海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.深夜/アイ・ドント・ビロング・ヒアー(1)

 結論から言うとレイジは捻挫した。

 窓枠を蹴った瞬間、ポケットの中に入っていたものに気を取られたのだ。

 二階からの落下。

 地面との再会。右足首はほとんど直角に折れ曲がり、彼は鈍く熱い関節の悲鳴を聞く。

 だが、それだけだ。どれだけ痛めつけても数秒で新品同然に戻る体だ。折れただの砕けただの、現物を持ってこないクレーマーにいちいち構うことはない。

 

 日の光が裏山に遮られるため、あたりの地面はふわりとした腐葉土に覆われていた。

 暗闇の中でレイジは目を凝らす。グラウンドを挟んで反対側に、コンクリート製の外壁とフェンスで覆われたプールがある。

 

 外灯の明かりでポッカリ切り取られたプールサイドに直行しようとして──彼は治癒したばかりの爪先を校舎に向けた。

 脱走に目を光らせるルリコの監視網に引っかかれば、深夜徘徊はそこでオシマイだ。

 なので、彼は校舎の影を伝って大回りで向かうことにする。

 

 歩き出したレイジは、ポケットに手を突っ込む。そこから取り出したのは、パッケージがクシャクシャになった二粒のチョコレートだ。

 暗闇で口に放り込んだチョコは、やけに甘い。味は溶けたビニールのようだった。

 体温で既に表面がベタついていたチョコを口の中で転がしながら、彼は夜の校舎を歩いていく。

 いつしか月の前に分厚い雲が立ち込め、明かりはほとんどない。

 ガラス張りの渡り廊下、その内側から湿った緑色を投げかけてくる非常口のライトが一番強い光だ。

 じんわりと昼の熱気を纏ったコンクリートの建物を縫ってノロノロ歩く彼は、光の届かない深みを行く一匹の深海魚のようだった。

 

 久しぶりの孤独だった。

 

 数日前までは、夜道を一人でジョギングしている時も細い糸がカナタとの間に繋がっているような気がした。

 マンションに帰ったら、彼女が待ってる。

 あんな寒々しい、寝るだけに存在するような廃墟の穴倉を、彼女が居心地のいい家に変えてくれた。

 

 だが今は違う。全部が壊れた。レイジがその手で壊してしまった。

 

 レイジは自分の足元から伸び、校舎の壁を伝う影を見る。

 彼の夢から溶け出てきた少女を思い出す。見えなくとも、ずっと傍にいて導いてくれた、灰色のワンピースの女の子。

 A-6500シャフトでの一件から、彼女は姿を見せてくれない。レイジの頭蓋骨についたドアを開け、どこか遠くに彷徨い出てしまったようだ。

 

 彼女たちと過ごした日々の記憶は、口の中に入れたチョコと共に溶けていく。

 甘い香りも楽しい記憶も、飲み込んでしまえばすぐに色褪せる。残るのは血錆のような金属臭だけだった。

 

「────ヘイ、アンタも脱走兵ッスか?」

 

 暗闇から、黒猫のように一人の少女が歩き出た。

 レイジが体育館前の吹き抜けに差し掛かったときだ。

 程よく焼けた小麦色の肌が月光の下に浮かび上がる。スニーカーの足音を響かせながら近づいてきた彼女が、ドン、とレイジに体をぶつける。

 頭二つ分低い場所から見上げてくるのは、この合宿の監督役、マリコだった。

 

「どうしてこんな時間に」

「眠れねーんスよ……ウチみたいに愉快な思い出ばかりだと、夜中に飛び起きることもあるんス」

 

 まあ、アンタには分からないかもしれないスけど──そう漏らしながら、彼女は壁際の自販機に歩いていく。

 ジー……ガッ、コン。彼女がボタンを押すと、一本のアイスバーが吐き出される。煌々と点った自販機の明かりで、取り出し口にしゃがみ込んだ彼女の顔が照らし出される。

 顔の火傷を覆う二枚のガーゼが、巨大な感覚器のように見えた。

 

「うん。やっぱお菓子のイチゴ味って、見かけばっかでわざとらしーっスよね。ウソイチゴって感じっス」

 

 ジュボボゾボボ、と色気のない音を立てながらマリコがアイスをしゃぶる。

 彼女の猫目は柱と自販機との間にわだかまる闇に向けられていた。

 

「レイジさんはどうスか。ウソイチゴ。好きスか?」

 

 彼女の顔のパーツで大きいのは口と目だ。彼女が冗談めかすと、その口が大きく歪む。その影で、目が帯びた冷たい輝きがどんどん鋭さを帯びる。

 笑っているが、笑ってはいない。マリコはレイジに対して、完全に心を閉ざしている。

 

「マリコ」

「暴力男が、ずいぶん気安く呼ぶっスね」

「カナタはどうしてる。俺が、聞く筋合いではないが」

「それ分かってるなら、どうしてわざわざ聞いてくるスかね」

 

 警戒もしている。それを隠そうともしない。

 お前のことは何もかも見透かしているからな──と、暗闇で大きく瞳孔の開いた瞳が語りかけてくる。

 

「ウチはアンタからもう目を離さない。ロクでなし同士、仲良くしよーっス」

 

 幽霊のように垂らした手を、マリコが差し出してくる。地面に落ちた、ばっちいフキンを嫌々つまみあげる時の手だ。

 

「あっあっ、なんスか?」

 

 その横を抜けて、レイジはプールを目指す。

 

「ウチみたいのと握手はできねーってことスか!?」

「違う。俺にマリコの手を取る資格は無い。それだけだ」

 

 彼の大きな歩幅に合わせて、マリコが小走りで並んでくる。

 コンクリートの吹き抜けに、彼らの足音が何重にも反響する。レイジは自分の背後に無数の人間がついてきているような錯覚をおぼえた。

 彼らはいっせいに影でできた指先を向け、口々に彼を責め立てる。

 

『ひとでなし!』

『約束も守れないくせに!』

『できそこない!』

『人のマネするばけもの!』

 

 こわばった顔を、レイジは掌で押さえる。

 

「……ね。何があったんスか」

 

 レイジを見上げて、マリコが聞いた。

 

「カナタ先輩に聞いても、なんでも無いって言うけど──アレ、ウチみたいに問題あるやつが面倒避ける時に言うやつッス」

 

 レイジは黙ってかぶりを振った。

 

「何したんスか、あの人に。 あの首のアザは? アンタ見ただけでゲボ吐くなんて。フツーじゃないス」

「俺が全部やった。俺が全て悪い」

 

 レイジの歩調が強まる。マリコが小走りになる。

 建物の隙間からグラウンドが見え初めて──レイジは一気に駆け出した。

 

「あっ、ちょっとォ!?」

 

 見事にスタートダッシュが遅れたマリコの声が、どんどん遠ざかっていく。

 すまん。レイジは一応謝っておく。病み上がりの彼女に悪いと思ったが、今はとにかく時間が惜しい。

 地面がタイルから目の細かい砂に変わる。プールが視界に入る。

 

 ──西高のプールには怪物が潜んでいる──

 

 あの日泳いでいたサメが、ヨシの言うところの集団ヒステリーの産物でなかったとしたら。

 

 プールの怪物に対するレイジの推測が正しいのなら、あれはまだあの場所に戻って来て、虎視眈々と“本命”を待ち侘びているはずだ。

 

 本命──レイジはそれを確かめたい。

 

 プールの前にたどり着いたレイジは、黄色いチェーンで施錠されたままの入り口を一瞥するなり飛び上がった。

 

 その体はコンクリートの壁も、プールの周りに張り巡らされたフェンスをも飛び越え、やすやすとプールへの侵入を果たす。

 

「ぜえ……ぜえ……そこ、立ち入り……わ、わーるいんだ……!」

「待っていてくれ。話なら、あとで聞く」

 

 ようやく追いついてきたマリコが息を切らしているのを尻目に、レイジは部屋から持ち出したライトを掲げ、水の中を照らす。

 話では、水質汚染の話が出て、水泳部が全滅してからそのままだ。

 だとすればこの水は、十五人分の命をすすった後も澄まし顔で彼らの日常の傍にたゆたっていたことになる。

 

 レイジは目を凝らす。

 闇夜の中で、プールの水は粘りを増したようだ。

 ゆらりと彼の足元に寄せるさざなみが、レイジを水の中に誘う。まるで、このプール自体が一個の巨大な生物だ。

 しかし、水底にはなんの影も見えない。水底に引かれたラインが見えるほど透明だ。

 そこは2-Aと水泳部によって掃除され、あの日折り重なっていたタール状の汚泥も片付けられてしまっている。

 

「まてーい! この女泣かせの不法侵入者ー!」

 

 マリコの立ち直りの早さは目を見張るものがあった。

 さっき肩で息をしていたのがウソのように、フェンスをガシャコガシャコと騒々しく鳴らしながらゲートをよじ登ってくる。

 この音がルリコの注意を惹かなければいいが──そう思いながら、レイジはライトを掲げてプールの外周をぐるりと回る。

 しかし、それはただの水だ。

 いくら目を凝らしても、瞬きを忘れた瞳がチリチリするほどに見張っても、それは闇の中にヌメっとした塩素の香りを放つ水でしかない。

 レイジとヨシの予測は外れた。

 

(────気のせい、だったか)

 

 それはそれでいい──ひどい肩透かしを食らったが、レイジは自分を納得させようとする。ここにサメはいなかった。棘皮の怪物も。()()()()()()()()友人や、カナタの日常を脅かす存在も。

 

「はあっ、はあっ。フロ入ったのに、汗かいちゃったじゃないスか……」

 

 足元を照らしていたレイジのもとに、フェンスを乗り越えたマリコがやってきた。

 

「待ってろと、言ったはずだ」

「ウチは監視役。アンタみたいな危険人物を見張るのが仕事!」

 

 マリコもレイジに合わせて、水面を見やる。

 

「んで? ここに何があるんスか」

「何もない。俺の思い違いだ」

「な……」

 

 クルリとレイジが背を向けた。

 

「俺は行く。マリコもそろそろ寝た方がいい」

 

 そして、大汗をかいたマリコがその場に立ち尽くした。

 彼女がポカンとしている間に、レイジは巨体を揺さぶって去っていく。こんな深夜に。これだけ走って。これだけ振り回されて、なーんもナシ。

 

「なん……」

 

 やがて彼女は、かすれ声を絞り出した。

 

「なん、なん、なんなんスか、あんた一体!?」

 

 闇夜を切り裂く甲高い怒鳴り声が、プールの水面を微かに揺らした。

 

「ここにサメがいると思って来た。だが気のせいだった。だから、これから帰るところだ」

「サメぇ!? 全然ワケ分かんねーッス! 前々から言おうと思ってたけど、アンタ、キモいんスよ! 何考えてるか、ちっともわからねー!」

 

 いくら岩男だろうが、こんだけぶつけりゃムっとするっしょ──そんなマリコの予想を粉々に打ち砕くほど、振り向いたレイジの顔には表情が無い。

 彼女を見つめる目は、闇夜のプールよりも昏い穴だ。

 

「だろうな」

「だ、だろうなって。こんなクズから好き放題言われて、そんだけスか」

「キモいと言われて、ちょっと懐かしくなった。カナタがよく、俺をそう呼んでたから。それと」

 

 レイジはわずかに、ほんのわずかにマリコに歩み寄った。

 

「なんスか……」

 

 まるで小山が目の前に迫ってくるような圧迫感を覚えながら、マリコはようやく、自分が『危険人物』とサシで暗闇にいることに気付いてしまった。面持ちを硬くする彼女を、レイジが静かに見下ろした。

 

「マリコはクズじゃない。クズは、俺だ。俺だけなんだ」

「はえ」

 

 ため息の言葉を吐き出したレイジが、口の端を痙攣するように動かした。

 

「な……」

 

 そんなことをアッサリ認められて混乱するばかりのマリコの前で、レイジは再び背を向け、そして歩み去る。

 一瞬の痙攣が、どうやらレイジなりの微笑であったと彼女が気づくまで、しばらく時間が要った。

 

「なんなんスか、アンタ、マジで……」

 

 レイジはダメ男。

 いろんなダメダメ人間と関係を持ってきたマリコだから、よくわかる。腐った目は全開で、覇気のない顔を隠しもしない。

 だが、初体験のダメさだ。

 無限の穴に自分から飛び込んでいくような破滅的なダメっぷり。自分の飛び込む穴の深さを掘り下げるあまり、周りまでもがその穴に落ちていくような。

 

「アンタには自分がないんスか! イラつかないんスか!?」

 

 ぺち。

 

 マリコの手が、レイジの背に当たって乾いた音を立てた。

 

「何日か前まで、自分っていうのがあった気がする」

「だったら──」

「でも、もうない。俺は、からっぽだ」

「なんでこんなやつに……カナタ先輩は……」

「そうだな。俺は本当に本当に本当に、カナタを傷つけた。何を、やっているんだろうな」

 

 レイジの背に掛ける手も、言葉も、もはやマリコには残されていない。

 彼はどんどん歩いていって、錆の浮いたフェンスに触れる。月が雲に覆われ、明かりといえばプールサイドを切り取るスポットライトのような外灯の光だけ。

 そんな光の中で、頬に落ち窪んだような影を落としながらレイジが振り向いた。

 

「そうだ。できるなら、ルリコに伝えてほしいことが──」

 

 彼の視線が、マリコの背後に吸い寄せられる。

 

「なんスか」

 

 そこには用具入れと更衣室があり、さらに奥、ちょうど今まで死角になっていた位置に水泳部の部室が見える。

 プールの入り口よりも厳重に、幾重にもテープが巻かれ、その上南京錠をかけられたドアが、ゆっくりと開いていく。

 

 異様な気配にレイジは気づいた。何かが──いる。

 

 それは、姿を現した。黒い怪物。まるで顔を覆って泣くような俯き加減の黒い姿が、再び輝きを取り戻した月の光を受けて光る。

 

「さっきのが今サラ頭にきた、とかスか」

 

 マリコが軽く後ずさったのを見て、レイジはフェンスからゆっくり、ゆっくりと手を離す──まるで這いずる影のように音も無く、彼女の背後に忍び寄りつつあるそれを、刺激しないように。

 

 ぺた。

 

 水かきのある扁平な手が、微風の中に音を漂わせる。濡れそぼった長髪のような黒い外套膜が、その手の上に垂れる。

 

 “うそ泣き”だ。

 

「怖い顔してんじゃねーっスよ」

 

 目つきを尖らせるマリコだが、今振り返ればもっと恐ろしいものが見れるはずだ。

 

「動くな」

 

 レイジは身構えた。

 ”うそ泣き”はコードのように頭から垂れた触手をゾワリゾワリとプールサイドのコンクリートの上に這わせる。もう、いつマリコに届いてもおかしくない距離だ。

 

「絶対に、そこを、動くな」

 

 背後に迫る脅威など知らない彼女は、下唇を噛み締めた後、キッとレイジを睨み付けた。

 

「……それがあんたの本性ってヤツすか……」

「すぐ終わる」

「ウチ、どんだけ殴られても絶対に泣いたりしないんで……やっぱサイテーすね、あんた」

 

 マリコがぎゅっと目を瞑った瞬間“うそ泣き”とレイジが走り出した。

 地面に寝かせられていた“うそ泣き”の触手がいっせいに立ち上がる。鉄板をも貫通する鋭い爪が先端に光る。まるで殺気立ったヘビの群れた。

 レイジは銃弾だ。

 ワン、ツー ──助走は二歩まで。拳を振りかぶった彼の足はコンクリートで固められたプールサイドを離れ、宙を舞う。

 

 レイジ、マリコ、そして怪物。

 

 ぶわっと展開した触手の群れが、あらゆる方向からマリコを串刺しにしようと殺到する。

 不意に自分の背後におぞましい殺気を感じたマリコが振り返る。そこには、鼻先にまで迫った触手が────

 

 ズグッ

 

「やはり、か」

「え」

 

 二人の間に割って入ったレイジが盾となって触手を防いでいた。

 爪は彼の体の奥深くに食い込み、内部を食い荒らす。口から滝のように吐血しながら、彼は動じない。

 太く、たくましい手が、自分の体に突き刺さった触手の束を掴む。

 

 彼の両腕の筋肉が凶悪に盛り上がり、皮膚に縄のように浮き出た瞬間、ビンと触手が張り詰める。

 

 “うそ泣き”が飛んだ。

 

「ええええ……!?」

 

 いきなり始まったモンスターバトルに脳の理解が追いつかないマリコが叫ぶ中、グワッ、うなりを上げて宙を舞う“うそ泣き”の体。

 全身を突き刺されても全く衰えないレイジの怪力が、2メートル超の怪物を高々と投げ飛ばしたのだ。

 

 衝撃で、彼に食い込んだ触手がズボズボ抜けていく。

 “うそ泣き”が頭から落ちる先は、プールの中だ。

 

 水中で爆弾が破裂したような、巨大な水柱が立つ。

 激しく吹き上がるあぶくの中から黒いものがスイと泳ぎ出すのが見えた。怪物が泳いだ軌跡に沿って、イカの墨のように黒いモヤが広がっていく。

 見る見る水が黒く濁りはじめる。“うそ泣き”はまだ終わっていない。

 これまでのはゴング前の軽いじゃれあいのようなものだ。

 

「やろう。お前の狙いはカナタじゃない──俺なんだろ?」

 

 雨のように降りかかる水からマリコを庇いながら、レイジは目を細めた。

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