「まま待ってくれ!」
ド派手に壊れて再生したばかりの手足は、どことなくぎこちない。
潮水でじっとり濡れた七区の住宅街は、つくりが古い。剥がれかけたネズミ色の漆喰壁が立ち並ぶ間を走る路地は細く、のたうち、日の光が当たらない。
その路地をあっちへヨタヨタ、そっちへワタワタ。文字通り右往左往しながら追いかけてくるレイジのことを、ずっと先をいく女は胡散臭げに見つめる。
「アタシに指図すんな。てめえが追いつけ」
レイジのシャツの胸元が、鮮血で汚れている。
女の膝小僧にも赤い斑点が見える。
彼女のPKで見事に顔面をブチ抜かれたレイジは、鼻の下で固まった血を拭うことも忘れて、必死に彼女を追いかけていた。
お構いなしで、女は大股で通りをずんずん歩いていく。
その背中から放たれるのは、ただ拒絶だ。
「土地勘あるのか。さっきから同じ場所をぐるぐる回ってるぞ」
「そんなワケねえだろ。だから話しかけんな」
「見てくれ。ここの看板」
ようやく左右の足の長さが揃ってきたレイジが女のすぐ後ろまで駆け寄って、近くの角を指差した。
女が視線をフイと向ける。
黒い津波に押し流されてきたのだろう。小型の電気自動車が突っ込んだ家屋がある。
錆の浮いたシャッターは衝撃でティッシュのようにくしゃくしゃになっていたが、かろうじて難を逃れた「たばこ」の看板が、電飾の配線だけでブラ下がっていた。
「これで六回目だぞ」
「ろっ……テメエ、その間ずっと黙ってたのか!?」
「話しかけんなと言われたから。ギリギリまで黙っていた」
「んぬう……」
女はおかしなところで生真面目だ。
しばらく何か言い返そうと、頭二つ低いところからレイジを睨み付けていたが、やがてため息ひとつ。
「コーバンは」
「は?」
「交番だよ、交番。オマワリサンがいるところ。道、聞く」
「このあたりには、ない。とにかく七区の外まで行こう。ここは何か──妙だ」
「人いないし──いきなりヒトサマのにおい嗅いで、ああだこうだと抜かすヘンタイもいることだしな」
「あれは……」
「うっせ。寄るな、触るな、ジロジロ見るな」
「別にジロジロは」
「黙れ」
貴重な酸素を分け与えてくれたときの優しさも、涙を流すレイジに駆け寄ったときの心遣いも、今の彼女からは感じられない。
カツン。レイジの目の前に、アスファルトのかけらが落ちた。
「キショいんだよ」
しゃがんで石つぶてを補充した彼女は、後ろ手に握りしめた破片を打ち鳴らして、青白い影に覆われた通りを歩いていく。
うっかり近づきすぎると、それがゆるい放物線を描いて飛んでくる。
当てようというつもりはないのだろうが──彼女の気持ちを物語るには、それで十分だ。
完全にレイジはやらかしてしまった。
「行くあては、あるのか」
それでも怖気づくわけにはいかない。
眉間にしわを深々と刻んで、庭で死んだネズミでも見つけたような目を向けてくる相手は、レイジがようやく見つけた”運命”なのだから。
「もういいから、アタシにかまうな」
「そうか。俺はレイジ。きみの名前は」
「オマエが誰でも知ったこっちゃねえ。アタシの名前を教えるギリもねえ」
立ち止まり、女は、地面に引きずるほど長い髪の毛を見下ろす。
「つーか、なんなんだよ、アタシって」
地面には潮水の他にもタール状の黒い泥が流れ出し、彼女の髪の毛先が黒く染まっていた。
レイジが「あ」という間もなく、彼女はそれを、近くのブロック塀に押し付けて、足の裏で乱暴にこそげ落とそうとする。
乱暴にこすりつけるたび、髪が無惨にちぎれていく。
「せっかくの……きれいな髪が……」
「うざってえ。長い髪って、なんかヤなんだ」
白髪が汚泥の中で泳ぐ。
「オマエなんかに……何言ってんだろうな、アタシ」
長い髪が嫌い。それ自体はおかしくないが、本人にも理由が分からないようだった。
言うつもりの無いことを、つい口にしてしまったのか、女は先のちぢれた髪の毛の束を抱えてやり辛そうにしている。
二人の上で、潮のにおいのする風が電線をゆすっていた。
「あ……腹は、減ってないか。もうこんな時間だし」
「なんなんだそりゃ」
脈絡のないことを言われた女は、半目でジロリとレイジのことを見上げる。
「…………オマエ、マジで、口下手な」
「すまん」
レイジは、そう返すしかない。
「さっきからけっこう好き勝手オマエに言ってるけど。カチンとこねえの」
「こない」
「ハ。そうかよ。こっちはイライラしっぱなしだ」
助けを求めるように彼は視線をさまよわせるが、当然、あたりに人影はおろか、猫一匹見当たらない。
生き物と呼べるようなものは──たくさんある。そこら中に転がった、気味の悪い、黒いさなぎとしか言いようの無い”元人間”たちなら。
時々思い出したようにピチャ、と音を立てて痙攣する塊が気の利いたジョークを差し込んでくれるはずもなく、二人の間に漂う沈黙がより深くなっただけだ。
「じゃ。いくから。ついてくんなよ」
女が背を向けると、今度こそレイジはそこに、掛ける言葉がなくなった。
彼が力なく伸ばした手さえ、その白い髪をすり抜けるだけだ。
引き止めなければいけない。レイジにとてとても大事な相手が、行ってしまう。
「あ。あのう」
彼のものとは思えないほどしゃがれたか細い声は、当然、届かない。
じわりじわりと、女と彼との距離が離れていく。
「待っ──!」
喉の奥がカラカラだった。
いまだかつて感じたこともない焦りを覚えて、レイジが前に進んだ瞬間だった。濡れそぼった薄暗がりに落ちていた町に、急に金の光が満ちた。
その源は遠くの山稜。今まで中心街のビルの後ろに隠れていた夕陽が、再び姿を現したのだ。
女も日暮れの色に染まる。白い肌は朱に。影は濃い藍に。
光の温度に溶け出すように、それまできつく引き締まっていた女の唇が、緩やかにほころんでいく。
「あ……」
嘆息が、漏れ出る。
彼女の目の前で、雑居ビルの壁面が燃えるように輝いている。残骸だらけの公園も、横転してひしゃげた自動車の列も。
悲惨な破壊の爪あとでさえ、すべてが穏やかで、やさしい色合いの中に沈んでいく。
「ここ、なんて町」
握り締められていた石ころが、女の掌からすり抜けていく。
それはレイジにとって見慣れた町だが、きっと、女にとっては新鮮なのだ。
遠くに薄紫の影として突き立つ高層ビルも、湿った電柱も、掲示板のポスターや、ゴミ捨て場のチラシ注意書きひとつとっても。
「オマエに聞いてんだぞ、でっかいの」
「西町」
風にそよいできらめく髪に見とれていたレイジは、はっとして答えた。
「何県」
「K県の西のほう。だったはずだ」
「へぇ…………よく、わかんねー……」
女は空を仰いで、思い切り息を吸う。
豊かで形の良い胸が、ドレスの生地を押し上げるのが見て取れた。
「ケド、新しい世界、って感じのにおいがする。すげー空気が軽い。悪くねえ……」
「そう、か」
「そうだよ」
青い瞳が、遠くの山々の稜線をいとおしげになぞる。
憧れを押さえきれないように彼女の伸ばした手の先で、真珠色の爪が光る。
彼女を見守りながら、レイジは気が気でない。理由もわからず、無駄に大きな体の奥で無駄に大きな心臓が力強く脈打ち始めていた。いつかそれが彼の胸を突き破って、大音量で高鳴りを撒き散らさないかと、無駄に想像力を働かせてしまう。
「ま……ここいらの、気味悪いのはちょっと、シュミじゃねえけど……」
その心配は、杞憂だったようだ。
”気味悪いの”──と言った彼女の眼差しはレイジをすりぬけて、彼らの周囲の地面に転がったものに向けられる。
無数に転がった黒いサナギが、ひゅうひゅうと喘息のような呼吸音を立てて蠢いている。
ザラついた表皮の隙間からは黒い液体がとめどなく流れ出し、住宅街の通りに巨大な液だまりを作り出しつつあった。
「行くあてなら、あるんだ。アタシ、海に行きたい」
暮れゆく夕日の光は一分一秒と色味が変わり、女の瞳に落ちる影も、その鮮やかさを変えていく。
「目が覚める前のことは思い出せねェけど。どういうわけか、それだけは覚えてるんだ」
「思い出せない?」
「全部忘れちまったみてえだ。からっぽなんだ」
レイジは何かを言おうとして──半開きにした口を閉じた。
彼もまた、記憶を無くしている。
あって当然の過去が思い出せない苦しみは、あまり頭が働かないなりに心得ているつもりではあるが……自分と同じなんて言ったら、また彼女の気を悪くしそうだった。
「だけど海へ行けたら、アタシ……」
もはやレイジではなく、自分に語りかけるように彼女は続けた。
海へ行けたら、何だろうか。その続きは大いに気になったものの、レイジの目が、とある異常を捉える。
いまや黒い汁は見える限りの地面を浸していた。
地面そのものがひとつの巨大な怪物になったように、波打ち震える。
そしてそれは、女の足元で一際激しく身もだえし、黒い触手を伸ばす。彼女の履いた白いスニーカーの、縫い目のひとつひとつに指をかけて、ゆっくり這い登り始める。
布地の上に枝状の模様を描いた触手は、今まさに、純白の足首を
「きみ、そこを動くな」
「あ?」
女には、レイジがアスリートのように身を低くかがめるところまでしか見えていなかった。
次の瞬間には彼の体が一個の弾丸と化して、発射されたからだ。
「ぐえーっ!?」
ほかでもない、女自身に向かって。
ドスンと衝撃を感じた瞬間、肺の中で爆弾がはじけて、意識が遠のいた。それもそのはず、十数メートルの距離をほぼ瞬時にカッ飛んできたレイジに、そのままの勢いで抱え上げられたからだ。
「すまん!」
「あ……あぁ? な、なにすんだ……いきなし……」
すさまじいGをかけられて目の前がチカチカするのに耐えて、女が気づくとその体はレイジの肩の上にある。
彼女を丸太のように担ぎ上げたまま、レイジは急停止する。黒い飛沫が、派手に撒きあがった。
「はあっ……はあっ……な、なんだよ、オマエ……やっぱやべえ……」
「すまん。本当にすまん。だが……」
力なく手足をバタつかせて抵抗する女に謝り続けながら、レイジは目をすがめた。
女が立っていた地面の上で、黒い触手が力なく宙を掻いている。それが形を失ってただの汚泥になると──しばらくして、巨大な波紋が発せられた。
むわり。
腐った魚の上に
暴れるのを忘れ、女が顔をしかめる。
「うっ、ンだよ、このニオイ……」
目が痛いほどの茜色が照らし出す地面の上で、ぼこり、ぼこりと、黒い水面の下で何かが呼吸をしているように、泥がうねる。
うねりが強くなるたびに、あたりに満ちる臭気のひどさに磨きがかかる。
汚泥が泡立ち始めていた。しかし、その泡が弾けることはない。
虫のタマゴのように密集した泡たちが風船を膨らませるように大きくなっていく。
泡ではない。目を細め、その表面を観察するにしたがって、細かい凹凸や、筋肉の描く筋が見えてくる。あれは一個一個が独立した生き物だ。
ぐちゃり。
力のこもったレイジの革靴が、足元の汚泥を踏みにじった音だった。
「俺にはアレが……」
自分でも信じられないのだろう。レイジのかすかな声に、女は必死で耳をそばだてる。
「俺はあれが、なにかの頭に見える」
次の瞬間、彼らの目の前で泡のひとつが湿った音を立てて飛び出した。
汚泥を噴水のように撒き散らしながら、異様にやせこけたシルエットが夕陽を遮る。その形は、おおむね人間で、どうしようもなく、非人間的だ。
「掴まれ!」「うあっ!?」
女を掴んだレイジの手に力がこもり、彼女の耳元で、悪臭混じりの温い風がビョウと音を立た。腹の中で内臓が跳ね回る。
夕暮れの町が超高速で彼女の視界を駆け抜けていく直前、目と鼻の先をかすめていった剣呑な輝きは、奇妙にねじくれた三本爪だ。
「う!?」
女の驚愕の声を、耳障りな金属音が掻き消した。
おおよそ人間では考えられないような距離を跳んで下がったレイジが着地する。彼ら二人を襲った存在は、凶悪な爪が突き立ったブロック塀を前に首をかしげていた。
「あれは、なんだろうな」
いつもどおり、岩のように揺るがない表情でレイジが言う。
「なにって……くそでっけー、やべえバケモンだろ……」
”それ”が深いうなり声を響かせる。放射状にヒビの入ったブロック塀から爪を引き抜いていく。それがギッ、ギッ、と力をこめるたび、足下の汚泥と同じ色をした体が小刻みに揺れた。
身長はゆうにレイジに勝り、二メートルを越す。黒い体表は無数の突起を持つ硬い皮膚──ヒトデやナマコのような
さしずめ棘皮人間。
体の大きさに対して不釣合いに小さな頭部には裂け目のような一つ目がついており、ブロック塀相手に悪戦苦闘する間も、濁ったガラス球のような瞳は頭ごと、常に二人に向けられている。
「ヤらしい目つきしてやがる……」
「ああ。気持ちのいいものではない」
レイジも、女も、よく似たものを知っている。
それは人間の目だ。
あの怪物は、どういうわけか目だけが人間なのだ。
疲れ果ててとろけたような死体の目に、生臭い
「アタシ、怖がったりしてねえぞ」
「え?」
「だから、もちっと力、緩めろよ。今だけ、触ってていいから」
女の言葉で、レイジは、女を抱える手に無意識に力をこめていたことに気づいた。
「大丈夫だから────でも、ちょっとヤバげ、か」
地面にひしめく泡がいっせいに立ち上がる。
すべて同じ姿かたちの怪物たちだ。それらはひとつの大きな塊のように、二人めがけて行進を開始する。
ずちゃ、どちゃ、という、重く湿った足音が、暗くなりつつある路地に響く。
「今のうちに逃げちまおう。まだ走れるだろ」
怪物を刺激しないよう、声を潜めて女が言った。がしかし、レイジは微動だにしない。
「どした、おい、もしかしてビビってんのか!?」
路地にひしめく怪物を睨み付けたまま、レイジは女を抱えなおす。その、分厚い筋肉で装甲された胸板の前に。彼の動きが、最もよく見える場所に。
「な、なんのマネだ、マジでやめろって! ふざけんな!」
ズッ。
いやな音を立てて、塀から爪が引っこ抜ける。
ガラガラ崩れ落ちるブロック塀を背に二人に向き直る棘皮人間の背後から、無数の足音が迫る。
獲物を横取りさせまいというのか──目の前の怪物は黒染めの地面を舐めるように身をかがめ、明らかに突っ込んでくる兆しを見せ付ける。
「自己紹介からやり直させてくれ」
「あ、あぁ!?」
湿り気を帯びた冷たい風が吹き抜ける。
自由になったカギ爪の白い残光を残し、夕暗がりの中に黒色の怪物の姿が霞む。
猛然と走り始めた怪物を前に、レイジの双眸に鋭さが宿った。これまでの、ボンヤリしていた男の
「はじめから。俺はレイジ。石動レイジだ」
彼を見上げていた女は、身をよじることすら忘れて、その冷たい輝きに見入ってしまった。
いつしか怪物の姿はレイジの目の前にあった。
すでに振り下ろされた三本爪の狙う先は、レイジの脳天。それをマトモに受けてしまえば、胸元の女ともどもバラバラになるのは避けられない。
「まず俺は、速い」
退くではなく、彼は進んだ。
女が強く腐臭を感じた瞬間、レイジは散歩でもするような気安い足取りで、怪物の懐に侵入を果たしていた。完全にタイミングを読まれた怪物の太腕は彼の側頭をかすり、その背後の虚空をむなしく切り裂く。
「そして、強い」
そのまま半身ひねり、彼は右手ひとつで怪物の腕を取った。
空振りして大きく前にのめった怪物の勢いに、ほんのわずかに彼が後押し。鉄の柱をもゆるがせる彼の怪力で巨体を引き、足を払う。
「稽古も、それなりに積んでいる」
怪物がうなり声を立てながら汚泥に突っ込んでいく。
あんぐり口を開けてそれを見送る女の顔に、怪物の巨体が背負って陰っていた夕陽が差し込んだ。
「な、な、な──」
「趣味は映画鑑賞。少し古いアクション娯楽作が好みだ」
涼しい顔でレイジが言い放つ。
彼の背後では、一番手に遅れを取るまいと、それまで一糸乱れぬ足取りで行進してきた棘皮人間の群れが、バラバラに解けて二人に殺到する。
暴力的な数の怪物に踏みしめられる通りに機関銃のような足音が響き渡るが、レイジはいつもの調子だ。
「マッチョの男が半裸で──」
今度は横凪ぎに払われた怪物の爪を飛び退いてかわす。
「大立ち回りをして宇宙の平和を取り戻す──」
かわしただけではない。依然として抱えられたままの女の視界が横にブレた瞬間、真っ黒な腕が空を飛ぶのが見えた。
「そういう話が好きだ」
渾身の威力で蹴り上げられたレイジの脚は、もはや重厚な刃物に等しい。
肘から先を吹き飛ばされ、ダラリとぶら下がった腕の残骸を呆然と見下ろす怪物の顔面に、素足の爪先が叩き込まれた。
「うわ」
土踏まずの辺りまで頭の中にめり込んだ足を見て、女は顔を引きつらせた。
当然、怪物は死んだ。
杭のように貫いた足をヌラリと引き抜くと、ゴポッ、ゴポッと、数度黒い液体を穴から噴出して、その体が倒れこむ。
「可能なら俺もそうありたい。いや、半裸の部分ではないが」
次の怪物に向き直るレイジの輪郭を、背負った夕日が照らし出す。
もはや神々しいまでの肉体美。ダビデ像や金剛力士像とも力比べができそうな体に黒い体液を浴びて、彼は腕の中の女に重々しく頷いて見せた。
「実際今、マッチョで半裸で大暴れだろ」
女はといえば、彼の暑苦しさに食傷気味だ。
やりとりの間に、さらに五体の怪物が地面に倒れ伏す。
たった数秒間の格闘で、レイジはシャツのボタンをほとんど全て吹き飛ばしていた。夕風が吹き渡るたびシャツがはためき、暑苦しい胸板が女の前に突きつけられる。
「まあ……やるじゃん。ちょっと、やりすぎだけど……」
女のゲンコツがその胸を打った。
「お褒めに預かり
「キョーエツ……?」
レイジは足元に広がる黒い海を睥睨する。それはこの瞬間も震え、うめき、泡立ちながら、更なる怪物を生み出そうとしている。
「きみの名前を教えてくれないか」
「……また、キモいこと言うわけ?」
「俺が気持ち悪いのは承知の上だ。それは本当にどうにかしたいところだが、どうやら、どうしようもない」
沸き立つ汚泥がうなって弾ける。
腐った海草を引きずるような音を立てながら、泥の中から棘皮人間の群れが這い上がってくる。その数は、異常だ。
「だが、これだけは約束する。俺は徹頭から徹尾まで、きみの味方でいよう。きみのために戦い、きみを守り、そして、絶対に傷つけない」
だらしなく開け放たれたコンビニの自動ドアの隙間から、小学校のゲートを押し開けて、はたまた側溝の中から──ありとあらゆる、人間の生活があったはずの場所から怪物が湧き出し、殺到し始めていた。
「囲まれちまったケド」
まるで七区全体が怪物の巣になったようだ。はたまた今や西町全体がそうなのか。
黒い群れが地を埋め尽くすように広がり、数え切れない死者の瞳がレイジと女を貪るように見つめていた。
「海へ行きたい。と言っていたな」
レイジが、黒い体液で汚れた手のひらをスラックスで拭って差し出すと、女はシンプルに困惑して見せる。
「俺が海へ連れて行く。約束する」
「こだわりすぎだろ。どうしてなんだ。そこまで、アタシなんかに」
「なんか、じゃない」
彼らを包囲する真っ黒な輪から一体の棘皮人間が弾き出されたように駆け出した。
腕を振り上げ襲い来る怪物の無防備な腹目掛けて、レイジの前蹴りが炸裂した。
怪物の肉片が散弾のように飛び散り、アパートの壁面に黒いマーブル模様を描く。
胴体にドーナツのように大穴を開けられた怪物の体が、レイジの体に一瞬すがり、ずるりと崩れ落ちる。
「きみは俺の運命なんだ」
女の頬にレイジの血が滴る。彼女は、その熱さに驚いた。
怪物はレイジと交錯する瞬間、その肩に深い爪痕を残していった。
見ている方がぞっとするような傷口から絶え間なく熱い血潮を迸らせながら、レイジは眉ひとつ動かさず、青い瞳を覗き込んでくる。
「うんめい?」
「きみが口づけをしてくれたとき。俺はようやく、運命を手に入れた」
今の衝突が引き金を引いたように、二人を取り囲んでいた何十、何百という怪物の群れが押し寄せてくる。
「あれはキスじゃねえって。レスキューだっつの……」
歯に衣着せぬ物言いに、女は少しだけ具合が悪そうに顔を背けた。
「俺にとっては、口付けだった。絵本で、王子様がお姫様にするような」
「うるせえ、だから、いちいち恥ずかしくならねえのか、オマエは!」
白い顔を真っ赤に染め上げて、吠え掛かる女。
レイジはぎゅっと目蓋を硬く閉ざす。そこに浮かぶのは、彼が七年もの間苦しめられてきた悪夢の情景だ。
きょうという日に同じシチュエーションに出会い、そこで確かに一人の命を救った。それはまさしく、悪夢に囚われた彼が目覚めるためのキスだった。
「だ。だいいち、助けられたのはアタシの方だ。そこんとこ、ちゃんとしろ」
「きみを救うことで、俺も救われたんだ」
「は? ワケわかんねー……」
怪物の足音が。黒い津波が。通りを、壁を、屋根を打ち鳴らす。死がすぐそこまで迫ってきている。そんな危機的状況で、ばかみたいな会話だった。
それを許すくらい、今の彼女は安らいでいた。
もはや全部が全部捨て鉢になってしまったのか、それとも、レイジの言葉に心を動かされたのかは分からない。それでも、気づけば彼女は、レイジの手を硬く握り返していた。そこに、冷たく熱い、不可思議な光が宿る。
「カナタ」
失われた記憶の中から細い糸を手繰って寄り合わせるようにして、彼女は自分の名前を紡ぎ出した。
「…………アタシ……カナタ。ただ、それだけ。他には何もない」
確信はない。それが自分のものだという証拠も、何もない。だが、それが間違いなく彼女の名前なのだと、二人の手の中で燃え上がった黒い炎が叫んでいる。
熱さは感じない。
ただ、お互いが”そこにいる”という実感が光を放っている。
「カナタ。そうか」
確かめるように名前を口にしたレイジの耳が、遠くの海に打ち付ける波の音を感じる。
「カナタ。うん。いい名前だ」
黒い炎がレイジの鼓動に彼女の名前を焼き付ける。この先何が起ころうとも、決して忘れられないように。
「オマエはレイジ。覚えたぞ」
白い歯を見せてカナタが笑う。
海へ、行く。海へ、連れて行く。
耐え難い臭気をまとって、怪物の集団が通りにせめぎあう。押し合いへしあい、時には倒れた同族を踏み潰しながら、いまや地面を振動させるほどの数が、溢れだす。その怒涛が二人を飲み込むまで、あとわずかだった。
「ンで、どーすんだ? アタシたち、自己紹介も早々に、終わっちまうのか?」
「大丈夫さ。今の俺なら、なんでも壊せる」
レイジが、深淵の輝きを宿した指を掲げる。
「さあ、行こう。俺たちの海へ」
カナタの目の前で、世界が燃え上がった。