それからというもの、週末の休みは最低でも一日、楽器を練習しに出かけるようになった。
楽器の腕前は身体を動かすのと同様にブランクが開けば開くほど衰えていくため、それの維持……というのが主だった理由だったが、それに加えて、彼女から無言のリクエストを受け取っている気がしてならなかったからだ。
彼女――紲星あかりはその練習に毎回、何を言わずとも着いてきた。
初めこそ無理やりにでも何かしらの役に立とうとした彼女だが、今では自分が練習するところを椅子に座ったままただじっと見ている。偶に、これはどういう吹き方なんですかとか、ここを吹く時はどんな風にしてるんですかとか他愛もない話を少しだけしたり、楽譜を引っ張り出す時や片付けの手伝いをしたりという様子だった。
そして、帰ってからの楽器の手入れはあかりがやるようになった。
音楽がわからないのならじゃあお手入れの手伝いをとやけに強く押されたので、そこまで言うならと、毎回吹く前と後、そしてたまに行う掃除などの手入れの仕方を一通り教えた。
練習を終えて帰宅すると――真面目な奏者ならそこは怠らないだろうが――また楽器を引っ張り出して手入れをしたり掃除をしたりというのは流石に億劫だったし、あかりがやりたいなら断る理由もなく任せっきりにしていた。
今日は一日晴れるみたいですねぇなどと雑談をしながら、あかりがケースから楽器を取り出し、手入れ品を手元に並べる。抜差管の水気を拭き取り、オイルを差してバルブケーシングの蓋を閉める。人工皮膚に化学合成油が触れると染みになるので、あかりはこの作業を行う間は手袋を嵌めていた。
一通り注油を終えると全てのバルブをガチャガチャと動かし、オイルを馴染ませる。そして手袋を外し、クリーニングクロスで指紋やらを拭き取り、楽器全体を磨いていく(流石に練習後は自分で拭いていたのだが、それも自分がやるからそのままでいいとあかりに言われた)。
アンドロイド故にかやけに手際よく作業を進めていくが、時折その手を止めては、楽器をじっと見つめることがあった。そして手入れをしている最中はいかにも真剣だが、妙にうっとりとした表情をしている事もあるのだった。
――――――
いつも練習室を借りている楽器店を出ると、刺すような太陽光と地面からの熱気に挟み撃ちにされた。車の中もさぞやとんでもない暑さになっているだろう。
「あつーい」
あかりがぼやく。長い銀髪がぎらりと日差しを反射する。
どこか寄って冷たいものでも飲むか。いいですね、と元気のいい返事が返ってきた。
楽器を積み、車に乗り込む。あかりは助手席に座った。エアコンが猛烈な音を立てて全力で稼働し始めた。
一人のときはまず寄らないであろう喫茶店に逃げ込むように入り、店内の冷気を浴びて二人で涼む。あかりはアイスコーヒーと(ちゃっかり)ケーキを頼んだ。
自分は紅茶だけを注文して、あかりがケーキに舌鼓を打つ様子を眺めた。こっちの視線に気づいて、少し照れくさそうな様子だった。どこからどう見ても外観は人間そのものだな、とぼんやり思う。
「いつも紅茶ですよね」
苦すぎるのが苦手でね、と答えるとフォークに刺さったケーキを突き出し、甘いものと一緒にいただくとおいしいですよ、と無理やり食べさせにくる。
もごもごとケーキを食べ、コーヒーを一口飲んだ。ケーキの甘さが苦味でかき消される。まぁ悪くはないが、と控えめに肯定しておいた。
「でしょう?」
自分の芳しくない反応を知っていながら自慢げで、コーヒーの良さを知らしめるためではないと言わんばかりで。何か別の目的を達成したような口ぶりだった。
アンドロイドはそのセンサが感じるものについては反応を返すことができる。気温や、味や、手触りについて思うことができる。しかし音を聴いて、それがどうかという事についてはわからない。絵を見て、自身に対する影響を感じない。
あかりが練習に着いてきて傍で自分の様子を見ているのは、何か思うことがあってのことだとは察するが、それの意図するところについては未だにわからなかったし、問いただすべきものではないということも感じていた。
――――――
しばらく涼んだのち、また地獄のような暑さになっていた車に乗って帰宅した。当然のことながら、そんな車内に置きっぱなしにしていた楽器もすっかり熱を持ってしまっていた。
ケースから楽器を取り出すと、それ自体が暖房器具のごとく熱を発し始めた。エアコンが効いた室内で冷ましたほうがいいだろう。自分も含めて。
楽器が十分に冷めたのを確認すると、抜差管を全て引き抜いた。熱で溶けて流れてしまったグリスをことごとく拭き取り、その中も軽く水洗いした。ピストンも抜き取り、バルブケーシングの内部も軽く拭っておく。そしてオイルを差し、グリスを新たに塗り、それぞれの部品を元通りに取り付けた。最後の仕上げとして、楽器を隅々までクロスで磨く。
その様子を傍らで見ていたが、いつの間にか横になって眠ってしまっていたようだった――マスターにタオルケットをそっと掛けて、その寝顔を見た。
人間にとって道具は身体の延長で、楽器もそのうちの一つだ。
この楽器はマスターの身体の延長。マスターの一部。こうしてメンテナンスをしていると、何だか自分がマスターのメンテナンスをしているようで、ぼうっと頭が熱くなるのを感じる。
自分がこんなことを考えているだなんて気づかれたらどうなってしまうかしら。マスターは受け入れてくれるだろうか。
楽器を片付けると、自分もマスターの隣で横になった。かすかに寝息を立てるその姿を、このひとが起きるまで眺めるつもりで。