折れた足の状態は、もう目にしたくないほどだった。
それでもフミオは爪先を引きずって走り続けた。
何度も何度も振り返り、そのたびに闇が落ちた背後の廊下と、その奥から響いてくる遠いうなり声に身をすくめた。
彼は何もかもを失ったが──その手は決して、金属の容器を手放そうとしない。
脊髄が、青いジェルの中を泳いでいる。
レイジとの友情、カナタの信頼、すべてを引き換えに持ち去ったものだ。
あの“カナタそっくりの女”は彼に言った。
──これは英雄の力だ、と。
だが本当にそこまでの価値が本当にあるものか、フミオには分からない。
「うあッ」
フミオは転んだ。
「あがァーッ!」
まだ縫合痕がふさがっていない腿を強打して、彼は絶叫する。
スラックスがじっとりと濡れている。
開いた傷口からドクドクと流れ出る血を感覚しながら、彼は足元を見る。
使い古したライダーブーツの底には、カナタの皮膚の残りカスが生乾きでへばりついたままだ。
異形と化し、溶けた彼女がまだ、足にしがみついているようだった。
「お……お前が悪いんだぜ。俺じゃねえ。ヘンに暴れるから──ッ!!」
彼は狂ったように、ブーツの裏を壁にこすり付ける。
金切り声にあわせて周囲に張り巡らされた純白のプレーティングにヘドロの筋が描かれる。
「はぁーっ……はぁーッ……」
凄惨だった。
壁にぬりたくられた『カナタ』。じくじくと流れ落ちていくヘドロの中に、千切れたヒレとウロコが撒き散らされている。
ふいに胃袋がぐっと押されて、フミオは口元を押さえた。
「俺……俺は……」
フミオは、放棄する。
深く考えることを。
自分とレイジとの関係はどうなったのか。
潰れて壊れたカナタはこれからどうなるのか。
自身は『背骨』を使って、どうすればいいのか。
コツコツ足音を響かせて通路を進みながら、彼はあらゆる選択を放棄する。
フミオは、優柔不断だ。
散々ネタにして自分でも笑ってきたが、カナタが作る弁当のメニューすら、決められないほどだ。
そして、父ブンタのため──ひいては腰抜けの防衛局に渇を入れるためと言って成した裏切りの責任ですら、彼は負うことから逃げようとしていた。
背中に這い登ってくるような罪悪感と恐怖心を引きずって、彼は出口を目指し続けた。
何百メートルか、何十キロか。バケツ一杯は汗を流したんじゃないかと彼が思った頃に、柔らかな照明の下に扉が見えた。
エレベーターの扉だ。
「はっ──俺は、これを持って帰って……英雄に……なるんだ。オヤジに認めて……もらうん、だ!」
首筋に刃物を当てられたように冷や汗を垂れ流しながら、フミオはエレベーターの呼び出しスイッチを連打する。
背後の漆黒が、怖い。
獣の咆哮が聞こえたような気がしたが──それがはたして、怒り狂ったレイジの発するものか、それとも不気味なシャフトが突き立った空洞から響く風の音なのか。冷静に判断するほどの余裕は、もうない。
ポォーン。
切迫した彼の様子をあざ笑うような軽い電子音が響いた。
彼にとっての救いの箱はついに到着し、もどかしいほどゆっくりと冷たい金属扉をスライドさせていく。
中から、光が差してくる。
通路の暗闇に慣れきったフミオの目では、無味乾燥冷淡なLED照明ですら暖かく感じてしまう。
待ちきれず、彼がドアの隙間に体を突っ込んだ瞬間────
「帰りの道案内はしてくれないワケ?」
見慣れた顔が待ち構えていた。
「ルリコ? どうしてここに……うおっ!!」
その細腕で、彼女は信じられないくらいの力を発揮した。
ポカンと立ち尽くすフミオの胸倉をフン掴み、エレベーターの中に引っ張り込む。彼の勢いは止まらず、ルリコの薄い胸板に顔面から衝突した。
「ぶあっ」
たたらを踏んで下がった背後では、もうドアが閉ざされている。
ゴン。
「あいだっ」
鉄扉に後頭をぶつけたフミオが悲鳴を漏らすのと同時に、エレベーターは極めて静かに上昇を開始した。
鼻を押さえて立ち尽くすフミオを、ルリコはじっと見据えた。
彼の身なりは彼自身が思っているよりずっとひどい。顔、腕──素肌が出た部分はひどく火傷を負い、シャツはあちこち引き裂かれている。
スラックスのすそを伝って滴る赤い雫が、純白の床に血だまりを広げていく。
「泥棒は出口で待ち伏せするのが一番確実。よね」
一方ルリコは、生気を感じない陶器の人形めいていた。
じっと腕組みした彼女は、微動だにしない。その長いまつげは、冷房の風が当たってもそよがない。
「全部見てたわよ。アンタがカナタに乱暴するところ」
その言葉もまた、絶対零度の響きを宿していた。
「ハ……マジかお前。マジで全部?」
「ええ。そう」
「俺がカナタのこと踏んだのも?」
「ええ」
「あいつがもう死んでるって話も聞いたの?」
「ええ」
「ンだよ……とんでもねえ人でなしだな、お前……」
「そうね。アンタの先回りを優先した。おかげでアンタをこの場で、しっかり殺しておけるから」
内臓と魂を下方に引っ張られるような慣性が、このエレベーターの中に存在する唯一のルールだった。
ルリコは確かに言った。『アンタを殺す』と。
「……俺を、殺すって?」
「ええ」
今までルールとしがらみで自分をがんじがらめにしてきた生徒会長が、ハッキリと、人間のルールを手放す宣言をした。
「できるもんか」
泣く子も腕ずくで黙らせる鬼の生徒会長なんて、しょせんバカ学生が語るバカ話にすぎない──鼻で笑おうとするフミオの声は、なぜか震えていた。
「足折れてても、片手ふさがってても、俺は男でお前は女だ。どうしようもねえ」
「私ね。アンタが足蹴にして、ゲロまみれにした女の子に恩があるの」
ルリコは取り合わず、拳を持ち上げて、見つめた。
すりむけた肌の上に何枚もの絆創膏が貼り付けられている。まるで、目の前の元彼氏などいないと言うかのように、彼女の目はうつろだった。
「だけど……アンタを今ここでどれだけ痛めつけても、もうカナタは救えない」
代わりに、彼女はため息をつく。ようやくフミオの顔に向けられたその目には、軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
「お前も見たろ。カナタは、バケモンだ」
「こっちはね。そのバケモンに命救われてんのよ」
フミオの歯の震えはますます増していった。
目の前に自然体で立つルリコが怖い。
栄養失調でガリガリで、精神的にもおおよそ万全とは言えないヒステリー女だと思っていた相手が、どうしようもなく恐ろしい。
『ねえ』
「はひいっ!」
それだけではない。
『もう──私の声、きこえるよね』
彼の背後にも、何者かが潜んでいる。
『フミオさ。ガッツリ触っちゃったもんね。私に』
ゾワッと背筋をなぞり上げる声に、フミオは条件反射で跳ね上がった。
彼の小脇で、脊髄を収めた容器が水音を立てる。
「汗、すごいわね。筋トレのあとのレイジといい勝負できるんじゃない」
ルリコは淡々と言い放つ。彼女はフミオの背後にいるモノの存在を知覚できない。ただ彼が一人でアセって慌てて、ビビってるように見えるだけだ。
「よ──よく、考えろ、ルリコ!」
背後の存在を振り払うように、フミオが大声を上げた。
「俺らずっと、ウマくやってきたじゃねえか」
「うまく……そうね」
ルリコが作るわずかな間にも、フミオの後ろに立つ存在感が膨れ上がる。
声だけ。にもかかわらず、その像が勝手に彼の脳裏で組み立てられていく。髪は──ぬめるようにウェーブした黒だ。
「お互い忘れたフリして笑ってれば、傷つかずに済んだものね」
『ルリコちゃん──ルリコさんは、コイツに傷つけられたの?』
“それ”はフミオの背を見上げている。背は低い。少女だ。見てもいないのに、少女だということが彼には分かってしまう。
「私とアンタが別れた時も」
「今はそういうコト言ってンじゃねえッ!」
フミオが唾を飛ばして叫ぶ。びりびりとエレベーターを震わせるほどの怒声を浴びても、ルリコは動じない。
『ね。二人は付き合ってたんだよね。最後、どんな感じだったの』
「い、いい、いいか。ルリコ、思い出せ。一ヶ月前だ。お前、なんて言ってた」
『フミオはどうやってケジメをつけたの』
「るせえ!」
フミオは流れ落ちる脂汗を懸命に拭う。視界の端で白く小さな手が振れている。その表面を、フジツボが覆っていることまで見えてしまう。
「…………私、黙って聞いてたでしょ?」
「ルリコに言ってんじゃねえよ!」
そんな風にルリコが怪訝の色を浮かべるのは当然だ。フミオはどうみても尋常じゃない。
まるでハエを打つかのように、彼は顔の前で手を振り回し始めていた。
「ウマくやれてたんなら、そうだった頃に戻ろうぜ。レイジの力、カナタのこと、海……全部忘れて、一ヶ月前に戻るんだ!」
『こいつさあ、今いっぱいっぱいだから。ナマアタタカく見てあげてねー」
「海行こうって。こんな町出ていこうって。誘ってくれたフミオはどこ行っちゃったの」
「ガキの遠足になんの意味があんだよ! 俺らはオトナだ! オトナなら現実見据えて、地に足つけなきゃだろ!」
「……アンタの口からその言葉が出るの、なんだか悲しいわね」
私とアンタ、
しばらくフミオは荒げた息を落ち着けようと、膝に手をついていた。
「そっちこそどういう心境の変化だ」
「とりあえず前に進んでみよう。そう思っただけよ」
ルリコは自分の左手を見つめた。
薬指に古い縫合跡がある。始業式でフミオとレイジをブン殴って、生まれて初めて開放骨折したときのものだ。
不完全だが、どこか満ち足りていた不思議な時間。
彼女は、それがとてつもない太古の出来事のように感じる。
「お前もカナタに関わって変わっちまったってワケかよ……」
「そういうアンタは、いつまで経ってガキのままね」
二人は睨み合う。
過去に留まりたがるフミオ。前に進むことを選んだルリコ。もはや、彼らも相容れない存在となった。
「カナタには恩がある。アンタには借りがある。だから逃がしてあげる」
チンッ
フミオの背後で開くドアの先に広がったのは下層に広がる異界とは違う。
ドローンによって常に清掃され、ライトで照らされた廊下だ。
「その代わり、これが最後のこれっきりってやつ。二度とツラ見せないで」
ルリコがフミオの肩をどん、と突いた。
彼は何の抵抗も見せずに野良犬のような目つきのままヨタヨタ後ずさっていって、掃除ドローンの一機に踵をつかえさせて、無様に尻餅をついた。
彼は痛みで床にはいつくばりながら、必死の形相で、転がっていく保管容器を手元に手繰り寄せる。
エレベーターのドアが閉まる寸前、そんな彼の様子を目にしたルリコが鼻を鳴らした。
彼女の姿がドアの向こうに消えると、ついに彼は取り残された。
『くそださいね。ダサダサだ』
立ち上がる気力も体力もなく、ポカン……と彼が見上げる先で、灰色の裾が揺れている。濡れたボロを、朽ちた鎖で無理やり体に巻きつけたワンピースだ。
『とりあえず色々言いたいことはあるけど……はじめましての握手、しよっか?』
フミオの目の前に、少女がしゃがみこむ。
彼女が差し出した手を、彼はいつまでも握り返すことができなかった。