海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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1.7月15日(4)

『ちょいとつついたらブッ壊れちまいそうだ』

 

 唾とともにその言葉が頭に吐き捨てられたとき、すでにザワちん──そのときはまだアイザワレイジだった──は穴だらけのズタ袋のようになって校舎裏の泥を舐めていた。

 高校一年。地獄の記憶。2-Aに来る前だった時期の思い出が、たまに夜中にやってきて、彼の奥歯をひどく軋ませる。

 あのころよく彼を殴っていた生徒が言った通り、彼の美貌はまさしくガラスだ。

 要りもしない高価な美術品をある日いきなり押し付けられて置き場に困るように、彼もまた、生まれ持ったこの特性と引きかえに大事なものを失った。

 それは健康だ。少なくとも彼はそう思っている。

 

 ホコリだらけの空気を恐れずにいられるという事。

 

 笑いながら100メートルを走りきれるということ事。

 

 健康診断のたびに医者におかしな顔をされたり、説教されたりしない事。

 

 そんな、ふつうの人間にとって当たり前のことを、手放すということ。

 

 彼の病弱さはもともと神経症気味だった母の頭を更に痛めつけた。夏祭りで奉納演舞をやりたいと言った時など、親子で何時間も怒鳴りあいのケンカをした。

 おかげでノドと肺が強くないザワちんは、ボクシング試合のように何度も休憩(インターバル)を挟む必要があった。

 息子の健康を心配しているくせに本末転倒だと思わないことも無かったが、愛情の裏返しとして、彼は飲み込むことにした。

 そんなこともあったが、この勉強合宿はけっこうアッサリ、母からのオッケーをもらえた。

 最近新しく始めた療法の効果が出ていたせいだろう。

 そしてなりより、母は自分の心配性より、息子に楽しい思い出を残してやりたいと思ったに違いない。

 彼女にとって息子の人生とはまさにあの、奉納演舞だ。

 血と汗を流せば、きらめく舞台で輝ける。

 誰よりも美しく、誰よりも鮮烈に生きられる。

 

 だが、それには代償が必要だ。そして、ザワちんはすでに、それを払う覚悟がある。

 自分の中にあるかけがえの無い100を犠牲にして、美しい100を手に入れる。気持ちがいいほど単純明快なルールだ。

 

 覚悟はある。あと必要なのは、時間だけだ。

 

 ■

 

「俺はリバースを出す。青だ」

「だったら俺もリバースだ。くらいやがれ!」

「ド、ドロー2」

「こっちはドロー4でウノだ……どうだレイジ。打つ手なしか? また俺の勝ちになっちまうぜ」

 

 カードをめくり、カードをテーブルに滑らせる音。

 空咳をしながら“アイザワレイジ”が起き出すと、窓際でヨシと、“イスルギレイジ”が扇子のように手札を広げ、カードに興じていた。

 ほのかなロウソクの光に照らし出され、二人の顔が暗闇に浮かんでいる。

 この合宿で男子どもの寝床となる大部屋──通称『野郎地獄』に押し込まれたクラスメートたちは、大掃除の疲れもあり、すっかり寝静まっていた。

 二人の静かな賭けウノを見守るのは、ザワちんと、網戸に張り付いた大きな甲虫だけだった。

 

「ん。あがり……ほれ。負けたんならブツよこせ」

「ああ……」

 

 レイジがポケットから取り出したのは菓子だった。

 彼の体温で温まった、個包装された小さなチョコレート。それをつまんで光にかざすヨシは、まるで映画の悪徳鑑定士だ。

 

「今は菓子なんてありふれてるが、二、三日もすればみんな手持ちを食い散らかす」

 

 実際彼は、悪い顔で笑っている。

 

「そうなりゃこのチョコはお値打ちモンだ。ウチの連中、貧乏ばっかだからカネにはならねえが──交換させられるモノは他にいくらでもあるからな」

 

 そこで彼はチョコを脇に置いて、向かいに座ったレイジを見る。ロウソクの揺らめきが、彼のオニキスのような瞳の中で踊っていた。

 

「チョコ、マジでもらっちまうぞ」

 

 そこに一縷の後悔を読み取ったヨシが、チョコの包みに目を落とす。

 パッケージの上に、こすったような黒い跡が残っている。何度も何度も、汚れを落とそうとして必死になったのだろう。そこだけビニールがよれて、しわくちゃになっていた。

 

「お前さんがチョコなんて、持ってるわきゃねえ」

「ああ……」

「これ、誰かがくれたんだろ?」

「上履きに……」

 

 レイジは部屋の入り口にごちゃごちゃと脱ぎ捨てられた、クツの山に目をやった。

 

「食堂から帰った後、入ってた。たぶん。カナタだ……」

「そんなモンで賭けすんじゃねえよ!」

 

 ヨシが声を荒げると、暗がりで何本かの中指が、ぴょこぴょこと立ち上がった。もうちょいボリュームを絞ってしゃべれ、というハンドサインだった。

 

「なあ。お前、どうしちまったんだ」

「何がだ」

 

 レイジの無骨な手が、投げ捨てられたカードを集めて山を作る。同じ向きに揃えて、シャッフルして……見ていて眠くなるほど、すべての動作がノロい。

 思わず引ったくってやりたくなる衝動を抑えながら、ヨシは続ける。

 

「これはただのチョコじゃねえ」

「分かってる。じゅうぶんに」

「だったらなおさらだ。お前さ、カナタちゃんのこと大事に大事にしてたじゃねえか。バラバラになっちまって、いいのかよ」

「俺は……このまま、で、いい」

「本ッ当にバカですね」

 

 暗闇でモソリ、と毛布が動く気配があった。それまで咳をこらえながら必死に目蓋を閉じていたザワちんだ。

 

「お前ごときが三行半突きつけた後だっていうのに、カナタさんはそれをくれたんだ。会長は接近禁止令を出してる。俺が言うのもどうかと思いますが、彼女の体調は最悪だ。

 それでも、あの人は差し入れを……お前、本当に、どうしようもないな……」

 

 這うようにしてやってくるザワちんを一瞥して、ヨシはレイジから手札を受け取る。

 

「ザワちんも一発やってくか?」

「おめーらがうるさいから起きちまったんですよ。明日もあるんで、ホント、やめてくれませんかね……」

 

 毛布を座布団代わりに、ザワちんが二人の間に座り込む。やめてくれよと言いながら、二人の試合を見守る気マンマンだ。

 ヨシは、手札を整えるフリをしながらレイジを見た。

 彼はテーブルにカードを伏せたまま、頬杖ついていた。視線は窓の外のずっと遠く、グラウンドを挟んで反対側のプールに向けられている。

 長く伸びた前髪の下、その横顔に秘めた憂いが、ぞっとするほど美しかった。

 

 白日の下で見る彼は、あくまで筋肉の塊に過ぎない。しかし、その暴力的な筋繊維の盛り上がりは闇夜の中で息を潜める。

 代わって、彼本来の精悍さと、何か後ろめたいものを必死に押さえつけているような黒い瞳が際立って、向かいに座るヨシの目には妖艶に映るのであった。

 

「まあ、俺がマッチョ好きなだけかもしれねえな!」

 

 唐突にヨシが大声を上げると、レイジが目をまん丸にして彼を見てきた。

 

「すまない。俺の番だったな」

「構うかよ。お互い体力持て余してんだ。夜は長ェし、ゆっくりやろうや」

 

 レイジが出したのは青のリバースだった。

 ヨシも、そこに乗っかってリバースを重ねる。レイジはうなり、カードを引く。そんな彼のことを見て、ヨシはニコニコ笑っていた。

 

「知ってるかレイジ。実はな、リバースにリバース重ねるのって反則なんだぜ」

「なんだと。さっきも、同じことをやっていたじゃないか」

「このボウズにフェアプレーを期待するのはムダですよ」

 

 無効試合ですね──と言ってザワちんがヨシの手札を勢いよく弾く。落ちたカードはバラバラに散らばって、吹き飛んだ。

 

「ちぇ」

 

 そう言って、ヨシはチョコレートをレイジに返す。

 カナタからの心遣いは、何度手放しても彼の手元に戻ってきてしまう。溶けかけのチョコをポケットに仕舞う彼の顔は、複雑だった。

 

「レイジはなあ。ちょっと素直がすぎんだよ」

 

 テーブルの下に頭を突っ込んで、落ちたカードを拾い集めながら、ヨシが言う。

 

「まっすぐ行ってドーン。間違ってると思ってもそのままドーン、だ」

「ただのバカって言ってあげりゃ話が早いと思いますが」

「少なくとも、カナタちゃんにカギ渡したのはバカ極まってたな────だけど。ホントにズルが上手いヤツってのはな、レイジみたいなヤツだよ……あだッ!?」

 

 ゴン、と音を立てて、ヨシが頭をテーブルのフチにぶつけた。

 

「ボクサーが100キロのパンチをしても誰も驚かねえ。でも、ある日見たゴリラが手芸の天才だったら、なんて誰も想像できねえだろ……?」

「意外性。ってヤツですか」

「そうそう。一回コッキリの大勝負ってな、そういうヤツこそ向いてんだ」

 

 彼は頭をさすりながらカードを混ぜる。手札を配る。手札を整理する。

 そして、レイジがさっきから喋らないことに、ようやく気づいた。ヨシが顔を上げると、彼は、ずっと窓の外を見つめている。

 

「プールが気になるみたいだな」

 

 ヨシとザワちんも、彼の視線の先を追う。プールサイドに建てられた外灯の光の下で、墨を溶いたような水が渦巻いているのが見えた。

 

「覚えてるか、ヨシ。俺たちがプール掃除した日のこと」

「忘れるわけねェだろうが」

 

 大抵いつも、ニコニコとしているヨシの顔に苦味が浮かんだ。

 

「お前がボサっと寝てたせいで、こっちはビート板抱えてドロ水ダイブだっつーの」

「あれは本当にすまん」

「おまけに会長がサメだサメだと騒ぎ出すし……あれさあ、今になって思い返すと、集団ヒステリーだよなあ」

 

 水泳部がプールの水に浸かってから、体調不良で全滅。

 休部は表向きの話で、実際のところ、彼らは汚染水に触れてしまった。

 水質検査でアウトを食らって以来、そこを使ったものはいないはずだ。

 レイジにも、ヨシにも、夜の暗闇を吸い込んだような黒い水面は、ただただ、穏やかに揺れ動いているようにしか見えない。

 

「すまんレイジ。話の腰をヘシ折ったみたいだな」

「いや……いいんだ」

 

 馬鹿馬鹿しいと俺も思うんだが、という含みが、レイジが挟んだ間の中にあった。

 

「話してみろ。俺は笑わねえ。楽しそうな顔をしているが、ただの生まれつきだ」

「……話したいのは、そのサメのことなんだ」

「サメですってぇ?」

 

 それまで小さく咳き込みながら話を聞いていたザワちんが、素っ頓狂な声を上げた。

 

「俺は、あの日、サメが本当にいたと考えている」

「「「はあ!?」」」

 

 突拍子も無いレイジの言葉に声を上げたのはヨシでもアイザワでもなかった。

 それまで狸寝入りを決め込んで耳を澄ませていた生徒たちが。それこそ、男子部屋のほぼ全員が、一斉にガバと起き上がってきたのであった。

 

「埃立つとザワちん辛いから。寝てろ、お前ら、寝てろ」

 

 しっしと追い払って彼らを寝床に戻らせるヨシを尻目に、ザワちんはプールに目を凝らす。

 

「で、そう思う根拠は何です?」

「俺はこの一ヶ月で…………本当におかしなものを色々と見た」

 

 かなりぼかした言い方をした。

 

「閉鎖された七区や、泥水プールのことですか?」

「ああ。いつでも、そういう時は近くに水場があった」

 

 レイジがうなずく。

 

「その延長で、サメ……か、サメのような何かが本当にいた。あそこに、まだいる。そんな気がするんだ」

 

 ドブに飛び込んだときのことを昨日のように思い出せる。

 夢に出てきた少女の声に導かれ、何の迷いも無くヘドロまみれの川に突っ込んだ。その次はプール。そして、七区。

 マンションの花壇を掘れば塩水が沸き、映画館ではトイレが水浸し。病院の地下は、ほとんど水没していた。

 

 そして水が沸くところでは、腐臭と汚泥の使者──『つくり笑い』と『うそ泣き』、そして彼らの率いる棘皮人間が姿を現した。

 

 だが今のレイジは、一連の事件に奇妙なひっかかりを覚えている。

 

「プールでも泳げる人食いザメなら、います。淡水性のオオメジロザメっていう目のイっちゃってるヤバいやつが」

「下水道のワニみたいに? 誰が持ち込んだんだよ、そんなモン」

「ここはサメが自分で歩いてきてプールに飛び込んだと仮定しましょう。何せ、前提が既にムチャクチャなので。おい、イスルギ」

 

 呼ばれたレイジが、プールからザワちんに目を移した。

 

「水抜きをしたのをアンタも見たはずですよね。果たしてサメはいなかった。あったのは藻と、気色悪い虫どもと、真っ黒なばっちい泥の山だけです。それが」

 

 それが全てだったでしょう、と、ザワちんは続けようとして口元を覆った。破れ戸に風が吹き込むような、あまり具合のよくなさそうな咳の音を響かせる。

 

「その泥の中に隠れてた。っつーのは?」

 

 その背中をさすりながらヨシが聞く。黒い泥──その言葉が耳に入ってきて、目を細めたのはレイジだけだった。

 

「げひっ……ドジョウやナマズみたいに、ですか? 三メートルのサメが?」

「ムリだよなあ……そうだよなあ……プールにサメはロマンがあるんだけどな……」

「水泳部が噛み殺された。なんて話も聞いてませんね」

「それなんだけどさあ」

 

 三人が声のほうに目をやると、寝床から上体を起こしたクラスメートの一人が、暗闇の中で手を振っているのが見えた。

 

「あの後に水泳部が休部になったろ。なあ?」

「ハルマサが居酒屋で酒飲んでゲロったってやつか?」

「そりゃ停学の理由ですね。水に浸かったら具合悪くなってそのまま入院、てのが元々の理由です。おかげでヤツは会長さんに奥歯折られなくて済んだってわけ」

 

 まあ、復学したら結局シメられるでしょうが──とザワちんが肩をすくめる。

 

「でもさ。あいつ何週間学校休んでんだ? ……一ヶ月? 長すぎじゃん?」

「学校で乱痴気騒ぎやってんだぞ。謹慎期間だろ」

「だとしても……誰でもいい。町で水泳部見かけたヤツいる?」

 

 その場の全員が顔を見合わせ、直後に全員がかぶりを振った。

 

「謹慎中つっても、こっそりコンビニくらい行くだろ。だけど、誰も見てないんだよね」

「おいおい……合宿にお決まりの怪談っぽくなってきたな」

 

 ヨシが、演技じみた動きで自分の肩を抱えて、身震いして見せる。

 

「つまりだ。サメがマジでいて、水泳部を襲った。結果、あいつらは全滅。さらに、その事件は公にはされていない。と」

 

 答えは誰からも出ない。寝苦しい真夏の熱気の中に、気まずい沈黙が漂った。

 レイジは腕組みしたまま、ウンともスンとも言わない。

 彼はテーブルの上にブチまけられたカードの絵柄を目で巡りながら、『奇妙な一ヶ月』の出来事に思いを馳せていた。

 

『少し前にウチの水泳部も休部になってな。更に15人』

 

 棺の中に転がり落ちた後、潰された頭の片隅で聞いたフミオの言葉だ。

 

『ヤツらはお前(カナタ)を追ってる。お前が自由に出歩いてると、どんどん人が死ぬ』

「映画館……病院……七区…………プールにいたのが黒い怪物だとして……あの時、カナタはいなかった。じゃあ、何を……」

 

 そんな独り言を呟くレイジは、周囲からさぞ気色悪く見えただろうが、彼は知ったこっちゃ無い。何か、とんでもない事実を見落としていたような気がした。

 

 ────ふと、”うそ泣き”の姿を思い出した。

 

 あの怪物はレイジを待っていた。

 キリエが言うとおり、棘皮人間の狙いが『子供の死体』だと言うなら、一直線に施設の奥を目指せばいい。

 だというのに、あれは無数に糸を張り巡らせた罠まで準備して足を止めていた。なぜ自分がそうしているのか分からず、本人でさえ困惑した様子で。

 

「ヨシ」

「えっ、あっ、おう。どうした?」

 

 急に我に返ったレイジに名前を呼ばれて、ヨシは戸惑った。

 

「ひとつ、例え話をしていいか」

「その話には犬が出るか?」

 

 少し引きつった笑いを浮かべてヨシが答えた。

 

「ああ。その通りだ────なんで犬だと?」

「前にフミオがボヤいてた。お前の例え話に犬ッコロが出ると、えらく分かり辛いことになるって」

「フミオが……?」

 

 その名前を聞いて、レイジの顔が僅かに曇る。

 

「まあいいぜ。それで?」

「大きな犬がトンネルの中を走っているところを想像してほしい」

 

 ■

 

 ヨシは腕組みして、閉ざした目蓋の裏に巨大な地下道を思い描く。

 巨大で、長いトンネルだ。足元にはなぜか薄く水が張り、硬く閉ざされた鉄扉が左右の壁に並ぶ。

 照明はあまりに頼りない。むしろ、トンネルにわだかまる闇を引き立てるために用意された舞台装置に思えるほどだ。

 その薄暗がりを、眼を光らせて一匹の犬が駆けていく。

 

「芝犬にしよう」

 

 レイジが言う。

 水が張られた地下道の中で、巨大な芝犬が首をもたげる。ホワホワの毛先に水滴を光らせながら、かわいらしい仕草で前に立つレイジとヨシを見上げてくる────

 

「柴犬はよしてくれ」

 

 目を開けて、ヨシがレイジを睨み付けた。その隣で毛布をいじっていたザワちんは、呆れ顔だ。

 

「犬種なんてどうでもいいんじゃないですかね。どうせ想像だし」

「ダメだ。想像だとしても柴犬が傷つくなんて。俺は許せない」

 

 レイジは仕方なさそうに頷いた。

 

「わかった。選手交代だ」

 

 芝犬が尻尾を丸めてすごすご引き返していくと、それまで様子を伺っていた一頭の黒いアメリカン・ピット・ブルテリアが、鉄扉の影から、ぬうと姿を現した。

 

「そもそも、なんでこんな場所に犬がいるんです?」

 

 潰れた鼻の闘犬は、しばらく鼻をヒクつかせながらぐるぐると辺りを嗅ぎ回っていた。

 それが、通路の彼方に何かを見つける。

 

「肉だ。通路の奥から美味しそうな肉の臭いがするからだ」

 

 鋭敏な嗅覚で餌の在り処を探り当てたピットブルが弾丸のように駆け出した。

 激しく水が舞い上がり、歯茎を剥いた闘犬の姿を万華鏡のように映し出す。そして、彼は肉の存在と同じくらい、後方からの追跡者にも注意を向けていた。

 

「犬を追っているのは、慎重で、執念深くて、優秀なハンターだ」

「じゃあ俺だな」

 

 棍棒を持ったヨシが、

 

「おい相手はピットブルだぞ!」

 

 猟銃を構え、防刃ベストを着込み、ポリカーボネートの盾を背負ったヨシが、安全靴の足音を響かせながら、付かず離れず犬の後を追ってきていた。

 

「ひいきの犬じゃないと容赦がないですね、こいつ……」

「手加減はするさ。犬が好きなんだ」

 

 弾はゴム弾だった。

 

「ヨシは肉をとられたくない。だから犬を追いかけている」

 

 商店街の八百屋のセガレとして育った彼が、どうしてひとつの肉塊に執着することとなったのか──その背景には複雑な事情が隠されているような気がしないでもないが、話が進まないので、とりあえず彼らは深堀りを避ける。

 

 トンネルを走り続けると、熟し始めた肉の香りが漂ってきた。

 もはや犬でなくても感じるほどだ。血の滴る肉。ルビーのように艶のある赤身を曝け出した肉。

 息せき切ったピットブルはネバつくよだれを引いて走る。

 犬一匹にやりすぎな装備でマシュマロマンのように着膨れしたヨシも、汗ばんだ顔をぬぐいながら必死に追いかける。

 

 追跡劇は、じき終わる。両者とも、それを予感していた。

 

「ははん!」

 

 大声を張り上げたヨシに向かって、枕が飛んできた。

 

「こちとら銃持ちだぜ!? 分をわきまえねえ犬ッコロに、人間サマの恐ろしさを教えてやるよァ!」

「ヨシ、あんたマジで……」

 

 しかし、この狩りは思わぬ顛末を迎えることになる。

 廊下から廊下、朽ちた隔壁を乗り越えてきたヨシは、面食らった。

 

「その廊下の先に肉が吊られているのが見える。だが、犬の様子がおかしい」

 

 しかし犬は天井からブラ下げられた肉塊に興味を示さず、床に座り込んで、ヨシのことをじっと見ている。待っていたのだ。

 そしてゆっくりと尻を浮かせると、ヨシのほうに距離を詰めてくる。目は爛々と輝き、口の端から血のように赤い舌が覗いている。

 

 追うものと追われるもの。それが逆転する。

 

「げっ、サイアクなんだけど!?」

 

 マズルフラッシュが闇を引き裂いた。

 ショットガンのバレルから飛び出したゴム弾は、弾頭の切れ込みに沿って空中で十字型に展開する。大きく広がった弾丸が、弾道を完全に読みきったという闘犬の確信を、肋骨ごと粉々に打ち砕く。しかし、闘志は折れない。

 

「機関銃にしとくんだった!」

 

 手近にあったホウキを銃のように構えたポーズのまま、ヨシが顔をしかめた。

 

「なぜだと思う?」

「えっ? うーん、そうねえ」

 

 レイジに聞かれ、ヨシが考え込んだ。

 

「そんなにクソ真面目に取り組む問題ですかね」

 

 気の抜けた顔をしたザワちんが何度か咳き込んだ。

 ヨシは天井を見つめて、じっと考え続ける。

 

「犬がいる。犬は肉を追っていた。しかし、肉を手に入れる寸前で、止まってこっちを襲ってきた……うん……なるほど」

 

 えぐれた腹の痛みなど感じさせない動きでピットブルが飛ぶ。

 その牙はリロードに手間取るヨシの防具をすり抜け、正確に首筋を捉えた。

 

「そうだな……気づいたんじゃないか?」

 

 涼しい顔で、ヨシはボウズ頭をなでる。

 彼の想像の中ではこの瞬間、もう一人のヨシが犬に食い殺されている最中だ。首に食い込んだ牙がブヅブヅと音を立てて肉の繊維と血管を断ち切る。鮮血が壁に水玉を描く。

 支えを失った首が、ガックリ真横に転げる。

 

「気づいた? 何を?」

 

 身を乗り出してくるレイジは、ほとんど確信しているようだった。

 面白い男だと、ヨシは思う。

 何を考えているか分からない。ぬぼっとして、ボーっとして、落ちこぼれのクラスとさえ距離を置いて生きてきたでくの坊。

 それが、たった一人の少女との出会いによって別人のように変わろうとしている。

 

 ────レイジは俺の答えに、どんな真実を見出そうとしているんだ? 

 

 必死に耳を傾けてくるレイジに、わざと間を作ってからヨシは答えた。

 

「犬はこう思ったはずだ。“俺が追っていたのは肉の臭いじゃねえ”」

 

 一頭のピットブルが、ヨシの死体を引きずりながら暗がりに消えていく。

 

「“俺によだれを垂らさせたのは、後ろから追いかけてくるヤツのにおいだったんだ”──ってな」

 

 巨大な隔壁が想像と現実の間に落とされ、彼は改めて、レイジの瞳を見つめた。

 頭の中で自分が一人犠牲になったようだが、おかげで、この男は納得できたようだった。

 

「そうか。俺もそう思う」

 

 レイジは合点がいったように頷いて、そっと網戸を開け放った。

 窓枠を乗り越える彼は振り返らない。

 

「ここ二階だぜ」

「走れ走れ。イスルギレイジ。お前が燃え尽きるその時まで」

 

 開いた窓の向こうを見下ろしながら、ザワちんが続けた。

 

「お前が思ってるほど、人生も夏も長くはないんですから」

 

 校舎は夜の闇の中に浸されていた。彼が語りかける背中も、その中に溶けて紛れて、既に見えない。

 

「けほっ」

「おいおい、体冷やしすぎじゃねえか?」

「こんな熱帯夜に? バカ言っちゃいけませんよ。けふっ、けふっ」

「ンだよ、俺は心配してんだぜ……」

 

 ザワちんは手を口元にやって、しきりに咳をしはじめた。

 見かねて背に手をやろうとしたヨシを睨み付けてから、彼はろうそくを吹き消す。大部屋は一瞬で外の闇と交わり、その顔だけがヨシの目に焼きついた。

 

「けほっ、けほっ……お前は死にませんよ」

「あ?」

 

 寝静まった級友たちをまたいで寝床に戻っていくヨシを、ザワちんの声が引きとめた。彼の顔は依然として外に向いたままで、青白い月の光がうりざね顔をなぞっている。

 

「どんな怪物がトンネルの先で待ち構えていても。ヨシは死ねない。俺が死なせない」

「あんまガチんなってば」

「お前と、そしてボタ子の盾。それが俺の役目ですから」

 

 暗がりに引っ込んだヨシが、ザワちんの敷布団を抱えて戻ってくる。

 

「この瞬間も『任務』は継続中。アイアイ。でも俺ら、ガクセーだろうが。まずは肩の力抜いて、エンジョイアンドエキサイティングだ。いいだろ?」

「イスルギのヤツにだいぶ肩入れしてるみたいですが」

「そりゃボタ子だろ」

「そんなヤツが俺たちの最大戦力とは。ギリギリでコッチに銃口向けられたくないもんですね」

「ああ見えてマジメな女だよ。アイツは……」

 

 窓際に運ばれた布団の上に、ザワちんが体を横たえる。

 その枕元に、ヨシが座った。

 

「ボタ子なら。キリエ先生にだって勝てる。あの女は生身だが、最強だ」

「あいつがおかしな心変わりしなきゃ、ですがね」

「イザって時が来たら、きっと上手くやれるさ。なんなら、俺ら二人でも」

 

 無数に散らばるカードの中の一枚が、ヨシの目に留まる。青のリバース。やけにくたびれて白い折りグセまでついた絵柄が、月光を受けて輝いていた。

 

 リバース。

 

 青。

 

 リバース。

 

 青。

 

 

 深淵の青。

 

 カナタの青。

 

 繰り返す。

 

 ウノ──あがれる、のだろうか。月の光がやけにまぶしく、ヨシは目蓋の上から目を揉んだ。

 

「……俺らはムナカタおじさんに借りがある。うまくやるさ。なんでも、うまく。たとえ、この町が滅ぶとしても」

 

 ザワちんはそっと、手のひらを見る。

 粘つく唾液に絡まった吐血に、そっと舌を這わせ──ゆっくりと飲み下した。

 

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