「ルリコ、きれいだよな」
近くの屋台を物色しながら、カナタが言った。
それはそのとおりなのだが──じっと見上げてくるルリコに「きれいだ」と言っても納得してもらえないのを、レイジは知っている。
「さ……最近、こういうの多くないか?」
「そうね。言ったでしょ。私は確認したいの」
「それ、フミオの見舞いに行ったときも言ってたな。何を確かめたいんだ」
ルリコは、ちら、とカナタを見やる。
彼女は恐喝される大男よりも水槽を泳ぐ金魚に夢中だ。
エアレーションの送り込む泡と遊びながら、シンと冷えた水の中でも息ができる鮮やかな魚の群れに、憧れているように見えた。
「アンタ、前に『変わりたい』って言ったじゃない」
提灯の光で、濡れたように輝くカナタのうなじに、レイジの目は吸い寄せられていた。それを、ルリコの手が引き戻す。
「私、アレでアンタの見方変わったの。だから、確かめたいの。アサガオの観察みたいに、レイジがどんな人間になってきたのかを。どんな人間になっていくのかを」
「俺はアサガオなんかじゃ──」
「そう? いいじゃない、朝の花。私、けっこう好きよ」
笑って見上げてくるルリコには、謎の迫力があった。
「これも、だいじなこと、なんだな」
レイジがつぶやいて、ルリコがうなずく。
七年しか生きていない彼にとって、他人の心を理解するのは難しい。
それでもルリコの揺れる瞳を見ていると、なんとなく、彼女が欲しているものが分かる気がした。
彼女は迷っていて──その答えを、レイジの中に見つけようとしている。
「なあに?」
レイジがそっと、顔を近づける。
ルリコは驚いたように体を固くしたが、それを退けようとはしなかった。レイジがこれから何をして何を言うのか、期待しているようだった。
唯一気になるのはカナタだったが、水槽に向き合うその背中は意地でもこちらを振り向かないとでも言いたげだった。
「……りんごの、いい香りがする」
その言葉が聞こえた瞬間、ルリコがバっと身を翻した。
「あ、アンタ……」
動悸を抑えるように胸に手を置いたルリコ。彼女の顔に、さっきまでのニヤニヤ笑いはない。
大きく見開かれた目と、軽く引き結んだ口元から、その驚きの大きさが伝わってくる。
「アンタ……けっこうスケベだったのね」
今ではルリコも、頬を染めていた。
「え、あ、悪い……」
「キモチ悪いけど、昔のアンタは香水変えたって気づくようなヤツじゃなかったしね……いいわ。今日のところは合格」
何に合格したのか分からないまま、レイジはルリコを見つめる。
軽く乱れた着物を正す彼女は、もう目を合わせようとはしない。
「おんやおやァ? 先生抜きにして、ずいぶん青春しちゃってるじゃないですかぁ」
彼が軽く固まっているところに、靴底を擦り付けるようなザリザリという足音が近づいてきた。
「あ、センセー」
一匹も金魚を取れず、ヒマをもてあましていたカナタが声を上げた。
「はいコレ。約束の焼き鳥」
「一本かよ」
「しみったれてるわね」
戦時配給のようにキリエの前に並んで一本ずつぼんじりを受け取りながら、全員がキリエに対してツッコみたくて仕方がない。
「なあ、センセー。レイジのだらしなさ越えてくるの、なんなの」
「俺はだらしなくなんか、ないが」
「そうですかあ?」
少し別行動しただけで、彼女の衣服は戦場帰りのように乱れまくっていた。
ブラウスのボタンが一つ二つ吹き飛んでいるのは軽いジャブ。スラックスの片裾はビッショリ濡れており、その原因になったと思しきヨーヨーが手元で揺れている。
都市伝説の怪人が、祭りの騒ぎに乗じて紛れ込んだようだった。
「酒だって飲んでないしぃ?」
そう言って、彼女はコーラの注がれたプラコップを掲げた。
「ガキどもの輝かしいセーシュンに! かんぺー!」
「そのノリでしらふの方がヤバいだろ……」
「まーちょっとばっかしフラついちゃいますが。そこはいつも通りだと安心して……っとと」
石段に足を取られ、軽く転げそうになってから、彼女は参道の奥を見やった。
「そうそう、奉納演舞!」
カップを持ったままのキリエがポンと手を打つと、コーラが水しぶきとなってレイジに降りかかった。
だがもう、誰もツッコまない。被害者のレイジも、キリエ担当のルリコでさえ。
彼女にイチイチ何か言うのはエネルギーの無駄と悟って、意気揚々と歩き出したアル中の後に黙って続く。
「えんぶって、アレだろ。かたっくるしい儀式みたいなヤツだろ」
トタタと小走りで追いついて、カナタがキリエの隣についたのはハシャいでいるからではない。危なっかしい足取りで石段を登る彼女がいつコケてもいいようにという配慮だ。
「そう。さっき話した『水神様』の前で踊るんですよ、キレーな巫女さんがね」
「ああいうの、よく分からねんだよなあ」
段を上っていくにつれて、縁日のざわめきは遠のいていった。
もともと小規模なお祭りだ。カナタの言うとおり、わざわざ遥か山頂までいって儀式を見届けようという人間はほとんどいない。
その静けさが、かえって雰囲気を高めていた。
薄紫に染まりつつある空の下、黒々とした雑木の影の中で彼らを照らすのは周囲の提灯の光だけだ。
その先に待ち構える本殿に、満ちる光の質が違う。
市内に溢れかえったLEDのものとは違う。何かを燃やすことで初めて手に入る、実感のある熱が宿っていた。
「先生も、ホントはニガテですよ。こういうのは」
穏やかにカナタを見下ろすキリエの背後を、スっと一つの影が追い越していった。
「あ──?」
カナタが気づくと、いつの間にか彼女たちを取り巻くようにぞろぞろと行進する行列のただ中にいた。
彼らの格好はさまざまだ。
パンツにシャツのラフな格好。浴衣、甚平、そして白衣──ただ共通するのは、その衣装の下に隠した軍人のような肉体と、引き締まった口元だった。
「いろんな人が来るんですよ、ここの儀式には」
通り過ぎざまに略式の敬礼をしてきた女性の尻を軽く叩きながら、キリエが言った。
「もしかして私、ちょっと場違い?」
「そんなことありませんよー」
肩をすぼめるルリコに、キリエが笑いかけた。
「なんたって今年の巫女さん、ウチのクラスの生徒ですから」
「マジか!? ルリコ、行こ!」
カナタが、ルリコの手を引く。
「だ、だからねえ! 浴衣着てムチャするんじゃないわよ!」
そんなことを言いながらルリコも駆け足で、雑踏を掻き分けながら石段を登っていく。
「キリエ先生」
残されたレイジは、隣に音も無くそびえる女教師を見つめた。
「──はい。なんですか」
キリエは少し息切れしたように胸を押さえていた。
その、荒い吐息に乗ってやってくる臭いが、どうしようもなく不穏だった。
「ルリコに言われましたが、俺はどうやら鼻が利きすぎるみたいです」
「もったいぶった言い方……しますね……珍しい……」
「今の先生はとてもいやな臭いがする」
弟子と師匠は見つめあった。
「やれやれ……女の子になんつーコト言うんですか」
ややあって、先に折れたのはキリエの方だった。
「大丈夫。そんなにたいしたもんじゃないんです。これはまあ……ツケの滞納、みたいなもんなので……」
キリエの大きな手が、レイジの頭に伸びる。
「……そろそろ、利子が嵩んできちゃった感じですかね」
黒曜石のように鋭利な輝きを帯びた髪の毛の感触を楽しむようになでるのを、彼は嫌がらない。
疲れた顔に、疲れた心を映したような笑みを浮かべる『肉親』を、じっと見つめただけだった。
「行きましょ。教師と生徒が二人っきり。あらぬ疑いをかけられちゃ、困りますからね」
キリエはカナタたちの後を追う。その歩幅は、いつもよりずっと小さく見えた。
「こんなですが、俺なりに心配なんですよ……」
キリエは一人の女の子──レイジは、彼なりに、それを最大限に尊重したつもりだ。
においの詳細について控える程度の良識なら、彼だって持っている。
キリエから漂ってきたのは夏場の便所のような打ち上げられたウミガメの甘ったるい死骸のような、どうしようもない死臭だった。