長かった夜が、しらじらと溶けていく。
結局一睡のヒマもなかったルリコは、寝不足の目をこすりながら水を汲みに行く。
モヤが立ち込めた早朝の景色は、どこか緑がかっているように見えた。
この第三区公園は彼女のシマだ。
公園が公共物であるという事実は認めるし、尊重する。みんなのものということは、ルリコのものだということを。
だから水道の水も容赦なく使う。ジャンジャン使う。
「カナタのケガ……病院で……治せるものかしら……」
ドポドポと音を立ててバケツに注がれる水の音に耳を傾けながら、彼女はつぶやいた。
ふと振り返る。テントの中に、毛布の塊が見える。
ようやく眠りについたカナタだ。
フミオへの怒り。レイジへの苛立ち。あの悲惨な現場を見ていただけの自分への憎しみ──すべての雑念を追い払うように、彼女は手ですくった水を思い切り顔に叩き付けた。
「やっほ。おーねえ」
早朝の町を埋めつくすようなヒグラシの大合唱と水音に、彼女の足音は紛れていた。
ルリコは、実の妹がすぐ背後まで忍び寄ってくるまで気付かなかった。
「マリコか……」
特に驚きはしない。
「あー……元気、してたっスか?」
「相変わらずよ。寝ても醒めても降りかかってくるデッケー問題に対処してるとこ。たとえば、アンタとかね」
「にゃはは……」
「別に、ホメちゃいないわよ」
「はあ。分かってるスよ」
タオルに濡れた顔を埋めながら、ルリコは内心首を傾げる。
彼女の接近を許したのは、単に周囲の物音のせいだけではない。そもそも気配が薄いのだ。
あれほどうるさく、年中いつでもちょっかいかけてきた彼女が、今ではまるで幽霊のようだった。
「アンタがここ嗅ぎ付けるのは、時間の問題だと思ってた」
「事情通……ッスからねえ」
「でも残念。そのためのテント生活なの。風の吹くまま、気の向くまま……」
キュっと鋭い音を立てて、ルリコは蛇口を閉めた。
「アンタにもママにも、私を捕まえるなんて一生────いっしょう……」
水気を吸った髪を拭きながら、ルリコは振り返る。何気なくマリコの顔を見た瞬間、彼女の手からタオルがすり抜けた。
「ああ……ようやく見てくれたッスね、ウチのこと」
────は?
と、言ったつもりだったが、ルリコの口は動いてくれなかった。
さいしょ、マリコがいつも仕掛けてくる悪趣味な冗談かと思った。
「……ウチも、ちょっとだけ、おねえのために怒ってみようかなって……思ったんスけど……」
そう言ってのけるマリコは、立って笑って喋っているのが不思議なほどだった。
「何したらそうなるワケ?」
彼女の姿をはっきりと目に納めた瞬間、ツンとすえた臭いが漂った。
この際、ボロ雑巾のようになった衣服のことは捨て置くとして──二の腕、腿──吸い上げた体液で黄色に固まったガーゼが隙間無く貼り付けられている。
だがそれよりルリコを絶句させたものが、顔だ。
両頬を隠すような大きなガーゼは、剥がれかけていた。隙間から見える肌は焼け焦げ、ぐじゅぐじゅと赤黒くなった肉と黄色く縮れた素肌との最悪なツートーンを描いている。
「それ……ヤケド……?」
「いろいろあって、ウチがおねえの代打……ってなって。や、打たれたのはコッチなんスけどぉ!」
笑えないジョークを飛ばして、マリコは笑った。
かえって深まった沈黙をごまかすように、彼女はヤケッパチに大笑いのボリュームを上げた。
息遣いに、ひゅうひゅうという音が混じる。割れたビンの口に風が吹き込むときのような、か細く不吉な音だった。
「いやースマンっす。ギャクタイやめろって言ったのに。ウチ──わあっ」
バケツが転がって、ハデな水しぶきを立てる。
ルリコはマリコのことを抱きしめていた。
「お、お、おねえ……なんスか。急に。マジで、お姉さんみたいな……」
「ごめんね。一人で頑張らせちゃって」
蝉時雨の中で、ルリコは数年ぶりに妹の匂いを嗅いだ。
化粧と香水でコーティングされた、血と膿とヨードチンキの香り。今にも砕けてしまいそうな彼女の体を壊さないよう、そっと頭を抱く。
「……なーんも。できなかったス……」
「私。最低だ……こんななるまで戦ってくれたアンタのこと、遠ざけてばっかで。一番クソだ」
「はは……こうやってギュってしてもらえるなら、ムチャやった甲斐はあったかな……」
マリコも姉の体に、おずおずと手を回す。
「ほっそ……もうちょいメシ食ったほうがいいスよ」
「アンタも……ガンコなバカな姉貴とは縁切ったら」
向かいにある団地の上に、ゆるゆると朝日が昇り始めていた。
作り物の世界に昇る作り物の太陽。だというのに、いとおしいほどの暖かさに包まれて、ルリコは目を閉ざす。
「おねえ」
「ん」
チリン。マリコが僅かに俯くと、耳朶のラインを飾るピアスが涼しげな音を立てた。
「お願いが……あるんスよ」
「いいわ。なんでも言って」
「こればっかは言っちゃいけないって思うことが。せっかくおねえが家から逃げたのも、これで全部台無しになるような、言葉、が」
「かまわない。でも、その前にひとつ提案」
「なんスか?」
「こんな時くらいクソ映画のキャラ演じてヘラヘラすんの、やめてみたら」
こんな時でも澄ましたルリコの顔には、高潔さすら漂っていた。
マリコの体を抱いたまま、昇りゆく日差しに向けられた彼女の瞳は、既に破滅を見据えている。
妹がこれから言おうとしていること。その先に待ち受けるであろうこと。彼女の痛んだ黒髪を撫でながら、それでもルリコは揺るがない。
「ごめんね、姉さん。私、あそこで一人ぼっちはいやだ。そばにいて。もう、どうしたらいいか、分からないの」
笑顔とも泣き顔ともつかない表情をマリコは浮かべた。
そんな彼女のことを、ルリコはきつく、きつく抱きしめなおした。
マリコとは、決していい姉妹関係じゃなかった。
妹が強請って、姉が無視する。どちらが始まりだったのか、彼女たちには思い出せない。
お互いを影でクソと罵り合いながら、真の問題からずっと目をそらしてきた。
イカレた家、イカレた親──それをちゃんと直視して、やっとルリコは理解した。
やっぱり、マリコはクソだ。でも、いとおしい。
自分は姉なのだとルリコは気付かされた。
ルリコは深々と吸い込んだ息を、朝焼けの中に体温を吐き出した。
「いいわ。一緒に地獄に落ちましょ」
そこに海はない。