、眼中にはない。
最悪なことに、今“うそ泣き”の狙いは隔壁の向こう側にある。
潰れた甲殻が擦れ、火花を散らす。耳障りな金切り声を響かせ、怪物は鋏を振り上げた。突き進む先に、カナタがいる。
恐怖で足がすくんだのか、それとも……何かを待っているのか。彼女は動かなかった。
「カナタさん……!」
キリエの指がブレードのトリガーにかかる。
しかし彼女が力んだ瞬間、空気の読めない機械鞘がブザー音を発した。泥で汚れた液晶に表示されたものは──Overheating──過熱状態だ。
「つくづく、精密機器ってヤツは……!」
鋭い舌打ちをほとばしらせ、キリエが駆け出す。
「そのまま!」
鞘で“うそ泣き”を殴り倒そうと飛び出したキリエを、カナタが片手で制した。
地響きを上げて向かってくる怪物の姿を、彼女は静かに見据えている。
「オマエ、いいかげんしつこいぞ」
冷ややかに言い放ったカナタが、一歩前に出る。
彼女は怯えたのではない。碧眼にはっきり浮かぶのは、怒りだ。
友人の見舞いに訪れて、売店でフザけて笑って、知らないオッサンにダル絡み──楽しく終わるはずだった一日をめちゃくちゃにブっ壊してくれた“うそ泣き”に、彼女の堪忍袋は限界だ。
「よせ、やめろ!」
「アタシに任せろ。一泡ふかせてやる」
もどかしいほどの速度で這ってくるレイジに向かって、カナタは微笑みかける。
「……いちおう、オマエに感謝してる。おかげで、レイジのこと、もっとよく知れたから。全身ぐちゃぐちゃで、クソ痛ェけどな」
そしてカナタが視線を上げると、“うそ泣き”はすぐそこだ。
半壊したハサミをぎこちなく振り上げ、最後の一歩を踏み出そうとする。
「だから、せめて楽に終わらせてやる」
カナタの、傷だらけの腕が持ち上がる。今まさに、隔壁を越えようとする“うそ泣き”めがけて──
ブーッ。
無数に張り巡らされたセンサーにカナタの指が触れた瞬間、耳障りな警報が鳴り響いた。
『施設内J-7にて極度の汚染を検出。ロックダウン開始』
「あ」
すべてを悟ったキリエが呆れの混じった声を漏らした。
ズッ──ッドン
その瞬間、”うそ泣き”の頭部目掛けて十トンの鋼鉄の隔壁が勢いよく落下した。わずかに残った本体が一瞬で押し潰され、巨大な昆虫の頭部がしぶきを上げて切断される。
ごろごろと音を立てて横を転がっていく頭を、カナタは無表情に見送った。
『繰り返します。施設内J-7にて極度の汚染を検出。ロックダウン開始』
「失礼しちゃうよなあ?」
重たい扉に挟まれた“うそ泣き”の体が、断末魔の痙攣を繰り返している。
巨体がわずかに開いた隙間からにゅっと顔を覗かせたカナタが、サッパリとした顔で笑いかけてきた。
「アタシのこと『キョクドの汚染』だってさ。まあ、人間じゃねーから、役に立てたってわけだよな?」
「危ないですよ。今隔壁を上げますから」
ぺろっと舌を出したカナタが、扉の向こう側に引っ込んでいく。
自壊間近の端末をポケットから取り出して、キリエがコールする。レイジから、相手の声は聞こえない。おそらく防衛局のスタッフだろう。
「……ええ、そう。こっちの問題は片付きました。しぶといやつでしたけど、私の教え子たちがキッチリカタつけてくれましたよ……ハイ。じゃ、そっちで解除よろしく」
「師匠……いや、キリエ先生」
轟音を立て、隔壁がゆっくり持ち上がっていく。
軋む鋼板を背にして、キリエがふらりと振り向いた。
彼女の肌は血色が悪く、怪物相手に生き生きと飛び回り、ド派手なアクションで翻弄していたときとは別人のようだった。
「うん。なんですか」
不安になるほど穏やかな声音で、キリエが囁いた。
「『私なんか』なんて、もう言わないでください」
固い、固い面持ちでレイジが言い放つ。
岩のような男は、相変わらず岩盤のように揺るがぬ表情を浮かべている。だが、彼を幼少から見守ってきたキリエだからこそ、今のそれが別物だと感じることができる。
「悪夢のレパートリーを増やしたくないんです。だから、死んだり、死ぬようなことは……どうかもう、やめてほしい」
そうやって顔を覆うレイジは、本当に参っているようだった。
判断をひとつ間違えば、彼は『黒い光』を解き放ち、“うそ泣き”ごと彼女を吹き飛ばしていたかもしれない。
決して口には出さないし、彼が自覚しているかどうかは分からないが──家族にもっとも近い立場にいる女性を、心の底から心配していた。
レイジという人間の中にようやく灯り始めた暖かさが伝わったように、キリエの面持ちが和らぐ。
「…………キミに殺されるなら、けっこういいアガリでしたよ」
だがすぐ、その温度を断ち切るようにキリエは言い捨てた。
その意味深な呟きの後半は、隔壁が持ち上がる轟音にかき消されてしまった。レイジには、かすかにキリエの口元が緩んだように見えた。