「どんだけ歩かせんだよォ」
レイジの背中にべったりのカナタがボヤいた。
"うそ泣き”との激戦の場からはるばる数キロ。彼女はずっとおんぶされてきた。しかし、レイジは余計なことを言わない主義だ。
彼女の体温を心地よく思いながら、その体を背負いなおす。
「すぐ着きます。すぐですよ~」
「さっきもそう言ってたぞー」
先導するキリエはブレードをブンブン振って歩いていく。
道でちょうどいい棒切れを拾った小学生のようだったが、危なっかしさがケタ違いだ。相変わらず体調は悪そうなままなのに、機嫌は上々。
ガランとした輸送路に、彼女が口ずさむ調子ッ外れな『DREAMS COME TRUE/朝がまた来る』が高らかにこだまする。
悲しみが朝日に溶け出すような爽やかな旋律が印象的だが──お世辞にも歌姫とは呼べないキリエの歌唱力によって、大幅アレンジが加えられていた。
「センセー」
カナタの声が、控えめに響いた。
「歌詞わかんないからって最初の『ららら』と『イェイイェイ』でゴリ押すのやめろって」
「なんですか、せっかくヒトが気持ちよく歌っているってのに。朝はくゥ~るからぁ~♪」
「やめろって!」
愉快な地底散歩。
「だいたいセンセー、朝ニガテじゃん!」
「そうなんですけどねえ。目ヤニガビガビになって校庭で目ェ覚ました時とか、朝日が沁みることもあんですよ」
ガイドは、たった一曲の持ち歌をエンドレスリピートする数学教師だ。
レイジには歌謡曲というものがよく分からない。分からないのだが、サビに差し掛かるたびに顔をしかめている。
「そこの歌詞だけは覚えているんですね……」
さすがの彼も、嫌気が差し始めていた。
「共感したトコって、覚えちゃいません?」
同意を求められたが、レイジは黙って睨んだだけだった。
「やれやれ」面白くなさそうにため息をついたキリエが、気を取り直して後半の高音パートに取り掛かった。しかし酒に焼けたノドには荷が重過ぎる。
グエホウオホとガマガエルのような声で激しく咳き込むキリエを見て、レイジは幅の広い肩を落とした。
戦っているときは輝くようだが、普段の彼女はだいたいポンコツだ。
「む」
かすかな駆動音を聞きつけて、レイジが身構えた。
彼の肩越しに首をにゅっと突き出したカナタの目に『それ』の姿が見えてくる。軽自動車ほどの大きさの筐体が、滑るような動きでこちらに向かってくる。
「ほっといて構いませんよ。ただのドローンですから」
楕円形の、巨大な大福のような形をしたロボットだった。
小声でぶつくさ文句を言うように断続的な電子音を響かせながらやってきた機体は、三人に見向きもせずに傍らを通り過ぎていく。
「コイツら、何すんの?」
カナタが壁面を指差した。
手のひらほどの大きさの扁平なドローンの大群が、魚鱗のようにさざめきながら這い回っている。彼らは目の前の壁面をセンサー光で走査しながら、彼らの来た方向を目指して進んでいるようだった。
「修理です。私たちが好き放題ブチ壊した通路掃除して、隔壁のメンテナンスして、ついでに溜まりまくった水の処理もしてくれます」
壁を覆う機械の群れは、先行した大型機に比べてかなり動きがニブい。
「てんとう虫みたいでカワイイ」
カナタがそっと手を伸ばした先で、一機のドローンが蛇腹状の首をかしげた。
「邪魔しないほうがいいですよ。前に指食いちぎられたヤツがいて……」
冗談なのか本当なのか、イマイチ分からないことを言って、キリエが先を急ぐ。
精巧に地上の暮らしが再現されていても、ここは地上から2000メートルの地下都市だ。わずかな亀裂でも、莫大な圧力に晒される環境では命取りになる。
もはや神経質なほどの彼らの仕事には、それなりの理由があるのだろう。
天井、壁、そして床下──目に見えない場所でもドローンの奮闘が続いていた。
「朝はァ~、来るゥから~」
歌詞に合わせたように、キリエの頭上でチラついていた照明がパッと灯った。
電気系が修復されたのだ。
潮水の水位も下がり、施設の奥へと彼らが足を進めるにしたがって、乾きかけた水溜りが目に付く程度になっていった。
ドローンたちは、カナタが思っていたより遥かにタイクツな連中だった。
あちこちで切ったり叩いたり拭いたりとひたすらに仕事熱心で、彼女たちに対しては非常にそっけない。
「こいつら、おもんねえ!」
「レイジくんソックリですね」
機械なのだからそれが当たり前なのだろうが、カナタはすぐに飽きた。
よって、彼女は黙った。
そうなると必然的に、あたりに響くのはキリエの歌声だけになる。
音痴ギリギリのラインで、おまけに歌詞はうろ覚え。聞かされる方はたまったものではない。
「思いよォ~逝きなさァい~♪」
「もういい加減……」
レイジが言いかけた言葉は、ゴニョゴニョという呟きになって、彼の後見人の元に届くことはない。
キリエはというと、ほとほと困り果てた彼の様子に当然気づいている。それがトコトン愉快なようで、彼女は歩調と歌声のトーンを強めて行進していく。
歌声とためいきを聞きながら、カナタはひそかに微笑んでいた。
レイジとキリエ。肉親にも似た間柄の二人だからこそ成立するこの空気が心地よかった。
音程の合わない子守唄を聞きながら、心地よい揺れにみを任せていると、カナタは次第にうとうとしてきた。
「レイジぃ」
「ん」
むにゃむにゃ言いながら、カナタは半分夢の中だった。
「海、いこうな……」
現実と夢のあわいにいるカナタの唇から、言葉がポロリとこぼれた。他愛のない約束は、彼女の
「いっしょに……な……」
「うん」
子供をあやすように、レイジはカナタをやさしく揺すった。
「なんだよう……ガキじゃないんだぞう……」
そんな風に不服の声を上げる間も、彼女のまぶたが重たげに下がっていく。
先導に従って坂を下りたり段差を越えたりするあいだ、レイジはずっと、カナタの眠りが妨げられないように気を使って動いていた。
キリエの歌声も、いつの間にかハミングに変わっていた。
配管むき出しの寒々しい金属のトンネルを斜行リフトで降りていく間、二人は何の言葉も交わさなかった。
キリエは、防衛局の人間だ。
この
末端の末端──なんて言っていても、仕事はキッチリする。必要があれば、レイジたちの前に立ちふさがることもあるだろう。
そんな彼女だが、造反分子の二人に向ける目は、ひたすら優しかった。
■
「はい。到着でーす」
そう告げたのはヒューマンジュークボックスか、それとも壊れたテープレコーダーか。
キリエが歌うのを止めた時、レイジの背中はカナタの口からまけ出たヨダレでべちょべちょになっていた。
「んあ?」
寝ぼけ眼をこするカナタだったが、眠気はすぐに吹き飛んだ。
長い長い通路の出口の向こうに、巨大な空洞が広がっていた。
「キリエ先生……これは」
レイジが息を呑んだ。
空間の直径は、彼らの通う西高の敷地よりも広く感じられた。あまりのスケールの大きさに、彼は空間全体が自分たちを押し潰してくるような奇妙な感覚を覚えた。
「中心街の真下。深淵の入り口へようこそ、二人とも」
振り返ったキリエが、歓迎するように軽く手を広げる。
彼女の言葉通り、その背後には垂直に掘り進められた底なし穴が口をあけていた。
ここは地下2000メートルのドーム都市だ。
だが、レイジたちが暮らしていた西町は、その表層にすぎなかった。
彼らの足元に広がる輸送網の下に隠されていたものは、地球の中心に向かって続いているような果てしない縦穴だった。
「おお……コッワ……」
背中を通して、カナタの震えがレイジにも伝わった。
無理も無い──荒々しく彫りぬかれた岩盤層に張り巡らされた補強用の鉄骨を見つめながら、レイジはゴクリと唾を飲み込んだ。
ここは、人間がいていい場所なのだろうか。
目を刺すような光を投げかける工事用のライト群は、暴いてはならない領域に踏み込んでしまったヒトの罪を糾弾するようだった。
「もう少し近づいてみましょう」
中に水が入った長靴を鳴らしながら、キリエが歩いていく。
穴の壁面に沿って、足場がめぐらされている。足元にはめ込まれた強化ガラスの向こうに広がるものは、まさに深淵だ。
そして、その空間の中央を貫くものがハッキリと見えてくる。
巨大な白い塔だった。
「レイジ。おろして」
応急処置で包帯が巻かれた腕を押さえて、カナタが手すりに向かっていく。
人の手が作り出したとは信じがたいサイズの建造物が、底から噴き上がる冷却煙の越しに彼女を見下ろしてくる。
その側面に、ある文字列が赤く刻印されていた。
「えーろくごーまるまる」
ひとつひとつがコンテナサイズの文字たちを、カナタがハッキリと発音した。
「A-6500シャフト。防衛局のやらかしの史跡。人間の歴史のノドにブッ刺さった魚の小骨──罪の象徴」
キリエの声はどこか、深海から響いてくるように不鮮明に聞こえた。
それを背で受けながら歩いていくカナタの足取りも、水の底を歩くようにおぼつかない。
何が起こってもいいようにとカナタの傍に立ちながら、レイジでさえ足元が浮き立つような感覚を覚えていた。
この空間に特別な力場があるというより──空間そのものの異質さがもたらす幻惑のようなものだ。
地の底に続く巨大な穴、世界を貫く巨大な塔。すべてが現実みを遠ざけていた。
ガラス越しに遥か下方へと視線を馳せながら、レイジにはキリエの口から転がり出た「小骨」という表現が妙にしっくりきた。
全長数キロに及ぶ白亜のシャフトは、まさに何かの骨だ。
掘り起こしてはいけなかったもの。星という巨人の人差し指。その先端が貫く場所──穴の底に何があるのか、彼には計り知れない。
「あの”うそ泣き”は、ここを目指していたのでしょう」
穴の淵にポツンと立ち尽くすコンソールに刀を立てかけて、キリエがポケットをまさぐり始めた。
「あれ……クッソ……バケモンの腹の中に置いてきたかしらン……?」
ただひたすらに広大で茫漠とした空間に、キリエがゴムツナギのあちこちをパンパン叩く音だけがこだました。
しょうもないアル中が奏でる音にすぎないはずなのに、それがこの場所で聞こえる唯一の生活音だった。
「ンだよキリちゃん……こんな時まで酒?」
口の端を緩めながら、カナタが聞いた。
「じゃなくて、IDカードなくしちゃったみたいで…………」
遠くに彼女たちのやり取りを聞きながら、レイジは地面に目を落としたままだった。
彼はガラスの向こうではなく、そこに擦り付けられた真新しい汚れを見ている。
それは、点々と残された黒い泥だ。
子供の足跡のようにも見える泥の筋をなぞって顔を上げながら、彼はその先で待ち受ける『彼女』の存在を確信していた。
「おうおう、くそガキ!」
灰色のワンピースが手すりの上で揺れている。
そこに向かって先に声を張り上げたのは、レイジでなくカナタだった。
「ここまで来ンの、スゲー大変だったんだからな!?」
『ふふ。ありがと』
黒髪の少女は振り向いて、軽く微笑みかけた。
おしゃべり好きの幻影は、どこか元気がないように見えた。
彼女はすぐに微笑をスっと消して、シャフトに向き直る。淵に向かって垂らされた足がブラブラ危うげに揺れていた。
「あの……?」
カナタの肩を叩いて、キリエが怪訝そうにした。
彼女がいくら目を凝らしても、見えるものは白く塗装された手すりでしかない。
少女の存在を知覚できるのはカナタとレイジだけだ。
不思議に揺れる黒髪も、少女の全身を覆うフジツボが金属と擦れる音も──少し垂れ気味の目尻が見えるほど、彼女が以前よりクッキリと像を結び始めていることさえ。
「あー……
何をどう伝えても話がこじれるような気がしたので、カナタは、はぐらかした。
穴のへりからシャフトに向かって、二本のワイヤーがピンと張り詰めている。
まさか、これを伝って……? と、カナタは地下2000メートルでのサーカス興行の想像を膨らませる。
綱渡り、命綱なし、失敗イコール即死──勝手に想像して勝手に震え上がる彼女の横で、キリエはコンソールに触れる。
「七年前閉鎖してから人が入った形跡はないですね。ただ、電力はずっと供給されたままです」
何をどう操作しようが、コンソールは頑固にID提示を求めてくる。黄緑の光を投げかける液晶を叩く彼女の指が、乾いた固い音を立てた。
「仕方ないか。これパチってするから嫌いなんだよなあ……」
そう漏らして、キリエが左手首を機器の上にかざした。
生気を感じない色の皮膚に覆われた手首の内側が、緑に輝いた。
────Access denied.
機械からの返事はシンプルな拒絶に終わった。ワイヤーも、その基部に取り付けられた無数の金属板も、ウンともスンとも言わない。
「ダメした」
キリエが肩をすくめると、辺りの騒音の中に薄っすらと別の稼働音が混ざる。その出所は、彼女の体だった。
「センセー、エラいんでしょ?」
「上から数えて三番目くらいですかね。現場作業員で下働きのザコですが、前も言ったけどコネだけは強いんで」
キリエがしゃがみこむ。
握りこぶしほどの大きさの昆虫型ドローンが、長靴の靴底から懸命に泥を掻き出そうとしている最中だった。
キリエはそれを無造作につかみ上げ、振りかぶる。
ドローンは困惑したようなビープ音を発しながら足をバタバタ動かすが、西高の誇る怪物女の握力はビクともしない。
「ビ」
次の瞬間、キリエの腕が白い残像となって霞んだ。
乳白色の機体はビュッと空を切り、少女の顔の横を掠める。静かに舞い上がった黒髪越しに見えるシャフトの壁面でドローンが四散した。
そこで散ったささやかな火花を見た瞬間、カナタは自分の遠近感がすっかり狂ってしまったことに気づかされた。
「師匠。ひどすぎませんか」
「世代交代ってヤツですよ。こうして適度に『故障』させないと、新しいヤツの導入が遅れますからね」
ドローンを放り投げたままのポーズで、キリエはじっとシャフトを見つめていた。
「先生も空飛べたらなあ。完全無欠になれるんだけどなあ……」
「も、じゃないだろ」
あのドローンは無理やり投げ飛ばされただけだ。
あまりにかわいそうすぎる。魂を持たない機械とはいえ、カナタはドローンの冥福を祈らずにはいられなかった。
「確かめたいんですよね。あの中にあったものが、今どうなってんのか」
「センセーは知ってるのか。あそこにあるモノっての」
「子供の死体」
カナタもレイジも、すぐには言葉を返せなかった。
どこからか吹いてくる風と機械音だけが、この深淵に響いていた。
『もう残りかすだろうけどね』
少女が抑揚のない声で付け加えた。
数学教師は凍りついた二人を一顧だにせず、煙の中に幽霊のように浮き上がるシャフトのシルエットを睨み続けた。
「子供の──死体って?」
レイジが、搾り出すように言った。
死体。異常だ。
子供の死体。異常だ。
この町は七年もの間、子供の死体を保管している。異常すぎる。
ぎゅっと、彼の腕を、無言でカナタが握り締めていた。
「どうしてでしょうねえ」
とぼけるわけではない。
彼女の言葉の響きはいつかの「どうしてこうなっちゃたんでしょうね」と同じだった。
町の秘密に深く関わる彼女なら、シャフトが生まれた理由も、『子供の死体』が保管されるに至った経緯も熟知しているはずだ。
だが決して歪な形を望んだわけではなく、気づいたらこうなっていた、ということなのだろう。
感情のこもらない顔で、じっとシャフトを睨み付ける。
カナタにはそのたたずまいが、あの日あの夜、酒屋で呆然と流血する姿に重なって見えた。
「どうして
レイジが問う。
「機密保持の書類にハンコ押してるんでねえ。お話できませんねえ」
キリエが、へろへろと肩をすぼめた。
「あのくされ“うそ泣き”、死体を取りにきたってこと?」
カナタも問う。
「さあ。それに関しては、ただ『なんとも』としか」
キリエの返答は、実質沈黙と同義だった。
この町に起こっている問題の元凶──と口にはしないが、このシャフトが棘皮人間、ひいてはカナタの秘密につながっているのは明らかだ。
質問には答える。解答のポイントも紹介する。だが、答えはお前らで明らかにしろ──無言のまま突きつけてくるキリエは、かつてないほど教師らしかった。
「あなたにここの存在を知らせておきたかった」
キリエがレイジに告げた。
「なぜ?」
「お話しできません。無情ですね」
カナタが鼻を鳴らした。
「そうかよ。わざわざここまで来た甲斐があったよ」
「まあまあ。若いんだから、そこは時間掛けて自分の手で──」
珍しく憎まれ口を叩くカナタをなだめようとしたキリエは、レイジが立ち尽くして、じっとシャフトを見つめていることに気づいた。
「キリエ先生は、あの怪物たちに理性や、感情があると思いますか?」
「いいえ。あんなの、ただ本能で動くだけの抜け殻でしょう」
キリエは静かに瞑目した。
「私としたことが……けっこう効きましたよ……」
うめくように付け足した言葉の意味を、レイジは理解できない。
カナタは黙って、静かにキリエの背を叩いた。それは丸呑みの瞬間に出てきた『ヒトミ』という名前に関係があるのだろう。
目頭を揉むキリエは、何も言わない。カナタも詮索はしない。
それが、このボロボロのアル中に払ってやれるささやかな敬意だった。
「“うそ泣き”を追っていったとき、あいつは罠を張って俺を待っていた。待ち伏せかとも思いましたが……」
レイジは、首の骨が折れたような動きで頭をかしげる“うそ泣き”のことを思い出す。
あのとき感じ取ったものは、混乱のような感情だった。
このシャフトの異様さを目の当たりにして、すすり泣く怪物が目指したのはここで間違いないと確信した。
ただそれでも──“うそ泣き”はゴール地点から漂う『におい』のようなものを、レイジからも感じ取ったようだった。
それは──何なんだ? シャフトの中に、いったい何が隠されてるんだ?
顎をなぞりながら考えるレイジは、シャツのすそを握るカナタに気づかない。
『雨に打たれたい……晴れたら焼かれたい……』
シャフトを見つめ続ける少女の幻影が口ずさんだ歌は、誰の耳にも届かなかった。
■
病室に汚れが撒き散らされることになった。
「なんで先生までいるワケ?」
なんでと聞かれても、成り行きでこうなっちゃったと返すことしかできない。
「これから先生は始末書ですよ。およよ」
と言ってキリエがよろめきながら病室を去ってしばらく後、フミオはゆっくりと体を起こした。
煌々と照る蛍光灯の下で、レイジはバケツと向き合っていた。
半裸になった彼がシャツを絞ると、うっすら墨のような色に染まった水が滴る。パワフル人間脱水機の分厚い背中には、また新しい傷跡が増えたようだった。
「ケガするのはルール違反、だったんじゃねえの」
「ああ」
短く答えて、レイジは窓枠にシャツをひっかけた。
ふわりと舞うカーテンの向こうに夜空が見える。ドームの天蓋に映し出された星々は、都市の夏夜に横たわる熱気によって瞬いて見えた。
「ぐー」
仮眠と抜かしつつ、ガチ寝に入ったカナタがイスの上でコックリコックリ首を揺らしている。
レイジが傷を負うとカナタがキレる──その言葉の信憑性はもはやゼロだ。
結果的に彼は傷まみれで、カナタ本人もさっき隣の病室で腕を十五針も縫ってきたばかり。
だというのに、その寝顔は運動会で大活躍した後の子供みたいに安らかだった。
「もう心配ナシ。って感じだな。地下でイイコトしてきたのか?」
明るい病室の窓から体を乗り出し、半身闇に浸したままレイジがかぶりを振った。
「何もない。俺もカナタも疲れただけだ」
地下でなにがあったにせよ、流石のレイジも相当堪えたようだった。
フミオは、病室の隅で寝息を立てるカナタに視線を戻した。
黙っていれば美人──なんて言葉はだいたいバカにする目的で放たれるものだが、彼女の場合『黙っていると危うげ』というのが、彼の素直な感想だった。
固い壁に頭を持たせて眠る彼女からは、その伏目のまつげ一本に至るまで脆いガラス細工のような繊細さが漂い出していた。
「お前もカナタも、ツキモノっつーのが落ちたみたいだぜ」
ひょっとすると普段見せている活発な姿こそ作り物で、今の彼女こそが本当の『カナタ』なのかもな──なんて、脈絡の無いことをフミオは考えてしまう。
それほど今の彼女は儚げで、そして純粋に見える。
トンと押してカナタを床の上に倒したら、そのまま粉々に砕けてしまうのではと思うほどに。
手元で火花を散らすばかりで、一向にやる気を見せないライターをカチカチやりながらフミオは馬鹿げた妄想を笑い飛ばす。
カナタが何者であるにせよ──たとえ本当にガラスの美少女だとしても──彼女には最強の守護者がいる。
カタっ
カナタの体が大きく傾いで、イスがバランスを崩す。
彼女が『砕けて』しまう前にレイジが腕を伸ばして、彼女の体を抱き留めた。
「うあー……なンだよ、ヘンタイかァ? レイジは」
薄目を開けたカナタが呟いた。
そんなことを言いながら、やわらかく笑った彼女の手は、レイジの巨木のような腕を優しくさすっている。
「人のことヘンタイ呼ばわりするくらいなら、家で寝てくれ」
「おっ、オマエにしちゃナマイキ言うじゃあん?」
フミオは二人のやり取りを見ながら、ようやく火のついたタバコをふかした。
形ばかりの親であるブンタに「こら」と言って欲しいがために始めた、形ばかりの反抗。それはいつか習慣となって、むなしく彼の一部となっていた。
(ホント、らしくねえよ、お前……)
フミオにはこの部屋が、自分の寝かされたベッドがとことん孤独に感じられた。
外の闇から切り離された明るいだけの箱。
ルリコはどこかに行ってしまった。いつでもくっついてきたレイジは、カナタの傍で別人のようになっていく。
足が折れて、ベッドに釘付けにされたフミオは変わってゆく彼らを見つめることしか出来ない。
「ひとつだけ、大事なことが分かった気がする。たったひとつだが」
贅沢なことを、レイジが呟いた。
「なんだよ。いきなり分かっちゃって。なんのことだよ」
「フミオの言うとおりだった」
「俺、なんて言ったっけねえ……」
そう言ったフミオはゴロっと体を横にして、マーブル模様がデザインされた天井のパネルを見上げた。
本当に自分の言葉が思い出せなかった。
たった半日横になっていただけなのに、自分が世界の流れに取り残されてしまった化石のように感じた。
「一緒に乗り越える、だ」
口元のタバコからこぼれた灰が、フミオの鎖骨のくぼみに落ちた。
無視できない熱が肌を焼くのもどうでもよくなって、彼は冷たくなった頬を撫ぜた。一緒に痛みを乗り越える。フミオとルリコでは出来なかったこと。
「それ、お前は出来たのか?」
「どーだろ」
いつの間にかベッドの傍らに来ていたカナタは、ウエットティッシュと牛乳パックを両手に持っていた。
「アタシとレイジは一緒にイタい目見ただけで……ホント、ぐちゃぐちゃになりながら力を合わせただけなんだ」
カナタの指先がフミオの鎖骨を滑る。落ちた灰を拭き取る。そのこそばゆさから目を逸らすように、彼は枕の上でゴロリと顔を背けた。
「でも、アタシらがうまくいったのはフミオのおかげだ。ありがとな」
「………………ああ、よかったな。お似合いだぜ、お前ら」
「はァ!?」
フミオに飛び掛っていきそうな勢いのカナタを「どうどう」と言うようにレイジが押しとどめた。
カナタの方もきゃあきゃあと黄色い声で笑うだけだった。
「苦しんでる病人の前でイチャイチャしないでほしいんだがなあ」
フミオが吐き捨てるように言った。
「イチャイチャではない。余韻というものに浸っているだけだ」
カナタを羽交い絞めにしたまま、レイジが言う。
「そうだぞ。アタシら海行ったら解散だからな。なあ、レイジ」
そう言ってカナタが身をよじると、その動きに合わせてレイジもヨタヨタと歩く。
友人たちのたどたどしいタンゴを見守りながら、フミオの視線にこめられた温度はどんどん下がっていった。
「はん。そうかよ」
フミオはベッドの上に体を投げ出す。
「お前らは元気に歩き回れていいな。そうやって、どこまでも行くといいさ」
「フミオも、きっとすぐそうなるさ」
レイジの腕をすり抜けたカナタが、フミオに牛乳パックを押し付けた。
薄く結露を纏った紙パックを見つめながら、彼はゆるゆると口を開く。
「そりゃどうかね────俺ァ二度と、まっすぐ歩けない気がするよ」
「ん」
カナタが両手を差し伸べると、分かってますよとばかりに、レイジが彼女を抱き上げた。
「それじゃ。おやすみ、フミオ」
「早く治せよー、夏祭り近いんだからなー」
「ああ」
レイジと、彼に抱っこされながらぶんぶん手を振るカナタが出て行くと、病室は静かになった。
一人残されたフミオは牛乳のパックに目を落とす。
彼はそれに口をつけることなく、無造作にゴミ箱へと叩き込んだ。