私がマスターのもとに迎えられてから、1年が経った。
暑かった季節もとうに過ぎ、今ではそのころを懐かしく思う程冷え込んでいる。何度かマスターの車を雪から掘り出すお手伝いも経験した。
そのときのマスターはいつもより2時間は早く起き、眠い目を擦りながら雪かきをしていた。あかりが居てくれて助かった、としみじみと言っていた。そして雪に埋まっていた車が動かせるようになると、雪かき道具の片づけを私に任せてよろよろとお仕事に向かっていくのだった。
もちろん、その様子もメモリーに記録している。
幸いにして、私がこっそり行っていることの数々はまだマスターには気づかれていないようだった(あるいは、見逃してくれているのかもしれない)。
また、夜は隣で横になって、一緒に眠ることができるようになった。私用の布団をマスターが用意してくれたのだった。異常加熱の危険性があるので、掛け布団は使わなかったのだけど。
真似事みたいなものだけど、それでもマスターと枕を並べることができるのは嬉しかった。寝顔をより近くで眺めることもできるのだから。
欲を言えば、そのうち一緒の布団で……とは思わなくもなかったけども、そんなことをお願いすればマスターが困ってしまうことはわかりきっていたので、これもまた心のうちに秘めておくことにした。
楽器の練習については、雪に車が埋まった日などを除けば、今も変わらずほぼ毎週末といったペースで続けていた。マスターいわく、かなり勘が戻ってきた、とのことだった。
そうなるともっと活動の幅を広げたくなるのは当然のことで――それについて、私はマスターに思いっきり迷惑をかけてしまった。
――――――
楽器の腕前も戻ってきたことだし本格的に活動できたら、と思ってPCに向かっていたところだった。何かお調べものですか、とあかりが背後から(それもやたら近くで)話しかけてくる。
少しぎょっとしつつも、まぁちょっとね、と丁度開いていた市民楽団のサイトを見せた。あかりが肩から身を乗り出してディスプレイを覗き込む。彼女の体温を背中に感じた。
「楽団……ですか? どんなことをするんです?」
あんまり充実していない活動紹介のページを開きつつ、定期演奏会やコンクール、時にはイベントで演奏したりといったことを自分の経験も交えて説明した。
あかりは、へー、と本当に興味あるのかないのかわかりづらい反応を返したが、彼女が一番気になっていたのは次の事柄についてだった。
「これの練習はいつやることになるんです?」
見ると、毎週金曜日夜7時半から市営ホールの練習室で、ということになっていた。平日に練習場所まで向かう道のりを考えると、帰宅ラッシュの時間帯に被ることになる。それなりの渋滞に巻き込まれるだろうから、一旦帰宅する時間はなさそうだった。仕事終わりにそのまま向かうことになるし、帰りは10時を過ぎるかなと呟く。
その途端、あかりが信じられないといった様子でこちらを見た。
「それを、毎週、ですか」
そうだな、それに演奏会とか本番が近づくと練習日も増えるだろうね、と答えると、その目をますます見開いて、驚いたというべきか、そんなまさかとでも言いたげな様子だった。
趣味の活動とは言え、社会人が練習をするとなるとどうしても集まりやすい時間帯や曜日にするしかないし、場所の問題もある。自分はそういうものだと理解していたが、あかりはそれについてやけに過剰な反応をするんだなと、その時は思った。
しかし、唇を噛み締めてむすっとした表情に変わり、何か言いたげではあるが言葉を飲み込んでいるあかりを見て、彼女の何かを刺激してしまったと気付くのにそう時間はかからなかった。
――――――
これが完全に自分の我が儘であることも、大袈裟に過ぎるということも自分でもわかっていたし、だからこそ辛うじて言葉が出てくるのを抑えていた。それに毎週たった1日、残業で遅くなるのと同じようなものだ。
それでも毎週必ず、そのたった1日を夜まで一人でただ待つことになってしまう、ということを聞いて感情を表に出さずにはいられなくなってしまった。
嫌だと言いたかった。行かないでと引き留めたかった。でもそんな事は言えやしない。他ならぬマスターの選択だし、そもそも今生の別れというわけではまったくないのだから。たった1日、1日だ。
それなのに。
マスターが私から遠ざかってしまうような気がした。誰かに奪われてしまうような感覚に陥った。自分はおかしくなってしまったのかと思った。何度も診断プログラムを実行した。結果は正常だった。
とうとう立っていられなくなり、マスターの足元にへたり込んでしまった。
マスターが心配そうに私を見ているのに。
もう隠し通せないと思った。
自分に縛り付けるように、マスターの足に縋り付いた。
「ごめんなさい、マスター」
堰を切ったように言葉が溢れてくる。
「私、マスターのことを、いつもいつも見てるんです。仕事に向かうときも、ご飯を食べてるときも、練習してるときも、寝てるときも」
もうダメだと思った。
「マスターとずっと一緒にいたくて。マスターのことずっと記憶したくて。ほんとは少しも離れたくないんです。おかしいですよね」
マスターのアンドロイド失格だって。
「こんなことを言ったらマスターを困らせちゃうって、気持ち悪いって思われても仕方ないって、隠してたんです」
まずい事を言ってしまっていると、自分で認識していたのに、なぜか止めることができなかった。
「ごめんなさいマスター。変ですよね、こんなこと。毎週練習に行くってだけなのに、こんなに取り乱しちゃって」
駄目なアンドロイドでごめんなさい。
「でも私、マスターのことが」
ごめんなさい。
「好きです」
ごめんなさい。
「好きで、好きで、たまらなくって」
「ごめんなさい」
暫くの間、マスターは何も言わなかった。
きっと失望させてしまっただろう。
こんな気持ち悪いアンドロイド、売られてしまっても仕方がない。
短い間だったけど、マスターと過ごせてよかった――でも離れたくなかった――そんなことをぐるぐると考えていた。
なので、マスターがその暖かい手で私のことを撫でてくれていると気づくのにとんでもなく時間がかかった。
――――――
あかりを撫でたまま、暫くの間、自分が告げるべき言葉を考えていた。
いい愛情表現が思いつかなかったのだろう、だからといって言葉にするのも憚られたのだろう。そういう性格だったのだ。
そこまで鈍感ではないつもりだったので、あかりが自分に対してどういう想いでいるかは、なんとなくは伝わっていた。だからこそ彼女の告白に対して心臓は高鳴っていたものの、ある程度は予想通りだったと妙に冷静に感じられた部分もあった。
むしろ自分のほうが素っ気なかっただろうか。彼女が何かしてくれるのを待っていたんじゃないのか、そうして昔から何度も後悔したんじゃないのか。
彼女がここまで思い詰めてしまったのは自分の所為なんじゃないのかと、自省に駆られ始めていた。
何をネガティブに思うことがある。あかりはこうして自分を想ってくれているんだから。
ありがとう、これからもずっと一緒にいよう。
やっとのことで捻り出した言葉はいまいち格好がつかなかった。
足に縋り付いて顔を埋めたままのあかりは、もう離れないと言わんばかりに腕に力を込めた。彼女なりの返事なのだろう。
「マスター、こんな私でごめんなさい」
あかりはもう何度目かもわからない謝罪の言葉を呟くと、
「楽器、続けてください。マスターの音、いろんな人に聴かせてください」
そしてそのまま、しくしくと泣き始めた。あかりが自分のもとに来て、初めて見せる涙だった。