海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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 レイジは黒い盾のように、カナタをかばい続けた。

 水槽の中から黒い手が消えてもずっと。まるで水槽が──水槽そのものが彼女を狙う一匹の獣と認識しているように。

 自分を抱く手のあまりの力強さに、カナタは静かに息を呑んだ。

 

「心配すんなよ」

 

 口に寄せたフミオの手元で、ライターが火花を散らす。

 

「そこの強化ガラスは800ミリだぞ。お前が殴りつけたって破れるかどうか」

 

 精密機器が立ち並ぶ管制室で、平然と紫煙をくゆらせ始める。

 しかし、タバコを支える指先は小刻みに震え続けていた。フミオが恐れているのは水槽ではない。この部屋の中にいる、何者かだ。

 そして彼の目はレイジに向けられている。

 

「ガラスをブチ割るやつが来たとしても、先に部屋がダメになるだろうよ」

「カナタ、お願いがある」

 

 その言葉は低く、重い声で紡がれた。

 

「そばにいてくれ。俺の後ろに隠れて、絶対に水槽を見ないでくれないか」

 

 灰色のカーペットにカナタをそっと下ろして、レイジは続ける。

 

「あそこに何があんだ?」

「きもちの悪い、怪物がいる」

 

 この瞬間でさえ、レイジはガラスの向こう側から視線を感じ続けていた。

 棘皮人間という人知を超えた怪物と戦い続けてきた彼の体には、黒いバケモノたちが纏う殺意が染み付いている。

 だからこそ感じ、ようやく理解することができた。

 ずっと棘皮人間が単細胞な生き物だと思っていたが、違う。

 彼らはひたすらに、純粋なのだ。

 殴りたいとか殺したいとか、()()()()とか──そういう、人間だれしも持っている気持ちを100パーセントで実行してしまう。

 それをむき出しにした『つくり笑い』と対峙したときと同じものを感じる。水の中にいる悪意の姿は見えない。それでも、あの獣が持っていた脂の粘りと生臭い息遣いを感じた。

 

「レイジ……」

「大丈夫。何も心配しなくていい」

 

 そして、カナタに対する限りない獣欲を。

 

「絶対に俺の後ろから出ないでくれ。たのむ」

 

 欲情した怪物が、じっと彼女を見つめているのを感じた。

 

「わ。わかった……レイジがそう言うなら、そうするよ……」

 

 レイジの背中に、カナタがそっと身を寄せる。

 

「町の外はイカれたクソ地獄だ。どこもかしこも、あいつらで溢れてる。俺らが出ても、バラバラにされるのがオチだ」

 

 煙、言葉、フミオが吐き出すものはギラギラとした黒い熱をもって、闇に輝くようだった。

 

「なあ。分かるだろ。もうここだけなんだ。西町だけがマトモで、ほかは全部終わっちまってんだよ」

 

 途方も無い量の煙を吐いて、フミオは天井を仰いだ。

 長く長く、まるで体の中で何かが燃えているのではないかと思うほどの煙量だった。

 非常灯が投げかけるオレンジ色の中で舞い散る煙の粒子を、彼はじっと眺める。

 

「だが、どうしても枠を外れるヤツが出てくる。出ようとするもの、偶然裏側を見ちまったヤツ……そういう連中をおとなしくするために『ムナカタ式消失』が生まれた」

「そうだ!」

 

 レイジが声を上げた。

 

「ムナカタ……施設にいた人と同じ名前だ。ムナカタおじさん。俺の面倒をずっと見てくれた人なんだ」

「実際のトコはどうかね。防衛局でいろいろ調べたが──俺にはとうてい、ムナカタがロクな人間とは思えねえよ」

 

 近くの机に乱暴にタバコを押し付けて火を消して、フミオは立ち上がった。

 

「やつはお前を利用した。この町が散々やってる、人の記憶を消したり作ったりはな、レイジ──お前の体からひねり出したテクノロジーだ」

「俺、だと?」

 

 そんなことを言われても、レイジは実感がわかない。

 数少ない記憶を手繰り寄せて思い出せる『ムナカタ先生』は、メガネを掛けた猫背の、いつでもニコニコ笑っている初老の男だった。

 レイジがシーツの上で粗相をしようが、施設で飼っているニワトリを、理由もなく何羽もくびり殺そうが、いつもニコニコ、ニコニコ、ニコニコと。

 ラムネ菓子のような薬をたくさんくれる、やさしい男だった。

 

「なあ、フミオ──」

 

 二人の会話に、カナタがぎこちなく割って入った。

 

「さっきのカード、そのムナカタってやつの……」

「……ああ。そうだ」

 

 ポロシャツのポケットからIDカードを取り出して、フミオはじっと見る。

 ムナカタゼンイチロー。皺の多い顔だった。

 ともすれば次の瞬間、平凡な男の顔に刻まれた無数のひだがくわっと開き、一斉に赤黒い舌を覗かせる──そんな想像をしてしまうほど、フミオはこの男を憎み、そして恐れている。

 

 彼の実父、彼の中に流れる真っ赤な血を。

 

「レイジ行くぞ」

「アンタ、どこいくのよ」

 

 前触れ無くきびすを返したフミオに、ルリコが声をかけた。

 彼女は腕を組んでいる。生徒会モードだ。薄暗い部屋の中で、彼女の鋭い視線はフミオが押し隠してきた秘密を暴こうとするかのようだった。

 

「アンタさっきから、なんかヘン」

「考えすぎだろ」

 

 そう言いつつ、フミオは彼女と目を合わせられない。

 

「すぐ戻る。お嬢さんがたは近くの詰所でノンビリしててくれや」

「あ? また男同士でコソコソやるってのかよ?」

 

 カナタまでも、フミオの態度に違和感を覚えているようだった。

 

「ツレションだよ。お前らに秘密ブチ撒ける前に、出すモン出しとくだけ」

 

 ■

 

「小便じゃなかったのか」

 

 見覚えのある斜行リフトの上で、レイジは問いかけた。

 

「ああ。ウソついた。あいつらがいると話がこじれる」

 

 手すりに据え付けられたボタンを操作するフミオは、悪びれない。

 

 ゴッ──ゴウン

 

 軽い振動と共にリフトが下り始めると、下方からゆるやかな風が吹き付けてくる。ひたすらに温く、乾いている。

 それはどこか、夏の市バスの車内を思わせる臭いがした。

 

「カナタとルリコのことは心配すんな。安全ってコトを考えるなら、ここは西町の中で一番だ」

 

 そんなことを言われても、レイジが納得するはずがない。

 

「サイボーグ、戦闘員、パワードスーツ。そういうのをけしかけてくる連中の基地の中がか」

「でも殺されなかったろ」

 

 手すりに寄りかかったフミオが、松葉杖を弄ぶ。

 松葉杖が、右へ、左へ。フミオの手元で、まるで螺旋を描くように揺れながらも倒れない。

 大きくバランスが崩れそうになるたび、フミオが手を添えて、立て直す。

 

「恐怖の管理者ぶってるクセに、防衛局はクソ甘ェ組織だよ。リーダーのオッサンも。ウチの先生も……な」

「教えてくれフミオ。俺たちはどこへ向かってる」

「A-6500シャフト。約束したろ。あの中にあるものを確かめにいく」

 

 レイジはフミオの傍で手すりに触れた。

 リフトが建造されてから年数が経っているように見えるが、塗装はそっくりしている。この先の領域に立ち入るものがほとんどいない証拠だろう。

 

「町の外に出ても、何もいいことなんてないぞ」

 

 すぐ横から聞こえた言葉に、レイジは答えない。フミオもそれ以上、何かを言ってこない。

 

 溝──レイジは、彼との間に横たわる、見えない断絶を感じていた。

 

 二人、隣同士で別のものを見ていた。

 レイジは帰りを待つカナタがいるはずの上方を。フミオはこの先に待ち受ける、遥かなる深淵を。

 壁面を毛細血管のように伝う無数のパイプの中に、風鳴りも、リフトの轟音も、レイジが漏らした微かなため息でさえも吸い込まれていく。

 

 ──そして、二人は大空洞に辿り着いた。

 

 レイジにとって、ここを訪れるのは二度目だ。

 とはいえ、彼が異界に漂う空気に慣れることは決してないだろう。

 このあまりに広大で荒涼とした空間にたたずんでいると、地の底を突く巨大なシャフトに見下ろされているような錯覚を覚える。

 

 彼らが立つ淵からA-6500シャフトに向かって、二本のワイヤーが伸びている。その根元に据え付けられたコンソールに、フミオがIDカードをかざした。

 

 最上級職員権限。

 

 ピッ、という電子音と共に、ムナカタゼンイチローのアクセスが承認された。

 

「ははマジか……本当に入れちまったぞ……おい」

 

 あたりの岩盤に、フミオの乾いた笑いが反響した。

 ワイヤーの基部に格納されていたパネルが動き始める。一枚一枚がスルスルとワイヤーの上スライドし、数十メートル先のシャフトまでの道を作っていく。

 フミオに付き合って笑うことは、レイジにはできない。

 後に残してきたカナタと、そしてルリコのことが心配だった。

 

『なあんか、ヤな感じだね』

 

 レイジの傍をすりぬけて、ワンピースを着た少女が歩いていく。

 ワイヤーに沿って展開しきったパネルの両側が、オジギソウの葉を撫でた時のように折りたたまれていく。

 そうして出来た落下防止のフェンスに、悪夢の少女が飛び乗った。

 

「久しぶりだな」

『んー、そんなに会えなかったっけ?』

 

 フェンスの高さは、レイジの胸元ほどだ。

 少女はその上でピンと両手を伸ばし、フジツボで固められてほとんど石膏の塊のようになった爪先を踊らせる。

 シャフトに近づいたり、離れたり。危うげに繰り返される曲芸の合間に、地の底から風が吹き付けた。

 灰色のワンピースが風を孕み、黒髪が舞う。彼女はきゃあきゃあと楽しそうに笑っている。

 

『ま、でもレイジのこと考えると、私も“いちじつせんしゅー”? ……とか? なんてね……おっとと。へへ』

 

 安全な橋の上、または無限の落下。

 なんとか落ちないようにしているというよりは、どちらに落ちるか決めかねている──あくまで楽しげに笑う少女を見ていると、レイジはそんな印象を受けた。

 

「ほらほら。危ないぞ」

 

 カードを見つめていたフミオは、レイジの声に気づいて顔を上げた。

 彼は虚空に向かって話しかけ続けている。

 レイジの顔は微笑を浮かべていたが、フミオは痛ましく感じる。

 その笑みが、その表情が、どれだけ(ウツ)ろでからっぽに見えるか、きっと本人は気付いていない。

 

「そこ、なんかあんの?」

『よっ』

 

 曲芸師のように片足立ちして、少女がフミオに手を振った。

 しかし彼女の姿を見ることが出来るのはレイジだけだ。彼女がいくらパタパタと手足を振り回しても、フミオの視線はフェンスの上のほうをなぞるだけだった。

 

『やあっぱムリか。そりゃそうだよねえ』

「あー……女の子がいる。前に話した、夢に出てくるっていう」

「ああそうか。はじめまして、よぉ」

 

 レイジが不器用なフォローをしつつ、フェンスの一箇所を指差す。軽くうなずいたフミオは、だいたいの見当をつけて手を振った。

 

『よ! ……お?』

 

 少女は、ぱっと顔を綻ばせて彼に応じる。だが。

 

『なんかフミオって、暗くなっちゃったね』

 

 たぶん、フミオは“とりあえず”やってみただけだ。

 ブラブラと振る手からは、気持ちのこもらない義務感のようなものしか感じなかった。

 彼はすぐに無意味な動作をやめて、橋の上に杖をついた。足元のパネルに張り巡らされた強化ガラスの向こう数百メートルに、かすみがかった地面が見える。

 フミオの足取りは迷い無く、淀みない。

 以前の彼だったら悲鳴のひとつでも上げて、レイジの足元にすがり付いてきそうなものだ。

 だが彼は粛々と歩く。

 足を止めたのは、橋の中ほどまで行った時だった。

 

「──こねえの?」

 

 フミオは、別に声を張ったわけではなかった。

 それでも彼の囁きは広大な空間に響き渡り、いまだに橋のたもとから動き出せないでいるレイジの元に届く。

 

「カナタたちが……」

 

 ずっと遠い廊下でいまだに待ちぼうけを食らっているはずの二人が、レイジはどうにも気がかりだった。

 

「気にすんな」

 

 フミオはまたシャフトに向かって歩き始めた。

 

「気にするなって……」

「局の人間に見つかっても、せいぜい記憶をブっ飛ばして家に帰されるだけだ。だから気にすんな。それだけなんだ。ヤツらにできるのは、それだけ」

 

 ────来ても来なくても、別いいぜ。

 

 そんなことを背中で伝えながらフミオは爪を噛んだ。

 

「マジで甘ェんだよ、どいつもこいつも……誰もやらねえなら、俺がやるしかねえだろが……」

 

 A-6500シャフトという巨大なクジラの腹に飲み込まれていくように、フミオの背中が遠ざかっていく。

 それをずっと見守るレイジの袖を少女が引っ張った。

 あくまで幻影の動きだ。じっとり汗を吸ったポリエステルシャツにはシワ一つ寄らないが、少女の意図を察するにはそれで十分だった。

 

「俺たちも行こう」

 

 歩み出したレイジの巨体がわずかに可動橋を揺すると、ほんの一瞬フミオの足が止まったように見えた。

 

『いいの。カナタちゃんたちは』

 

 トタタと小走りにレイジの後をついてくる少女が、問う。

 

「今はフミオが心配だ」

『うん……そうだね』

 

 また袖を引かれる感覚があって、レイジはふと少女を見つめた。

 

『気を付けてね。中で何が待っていても、驚かないで』

 

 ふわっと浮き上がった少女が、フェンスの上に降り立つ。

 次の瞬間、目を閉じた彼女は橋の上から身を躍らせた。その先は、足下に口を開けた無限の闇だ。

 

「あっ!?」

 

 思わず声を上げたレイジが手すりにすがり付いて下を覗き込んだが、既に少女の姿は見えない。

 

「レイジ。来るのか。来ねえのか。さっさと決めてくれ」

 

 幻影は掻き消え、あとにひとり残されたレイジを、フミオが呼んだ。

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