世界の果ての小さな地下都市。その地面のさらに下の下、地の底を貫くシャフトの中にある、小さな小部屋。
胃壁に食い込んだ寄生虫の群れのようなケーブルが取り巻く中で、ねれた脊髄が静かに脈打っていた。
ドクン、ドクン──
支柱の外見は無骨だったが、内部には金色の保護フィルムが張り巡らされていた。
熱、電磁波、薬品──あらゆる干渉を妨げるシールドから解放された金属の保管容器には、粘度の高い青色のジェルが充填されている。
誰かが、何かがそれを傷つけるのを防ぐように。もしくは、今にものたうってガラス管から飛び出していこうとする脊髄の動きを押し留めるかのように。
荘厳で、奇妙な装置だった。
「これが……“子供の死体”だってのか?」
『そだぜえ』
あっけにとられるフミオの口調を真似て、少女が答えた。
「こんなんどうやって取り外しゃいいんだよ……」
『レイジ……』
ちょっとこいこい、と少女がレイジに手招きする。
「どうした」
『せぼねは、四本のボルトで柱にくっついてる。めっちゃアナログだけど、全部取り外すだけで、アレを外せる。でも──』
少女はそこで、フミオに目をやった。
彼は口をあんぐりあけて柱を見上げているところだ。次々に巻き起こるSF展開の数々を頭の中で整理しようと、必死のようだ。
『フミオにぜったい、せぼねを渡さないで。最後のボルトは、あいつに緩めさせて。隙を見せないで』
「どうして?」
レイジの声は殊のほか大きく響いた。
棺に腰掛けた少女が『あちゃぱ』と顔を覆う傍ら、声に反応してフミオが振り返る。
「ンだ?」
そう振り返って首をかしげる彼は、やはりいつもの暮フミオでしかない。
バイクいじりが趣味で、学生の癖に喫煙者。新しいものと面白いモノが大好きな、レイジの無二の友人だ。
「お前が言ってたガキ、もしかしてここにいるの?」
中腰で虚空を見つめるレイジの前で、フミオは首を傾げる。
「ああ。おかげで、それの外し方を教えてもらえた」
『レイ──ああもう、そいつ信じるわけ!? そいつの親は……』
わずかに顔の輪郭を崩しながら、少女が叫んだ。しかし、その言葉は最後まで形にならない。
『そいつは……フミオのうんこやろーの口で言わせたいんだけどね……!』
「……フミオは、いいやつだ。大丈夫だ」
「なん、だよ」
いきなりほめられたフミオが、奇妙な顔でレイジを見た。
『ばかしらない。おひとよし。私、忠告したからね』
頬を膨らませた少女が、太いケーブルの束を乗り越えていく。
部屋の隅まで行って、彼女は三角座りを決め込んだ。これから起こることを見守るように、ただじっと、視線を送ってくる。
「あの『背骨』なんだが──」
彼女に睨まれた背中がちょっぴり痛いのを我慢しながら、レイジはフミオに説明した。
「なるほど。こんなナリして、だいぶアナクロなのね……」
『そいつが私と同じこと言うの、すっごい、ムカツク』
簡単に説明されたフミオは、その場に松葉杖を投げ出した。交通事故からずうっと体に溜まっていた凝りをほぐすように、ストレッチをする。
「さて問題は──」
レイジが言って、二人は支柱を見上げた。
彼らはかなり身長が高いが、保管容器は柱のだいぶ上に取り付けられている。ボルトの位置はさらに高く、軽く背伸びをしたくらいでは届きそうにない。
『それ、踏めばいいじゃん』
少女が指差すものを見て、レイジは顔をしかめた。
『どうせからっぽだよ。踏んだって、バチあたったりしないから。私がほしょーします』
「とはいえ……」
「うわ」
一応、レイジはクツを脱いだ。
棺の上に上がっていく彼を見て、フミオは眉間にしわを寄せる。
「お前。それ、どうなのよ……」
『黙れ、ばかキンパツ』
「俺もこういうことするのは倫理的にアレだと思うんだが……」
中身が空だとしても、棺を足蹴にするのはいい気分がしない。
レイジの足裏の湿気で曇ったステンレスを、フミオはしばらく、じっと見つめた。
「しゃあねえ、か」
ややあって、観念したように彼も棺によじ登る。痛む足をこらえながら背伸びして、ボルトの具合を確かめ始めた。
無骨な六角ボルトは、締めた上から保護用の
ボルト自体がかなり小ぶりで、おまけにこんな事態を想定して工具を持ち込むほど、二人は準備が良くない。
これからの作業には、かなりのテクニックと根気が要求されそうだ。
レイジがボルトをあちこち触りながら緩めやすい持ち方を探していると──
「──ン」
ふわり。
立ち上った香りが、彼の手を止めた。
レイジは足元の棺を見下ろす。それだけが、ほかのものとは様子が違った。
蓋の止め具がはずれ、中身のベッドがあらわになっている。
カラッポになった内側も外側も、乾いた赤黒いもので──おそらくは血で汚れていた。
それは棺の周りも同じだ。床、チューブ……撒き散らされた赤錆色の量はかなりのものだ。
「カナタ……」
「あ? お前、いきなりテメエの女の名前呼ぶの、キショいぞ」
柱の反対側でボルトをカチャカチャ鳴らしていたフミオが奇妙なものを見る目をレイジに向けてきた。
レイジは答えず、匂いの本質を探るように深呼吸した。
古いブラウン管テレビを消した直後のようなオゾン臭が部屋に充満していた。それと七年分のホコリとのカクテル。
そこに一筋の糸のように漂うのは、やはりカナタの香りだった。
どこか懐かしい、潮のような花のような……棺から立ち上る香りを嗅いでいると、レイジは彼女の傍にいるような気落ちになる。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる、不思議なにおいだった。
「だっ……! クソ、血が出やがった……」
その香りに魂の端をつままれたようにボンヤリしていたレイジは、フミオの悪態で我に返った。
ボルトはエッジが立ち、ギザギザだ。
加えて支柱の表面は、霜をうっすら纏うほど冷却されている。手にしたライターでボルトの頭を暖めるフミオの向かいで、レイジも作業を再開した。
■
「なあ、レイジ」
フミオはいつしか靴下を脱いで、グローブ代わりに手にはめていた。
「話、してえんだけど。いいか」
二人とも作業が難航していた。
フミオの足のコンディションは最悪で、手は傷だらけ。小休止を何度もはさみながら、体をピンと伸ばして一ミリずつボルトを緩める。
「どうした。こんなときに」
「こういう時だから、だよ。ちょっとした相談、みてえな」
「もちろんだ。フミオの話なら、俺はなんでも聞く」
その反対側で、不器用オブザイヤーも大苦戦中だ。
長年刻み付けてきた古傷のせいでこわばって、レイジの指は細かい作業向きじゃない。
彼にとって直径二センチのボルトとの格闘は、脳外科手術の難易度にも匹敵する。
「このためにお前一人を連れ出したみてえなもんなんだけどさ……」
部屋に響く装置のうなりの中に、フミオが大きく息を吸い込んだ音が混じった。
「────海、マジで行く気か?」
「ああ」
ギュルッと鳴いて、ボルトが大きく回る。
レイジは、溜め込んでいた息を一気に吐き出した。一度緩んだ後は早い。ボルトは観念したように、彼の手元でグルグル回転する。
「俺のハナシ、聞いてなかったのか。外はロクなもんじゃねえ」
一つ目のロックが解除された。レイジが床に放り捨てたボルトが、乾いた響きを奏でる。
「水も食いモンも、無いかもしれねえ。お前が大丈夫でも、カナタがネを上げたらどうすんだ?」
「食べものがいるなら、俺が担いでいく。必要なら何トンでも。カナタに不自由はさせない」
反対側から、フミオの舌打ちが響いた。柱が影になって、その顔はレイジから見えない。舌打ちの意味も読み取れない。
「海なんて、ただの潮溜まりだぜ」
「俺たちにとってはそうかもしれない。だが、カナタにとっては大事なものなんだ」
「砂場でジャリジャリになって、潮水でベタベタになって……どうせあの女、帰り道で文句するぜ。『クタクタだぞ~』とかな。何が楽しいんだ」
「楽しいとか、楽しくないとか。そういうんじゃないんだ、もう。俺たちには」
「ハ。俺たち、か」
レイジの決意は揺らがないが、足場はそうもいかない。
床にしっかり固定されているとばかり思った棺は、ただそこに置いてあるだけに過ぎなかった。
ボルトを緩めるためにレイジが爪先立ちすると、不安定な足場はグラグラと傾き、半開きのフタがカスタネットのように音を立てた。
「俺はカナタの望みを叶えたい。カナタが幸せになれるなら、俺は死んでもいいんだ」
ゴットン。ガタタ。
部屋の片隅で横倒しになったストレッチャーが大きな音を立てて震えた。
それこそレイジにとっての『アチャパー』だ。いつの間にか後を尾けてきた彼女が、どこかで聞いていると思って言った言葉だが、あまりにも反応が過剰だ。
『わあ。やば』
壁際でじっとしていた少女が引きつった笑いを浮かべている。
ストレッチャーの影から、ぽやぽやとハネた白髪がハミ出ている。やはり『彼女』に、かくれんぼは向いていない。
「──ポッと出の女が、そんなに大事か」
レイジと少女は焦りまくったが、フミオは音の出所に興味を示さなかった。
色あせ、ほとんどプラチナブロンドになりつつある金髪が、支柱の向こう側でそよいだ。彼の顔が傾き、わずかに銀色の光を帯びたフミオの目がレイジを見据えてくる。
「ポッと出なんて言い方はよくない。カナタはもう、俺たちの大事な友達だろ」
「ゴタクはいい。どうなんだ?」
「どう?」
「言ったろ。お前の『だいじ』ってやつが、俺にはサッパリなんだよ。どのくらいだ。レイジの生活すべて、平和な町での暮らし全部、投げ打つ価値なんてあるのか」
「そうだ。カナタは俺にとって──」
「おい、いいか。ちったあ考えろ!」
ドッ、コン。
さっきの物音とは比べ物にならないほどの衝撃音が、部屋に響いた。
『なにすんだよ』
少女が視線を尖らせる。
フミオの拳は脊髄の収められた容器に突き立ち、血を滲ませていた。それ以上に痛々しいのは、彼の表情だった。
「オンナ出来て……浮かれンのもいい加減にしろよ」
彼は唇を噛み締めていた。
その犬歯はとても鋭い。もうほんの少し力をこめれば、充血した唇を食い破ってしまいそうなほどだ。
「目ェ覚ませよでくの坊。人生は長ェ」
ガタつく棺の上で、フミオは踏ん張る。拳の痛みも、力をこめられて折れた足が悲鳴を上げるのも、今の彼はお構いなしだった。
「これが最後の夏でもねえ。来年も夏はくるんだ。だってのにお前は、これから先を全部、あいつ一人のために棒に振るってのか」
「そうだ。カナタのためなら、後悔しない」
「俺を裏切ることになってもか!?」
その大声に、レイジは耳を疑った。
「裏切る? 俺は誰も裏切るつもりはない」
「この町は……西町はオッサンのもんだ。そして、俺は……ツラ合わせて言えねえけど、尊敬はしてんだよ」
『血のつながってない相手を、ねえ』
ジェルの中を泳ぐ脊髄が、ゴポ……と気泡を吐いた。
「だから。この町を出て行くってんなら、そりゃ防衛局を裏切るってことで。だからそれは俺が尊敬してるオヤジを裏切るってことで……んで、オヤジを裏切るなら俺も──あああああ! 違うッ!!!」
不意に叫んで、フミオが頭をかきむしった。
彼の手が離れたひょうしに、ボルトが一本抜け落ちて、床を打つ。
「そんなんじゃ、そんなんじゃねえんだ! ────頼むレイジ! どこにも行かないでくれッ!」
「……フミオ?」
「いいかレイジ、いっぺんしか言わねえ。俺はお前が好きだ。ダチとして、お前が好きなんだ。ボンヤリしてウスノロな、変わらないままのお前が!」
『へえ』
一気に吐き出したフミオの口元が、涎で光っていた。
彼はそれを腕で拭いながら、今更痛みを思い出したように大きくうめいた。
「クソ……こんな恥ずかしいことばっかしてっから、俺はオトナになれねえんだろうさ……」
半端に緩められたままのボルトが、フミオの頭上で鈍く輝いていた。
彼はそれに目もくれず、折れた足を何度もさする。痛みのためというよりは──恥ずかしさだとか、照れくささをスラックスになすりつけて、ごまかそうとしているようにレイジに見えた。
『だったらどうして、全部話さないの?』
フミオを見つめる少女の目は、絶対零度の光を帯びていた。
『いっつもバカにしてたレイジに、嫌われたくないから?』
「……な。フミオ」
レイジの顔を見て、少女が鼻を鳴らした。
『ふんだ』
彼は、微笑を浮かべてフミオを見据えていた。
うれしかったのだ。純粋に。フミオに行くなと、大好きなトモダチだと告白してもらえたことが。
レイジにとってフミオは、一種の憧れだった。
バイクがあってカッコがついて、キチンとした家がある。その気になったらどこにでも飛んでいける、渡り鳥のような男だと思っていた。
どこにでも行けるから、クラスで誰にも相手されないレイジのところにやってきて羽を休めてくれる。
彼が憎からず思っていたことを打ち明けてくれて、レイジは心が温かくなっていた。
「教えてくれ。俺はどうしたらいい。どうやったら、フミオは安心できる?」
「カナタを諦めろ」
「は?」
だがその温もりは、ほんの一瞬で過ぎ去った。
「カナタを防衛局に突き出して、一番強烈な記憶操作を受けろ。んでもってゲームセットだ。二人でまた、バカな学生やろうぜ」
「なんの……冗談だ?」
「冗談抜かすような雰囲気じゃねえだろ」
フミオは額の汗を拭って、顔を上げた。
「戻ろうぜ。カナタがいなかった頃に」
彼の表情は、決意とは程遠い。
そのポロシャツの首元からハミ出たランニングのヒモと同じくらいヨレヨレで情けない、泣いてるような笑っているような必死な顔だった。
「何……は……?」
「俺とお前と、でもってルリコ。ツルんでバカやって、将来の夢とかテキトーやってる時が一番楽しかったじゃねえか……!」
「そ……そこでどうして、カナタがいらないって話になるんだ!?」
「あいつは違うんだ。俺たちとは違う。あいつがいると、何もかもおかしくなっちまう!!」
「お前、何を言っているのか分かってるのか!!」
ついに限界を迎えたレイジの怒号が、部屋に張り巡らされたタイルをビリビリ鳴らした。
男二人。息を荒げる。
「ふざけるな……フミオ……どうかしてるぞ…………」
レイジは怒りをたぎらせた。
この部屋にフミオと二人っきりなら、彼だって、もう少し冷静に話し合えただろう。だがそうもいかない。
フミオが思っているよりずっと多くの人間が、この話を聞いている。
『フミオは、フミオの青春が大事なだけだろ。フミオが気持ちいい世界が恋しいだけじゃないかッ!』
届くはずの無い少女の叫びが、空気をつんざく。
彼女も彼女で、気が気じゃないのだ。しきりにチラチラ視線を送るストレッチャーの影には、カナタがいる。
「いらねえんだよ。笑えねえんだよ。何がボーイミーツガールだ!」
「フミオ、今すぐ撤回しろ!」
「るせえ、カナタの言うことホイホイ聞くだけのでくの坊が! ムツカシー言葉で俺様に説教かましてんじゃねえぞ!」
毎日バイクに乗せてくれたフミオが。
手作りの弁当を「うめえ」と言って食べてくれたフミオが。
一緒に笑って、バカして、フミオとふざけあった日々が、カナタの目の前で否定されていく。
(カナタ……)
レイジは物陰をチラリと見た。
たとえばこの瞬間にカナタが『このくそバカフミオがーッ!』なんて言って、飛び出してぶん殴ってくれたら、彼はいくらかマシな気分になれた。
だが、彼女はそれすらできずに息を潜めている。その気持ちを考えるだけで、レイジは胸が張り裂けそうだった。
「ガッカリだ。フミオには」
「分かってるよ。お前にキツいこと言ってんのは……!」
『あ』
ずっと柱から響いていた駆動音は、もはや聞き取れないほど小さくなっていた。
もともとこの柱は、ここに脊髄を縛り付けるはたらきをするものなのだろう。ボルトが外れ、解放の時が近づくにつれ、その動きは鈍くなっていく。
「俺も必死に考えたんだぜ。でも、やっぱこれっきゃねえよ……」
三本目のボルトが床に落ちる音が、いやに高く反響した。
フミオから目を離すな──と少女が言っていた意味を、レイジは理解した。彼は爆弾だ。もう、信頼できない。
「そんな目で見ンなよ……」
足の折れた彼は、老人のように緩慢な動きでケーブルの山を乗り越えてくる。レイジのほうへ向かって、這うような速度で歩いてくる。
『レイジ、気をつけて』
「問題ない」
レイジは最後のボルトの頭に、そっと触れる。
「ハ……俺にとっては問題オオアリだっつの……」
少女に向けた言葉を自分へのものと取ったのか、フミオは薄笑いを浮かべた。うっすらクマの浮いた目元にしわまで寄せて、彼はヨロヨロとレイジが乗っている棺に腰掛けた。
──問題ない。
彼のプリン頭を見下ろしながら、レイジは心の中で復唱する。
もはや友とは思わない。そしてレイジは不滅の肉体の持ち主だ。
「どうして……こうなっちまったんだろうなァ……」
そう呟いたフミオが何をたくらみ、何をしてこようと、決して彼を傷つけることはできない。
レイジは、無敵だ。その心の中にカナタがいる限り。