海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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4.神話前夜(1)

 青色の中を歩いてく。

 

 崩れた右腕と、崩れかけの左腕。

 

 痛みは感じない。

 

 水の壁に入った瞬間から、彼の体はゆっくり壊れ始めた。

 

 頬がはがれて、平べったい魚になって水の中に泳ぎ出していく。

 銀色の輝きを放ちながら水の中に消えていく自分の体を見送りつつ、レイジは前へ足を運んだ。

 

 そこは”青林一丁目”とはまた違う異界だった。

 

 あちらが子供の描く混沌なら、こちらは全てを滅却した無限の砂漠だ。

 全てを跡形もなく焼き払った後に残される世界だ。

 

 真っ白な灰のような砂に膝まで埋めながら、レイジは水面を仰いだ。

 しかし、その揺らめきはどこにも見えない。

 もしかして宇宙まで続いているのでは──と思うほどに積み重なった水の層が、夕日とともに揺らめいているだけだ。

 全身にのしかかる途方もない水圧を思い出したように、彼の背骨がギシリ、と軋む。

 

(折れるだろうか)

 

 ──構わない。

 

 水の音に混じった不気味な破砕音。

 ボキュ、と音を立てて先にくずおれたのは、レイジの足だった。

 スラックスの生地を引き裂いて突き出た脛骨のまわりから赤い煙が立ち上る。それですら、すぐさま海の影響を受け、透明で微細なプランクトンとなって周囲に漂った。

 

 もはや声すら聞こえない、あの少女が言ったことは全て正しい。

 レイジの体は確実に死に向かっている。

 

 この奇妙な青さを秘めた”海”の中では浮力が働かない。

 レイジは巨大な(イカリ)を引きずるような緩慢さで。海底を這う腐肉漁りのような機械的な動きで、前に進む。

 

 皮も肉も剥がれ落ちて、ほとんど髑髏(ドクロ)のようになった顔を上げると、銀の輝きはすぐそこにあった。

 

 白い女。

 

 水中に広がった長い長い髪の中に抱かれるようにして浮かぶのは、端正な顔立ちの、年頃はおそらくレイジと変わらない女性だ。

 

 まさに揺らぐ髪の先にレイジの指が触れようという刹那、海の中に嵐が現れた。

 狂風じみた流れに翻弄され、砂と体のパーツを撒き散らしながら、彼の体は転げていく。

 

(クジラ……?)

 

 巨大な黒い影があたりを包み、つかの間、海の底が丸ごと闇に飲まれた。

 レイジの遥か頭上を通り過ぎていくのは鳥のような、鯨のような、それでいて粘土をこねて作ったような不細工な塊だ。

 

 それはただただ、絶大な存在感で、そこにいる。

 

 空が丸ごとその生物に置き換わったのかと思うほどだ。あまりのスケールに圧倒され、レイジは、右腕の残骸が丸ごと剥がれ落ちたことにも気づかなかった。

 

 もはや”それ”と呼ぶことしかできない巨獣が翼のようなヒレを動かす。

 レイジの全身を、硬い水の流れが打ち据えた。その勢いで彼の体から無数の小魚たちが剥がれ落ち、水中に銀の輝きを撒き散らした。

 もんどりうって転げたレイジがなんとか立ち上がり、再び女のもとを目指して一歩、また一歩、進んでいく。

 

 もはや重いだけの体は、進むたびにどこかが壊れ、剥がれ落ちていく。

 

 それは問題じゃない。

 肉体が失われていく。二度と取り戻せなくなる──そんなことを、レイジは恐れない。

 

 シャツの襟元から、赤い魚の群れが湧き出す。

 

 怖いと思えないのだ。

 自分が続かなくなって、明日を取り上げられることでさえ。

 少女の言うことは徹頭徹尾正しく、石動黎時は欠けた人間でしかない。

 何かを愛することも、憎むことも、喜ぶこともできない。

 手に入らないものを必死に求めるくせに、それを口惜しいとも思えない、破綻者でしかない。

 

 それでも彼の体は動いた。

 

「きみは」

 

 骨と肉の不恰好な固まりになった左腕を、伸ばす。

 女はすぐ目の前だ。

 

 唯一、レイジに怖いと思えることがあるとすれば、それは自分の中に抱えた憤怒だ。

 この核爆弾級の激情に駆られたままで死ぬことが、怖い。

 何かを壊して台無しにするだけで終わりたくない。

 

 ほかの何かになりたい。人間に。

 

 

「きみは、俺の」

 

 シンと冷えた水の中で、不思議とレイジの声は音として成立する。

 剥き出しになった骨の指先で、白い髪の森を掻き分ける。

 

 もう少しで手が届く。

 

 あの少女が言う、彼の運命に。

 

 おそらく、この体は魚の群れにバラバラに分解されて消えるのかもしれない。

 

 だが────そんな絶望の影を打ち消すほどの熱がレイジを突き動かしていた。

 

 変わる。俺は変わるんだ。

 

 この命に掛けても彼女を救い出す。

 それができれば、今までの石ころのような男から、何か別の、もっときれいな何かに生まれ変われる。

 

 それがたとえ、人生最後の一秒間(ジャスト・ワン・セカンド)だとしても。

 

 そのために自分に残されたものを総動員する。

 胸の内側を焦がす憤怒ですら、今は彼を前に進ませるための燃料に過ぎない。

 

「ぐっ」

 

 喉の奥から生臭いナマズを吐き出して、あと一歩──

 

 はらわたすべてをその場に置き去りにして、さらに一歩──

 

 少し手を伸ばせば──

 

 不意に、レイジは一歩も前に進めなくなった。

 足元からひらひらと舞い上がってきた銀色の群れと低くなっていく目線。目を向けるまでもなく、自分の体に起こったことを理解する。

 腰から下の感覚が、ない。

 

 ────取って、くれ。

 

 ほとんど残骸と化した左腕で、女の体を掴もうとする。

 

 ────頼む。

 

 もがく気力も失って、うつろに海中をさまよっていた女の瞳が、動いた。

 

「た」

 

 そこに映るレイジの姿は、どのようなものだろうか。

 青い瞳で見たものは、やはり、どうしようもない憤怒の怪物でしかないのだろうか。

 それを確かめる前に、レイジの視界は完全に暗闇に閉ざされた。

 残った目だったものが、頭蓋骨の中に響くようなズルゾゾという音を立てながら引っこ抜けて、どこかへ泳ぎ出していくのをレイジは感じていた。

 

「たのむ」

 

 必死の声は、もはや自分にも聞こえていない。

 

「頼む。俺の手を取ってくれ!!」

 

 助けに来たくせに、助けを求めている。それを矛盾と思うこともできないほど、必死だった。

 

「俺の命に、運命を。意味をくれ!!」

 

 暗闇の中で彷徨わせる手の感触すら奪われていく。

 

「がっ!」

 

 体だけではない。ほのかな希望も、意思も、全てが砕けて海の中に溶けていく。

 

 ────ダメか。

 

 喉に流れ込んだ大量の死の水が、ついに彼の声すら奪った。

 もはや痛みを感じるだけの機能ですら彼の体からは失われつつある。残されたのは冷たさと、闇と、この瞬間も焼け付くような憤怒だけだ。

 

 ────結局。なにも、変えられなかったか。

 

 海で少女が溺れて死ぬ。

 七年間見続けた悪夢が現実になって、彼も死ぬ。それは、あまりに、

 

 

「おい、オマエ」

 

 

 砕けて消えたはずの彼は、手の先に、暖かな火が灯るのを感じた

 

「こっちは溺れてんだぞ……これ以上、ムチャさせるんじゃ、ねえよ……!」

 

 その暖かさの正体は体温だった。レイジの手が崩れ、彼自身も海の藻屑と消えるという瞬間、彼女が彼を捕まえていた。

 

「目が覚めてみりゃ、水の中だし。死ぬほど苦しいし。つーか実際死にそうだし……!」

 

 手のひらに伝わる熱が、焼けるほど熱く感じた。

 

「オマケにヘンな野郎が目の前でうるせーし、さ!」

 

 女は、ぐい、とレイジを引っ張って、自分のもとへと引き寄せる。

 

「そんな話し方をするのか。きみは……」

「ンだよ。育ちが悪ィんだろ。きっと」

 

 文句あっか、と噛み付かんばかりの剣幕だ。

 水の壁の外から彼女を見たとき、その繊細な容貌のあまり、触った瞬間砕けてしまうのではないかと心配になるほどだった。

 レイジは、彼女がこんな風に元気にしゃべっているのを暗闇の中で想像する。

 少々ミスマッチな気もしたが──

 

「俺は好ましいと思う」

「あ? ムズい言葉使うんじゃねーよ」

 

 女性にしては低く落ち着いたその声を、彼女がどんな顔で操っているのか、見てみたかった。

 閉じたままのレイジの目蓋の下は空洞だ。

 きっとこの海の中をクラゲになって悠々泳いでいる二つの眼球が少し恨めしい。

 

「オマエちょっとヘン──待て。アタシら、なんで水の中で話せてんだ?」

 

 やっと気付いたように彼女が声を上げる。

 と、忘れていた息苦しさまで思い出したようだった。

 

「がっ……やべ……マジでなんとかしないと。な……」

「きみを、助けたかったんだが」

 

 暗闇に閉ざされていたレイジの視界に白い光が溢れ出した。

 

「悪いな。しくじったみたいだ」

 

 女の熱を感じた瞬間から、レイジの体がゆるやかに再生し始めていた。

 光を取り戻した瞳で最初に見たのは、女の顔だ。

 魂を感じないなんて、とんでもない思い違いをしたものだ。真っ白な喉を掻きながら、遥か遠くの水面を睨み付ける彼女に命を感じる。

 諦めは、もうその青い瞳には見えない。

 困惑、苛立ち、そして諦めの悪さと──消えない希望の光だ。

 

「そっか…………あんがと。わりいな、アタシなんかのために」

 

 女は苦しそうに顔を歪めながら笑って、レイジの頬に両手を添えた。

 

「ま。それじゃあ、ご褒美くれてやる」

「なにを、する気だ……?」

「イイコト。アタシより長生きさせてやる。ほんの、ちょっとな」

 

 次の瞬間、彼女は躊躇無くレイジに唇を重ねていた。

 その意図はすぐレイジに伝わった。酸素を分けてやろうというのだろう。まるで、映画のワンシーンのように。

 

 しかし──

 

「あ、あれェーッ!?」

 

 ぷくぷくぷく、と小さな気泡が女の口の端から逃げ出し、水に溶ける。

 彼女は眉をひそめる。

 

「え、えーと……。待って、もういっぺんチャンスくれ」

 

 気まずそうに彼の顔を見ると、頬を膨らませてもう一度試みた。しかし、またしても空気はただ漏れ出し、水中を漂っていった。

 

「は、はは────」

「わわ笑ってやがる。こっちは必死なんだぞ!」

 

 彼女はもう一度レイジの口に息を吹き込む。が、無駄だ。

 むなしく口の端から漏れ出て立ち上る空気を呆然と見送りながら、彼女の眉間に皺が刻まれる。人間の肺は、彼女が思っているほど強くない。

 

「お、おかしいな、息が……うまく入らない……」

「気持ちはありがたいが、映画の見すぎなんじゃないか」

「映画なんてたりーモン見たことねえよ……」

 

 レイジは優しい目で見つめ続けた。

 

「そうか。じゃあ見に行こう。ここから出たら」

「なんだよ、ごぼっ、アタシせっかく……」

 

 顔を真っ赤にした女が口付けしたまま話すと、かちかちと歯が当たる。そして感じる、彼女の香りを。

 

 すがすがしいほどの花と、潮の香りを。

 

「つーか死ぬだろコレ。マジで……」

「そうはさせないさ」

 

 レイジは胸に宿った熱さを確かめる。

 彼を支配してきた、やるせのない憤怒が帯びる焦熱とは違う。

 それは目の前の女の口付けを通して、レイジに譲り渡されたものだ。彼の本質を永久的に変えてしまう、何かだ。

 

 さなぎから蝶が羽化するように、飛び方を知らない鳥が最初の羽ばたきを覚えるように。

 

 それは、後戻りのできない変化だ。

 

 人口呼吸は失敗に終わったが──別のものが、確かにレイジに吹き込まれた。

 

 それは火種だ。

 

 運命という熱だ。

 

 彼の口から放り込まれた小さな小さな熱い塊が、長年胸の奥でくすぶっていたものに触れる。彼の中で大爆発が起こった。

 

「俺を信じてくれるか」

 

 レイジは女の体を強く強く、抱いた。

 

「うっ、信じるって……何を……!」

 

 息も絶え絶えに、女は口元を抑えた。限界が近い。

 

「夢を見てきたんだ。ずっと」

 

 圧倒的な壊死をもたらす水の中でレイジの肉体が銀色の光を帯び始めた。

 崩れかけた腕の断面から、まるで星の光を集めたような輝きがほとばしる。その光は水の中で幾重にも弧を描きながら、彼の失われた四肢の形をなぞるように伸びていく。

 

「それは……女の子、が──」

 

 しかし、彼の全身を覆う銀の輝きが、前触れもなく砕けた。

 穏やかで清らかな光を食い破りながら現れたものは、黒い炎だ。

 

「ぐっ、ああっ……!?」

 

 どんな傷を負っても声ひとつ上げてこなかったレイジの口から、苦悶が漏れる。

 それは苦痛という言葉では表現しきれない、空前絶後の一瞬だった。

 これまで味わってきたあらゆる破壊の痛みが彼の全神経を引き裂きながら突っ走り、槍となって彼の脳髄を突き刺す。

 

「お、おい!?」

 

 レイジの体に触れて、女は困惑する。

 彼の体は燃えていた。彼の肌に刻まれた無数の古傷を突き破って現れた黒い炎。

 その圧倒的な熱量が周囲の”海”を沸騰させ、視界を埋め尽くすほどの気泡を吹き上げる。

 だというのに、女は熱さを感じない。あるのは凍えるほどの冷たさだけだ。

 

「はあ……ふう。もう大丈夫だ」

 

 砕けた四肢が、爆発的なスピードで修復されていった。

 黒い炎によって象られた五本の指が、彼の意思で握り締められる。

 

 冷たさと熱さが混ざり合った奇妙な感覚が彼の全身を満たしていた。もはや、彼の顔に浮かぶ表情は苦しみではない。

 

「なんなんだよオマエ、いったい」

 

 力を取り戻した腕に抱かれ、目を見開いた女を、レイジは見下ろす。

 出来るだけやさしい顔で、勇気付けるように彼女の首筋を、

 

 ぶるり。

 

 腕の中で女の体に震えが走ったのをレイジは感じる。

 そのかすかな違和感を塗りつぶして、彼の心臓から血管を焼きながら全身に熱くドス黒いものが流れ込んでいくのが分かった。

 

「そうか。ようやく見えたな。俺の……」

 

 怒り。

 

 憤怒(フューリー)ではない。激怒(レイジ)だ。

 

 レイジにとってあまりに慣れ親しんだ感情が、手を伸ばせば触れるほど近くにあるのを感じる。

 やがて、黒い炎を突き破って右腕が現れる。それを覆う無数の古傷も、迷路のように浮き出た血管の巡りにも、彼には見覚えがある。

 だが違う。これはかつての腕とは何もかもが違う。

 別のものに生まれ変わった────というよりは、いままで彼の体のふりをして眠っていた怪物を目覚めさせた、という感覚を強く感じた。

 

「俺が全部、燃やしてやろう」

 

 炎はもはや純粋な熱と光となって周囲の液体を焼いていく。

 レイジが拳を高く掲げる。

 彼の体を伝った光が、その手の中で収束する。黒い光が、彼の手の中で蠢く。まるで、生まれた意味を求めるように。

 

 レイジがそうであるように。

 

 ────今度は俺が与えてやる。この怒りに意味を、運命を。

 

 握り締められた黒い光が、彼の意思に合わせて形を変える。

 まるで、ぼやけたピントが合うように、そこにひとつの像を結んでいく。

 それは異様に細長いシルエット。力という概念そのものが、今、彼の手に握られている。

 

 周囲で渦巻く水が、その動きを止める。

 

 女が目を見開く。

 

 世界が、息を潜める。

 

『ふふん』

 

 次の瞬間、黒い光が帯となって解き放たれた。

 長さ数キロに渡る光の刃は、水の中にきらめく青色を食い破り、水の壁を真っ二つに引き裂いた。

 

 光はそれだけでは飽き足らず、空へと(ハシ)り、そこに一筋の軌跡を描く。

 

 空が引き裂かれた。

 まるでガラスが砕けるように、切り裂かれた空から夕日が失われ、二人の周囲が暗闇に包まれる。

 と、空の割れ目の向こうから、まばゆいオレンジが差し込んでくる。

 

「げほっ……空が、もうひとつ……?」

 

 女が驚きの声を上げる。

 偽の空の下に広がる『青林一丁目』の、作られた町並みの風景も、降りしきる空の破片に押しつぶされてドロドロに溶けていく。

 その向こうから顔を覗かせたもの。

 

 それは彼が見慣れた西町だ。

 

 どちゃ、と音を立てて二人の近くに巨大なヘドロの塊が落着する。

 レイジと女は身を寄せ合ったまま、お互いの鼓動を感じることしか出来なかった。

 ■

 

 茜空に、大きな大きな虹がかかっていた。

 

 水の壁と幻の町が消え去った後も、レイジと女は、しばらくの間ポカンと口を開いて空を見上げたままだった。

 

 穏やかな夕方の風が、二人の頬に宿った熱を冷やしていく。

 

「オエッ」

 

 そこで思い出したように、女が体をくの字に折った。

 とっさに彼女を抱きとめようとしたレイジの腕をすりぬけて、彼女はその場に膝をつく。

 

「あの、きみ……」

「うええええええーッ!!」

 

 女の口から、勢いよく水が迸った。

 

「いま、何、起こっ……おえええっ、げほっ、ゴホッ、クソが……!」

 

 びちゃびちゃと、途方もない量の水を吐き出し続ける女の背を、レイジはさすってやる。

 そうしながら、彼も静かに嘔吐した。

 

 一度は彼の体を再起不能なまでに破壊した死の液体は、今では少し、塩辛いだけの水でしかない。

 あの少女が言っていた『目覚める』とはそういうことなのか。

 むしろみなぎるほどの力を感じる手を使って女を介抱し続けながら、レイジは考える。

 

「くっそ……てめえ、触るんじゃねえよッ!」

 

 彼女は乱暴に手を振り払うと、体を重そうに引きずって、レイジから離れていく。

 

「待ってくれ。俺は──」

 

 レイジはそこで言葉を切って女に見入った。

 彼女の青い目には、困惑と、そして敵意がありありと浮かんでいる。

 

「この野郎! こっちは色々あって頭ぐちゃぐちゃなんだ!」

「俺だって……そうだ」

「だまってろ! ンだよ、この髪。邪魔くせえ!」

 

 とても、死の運命からの生還を喜ぶ雰囲気ではない。

 水を吸い込んでしっとり重たい長髪を振り乱していた女は、つと、動きを止めた。

 

「は? なんで白髪になってんだ?」

 

 彼女の足元には、さっき彼女自身が吐き出した海水が水たまりになっていた。鏡のように澄み切った水面に映るのは、髪どころか肌までもが白い、彼女の姿だった。

 

「はああああ~!? なんなんだよ、アタシの体!」

 

 うっすらと燐光を帯びた瞳を見開いて水たまりにかじりつく彼女のことを、レイジは見つめる。

 大きく開いたドレスの背筋からうなじへ、そして彼女の頬に向かって、真珠色の鱗がラインを描いているのが見て取れた。

 

「体中ジャリジャリしやがる……ヘンな感じ……」

「俺も少し変わった体質なんだ。だが、きみのはそう捨てたもんじゃない。なにより綺麗だし—―」

「だからオマエの返事なんていらねえんだよ。うるさい、ばか!」

 

 レイジは困った。気を使えば使うだけ、彼女を余計に刺激してしまう。

 こういう時、口のうまいフミオだったら波風立てずに切り抜けそうなものだが、彼は多分、今頃は実家の手伝いでヒイヒイ言ってる頃合いだ。

 

「とにかく……考える時間をよこせ。オマエ、うるさい」

 

 そう言われてしまったので、おとなしくすることにした。

 しゃがみ込んだままブツブツ呟く女を背にして、レイジは復活した肉体の調子を確かめるように体をほぐしていく。

 

 

 特に右腕。

 

 

 あの正体不明の”黒い光”を握りしめた瞬間、骨まで焼け焦げたはずの手のひらはアッサリ回復しきっていた。

 

 数えきれない古傷の上に、真新しい火傷の跡が白々と残るだけだ。

 その手は、その腕は、さっきまでは沸騰するほどの熱が秘めた肉の怪物だった。だが今は、彼の従順な手足に戻っている。

 

 ごう、と音を立てて数機のヘリが、レイジの頭上を飛び去っていく。

 

 これだけの被害だ。どこかの新聞会社が騒ぎを聞きつけて駆けつけたのかもしれない。

 

「オマエってさ」

 

 少し落ち着いたようで、女がじっとレイジを見ていた。

 

「さっき、もっとボロボロだったろ」

「……見間違えじゃないか。水の中だったろ」

 

 とっさにはぐらかした。

 

「あぁ?」

「俺は普通の人間だ。きみも、普通の人間だ。そうだろ」

 

 じり。

 

 女が後ずさる。

 また、レイジはヘマをしたことに気づく。

 

「俺は……すまん。あまり言葉がうまくないんだ。気に障ったなら謝る」

「ヘンな喋り方」

「だろうな。少なくとも、俺は君に危害を加えない。絶対に、何があっても」

 

 そうした方がいいような気がして、レイジは両手を上げて、自分が無害だと示す。

 女は、探るような目で彼を睨み付けていたが、

 

「…………ま。アタシを助けてくれたのはオマエだもんな」

 

 その肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。レイジは安堵した。

 

「よかった。なら、ひとまず自己紹──」

「だけどアタシに近寄ってくんじゃねえ!」

 

 女の態度はいっこうに柔らかくならない。

 後ずさりを続けた女が、軽くよろける。彼女は足元に目を落とし、小刻みに痙攣する黒い塊を見つけて、舌打ちした。

 

「なんかおかしいんだよ、オマエ」

「おかしい? 俺の……どこが……」

 

 そこでようやく違和感に気づいたレイジは、頬に触れてみる。

 

「なんだ……これ……」

 

 水の壁から出てきたばかりで二人の体はビショ濡れだった。しかしレイジの頬を濡らす雫の正体は別の物だ。

 

「俺、泣いてるのか」

 

 目頭から止め処なく流れ落ちるのは涙だ。

 レイジは、自分が泣けるということすら、知らなかった。

 悲しくも嬉しくもない。

 なのに、それは拭えば拭うほど勢いを増して彼の視界をボヤけさせる。自分が天涯孤独と伝えられた時も表情ひとつ変えなかったレイジが、今、顔をぐしゃぐしゃにして鼻をすすっている。

 

「ちょっと、ちょっと待ってくれ。おかしいな」

「お、おい、そこまで?」

 

 膝から崩れるようにうずくまったレイジの耳に、慌てた足音が水を蹴散らして向かってくるのが聞こえる。

 戸惑うように、白いスニーカーのつま先が、レイジの目の前にある水たまりに踏み込んできた。

 

「よく分からねえけど……大の男が泣くなって! ――な、な? 笑えって。スマイル」

 

 少し荒げた息と一緒にかけられた女の言葉がレイジの心を揺らした。

 

「アタシも混乱してんだ。だから、ひでえマネしちまったかも」

 

 ためらいがちに彼女が伸ばしてきた手が彼の肩にかかると、その揺らぎはますます強くなる。

 顔を上げると、女の瞳と視線がかちあう。

 相変わらず、そこに宿った青色は、レイジの心を掴んで離さない。

 

「きみのにおい」

「は?」

 

 穏やかにレイジの肩を撫でていた手が石のようにこわばった。

 

「安心するんだ……君の匂いがあると」

 

 その手をとって、鼻先で触れる。まるで過去から香ってくるような花と潮の香りが自分の中に広がっていくと、レイジは不思議な安堵を覚える。

 思わず眠くなるほどの安らぎの中にあるレイジと、女の浮かべている表情は、当たり前だが対照的だった。

 

「きめえ」

 

 ぽつり。女の唇から、素直すぎる心境がこぼれ出た。

 

「え」

 

 ズボリと乱暴に手を引っこ抜いて、女は立ち上がる。

 

「あーッ!! 気持ち悪ィ!! オマエ何食ったらそんなセリフが出てくんだ?! あぁ!!?」

 

 レイジは呆然と、女を見上げる。そこにあるのは怒りと嫌悪感で端正な顔を歪めまくり、

 今まさにキックオフという感じで左足を大きく振りかぶった女の姿だ。

 

「あ、ちょ、待ってくれ。これにはワケが──!」

 

 ごん。と。

 いい音を立ててレイジの顔面に入った女の膝が、彼に空を仰がせた。

 視界に散った白い星と、鮮烈な痛み。そして、夜の色をうっすら浮かべた夕方の空。

 

 全てがクリアだった。

 

 痛みを、こんな愛おしく感じたのは、初めてのことだった。

 スローモーションでのけぞりながら、レイジは空に手を伸ばす。偽りの空ではなく、本物の、彼がずっと見上げてきた西町の空。

 

 のけぞってのけぞって、とうとう彼の後頭部がアスファルトに激突する寸前──その”ほんものの空”の色が反転し、一筋のノイズが走った。

 

 

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