海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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11.祭りの終わりに(2)

 長かった夜が、しらじらと溶けていく。

 

 結局一睡のヒマもなかったルリコは、寝不足の目をこすりながら水を汲みに行く。

 モヤが立ち込めた早朝の景色は、どこか緑がかっているように見えた。

 

 この第三区公園は彼女のシマだ。

 公園が公共物であるという事実は認めるし、尊重する。みんなのものということは、ルリコのものだということを。

 だから水道の水も容赦なく使う。ジャンジャン使う。

 

「カナタのケガ……病院で……治せるものかしら……」

 

 ドポドポと音を立ててバケツに注がれる水の音に耳を傾けながら、彼女はつぶやいた。

 ふと振り返る。テントの中に、毛布の塊が見える。

 ようやく眠りについたカナタだ。

 フミオへの怒り。レイジへの苛立ち。あの悲惨な現場を見ていただけの自分への憎しみ──すべての雑念を追い払うように、彼女は手ですくった水を思い切り顔に叩き付けた。

 

「やっほ。おーねえ」

 

 早朝の町を埋めつくすようなヒグラシの大合唱と水音に、彼女の足音は紛れていた。

 ルリコは、実の妹がすぐ背後まで忍び寄ってくるまで気付かなかった。

 

「マリコか……」

 

 特に驚きはしない。

 

「あー……元気、してたっスか?」

「相変わらずよ。寝ても醒めても降りかかってくるデッケー問題に対処してるとこ。たとえば、アンタとかね」

「にゃはは……」

「別に、ホメちゃいないわよ」

「はあ。分かってるスよ」

 

 タオルに濡れた顔を埋めながら、ルリコは内心首を傾げる。

 彼女の接近を許したのは、単に周囲の物音のせいだけではない。そもそも気配が薄いのだ。

 あれほどうるさく、年中いつでもちょっかいかけてきた彼女が、今ではまるで幽霊のようだった。

 

「アンタがここ嗅ぎ付けるのは、時間の問題だと思ってた」

「事情通……ッスからねえ」

「でも残念。そのためのテント生活なの。風の吹くまま、気の向くまま……」

 

 キュっと鋭い音を立てて、ルリコは蛇口を閉めた。

 

「アンタにもママにも、私を捕まえるなんて一生────いっしょう……」

 

 水気を吸った髪を拭きながら、ルリコは振り返る。何気なくマリコの顔を見た瞬間、彼女の手からタオルがすり抜けた。

 

「ああ……ようやく見てくれたッスね、ウチのこと」

 

 ────は? 

 

 と、言ったつもりだったが、ルリコの口は動いてくれなかった。

 さいしょ、マリコがいつも仕掛けてくる悪趣味な冗談かと思った。

 

「……ウチも、ちょっとだけ、おねえのために怒ってみようかなって……思ったんスけど……」

 

 そう言ってのけるマリコは、立って笑って喋っているのが不思議なほどだった。

 

「何したらそうなるワケ?」

 

 彼女の姿をはっきりと目に納めた瞬間、ツンとすえた臭いが漂った。

 この際、ボロ雑巾のようになった衣服のことは捨て置くとして──二の腕、腿──吸い上げた体液で黄色に固まったガーゼが隙間無く貼り付けられている。

 だがそれよりルリコを絶句させたものが、顔だ。

 両頬を隠すような大きなガーゼは、剥がれかけていた。隙間から見える肌は焼け焦げ、ぐじゅぐじゅと赤黒くなった肉と黄色く縮れた素肌との最悪なツートーンを描いている。

 

「それ……ヤケド……?」

「いろいろあって、ウチがおねえの代打……ってなって。や、打たれたのはコッチなんスけどぉ!」

 

 笑えないジョークを飛ばして、マリコは笑った。

 かえって深まった沈黙をごまかすように、彼女はヤケッパチに大笑いのボリュームを上げた。

 息遣いに、ひゅうひゅうという音が混じる。割れたビンの口に風が吹き込むときのような、か細く不吉な音だった。

 

「いやースマンっす。ギャクタイやめろって言ったのに。ウチ──わあっ」

 

 バケツが転がって、ハデな水しぶきを立てる。

 ルリコはマリコのことを抱きしめていた。

 

「お、お、おねえ……なんスか。急に。マジで、お姉さんみたいな……」

「ごめんね。一人で頑張らせちゃって」

 

 蝉時雨の中で、ルリコは数年ぶりに妹の匂いを嗅いだ。

 化粧と香水でコーティングされた、血と膿とヨードチンキの香り。今にも砕けてしまいそうな彼女の体を壊さないよう、そっと頭を抱く。

 

「……なーんも。できなかったス……」

「私。最低だ……こんななるまで戦ってくれたアンタのこと、遠ざけてばっかで。一番クソだ」

「はは……こうやってギュってしてもらえるなら、ムチャやった甲斐はあったかな……」

 

 マリコも姉の体に、おずおずと手を回す。

 

「ほっそ……もうちょいメシ食ったほうがいいスよ」

「アンタも……ガンコなバカな姉貴とは縁切ったら」

 

 向かいにある団地の上に、ゆるゆると朝日が昇り始めていた。

 作り物の世界に昇る作り物の太陽。だというのに、いとおしいほどの暖かさに包まれて、ルリコは目を閉ざす。

 

「おねえ」

「ん」

 

 チリン。マリコが僅かに俯くと、耳朶のラインを飾るピアスが涼しげな音を立てた。

 

「お願いが……あるんスよ」

「いいわ。なんでも言って」

「こればっかは言っちゃいけないって思うことが。せっかくおねえが家から逃げたのも、これで全部台無しになるような、言葉、が」

「かまわない。でも、その前にひとつ提案」

「なんスか?」

「こんな時くらいクソ映画のキャラ演じてヘラヘラすんの、やめてみたら」

 

 こんな時でも澄ましたルリコの顔には、高潔さすら漂っていた。

 マリコの体を抱いたまま、昇りゆく日差しに向けられた彼女の瞳は、既に破滅を見据えている。

 妹がこれから言おうとしていること。その先に待ち受けるであろうこと。彼女の痛んだ黒髪を撫でながら、それでもルリコは揺るがない。

 

「ごめんね、姉さん。私、あそこで一人ぼっちはいやだ。そばにいて。もう、どうしたらいいか、分からないの」

 

 笑顔とも泣き顔ともつかない表情をマリコは浮かべた。

 そんな彼女のことを、ルリコはきつく、きつく抱きしめなおした。

 

 マリコとは、決していい姉妹関係じゃなかった。

 妹が強請って、姉が無視する。どちらが始まりだったのか、彼女たちには思い出せない。

 お互いを影でクソと罵り合いながら、真の問題からずっと目をそらしてきた。

 

 イカレた家、イカレた親──それをちゃんと直視して、やっとルリコは理解した。

 

 やっぱり、マリコはクソだ。でも、いとおしい。

 自分は姉なのだとルリコは気付かされた。

 

 ルリコは深々と吸い込んだ息を、朝焼けの中に体温を吐き出した。

 

「いいわ。一緒に地獄に落ちましょ」

 

 そこに海はない。

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