もはや部屋の温度は氷点を下回り、絶対零度に向かって直滑降していくようだった。
カナタが固唾を呑み、少女が立ち尽くす中、フミオのうめく声だけが聞こえる。
「くっ……でっけえ赤ん坊に、ちょっと眠っててほしくてな……イデデ」
フミオは余裕だ。背中まで見せて、悠々と棺によじ登る。
かつての友を足蹴に、彼は支柱に手を伸ばした。レイジとの格闘、ないしは一方的な処刑で火照った指先に、凍てつくプレートの冷たさが心地よい。
そして彼が軽く力をこめると、金属容器を支持する円環が音を立てて床に落ちた。
「どこのガキかは知らないが……かわいそうなモンだ」
とうとうフミオは“死体”を手にした。
『カナタちゃん』
無意味なことと分かりつつ、少女はカナタと棺の間に立ちはだかる。
『逃げて。全力。そして隠れて。レイジを何とか起こして、助けに向かわせる。だから』
「なあカナタ。さっき、レイジとした話にはちょっとウソがあるんだ」
シンと冷えて結露を纏った金属管の中身が、ぱちゃりと水音を立てた。
「あ?」
「二十八層の隔壁。四人の最強サイボーグ。自律兵器。その他もろもろ。全部素通りしてお前を外の世界に連れ出してやる」
『信じないで。こいつのこと』
「わあってるよ。だが、ハナシだけ聞く」
『分かってない。なんも分かってないよ、カナタちゃん!』
弓なりになって天井を仰ぐ少女を見ていて、カナタは不思議な気持ちになる。
二人の関係は、あまり良いものではなかった。
というより、カナタが一方的に少女を遠ざけていたのだ。少女はそのたびに落ち込んだり、へそを曲げたりするが──なぜか、諦めない。
『あいつは敵。防衛局の手先。レイジをボコって殺そうとしたサイコ野郎!』
「でも、アタシのダチだ」
『もう違う!』
「…………なあ。なんて呼んだらいいか分からねえけど。がきんちょ」
わたわたと飛び跳ねる幻を、カナタはじっと見つめた。
「なんか、心配してくれてアリガトな」
『っ、か、カナタちゃ──』
ガッ、シャアアア、という派手な金属音と共に、少女の姿も声も、半ばで立ち消えた。本当に一瞬で。ラジオのチューニングが外れたときのように、明確な像を結んでいた彼女が、灰色のノイズになって消えうせた。
「あー、わりいわりい。ブツブツ言ってて俺のハナシ聞かねえからさ」
フミオによって乱暴に蹴り飛ばされた脊髄の容器が、クワンクワンと残響を奏でながら部屋の隅に転がっていく。
カナタは急に不安になった。これで本当に本当に、ひとりぼっちだ。
「これはマジだ。外に出たら海だろうが好きなトコに行けばいい。だが────レイジは抜きだ。てめえ一人で楽しくやってろ」
「なっ──ンだそりゃ!?」
それからフミオは、いっそ焦らすような速度で動いた。
散歩の支度をする老人のように松葉杖を手に取り、うんしょうんしょと小声で漏らしながらケーブルを乗り越えてくる姿には、愛嬌すらある。
だからこそカナタは、じわじわと恐怖を覚えていた。
「レイジは俺のダチだ」
「知ってんだよ。そんなん」
「いいや、分かってねえ。お前は何も分かってねえ。アイツのこと、俺たちのこと。ルリコも、クラスの連中のことも、なーんも」
カナタは、はっとする。
フミオはいつの間にか彼女の前まで歩いてきていた。
松葉杖で、片足が不自由にもかかわらず。まるで海底を這うタコのように、静かで、獰猛な動きだった。
「なあ。出てけよ。俺らの町から……このヨソ者野郎」
「ッ」
反射的に、カナタはフミオの頬を張ろうとした。
「おっと」
しかし、それはかなわない。フミオはやすやすと彼女の手首を捕らえ、乱暴に体を引き寄せた。血糊の匂いに似た喫煙者の吐息が、カナタの顔にかかる。
「はなっ……ふざけんな……、ヘンタイ!」
「荒っぽいことをしたいんじゃないんだ。な、分かるだろ」
カナタが、小さく悲鳴を漏らした。フミオが舌打ちした。
「お前もルリコも、いっつもポコポコやってくれてっけどさあ。こっち、男なんだぜ。ホンキでやって、勝てるわけねえだろ」
「さ…………触んじゃねえ、バカ!」
足の骨をヘシ折って、ベッドの上でぴいぴい泣き言をわめいていた病人とは思えない。
「はー、いいか。もっぺん聞くぞ」
「ひっ」
近くの壁に、フミオはカナタを押し付けた。
掴まれているのは右手だけ。相手は松葉杖で、片足は折れたまま。そのせいで彼の下半身は弱点だらけの爆薬庫だ。
カナタが一発蹴り上げれば、形勢は逆転する──はず──
「あ、あたしは」
それが出来ない。
カナタの左手はフミオをブン殴ることもなく、一心に自分の首筋をかきむしっている。
ウロコがめくれている。血が薄っすら滲むほどに逆立ったウロコの下に、わずかながら紫色の筋が見て取れた。
彼女の足は壊れたように震え続ける。
何も、役に立たない。黒い怪物相手に一歩も退かなかったのに。こうしてフミオに見下ろされているだけで、彼女はガラクタになってしまった。
「アタ、シ、やくそく、したんだ」
「あ? 聞こえねえよ。もっとハッキリ喋れや」
はっ、はっ──
カナタの荒い息がかかる。目を細めるフミオも、彼女の異常に気づいている。
だが、それが何だというのだ。もはや彼の運命の車輪は転がりだした。自分で始めたのだ。ここで『なにも決断できないフミオ』を脱ぎ去るのだ。
「あ、あああ、アタシは約束したんだ」
カナタは、自分を奮い立たせようとする。
首筋をかきむしる手を、ふと見つめる。青いビーズの輝きが目に入る。
彼女の一番の友達。彼女がはじめて、心を許せた男の子が、贈ってくれた宝物だ。
「そいつがどんな遠回りでも。どれだけジャマされても……レイジと一緒に海に行くんだって!」
カラン、と松葉杖が床に転がる音が響いた。本当にかすかな音だったが、カナタの体がはねた。
「そうだなあ……」
フミオの調子は、バイクをいじるときと同じだった。
オンボロ車の中に不良を起こした配線を見つけて、ヒョイとつまんでゴミ箱に捨てるときに、同じ顔をしていた。
ちょっと迷って『あー、ダメか。サヨナラ』と言うときと同じ。
「──間違いがあっちゃ悪いからさ。もっぺん言ってくれね?」
「アタシの海は、レイジと一緒に行った先にしかないんだ! それをオマエなんかに邪魔させない!」
「あ、そう」
フミオの手が伸びた。
その先はカナタの首筋。白髪を巻き込んで乱暴に首を絞められた瞬間、フミオから漂うバイクのオイルの匂いが、ざらざらとした肌の感触が、制汗剤の香りが、カナタの胃袋を猛烈に打ちのめした。
「う、ぶ」
見えない拳で下から胃袋を殴りつけられたようだった。
目の前の、よく知っているはずの男。そいつが一瞬にして纏った、濃厚な暴力の香り。
カナタは必死に身をよじる。
「おい。ちょ、待てって。別に命まで──」
フミオの手が外れる。きびすを返したカナタの頭を、彼の掌が掠めた。ブチブチと髪が引き抜けるのを感じながら、彼女は壁とフミオからの圧迫から逃れた。
逃げろ。
少女の言っていたことを、信じる。
遠くに見えるドアを抜けて、シャフトの中に身を隠す。そうすれば、きっと、息を吹き返したレイジが助けてくれる。
走れ、カナタ。走れ。かけっこが速いんだろ。ホンキ出せば、足の折れたフミオなんて──
だが。
「あぐっ」
床を走るケーブルが、あざ笑うように彼女の足を絡めた。
迫るタイルの床はふざけているようなスローモーションなのに、腕も足も、こわばった一本の棒のようだ。
彼女は顔面から床に激突する。目の前が真っ暗になって、一瞬、何も見えなくなる。
「はあ……はあ……ああっ」
立ち上がれない。動けない。息すらも。
打った鼻の奥がツンとする。生ぬるいものが止め処なく押し寄せて、滴り落ちる。彼女の流麗な唇を伝う液体の色は赤ではない。
タールのように粘る、黒だ。
「ツイてないなあ」
杖の音が、背後から迫る。
カナタは腹の底からせりあがってくる不快感と、全身をぐっしょりと濡らす汗とにまみれて、床に降り積もった埃を舐める。
さっきぶしつけに触れられた首筋が、焼きごてを当てられたように痛んだ。
ぼろぼろとウロコをこぼしながら、彼女は地面を這う。
「お前がレイジと出会った七区。ずいぶんお楽しみだったみたいだが、それで1200人が死んだ」
カナタを追うフミオは、決して急がない。この場に彼を邪魔できるものなど、いない。
「その後は映画館に……市民プール。それに病院。合わせて160人」
「な、に?」
「少し前にウチの水泳部も休部になってな。更に15人。15人だ。どうだ、七区に比べればチッポケか? ウチの学校から。俺たちの日常から、15人も消えたんだぞ」
フミオが、カナタの背中を踏みつける。
「ぎっ」
鈍い痛みを感じて、カナタは喉を詰まらせた。
「ヤツらはお前を追ってる。お前が自由に出歩いてると、どんどん人が死ぬ」
ズルリ。
フミオの足の下からもがいて出ようとした彼女の体が、いやな感触を足裏に残した。
「────あァ?」
彼女がまとっていたセーラー服、に擬態したヒレの一部が、腐った桃の皮のように剥がれ落ちたのだ。
自らの体に起きつつある異変に気付くほどの余裕は、カナタに残されていない。
彼女が這い進んだ跡にはツンと嫌な臭気を放つ液体が残される。青黒くにごった、汚泥のような色をしている。
彼女のささやかな憧れ。西高のセーラー服。
白いブラウスと青いカラーは、彼女が這い進むにしたがってどんどん剥がれ、崩れていく。
「なんだ……お前、中身腐ってんじゃん」
「は? ──あ」
皮肉にも彼女は這い進んでスタート地点に戻ってきていた。
目の前に、横倒しになった金属製のストレッチャーが転がっている。磨きぬかれたステンレスの表面は、彼女の姿をよく映した。
素肌は黒ずみ、右頬は酸をブッ掛けたようにただれ、剥がれかけている。打ち上げられたクジラの死骸を思わせた。
「なんで……だよ」
振り向いた彼女の瞳は、もはや海の青を映さない。
焦点の合わない濁った灰色のガラス玉にフミオの姿を浮かべて、彼女は苦悶した。
「アタシら、トモダチだったろ……」
「そうだ」
フミオは生返事だった。
そんなことより、カナタの体に起こった変異が彼の気を引いていた。
その引き金を引いた右手で、彼は自分の顔をなでる。そんなに、恐ろしいだろうか。そんなに、残酷だろうか。
「じゃあ、どうして。どうしてこんな、ヒドいことするんだよぉ……!」
「レイジが」
「はあ?」
フミオが黙った。
カナタは自分の腹の底から響く、ぐるぐるという音を聞き続けた。ひどく、気持ちが悪い。
「別に。人が死んだとか。それで俺はこういうコトしてんじゃねえんだ」
「じゃ、じゃあどうして」
「お前が全部おかしくしちまったからだ。ダチのレイジを。返してくれよ」
「なん……だよッ!?」
失われたはずのカナタの怒りに、もういちど火がついた。
「……それならアタシだってレイジのトモダチだ! アタシだってレイジが大事だ! 独り占めしたいってのか!?」
「俺は一ヶ月前のあいつを取り返したいだけなんだよ! それが今はどうだ、洗脳されたみたいにカナタカナタ約束約束約束──!」
「アタシ…………センノーなんて…………」
「どこが『人間らしく』だ。あいつを完全にイカれさせやがって」
それでカナタの心は死んだ。
床の上にグッタリとうずくまった彼女に向かって、フミオは歩いていく。
ブーツが、床にちりばめられた制服の破片を踏んだ。真珠色の光沢を帯びたブラウスの破片は、一瞬で腐ってタールの固まりになる。
水槽の中で見た、棘皮人間の死と同じだった。
「ほら。もういいだろ。お話しようぜ、カナタ」
「やめ……ッ」
カナタがでたらめに腕を振り回して嫌がると、深いな粘りと剥がれたウロコがフミオの手にへばりつく。
フミオはだんだんと焦れてくるのを感じた。
「邪魔だ。よせ──クソ。お前落ち着いて話もできねえのか」
顔に伸びてきた手を、彼は力任せに振り払った。
ぷつり、と音がした。
「──あっ!?」
彼女の腕に巻かれていたブレスレットが千切れた。
腐っている──フミオの言葉通りだ。体液で出来た黒い水溜りに、カナタは沈む。
彼女の目の前で、かつて腕の皮膚であったものの上に散りばめられたビーズたちが、星のように冷たい光を放っている。
「ダメだ!」
「ッ!」
カナタの爪が、フミオの手の甲を引っかいた。
なんてことのない小さな傷がそこに残る。ほんのささやかな抵抗。単なる防衛反応。
ほんの少しこそげた手の肉を見た瞬間、フミオの中で何かが、麻紐を炙るようにゆっくりと千切れていった。
「ダメだ。これは、大事なんだ……フミオ……」
ズル剥けになった腕から糊のようにネバついた液体が噴き出すのもかまわず、彼女は腐肉の上にうずくまって、ビーズを拾い集めようとする。
「たからもの、なんだ……」
腕でむき出しの胸元を隠すことさえ忘れたまま、ただ必死に。
「見ろ、レイジ!」
そんなカナタをまたいで、フミオは棺に向かって声を張る。
「こいつはバケモンだ。こんな奴にどれだけ奪われてきた!?」
「アタ、シは、バケモノなんかじゃな……あぐうっ」
フミオはカナタの背中を押さえつける。重厚なライダーブーツは弾力を感じずに、ぐじゅう、と音を立てて彼女の肉の中に沈み込んだ。
「そんなゴミが、どんだけ大事なんだ」
フミオは自分の口を押さえる。
彼女から漂う腐臭のせいだろうか。ひどく、具合が悪い。吐き気がした。
カナタを踏みつける足に力を入れれば入れるほど、決別のための鋭利な言葉を吐けば吐くほど、フミオは胃がむかつく。喉の奥が痛い。奥歯が軋む。
「っだよ、この根性なしが……気合いれろ、クソ……」
目よ潰れろとばかりに強く強く閉じていた瞼をフミオが開く。そこには衣服が剥ぎ取られ、裸になったカナタが虫の息で喘いでいるだけだった。
「アタシは、家に帰るんだ」
「お前に家なんかねえよ」
「黙れ。アタシは海へ行く。どんな目に遭ったって。どんな辛いことがあったって。アタシは過去を取り戻して、しあわせになるんだ!」
「ハ」
そこからの残酷は、拍子抜けするほどスルリと口を出た。
「お前はな、もう死んでんだよ。十年前、すでに」
「は、え?」
灰色の瞳でカナタが見上げてくる。フミオは足に力を入れて、彼女の体内をいっそう酷く踏み荒らした。
「お前の本名……つっていいかイマイチ分からねーけど、
「なに、それ……」
「俺を信じても、信じなくてもいい。俺は管理局で知った事実だけ話してる」
「テキトー言うな!」
「適当じゃねえよ。お前は誰でもないんだ。本当のカラッポだ。生き返りだかゾンビだか知らねえが、もう終わった人間を演じてるバケモンなんだよ、お前は!」
「うそだ! うそだうそだ!」
カナタは拳を握り締める。
しかし力は篭らず、ビーズは指の隙間からポロポロと零れ落ちていくだけだ。
「うそ、だあ……やだあ……」
「レイジのヤツな。知ってたはずだぜ」
その背中に、フミオはトドメの一言を突き刺した。見ていて痛々しいほど肩甲骨の浮いたカナタの背が、電流を流されたようにビクンと跳ねた。
「あ……なん……で?」
「なんで? そりゃカンタンだろ。お前が受け止められないって、分かってたのさ」
彼女の耳元に口を寄せ、フミオは囁きかける。
「信じてもらえてなかったんだよ」
そして、そっと足をどける。もうカナタは逃げる気力も体力も残されてない。
フミオが放った一言は、ちょうど今、彼女の手から転げ落ちた最後のビーズと同じく、心の中に残っていたひとかけらの希望すら打ち砕いてしまった。
コロコロ……と床を転がっていくビーズを追いかけようとした手が、止まる。
カナタは床の上で丸まった。ヒビだらけの空っぽな器になった自分の体を繋ぎとめるように、震える手でそっと肩を抱いた。
「もう、終わりか?」
フミオは足を上げる。粘りのある黒い液体が糸を引いてきたので、彼はそれを、床でなすり落とす。
少女の背中はブーツの靴底の形に抉れていた。
真っ黒な肉が掻き分けられ、白い背骨が、その姿をあらわにしている。
「なあ。もう、逃げねえのかよ?」
汗でちぢれた白い髪の隙間から、怯えた瞳がフミオに向けられている。
「なあ……カナタ……おい…………おいったら」
そこに映る、女を足蹴にする自分の姿が、どうにも腹に据えかねた。
「ちったあ俺に痛い目見せてみろってんだッ!!」
気がつくとフミオは床に転がる松葉杖を思い切り蹴り飛ばしていた。
「追い詰められたらタマ噛み付いてくるような女だったろ、オマエ! それが何だ。こんくらいのコトでビクビクしや、が……?」
フミオの指が、カナタの襟足に触れた。軽く体をよじる彼女を押さえつけながら、白い髪を掻き分けていく。
「誰にやられた?」
あらわになった首筋を見て、フミオはひるんだ。
ぐう、と、いやな音のげっぷをしただけで、カナタはそれに答えない。
ぞっとするようなアザが、そこにあった。
本物の、どうしようもない、魂を殴打するような暴力の痕跡だった。
手だ。
大きい。男の手だろう。
紫色の痣のグラデーションで、力の入れ具合とリズムすら分かるようなグロテスクなプレイの跡だ。
「さっきまで、こんなモンはなかったぞ……」
これはカンタンに出来るものじゃない。生かさず殺さずのギリギリを、何十回も繰り返した痕だ。
しかも、心の底から楽しんで。芸術品を仕上げるような暗い熱意と共に。
これを楽しんでやった奴がいる。
フミオは直感した。
見ているだけで胸がむかつく。彼女をこうした相手の、ニヤケ面が思い浮かぶようで、フミオはふと、冷水を浴びせられたように冷静になっていた。
────俺が
そこに、正義の置き場などなかった。
ただ無様で、醜いだけの
「俺。ヒーローになるはずじゃ……?」
「うぶ」
フミオが我に返るのと、カナタが限界の先の限界に突き当たるのは同時だった。
「あう」
虫のようにカナタが背を丸めた。と、あっとフミオが思うほどの時間も無く、彼女の下に吐しゃ物が広がっていく。
昼食のサーモンの赤色、外でジャンケンしてオゴリを決めてから食べたアイスの青。
きっとレイジと笑い合いながら、ばたばたと朝の支度の隙に口に運んだはずの卵焼きの黄色が──
色鮮やかな楽しい思い出たちが自分の中から失われていくのを必死に押しとどめようと、カナタの両手が口元を覆う。
しかしいくら彼女が踏ん張っても、胃袋の中身は彼女の指の隙間から溢れて、ただの酸っぱい汚物として朽ちていく。
「うっ……あ……あ゛っ…………」
吐きながらカナタは泣いていた。崩れかけの白い頬を流れる涙の色すら、今は黒い。それを拭う腕が、どんどん同じ色に汚れていく。
無意識にフミオが差し伸べた手を、彼女は胃液に塗れた手で、払いのけた。
「おいカナタ、おま────クソ!」
呆気にとられていたフミオが前を見た瞬間、棺桶の蓋が千切れて吹き飛んだ。
ガラン……
ひしゃげたフタが転がる傍で、棺の口からもうもうと蒸気が噴き出してくる。
過度な破壊と記憶の喪失。
“彼”が失ったすべてを補うために何度も繰り返した爆発的な自己破壊と自己再生の余剰エネルギーで、棺は触れたら火傷するほどに加熱していた。
蒸気の中から伸びてきたのは、人間の腕ではない。
それは甲殻類の様相をかもし出していた。表面はビッシリとフジツボに覆われて灰色の鎧を身に着けたようだ。
そして、怪物が立ち上がる。
全身をゴツゴツとしたフジツボで装甲した巨人が、頭部にポッカリ開いた孔を床に向ける。
その奥に渦巻く虚無の中から、ドロリとした液体が滲み出てくる。それはもはや、『憤怒』ではない。
別の、もっと、どうしようもない。世界を全部裏返してぶち壊して、終わりにしてしまうような感情だ。
目覚めた“彼”がはじめて目にしたものは、裸になって床にうずくまるカナタと、それを足蹴にしたフミオだった。
■
弾けて落ちていた棺桶の蓋を掴んで、怪物は無造作に振りかぶった。
「やめろ……アタシはいい……やめろレイジ、やめてッ!」
それまで死体のように転がっていたカナタが、フミオに飛び掛った。
何が起きたのか分からない。フミオは彼女と一緒に地面に転がる。その頭上を、うなりを上げて飛んできた鉄扉が掠めた。
部屋がゆれる。照明がチラつく。
衝撃が吹き荒れた後、恐る恐る振り返って、フミオは息を呑んだ。分厚い棺おけのフタが、壁に垂直に突き刺さっている。
「いま……なんつった?」
ぜいぜいと息をするカナタを見下ろして、フミオは呟く。
この少女は、あのどうしようもない怪物を『レイジ』と呼んだ。
ズシリ──
フロア全体に微震を起こしながら怪物──レイジが歩いてくる。
巨木の切り株のような足を踏み出すたび、フジツボの隙間から血が迸る。甲殻は擦れて火花を散らし、どんどん剥離して床に散らばる。
あの巨体を維持するには、相当の負荷がかかるのだろう。
カナタの衣服であった残骸を、自らの血と肉のブレンドで飾りつけながら、自己破壊の怪物はダメージに構う様子もなく向かってくる。
その体が、大きく沈む。床が陥没し──次の瞬間、レイジだったものが爆発的に加速した。
鋭い爪の生えた両手でもって地面を掻くようにして、彼は猛然と突っ込んでくる。
「ううっ!?」
とっさにカナタを抱いて、フミオは飛んだ。
「がっ……あっ……」
着地の際に、折った足を下敷きにした。骨が軋む。脳が白くなるほどの痛みが背筋を駆け上がったが、それでもカナタを放す気にはなれなかった。
しかし、それでもこの場でもっともマシな選択だった。
大型のダンプカーと同等の質量を誇る怪物が二人をかすめて駆け抜けていく。行き着く先は──壁だ。
ドオオォォン……
止まりきれず突っ込んでいったレイジが、壁を粉砕した。壁は大きく陥没し、砕けたタイルと鉄筋の破片がフミオの元まで跳ね飛んでくる。
もうもうと煙る土埃の中からノソリと体を起こすそれは、彼の目には、やはり一匹の怪物でしかない。
「考えろ、クソが!」
虚無の怪物に向かって、フミオは叫んだ。
「なにがボーイミーツガールだ。なにが奇跡だ、なにが運命だ! カナタが来てから全部メタメタじゃねえか!」
「アタシ……そんなつもり……なかったのに……」
「黙ってろ今レイジと話してんだ!」
怪物に、にんげんの言葉は届かない。
大きな破片を摘み上げ、それを振りかぶる姿がフミオの目に映る。
「おおっ!?」
顔面めがけ飛んできた瓦礫を、彼は間一髪避ける。命中すれば顔どころか、上半身がまるごと水ヨーヨーのように弾ける威力だ。
衝撃波がフミオの頬を叩き、背後で棺の群れが散り散りに吹き飛ぶ。のたうつケーブルが、紙紐のように宙を舞う。
「現にだ、こりゃなんだ。俺ら焼肉して将来のこと語って、アハハって笑ってたハズじゃねえか。それが今や殺し合いだ!」
怪物の体が大きく傾き、膝をつく。
歪んだ装甲の隙間から黒い光が迸る。湿った肉を舐めて這い上がる姿は、やはり炎によく似ている。
彼の肉体をボロボロのスポンジ状にして崩壊させるほどの、貪欲な破壊。そして、欠損した四肢をも瞬時に補うほどの爆発的な再生。
絶え間ない破壊と再生という地獄の中で、八つ裂きにされる囚人のように、怪物は床の上で悶え苦しんだ。
「ア……」
熱い。だろうか。
声にならない声を上げながら転げまわるレイジの体はどんどん炎に覆われ、肉の焦げるにおいが、カナタの放つ腐臭と混ざって、この世のものとは思えない臭気を醸造していく。
「ほんとうに……なんでなんだろな……」
立ち尽くしていたカナタを、フミオが突き飛ばす。
間一髪。数秒前まで彼女の頭があった場所をコンクリート塊が通過していった。フミオは転げて、苦痛に悲鳴を上げる。
治りかけだった足は、もうボロボロだ。
悲鳴、苦痛、悪臭、腐敗──そんな中で、ボロ切れのようになったカナタが立ち尽くしていた。
「気づいたらアタシの周り、くるしいことでいっぱいだ」
フミオは床を掻いて逃げ、それを捕まえようとするレイジもまた、業火に体を焼き苛まれて動きがままならない。
「レイジに人間らしくさせれば……そうすればアタシもきっと、マシになれるって……?」
そうだ。
カナタの瞳が、わずかに青色を取り戻した。
「そうだ。約束したんだ」
燃えるような痛みを感じているのは、カナタも同じだ。
真っ黒に絡み合ったヒルのような筋繊維が露出するまで皮膚が剥がれた腕は空気に触れるだけでも耐えがたい痛みが走る。
破片と胃液でまみれた床の上を這い始めると、それは、意識を投げ出したいほどの苦痛へと変貌していく。
「ぐっ……うっ……」
それでもカナタは反吐を掻き分けて前に進む。
穴だらけの脳みその中で、オモトカナタが殴りつけられているのが見える。
悪いことなんて何もしていない。そこに理不尽な暴力をぶっ掛けられる。
大きな手で何度も何度も頬を張られ、床に倒される。そこに脂臭い男が馬乗りになって、背中を押さえつけてくる。ごつごつとした手が首に。そして、粘つく舌が──
挿入される暴力的なフラッシュバックが、彼女の胃袋を再び締め付ける。
埃まみれの床に胃液と──そして真っ黒な汚物を吐き出しながら、それでも彼女は前を見るのをやめない。
倒れた棺と瓦礫が散乱する室内で、ゆっくりとだがレイジはフミオを追い詰めつつあった。彼はきっと、友を殺す。このままでは。
「アタシ……レイジが本気で怒ったとき、マジでうれしかったんだ……」
だが、これは違う。とめろ──と、心が叫んでいる。
瓦礫の合間を這い回るフミオの背を、爪が掠めた。
そこで、怪物の動きがピタリと止まる。全身を這い回る黒い光が勢いを増し、怪物が金切り声を上げた。
叫んでいる。
あのレイジが。何をされても眉ひとつ動かさなかったレイジが、天を仰いで泣き叫んでいる。
彼は切り刻まれていた。
フミオに裏切られ、守ると誓ったカナタが辱められ。そして彼は、今まで誰にも触れられなかった部分に、初めて傷を負ってしまった。
頭を抱えて絶叫する怪物は、慟哭していた。
「なんでだろうな。かなしい、よな……」
怪物の、レイジの全身から光が帯となって発射された。
四方八方、空間を埋め尽くす密度で発せられた光が、天井も、棺も、壁も瓦礫もすべてを穴だらけにしていく。
黒い炎は床を舐め、レイジを中心に世界が腐食していくようだ。
「あ……あ……」
ドッカリと膝を地面についたレイジの前で、火花が散る。
床の配線がショートを起こした。火花は樹脂製のケーブルの上を即座に燃え広がり、撒き散らされた塵をも巻き込んで、赤い炎を舞い上げる。
「はあ……はあ……おい、でくの坊。聞こえてるなら、聞け」
火災報知機のアラームがけたたましく鳴り響く中、フミオがヨロヨロと立ち上がった。
「お前は変わんなくたっていいんだ。一生バカやろうぜ。この町で」
ポツ──1滴の水が、フジツボに覆われたレイジの頬を打った。と、すぐさまそれは滂沱となって彼の全身を流れ落ちる。
スプリンクラーが作動したのだ。
「デカい夢持って潰れるなんて、それこそバカじゃん。な。全部終わらせよう。そして夏を続けようぜ」
絶え間なく降り注ぐ水と、充満した白煙。
カナタの目に映る部屋の光景はすべて霞む。混沌を詰め込んだ部屋の中で、かろうじて、巨大な影が立ち上がるさまが見て取れた。
しばらく立ち尽くした後──彼の全身に、黒い炎が燃え盛る。
「ッ、クソがっ!」
フミオの舌打ちを追うように、閃光が部屋の中を走る。
「まって、ろ……」
再び動き始めたレイジの元へ向かいながら、カナタは呟く。
彼に、『にんげん』を忘れてほしくない。
フミオを殺してしまえば、彼は二度と戻ってこれなくなる。そんなの、彼女には許せない。
隣にいてほしいのは、血に塗れた怪物ではない。
自分の焼いた卵焼きを頬張って「うまい」と、気難しい評論家みたいな顔でうなずいている時のレイジに、一番人間らしいレイジであってほしいのだ。
「約束したもんな」
カナタは立ち上がる。
「うおっ」
とうとう壁際に追い詰められたフミオの頭の上を、太い腕が通過した。
壁を打ち砕き、頑丈な支柱をひしゃげさせ、ヨタヨタと脇の下を擦り抜けていったフミオの姿を、土ぼこりの中にレイジは探す。
カツッ
飛んできた一発の石つぶてが、彼の頭を打った。
「──ここだ」
怪物は頭を振って、スプリンクラーが作り出した霞の中に目を凝らす。
もはや彼には何も思い出せない。
過去も現在も未来も、記憶消去薬と怒りと真っ黒な憎しみでぐちゃぐちゃになって、自分が何者であるかもハッキリしない。
ただ殺したい。
ただ憎い。
真っ赤に染まった視界をぐわんぐわんと振り回して────それを、見つけた。
水のカーテンの向こうに、それは立っていた。
もはや観念したのか、逃げることもしない。レイジは地響きを立てながら、一歩、また一歩と相手に近づいていく。
焼かれ、焦がされた重い腕を伸ばす。
あらん限りの力を尽くしてそいつの首を締め上げると、「げぽ」という微かな声が、彼に残されたわずかばかりの理性をゆすった。
終わりだ。
これでもう、カナタを傷つけるものは、いない。
「レイジ」
ふと、声が聞こえた。
カナタの声だった。
「カナタ」
レイジが、焼け付かんばかりの憤怒から我に返る。
さっと、スプリンクラーの雨が止んだ。
彼がその手で締め上げ、糸の切れた人形のように力なく、だらりと彼の手からぶら下がっているのは、カナタだった。
全身の皮膚が剥がれ落ち、裸となった彼女の身に刻まれた青黒い傷跡から、同じ色をした粘液がカーペットに滴っている。
そんな姿でなお、微笑を浮かべているのが、余計に痛ましかった。
「行けよ」
彼女は視線を動かし、立ち尽くすフミオの姿を捉える。そして、別れを告げるように軽く手を振った。
「マジで悪気とかなかったんだ……」
それは、誰に対して言っているわけでもない。身も心も砕けた女のうわごとでしかない。
「……こんなアタシでも、がんばったらオマエらの仲間に入れてもらえるって……かんちがいしちゃってさ……」
カナタの腰にへばりついてた、最後の制服の欠片がベロリとはげて、床に落ちる。それがフミオの目の前で、青黒い泥の塊になって溶けていった。
「そのせいで全部メチャメチャだ。ごめん。ごめんなっ、フミオ、ごめんっ……」
最後のほうは、涙が絡んで言葉になっていなかった。
カナタは生まれたままの姿だった。しかしその肉体は、無垢や純潔からは程遠い。
剥がれた制服の下から現れた彼女の体はレイジ以上に傷だらけだった。
うごめく黒い肉の上には、打たれて叩かれて絞められた、まるで拷問にあったような痛々しい痕が無数に刻まれている。
「あっ──はっ──ひいいっ」
フミオが弾かれるように駆け出した。
床に汗とよだれを撒き散らし、逃げていく。
彼はとちゅう、思い出したように“死体”の収まった容器を拾い上げた。
彼が重厚なドアを潜り抜けていくと、部屋の中には湿気と、そしてレイジとカナタの荒い息遣いだけが残された。
「げほっ、ゴホゴホ、あう……」
胃酸で焼けた喉から吐しゃ物の残りかすを吐き出して、目の前の怪物を見下ろす。
「レイジも………………ごめんな。悲しいくらい、うまくいかなくって」
彼女を吊り上げるレイジの全身が小刻みに震えていた。
残酷なまでに近い距離で、お互いを見つめることになった。怒りと憎しみで形の歪んだ瞳孔と、汚れてくすんだ青色が交錯する。
カナタは、かつて自分の口でマリコにかけた言葉を思い出していた。
「幸せになれないやつが、幸せになれないトコに生まれてきちまった……アタシらも、そうだったのかな……」
不意に、カナタの首にかかる力が緩まった。
「はーっ……はーっ……けほっ、うえっ」
崩れるようにカナタが倒れた。
暗く淀んだカナタの瞳の中に最後に見えたもの。それは、間違いなくレイジに対する恐怖だった。
彼が最も恐れていた瞬間がついに訪れたのだ。