海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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 果てしなく放置されてきた錆付きの扉は、異様なほど滑らかにスライドし、二人を迎え入れた。

 とたんに内の暗闇から、むあっと悪臭が押し寄せる。

 

「フミオ」

「ああ……気を引き締めて進もうぜ」

 

 腐臭だった。

 長くほったらかしにされて気味の悪い藻をヒゲのように生やしたザリガニの屍骸から漂うような、熟成された死臭だった。

 

「レイジ、ランタン……クソ。あの部屋に置いてきちまったな」

「大丈夫だ。心配要らない」

 

 フミオの舌打ちに合わせて、レイジが指先に光を灯した。

 ほの明るい灰色であたりを染め上げる炎を見て、フミオがわずかに目を見開く。

 それは虚無の炎であり、逆説の光だ。

 シャフトの暗闇で息を潜める非常灯の明かり。機器が吐き出す微かな光。それらを見つけるたび、あの炎はむさぼるように吸い込んでいく。

 

 レイジの指先で音も無く翻る明かりは、厳密に言えば炎でなく、ましてや光ですらない。

 

 光の断末魔だ。

 

 白く輝く炎の輪郭は、怪物の口の周りにへばりついた食い散らかしだ。血の滴る肉片か、光か──違いはそこでしかない。

 

「それ、燃えてるけど痛くないのか?」

 

 黒い炎が食い荒らすのは光だけではない。炎が盛るにしたがって周囲の気温がわずかに下がったことを感じながら、フミオが口を開いた。

 

「痛くない。それに、俺は痛くても平気だ」

「そういう言い方すると、カナタが嫌がるんだろ」

「ああ」

 

 レイジのスニーカー。フミオのライダーブーツと松葉杖。

 彼らの足音は、トンチンカンなバンドの演奏のようにコンクリートの床に響き渡った。

 隔壁の先に進むと、防音室を思わせる大量の突起に覆われた廊下に差し掛かる。

 

「俺に言わせれば──みんなちょっと、痛がりすぎだ」

 

 除染ゾーンを兼ねた緩衝地帯なのだろう。壁の一面は鉄の柵で補強され、監視用の小部屋の様子が見える。

 だが当然、からっぽだ。

 このシャフトの中では空気も、音も、無機物ですら死んでいる。

 幾重にも張り巡らされたコンクリートの内壁を、二人はかいくぐっていく。ずんずん先を行くレイジの半歩後ろについて歩きながら、フミオは内壁に目をやる。

 ひどく、ボロボロだ。

 それは経年劣化というより、巨大な嵐が吹きぬけ、削り取っていったように見えた。

 壁と床の状態は、内部に向かうほどひどくなる。

 無数の水玉を散りばめたように、コンクリートがえぐれている。穴の大きさは子供の握りこぶしからトラックのタイヤ大まで様々だ。

 

「こんな風に……ものをめちゃくちゃに壊す方法を、俺は知っている」

 

 フミオは聞かない。

 レイジの右手で揺らめく炎を見れば、十分だった。

 貪欲な光は、空気中を漂う微塵(ビジン)にも反応しているようだった。輝く輪郭の周りで、ホコリがパチパチ音を立てて弾けている。

 右手から滴る光の粒が床に落ちるたびに、床の一部が蒸発する。そこに新しい水玉模様が描かれる。

 

「俺はここにいたのか……?」

 

 誰に問うたわけではない。

 今のレイジは、己の過去をさまよう亡霊だった。

 

 いくつもの隔壁を越えて、彼らはシャフトの内部に辿り着いた。

 地の底を貫く巨大な塔という外観に反して、内部は平凡なオフィスだった。中央のエレベーターシャフトを取り巻くように、机が並べられている。

 

「職員室、思い出しちまうなあ」

 

 フミオの目の前には、破壊された事務机があった。スチール製の天板が丸く削り取られ、直下の床ごと球形に消滅している。

 まるで見えない口で空間ごと噛み千切られたような机の断面を、彼はなぞる。

 

「こないだ生活指導のハラダに呼び出されて、メチャ怒られてさ」

 

 ここを立ち退くとき、猶予がなかったのだろう。

 机といわず床といわず書類が無造作にちりばめられていた。

 フミオはそのうちの一枚を拾い上げて、レイジが投げかける光の下で目を通す。

 

 内容は多岐にわたる。

 遺伝子治療、バイオニック義肢の実証試験、さらにそこから発展した神経インターフェースと、それを応用した人型兵器の運用──

 

 迂遠で回りくどい文句で書き連ねられた文章を読み進めるうちに、フミオは中間試験を思い出していた。

 小春日和の眠気に取り付かれ、腕を枕にムニャムニャと論説文を解いていたとき、こんなことになるとは思っていなかった。

 

「ハラダの教科は、たしか現文だったな」

「おう。そだぜ」

 

 光を掲げたまま、レイジはフミオから離れていく。

 彼が光を消してしまえば、その背中はスッと闇に溶け込んで消えてしまって二度と追いつけない──バカげた妄想だと心の中で切り捨てながら、フミオは差し伸べかけた手を引っ込めた。

 

「俺がバイク乗ってるのと、髪染めてンのが気に食わなかったんだろうな。A組のバカなんてほっときゃいいのに、ネチネチ何時間も説教してきてさ……」

 

 フミオの目の前で、机の上をぬらぬらと照らす光がうごめく。壁際を、なぞるようにしてレイジが歩いていく。

 

「あん時はうぜーオトナって思ったけど。なんか、ホンキで叱ってはいたんだろうな。ああいうのも、青春なのかねえ」

「ああ……」

「お前は懐かしくなったりしないか? ほら、一月前にプール掃除させられたりしたのとか」

「どうだろう……」

 

 レイジは生返事を繰り返す。

 壁に触れ続けた彼の手が、やがてひとつのスイッチを探り当てる。

 

 

 パチン

 

 

 拍子抜けするほど軽い音を立てて、シャフト内に光が満ち溢れた。

 

「まだ電気、生きてんのか」

 

 頭上でジイィ……とうなる細長い蛍光灯を、フミオが不思議そうな顔で見上げていた。LEDが全般に普及した西町では、ほとんどお目にかかれない骨董品だ。

 それがこのシャフトがどれだけ古くからここに存在するかを、端的に物語っている。

 

「下で何か動いてやがる。なんだろうな」

 

 床に両掌をついて、フミオが呟く。

 微細な振動が床を伝ってくるのを彼は感じていた。

 下方から響いてくる低いうなりのような音が、何か巨大な生き物がこの先に潜んでいるような錯覚を二人に抱かせた。

 

「進もう。俺も、ここにあるものを確かめてみたい」

 

 レイジがフロアの先を見据えて、言った。

 中央のエレベーターを使うことも考えたが、二人はシャフトの中をじっくり見て歩くことを選んだ。

 円状に配置されたフロアは、緩やかに螺旋を描き、彼らの歩みを深淵へと導く。

 フミオが杖をついて歩く床は、蛍光灯の光で白緑色に濡れている。これも、西町には存在しない色合いだ。

 

「ここに何があるのか、レイジは知ってるのか?」

「死体……と聞いている」

 

 空気中に舞う微粒子が明かりのもとでマリンスノーのようにきらめくと、彼らは、途方も無い海の深部へと生身で踏み出してしまったような錯覚を抱く。

 

「子供の死体……だとも」

 

 フミオの問いも、レイジの応答も、僅かに息苦しさが滲んでいた。

 

「俺は武器だと聞いた。英雄(ヒーロー)のための、伝説の武器だって」

「どういうことだ」

「その子供の死体は武器として使える。そういうこったろ」

 

 シンプルで、グロテスクな言葉だった。

 

 フミオとレイジは同時に足を止めた。

 彼らは今、研究室のような区画に踏み入っていた。

 器具や薬品はほとんど持ち出され、空になってガラリとした棚や机は、むき出しになった死体の肋骨を思わせる物悲しさをたたえていた。

 フロアの中央にある、強化ガラス製の透明な円筒が目を引いた。

 

「これは……なんだ?」

 

 円筒の内部は『子供部屋』だった。

 しかしそれは形ばかりのものに過ぎない。

 部屋の床一面が金網になり、上でさまざまな汚れがブチまけられることを想定したつくりだった。

 そこにいくつかのぬいぐるみや絵本が放り出され、ホコリを被っている。使われた形跡は、ほとんど無い。

 

 そして何より異様だったのが────部屋の中央にある、ベルト付きの診察台だった。

 

「俺が調べたところ、ムナカタはその“死体”にご執心だったようだぜ」

 

 歩み寄って、フミオは強化ガラスに手をつく。

 拘束具付きの台はカラフルな液体が染み込んでいた。赤、黄、橙──確かなことはそれが人間の体から絞りだせる種類の色であるということ。

 

 そして、おぞましい何かが行われたということ。

 

「外の世界を半分壊した津波と、そこで流れ着いた“生きた死体”にな」

 

 ゴソリ。

 

 背後で音がした。

 

 明らかに人の立てる物音だった。

 

 フミオは勢いよく振り返る。

 しかし、そこにあるのは空っぽの机と戸棚の列でしかない。このシャフトの中に踏み入ったのは彼ら二人だけ、のはずだ。

 

「……死体が生きてるはずがない。生きているならそれは死体ではない」

「ああ──俺も、そう思ったんだがな。局長(オッサン)に聞くわけにもいかなかったし」

「どうして。フミオの父親だろ」

「そうもいかねえんだよ……何度も言ったが、オッサンはこのことを知らねえ。あのIDカードは……とある女がくれた」

「女、だと?」

「ああ。妙なツラした女がな……」

 

 ──カナタと瓜二つの女が。

 

 それをレイジに言うことが、なぜかフミオは気が引けた。

 

「さ。だいぶ下ったし、底はもうすぐだ。行こうぜ」

 

 そんな風に、沈黙を埋めるように、鋭く松葉杖の音を響かせた。

 一方のレイジはというと──

 

(ばればれだ……)

 

 彼も彼で、フミオの背後で胸をなでおろしていた。

 どうしてここまで安堵しているのか分からないほど、机の隙間から見える『それ』がフミオの目に留まらなかったことに感謝した。

 見覚えのある、真っ白なスニーカーの爪先がハミ出ている。

 待たせてきたはずの彼女が、ついてきてしまったのだ。

 

「さっき津波と言ってたな」

 

 レイジは話を続け、背後でぎこちなく足音を忍ばせている『彼女』からフミオの気を逸らし続けようとした。

 

「そうだ。海の底から目ン玉飛び出るような大怪獣が現れて、そこらじゅう水浸しにしていったんだと」

「外の世界は……ヒトは、滅んだのか?」

「それが、そうでもないらしい。だが、次はないとも言われたな」

「次?」

 

 フミオは先ほどの物音の出所が気になるようで、たまに足を止めては、背後を振り返る。

 そのたびにガサっと音が立ち、白い髪やらセーラーやらが暗がりに引っ込む。

 レイジは気が気でない。

 

「……一発目で世界の半分だぜえ。もう一度来たら、そりゃもう全部もってかれるだろ」

「なるほど。進もう」

「ああ……」

 

 レイジは気づいていなかった。

 いつしか、自分がフミオに先立ってシャフトの中を進んでいることに。まるで手馴れた観光ガイドだ。

 彼の足取りに迷いはない。

 曲がり角のすぐ向こうに積み重なった机を避けるときも、彼は至って自然にやってのけた。

 いつもどおりのぼんやりした顔、ぼんやりした野太い声。

 何も変わらないのに、彼の一挙手一投足が、この場所を知っていると主張している。

 

 フミオはそれが怖い。

 

「この先だ」

 

 何があるかも知らないはずのレイジが、断定した。

 

 螺旋はたしかに、そこで終わっていた。

 

 二人の前には手術室を思わせる巨大な観音開きの扉があり、その隙間から僅かに漏れ出す光が、太古のホコリの上に一筋の道を描いている。

 扉を押し開けて中に入るときもレイジには一切の躊躇が無かった。

 だが、その先に広がっている光景を目にして、さすがの彼も動じたようだった。

 死体──という言葉を何度も会話の中で使っているうちになんとなく予感していたことだが、そこには棺があった。

 タイル張りの寒々しい部屋の中央に、金属製の棺が放射状に並べられている。

 

「防衛局のやらかし……人類のノドに突き刺さった小骨……」

 

 大蛇のように床をのたくるケーブルをまたぎながら、レイジは、初めてシャフトを訪れた時にキリエが言っていた言葉をなぞる。

 

「罪の、象徴──」

 

 足の踏み場もないほどのケーブルの群れは、すべて棺と、部屋の中央に据えられた金属製の巨大な支柱に接続されていた。

 大昔に打ち捨てられたシャフトに今でも電力が通っていたのは、この部屋と棺の機能を維持するためだ。

 棺は、彼らの目の前でかすかにうなりながら振動している。

 

「俺、帰りたくなってきたかも……」

 

 フミオが、ようやく彼らしい弱音を漏らした。

 しかしそれも無理ないこと。彼を尻目に棺のひとつに歩み寄るレイジもまた、背筋を這い登るような寒気を感じていた。

 

 ここで一歩踏み出すたび、だれかの尊厳──あるいは、自分の人間らしさを踏みにじっているような、そんな錯覚があった。

 

 棺の表面は、ステンレスを思わせる冷たい輝きを宿している。

 そこに紫色のマジックで、日付や何らかの薬物の分量、所感らしきものが乱雑に書き付けてある。

 しかし、レイジの知識では何一つ読み取ることができない。

 彼はあきらめて、防爆扉のように頑丈なハッチに取り付けられた窓に顔を近づけた。

 

「大丈夫だ」

 

 彼の言葉に、わずかに安堵の色があった。

 

「あ?」

「カンオケはカラだ。なにも……いや、誰もいない」

 

 レイジは次々と棺を確認していく。

 並んだ棺の数は六つ。フミオも近づいて、恐る恐る覗き窓に取り付く。中身は空だ。

 その次も、またその次も──主のない、からっぽの棺だけが、そこに残されている。

 

「誰かが死体を持ち出した?」

 

 言い終わってから自分の言葉のおぞましさに気付いたように、レイジは自分の口を覆った。ホコリとカビの混合物と化した大気に晒され続けた皮膚のにおいがドッとノドに流れ込み、流石の彼も激しくむせる。

 

「ここに入れるヤツは一握りだ。オッサンと、あとは」

 

 可動橋を動かすために使ったIDカードをフミオはまだ握っていた。

 

「とにかく七年間、ここには誰も立ち入ってない。探そう。たとえば──」

「待て」

 

 とうとう最後の棺も空だということを確認し終えたときだった。

 棺から目を離さないまま、レイジは背後に言葉を投げた。

 

「なぜそこまで“死体”に(コダワ)る」

「おいおい。そんなの一々気にするヤツだったか、オマエ」

「答えになってない。俺だけを連れ出して、そのムナカタという男の研究室を見せて。何を知りたい。何を知らせたい」

「それは……」

 

 言いよどんで、フミオは杖にもたれかかった。

 視界の端で灰色のボロ切れが揺れた。

 

『さて。フミオ。男の見せ所だよ』

 

 小ぶりな拳を振って、少女がテクテク歩いてくる。全身を覆うフジツボのかけらが擦れ合う音が聞こえるのは、レイジだけだ。

 

『ユージューフダン、やめたいでしょ?』

 

 当然、その囁きがフミオに届くこともない。

 彼女は近くの棺に腰掛けて、そっと彼を見上げた。一ヶ月前までヘラヘラ笑ってタバコをふかすだけだった男は、もうそこにもいない。

 うなだれたフミオは、垂れ下がった金髪の下で、追い詰められた猛獣のような苦悶を顔に浮かべていた

 

「ムナ……カタ、は……俺の…………」

 

 ──父だ。

 

 ノドまでせりあがった言葉を、フミオは飲み下した。

 

「フミオ?」

 

 言うのか? 今? 

 自分のルーツを、父親がムナカタであることをレイジに明かすのか? 

 俺の肉親がお前からすべてを奪い去りました──と言ったとき、俺たちはどうなるんだ? 

 

 様々な考えがフミオの脳裏を過ぎった。

 指がしびれるほど杖を握り締め、やがて彼は──

 

 

「…………一年間で一万五千回の手術」

「ん?」

『ふうん?』

 

 ほんの一瞬、少女の瞳孔から光が落ちた。

 

『そんだけ? なんか、ごまかそうとしてない?』

 

 動きを止めた少女の顔の中で、生暖かい穴のようになった瞳だけが、ぎょろぎょろと動いている。

 

「一万五千回だ。レイジ、お前が七年前、一年間で受けた手術の回数」

 

 フミオの声が微かに震えていた。

 

「手術……?」

 

 その震えがどこから、どうして来るのかも分からず、レイジは失われた記憶を探るように自分の頭に触れた。

 

「麻酔なんざ使わねえ」

 

 行きに通りかかったチューブの中の子供部屋。拘束具のついたベッドを思い出しながら、フミオは棺を撫ぜた。

 

「頭切って、開いて、底のほうから脳みそほじくり返すんだ。どうせ死なねえからってな」

 

 フミオの言葉を継ぐように、少女のがグリっと動いた。

 ふくろうのように、人間には不可能な角度で。

 

『レイジはすごく泣いて、叫んで──最後はね、何も悪くないのに謝ってた。あいつら……ムナカタはおかしな機械をレイジに繋げたり、はがしたり、ずっとやってた。

 ギリギリのラインを見極めるみたいだった。死なないと分かったあとは、本当に乱暴になった。毎日撃ったり斬ったり。それに飽きたら、穴から裏返して、分解して……混ぜたり、無理やりいろんなことをさせたりした。十歳の子供にだよ』

「脳のどの部分が記憶ってのに関係するのか。どこを切ったら忘れるのか。どんな薬を使えば、あるはずのない過去が生まれるのか」

『そして、ムナカタの研究は完成した』

 

 レイジに向き直る少女の片腕が、沸騰したように泡を吹いていた。

 ぐつぐつという幻聴を彼の耳に届けながら、灰色の皮膚とフジツボが絵の具のように混ざり合い、肌の奥から湧き上がる黒色と、グロテスクなマーブル模様を描く。

 

『だってレイジ、本当に全部忘れちゃったでしょ?』

 

 ■

 

 少女が棺から降り立つと、彼女の右手が汚泥の塊となって床に落ちた。

 さっと立ち込めた悪臭は幻覚ではない。

 フミオの眉間に、しわが寄る。

 そこに確かな憤怒と共に少女が『いる』ということを叫ぶように、床の上で黒い汚泥が沸き立っている。

 

「そうしてムナカタは……記憶を操る方法を見つけたんだとさ」

『イスルギレイジという、一人の子供の十年分の記憶。そしてにんげんらしさと引き換えにね』

 

 言うことを言い終えたフミオは、疲れたかかしのように松葉杖に寄りかかった。

 彼の目の前に少女が立って、見上げている。

 その顔を、レイジは見ることができない。しかし、彼女がフミオに向かって振り上げた拳は、小刻みに震えていた。

 

『レイジは……町の人たちを救ったとも言える。記憶操作という技術の礎になることで』

 

 いつまでもその拳を振り下ろすことができず、彼女はレイジに背を向けたまま、項垂れた。

 

『ごめんね。私、あなたの命を守れたけど、心まではどうしようもなかった』

 

「なんでそんなに辛そうなんだ?」

 

『ふえ?』

 

 フミオと少女、二人がいっしょにレイジに顔を向けた。

 

「俺は何も覚えていない。だから、そんな深刻に話されても、困る」

『なにそれ』

 

 二人に気を遣った訳ではない。レイジは心の底からそう思って話していた。

 

「レイジお前、モルモットにされたんだぞ」

「ああ」

「マジでひでえ手術だったんだ。俺は記録を読んでいて……吐きそうになった」

「でも俺は覚えてない。だからいいんじゃないか」

 

 どうでもいい──レイジの顔に浮かぶ無関心が、そう語っている。

 いきなり町で呼び止められて、興味の無いアイドルの交際話を語って聞かされて感想を求められたような、少し驚いた顔で、少し拍子抜けした顔で「ああ、そうなんですか」と言っている時の様な顔だ。

 

『どうして』

 

 まるで自分の一部のように、レイジは少女の絶望を感じ取っていた。

 だからこそ、彼は申し訳ない。そんなに悲しまれるほど、自分がかわいそうだと思えないからだ。

 レイジにとって己の過去は、スクリーンの中で火を噴いて落ちていくヘリコプターと同じ、フィクションの悲劇でしかない。

 

『そこまでなの。レイジは、そこまで「にんげん」をなくしちゃったの……?』

 

 酸鼻を極める過去を他人事のように受け止めるほど、過去のレイジが彼の中から消失していることが、少女を絶望させる。

 

「二人とも、やさしいんだな」

「二人?」

 

 フミオの視線が、足元に落ちた汚泥に注がれる。

 だが、それだけだ。

 彼は何も感じられない。少女の中でふつふつと湧き上がるドス黒い感情でさえ、彼を素通りしていく。

 

『……ひどい扱いを受けてたんだよ。怒らないの。いつもみたいに』

「忘れたことは、もう他人事だ」

『ああ──』

 

 少女が両手で顔を覆った。

 それからしばらく、レイジとフミオの間に漂う沈黙に彼女も身を浸していたが──唐突に、彼女の感情がはちきれた。

 

『ああ、あああ、クソ! クソ!』

 

 少女が耐え切れなくなって振るった拳が、立ちすくむフミオの胸をすり抜ける。

 

『なんでだよ! 私はずっと一緒にいたじゃないか』

 

「お前はそいつらのこと、殺したいとは思わないのか」

「ひどい話だとは思う。だけどやっぱり、それは俺じゃない。他人のことなんだよ」

 

『私は傍にいて、ずっと手を握ってたのに!』

 

「悪いな。俺は昔からずっとこうだ。カナタが言ったとおり、俺はやっぱり『にんげん』として不完全なんだと思う」

「ムナカタが目の前にいたら、どうする」

「どうもしない。俺が知ってるムナカタは──いや。ムナカタおじさんは、優しい人だ。それで十分だ」

 

 笑った。

 レイジはこれまでに取り戻した『にんげん』を振り絞って、フミオに笑みを向けた。

 

「今日のフミオは、やたらと俺に気を使ってくれるな」

「あ?」

 

 呆けたように、フミオはレイジを見つめる。

 

「この話をするのは、きっと辛かったと思う。でも、()()()()()。俺なんかのことを、気にしてくれて」

「ああ……いいんだ……」

 

 彼がそっと伸ばした手を、フミオが握り返す。

 

「だって俺ら、友達だ──」

『フミオ、お前、ふざけんなよ!』

 

 そこで声を上げたのは少女だった。

 

 ベチャッ、と音を立て、大きな泥の塊が床を打つ。

 それに驚いたフミオが手を引っ込める……が、彼に分かるのはそれだけだ。

 

「きみ……」

 

 レイジは違う。

 

 彼に見えるもの、それはぐつぐつと煮えたぎる何かに衝き動かされる、一匹の狼だった。

 獣の形相だった。少女のヒビ割れた瞳孔が激しく泡立ち、小さな眼窩の中で無数の瞳がひしめき合う。

 複眼でフミオを睨み付ける少女の口元から、白い蒸気が立ち上った。口は大きく、耳の辺りまで裂けている。

 全身を鎧のように覆うフジツボの隙間から濁流のように流れ落ちるのは、タール状の黒い汚泥だ。

 

『なんてことしてくれたんだ! ちくしょう! なんてことしてくれたんだ! あのやろう! あのやろう! 許さない! 許さない!』

 

 もはやどんな怪物よりもおぞましく変貌した少女が、フミオに向かって何度もカギ爪を伸ばした。しかし、それはすり抜けるばかりだ。

 

「なんだ、この泥。このニオイは」

『殺す! 私の体がここにあったら、ムナカタもお前も八つ裂きにしてやるのに! あああ! あああああああッ』! 

 

 レイジは思わず、少女に手を伸ばした。

 だがそれですらむなしくすり抜けていく。彼女の絶望のあまりの深さに、レイジは手が届かない。

 

「な、レイジ。この泥、なんなんだよ……」

「それは……」

 

 鼓膜をつんざくほどの大声で叫ばれたって、フミオにはそれが聞こえていない。

 少女の気持ちは彼に届かない。レイジにもだ。自分のことで怒ってくれているのに、自分のことだと思えない。

 

 レイジはとても孤独な気分だった。

 

 ────同じような反応を、ずっと前にもされたことがあったか。

 

 あれはキリエとレイジが初めて出会った日。

 長い長い、昔語りが終わった時だった。はずだ。

 姉のことなど覚えてない、と告げた直後に、彼女の顔が酷く歪んだことを。いたたまれない様子で立ち尽くす二人を見つめながらレイジは思い出した。

 

「……探そう。死体を。それで、終わりにしようぜ」

 

 ややおぼつかない足取りで歩き出したフミオが、少女の幻影の中を通過して、レイジの方に歩いていく。

 

『おいっ──ひきょうものッ!!』

 

 歩き去るフミオの背中に少女が叩き付ける言葉は、彼を素通りしてレイジに突き刺さるだけだった。

 

『この野郎、まだレイジに言ってないことがあるだろ。言えよ。その口で、今、この場で。自分の中に何色の血が流れてるか──』

 

「フミオ」

 

 いつも飄々としていて楽しそうな少女が、ここまで真っ黒な怒りを滾らせていることに、レイジは静かに慄いていた。

 

「俺に何か、まだ話してないことがあるんじゃないか」

 

 レイジの前で、フミオは目を伏せた。深いため息を漏らしながら、彼はゆっくりと、藻が絡んだような動きで首を横に振った。

 

『……うそつき。信じらんない。どの口で友達だなんて……』

 

 やっとレイジの存在を思い出したかのように、彼女はめちゃくちゃになった自分の顔を手で覆う。

 

『みないで。お願い』

 

 レイジは言われた通り、少女とフミオに背を向けた。

 

『たまに……がんばって作った形を忘れそうになるの。すぐ、ヒトに戻すから……』

 

 見えているかどうか分からないが、一度やさしくうなずいて、棺に触れる。

 

「フミオ。俺たちはトモダチだ」

 

 背中を見せたまま、レイジは語りかける。

 フミオは、かけがえの無いトモダチだ。

 言いたいことも言えないことも、きっとあるのは承知しているつもりだった。

 

「だから俺は、フミオが何を隠していても怒らない。話してくれないか」

「何も。何もない。これ以上は」

「分かった」

 

 だから、レイジはそれでおしまいにする。

 フミオが何かを隠しているのが明らかだろうが、彼との間に出来てしまった距離を感じていようが。

 トモダチが嫌がることを、したくはない。

 

『甘いよ』

 

 振り返ると、少女はひどくへそを曲げていた。

 大体元通りになった顔を、彼女はプイと背ける。あれほどの異形に成り果てた顔も、今では大きく裂けた頬の中で二股に裂けた舌が見え隠れするだけだ。

 

「その……きみ……」

 

 何と声をかけようかと迷うレイジの前で少女は天井を指差した。

 

『“死体”はあれだよ。大事にして。やさしく触ってね』

 

 レイジは彼女の指の先を追って、それを見つけた。

 六つの棺に囲まれて、真鍮色に輝く柱が立っている。今まで支柱とばかり思って二人が見過ごしてきたものの表面が動き始める。

 金属のプレートがゆっくりとスライドし、中に秘められていたものの姿をあらわにする。

 

「レイジ、なにをした」

 

 フミオが驚いて振り返ったが、レイジも呆然と柱を見上げているだけだ。

 それまでシャフト全体に響き渡っていた微震が、いきなりズシリと重みを伴って部屋を揺すり始める。

 

 ズシン。ズシン。ズシン────

 

 パラパラと、天井から破片が降り注いで棺のフタに積もっていく。

 一定のリズムで繰り返される力強い揺れがレイジとフミオの脳裏にあるものを想起させた。

 それは拍動だ。

 まるで、この巨大なシャフトが一個の生き物として目覚めたような。

 普段だったら鼻で笑ってしまうような錯覚を、二人は否定できない。

 

 柱の中から現れたもの。

 それは、小さな小さな、子供の脊髄だった。

 

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