久々に楽器を吹くと、肺活量がすっかり衰えてしまっていたことは否めなかった。音はゆらゆら揺れて唇は痺れるようだったが、ウォームアップをこなすうちに段々とカンが戻ってくる感覚はあった。ある程度満足に音を出せるようになったので、教本を取り出し、最初のページから順番にエチュードを攻略していった。
「じゃあ、テンポは120で。いきますね? 1、2、3、4」
彼女が全くもって正確なテンポで手を叩く。
「マスター、そこはmemo mossoですから、速度を72まで落としますよ」
彼女はすべての速度記号が頭に入っている。
「そのDの音、5hzぐらい上ずってます」
彼女はピッチのずれも聞き逃さない。
「え、dolceが表現できてるかどうかは……すみません。私にはただ”甘い音で”としか……」
でも、できないことも多い。
「フレージング、ですか……? 書かれてないのに……?」
書かれていないことについて、知ることができない。
結局、彼女ができたのはメトロノームとチューナー、ついでに音楽記号の辞書替わりになったぐらいだった。
自分が思ったよりも役に立てなかったことで、帰るころには露骨にしょんぼりしていた。無理もない。楽譜には全ての指示が書かれているわけではないから、歌唱用のボーカロイドですらない彼女にそれを推測するのは難しい。
練習してるところを見たい、何なら練習の助けにだってなれるから連れて行け、と駄々をこねて仕方なしに連れてきたもので、アンドロイドの同伴者を目にして、楽器屋の店主は片目を釣り上げて困惑した様子だった。
幸いにして、練習室の利用料は一人分で済んだ。
別に見てるだけでよかったんだぞと頭を撫でたが、うむぅと小さく呟いて目を伏せる。不貞腐れている、という様子ではないようだが。
――――――
家庭用アンドロイドである紲星あかりを迎えて半年になる。
自宅の家事全般を彼女に任せており、日中仕事に出ている独り身としてはとても助かっている。
掃除に洗濯はお手の物だったし、料理は専用のプラグインを導入することである程度こなせるし、味覚もあって一緒に食事を摂ることもできた。
彼女は普段は明るく朗らかで、帰宅した時は明るく出迎えてくれるし、自分の気が滅入っているときは様子を見てそっと話しかけてくるような気遣いができた。
反面、面白かっただとか綺麗だとか、人間の感性に訴えかけるものについてはよく理解ができないようで、映画を観たり、漫画を読んだりしてもふむ、とかへぇ、とか微妙な反応を返すだけにとどまった。
芸術だとか娯楽だとかを理解できない彼女が、人の表情を読み取って自動的にそう判断しているのか、本当に彼女自身の感情を現しているのか。自分にはどうにも分かりかねた。
「マスター、あれってなんですか?」
部屋の隅に鎮座している大きなバッグを指差して彼女が訊く。正確にはバッグではなく、ソフトケースに包まれた楽器だ。
もともと一人で細々とやっていたものだが、ここしばらくは仕事が忙しかったのでなかなか練習する気力が湧かず、長いこと放置してしまっていたのだった。
もちろん自宅(集合住宅である)で練習しようものなら近所迷惑極まりないため、どこかふさわしい場所に背負っていく必要がある。
そういえば仕舞いっぱなしでしばらく油も差してない。久しぶりに引っ張り出すと、抜差管のグリスもピストンバルブのオイルもすっかり乾いていた。
彼女の前で楽器を広げるのは初めてのことだった。ごとん、と音を立てて床に寝かせ、手入れ品を収めたポーチを――これまた楽譜などを入れっぱなしにしている――バッグから取り出し、オイル等の小物とティッシュ箱とをその周囲に並べた。
「へー……マスターってこんな事もできたんですね!」
単なるアマチュアの趣味だよ、と断った。彼女はいかにも興味ありげに楽器を眺めている。抜差管を全て引っこ抜き、ピストンを取り出して順番通り並べた。
「掃除するたびになんだろうと思ってたんです、変な形してるし」
ティッシュにオイルを沁み込ませて古いグリスを拭き取る。新しいグリスを少しずつ塗り付け、順番通りにもとの管に差す。
「こうして見ると、機械みたいなんですね」
ピストンを軽く水洗いしてそっと水気を拭き取り、オイルを差しつつバルブケーシングに収める。もちろん電子楽器ではないので動力は必要としない。指とバネの力だけでバルブを動かし、音階を奏でる。
「わたしもこんなふうにメンテしてもらえたりして」
もちろんアンドロイドの整備には専門技能が必要なので自分が行うべくもないが、そうやって触ってもらうのは何か特別なのかと訊くと「べつにー、冗談ですよ」と返ってきた。
吹いてみるかとマウスピースを差し出してみたが、彼女は呼吸をしないのでできないと答えた。それもそうか。
――――――
初めての(自分にとっては久々の)練習をして以来、彼女はPCで自分がやっていたエチュードを調べ、見たところぼんやりと聴く様子を見せていた。
その他にもクラシックを調べてみたり、ソロ曲を調べてみたり、かと思えばネットでバズっていた曲を聴いてみたりしていた。そして渋い顔をしていたかと思うと、いきなり床にゴロゴロ転がり出してうんうん唸っているのだった。
「こういうの、分かったらいいなって、思ったんです」
床に突っ伏したまま、彼女がつぶやく。
「知ってました? 私達アンドロイドって、どんなマスターに買ってもらえるのかとっても楽しみにしてるんですけど、とっても不安でもあるんです」
「ヒトとは違うんだって、自分でももちろんわかってます。けど、冷蔵庫や洗濯機みたいに、ずーっと一つのことだけをやって、ぼろぼろになったら捨てられて……ってなるかもしれないと思うと、やっぱり怖いんです」
彼女は起き上がると、青い瞳でじっとこちらを見据えた。
「私、マスターに選んでもらえてよかったって思ってます。いろいろな事を教えてもらって、いろいろな事をさせてもらってる」
「だから不安なんです。私のすることがマスターに本当に喜んでもらえてるのかなって、自分じゃ足りないことがあるんじゃないかって」
「マスターがこれ観ようって、映画とか漫画を持ってきてくれたのに、わからなかったの、悔しかったんです」
「わかったら、マスターと一緒に楽しく過ごせるのに、マスターのこと楽しませることができるのに、って……」
どきっとした。自分が良かれと思ってしたことは、彼女に負担をかけてしまっていたのだろうか、彼女自身の存在意義を脅かしてしまったのかと。明らかな間違いを犯したときの、身体の芯が冷えるような感覚に襲われた。
でも彼女はかぶりを振って、にっこりと笑って続ける。
「ううん、それが嬉しかったんです。私のことを、ただの機械じゃないって見てくれてるんだってわかって。悔しいのは私のアンドロイドとしてのプライドなんです、センサーが感じた以上のことを理解できなかったからなんです」
彼女が不十分だとか、そんなことを思ったことは一度もない。ここで初めて、彼女はいつも彼女自身の感情を表しているのだと、やっと気づくことができた。
「ごめんなさい、なんだか、止まらなくなっちゃって。だめですね、私」
こういう時、気の利いた言葉が思い浮かばない自分が恨めしい。とにかく、そう思ってくれて嬉しい。ありがとうと、やっとのことで絞り出すと、ぽんぽんと頭を軽く撫でた。
彼女はえへへ、と照れた様子を見せて、そういえば晩ごはんの用意しなきゃですねと立ち上がって冷蔵庫を開いた。今日は一緒に作ろうか。自分がそう切り出すと、はい、といくぶん元気の戻った様子で答えた。