マスターが楽団に所属してから、以前に行っていた個人練習の頻度はかなり落ちてしまった。
というのも金曜日を毎回夜更かしすることにした結果、その翌日はほぼ確実に昼まで寝過ごし、いつも借りていた練習室が空いている時間帯を押さえられなくなってしまったからだ。
日曜日は午前中もピアノレッスンなどで度々埋まっているようなので、空いていれば(あとはマスターの気力さえあれば)入れるといった具合だった。午後はそれこそ隙間なく予約されている。
そもそも、楽団に入るよう促したのは他ならない私だ。
マスターが楽器を練習している姿を独占しているような気持ちで密かに悦に浸っていただけに、誰かにマスターを取られてしまうような気持ちはあった。
でも、私は相変わらず芸術を理解できない。音楽は聴く人あってのものだと認識しているし、マスターの音楽を聴く相手が私しか居ないというのは、意味がないような気がしてならなかったのだ。
毎週末、マスターが必ず夜まで帰ってこないというのがかなり寂しかった。最初の頃は少し泣きながら玄関で待っていた。明かりを点けるのも忘れて。
マスターが練習から帰ってきた後の時間を私だけのために使ってくれるのは、そんな私を見かねてのことだった。
舞い上がりそうなほど嬉しかった。それまでマスターの帰宅を闇に包まれゆく部屋で一人待っていたのが、マスターとの夜を少しでも長く過ごせるように、片付けなければいけない家事すべてをやっつける原動力になった。
すべてマスターのためだと言い訳して、完全に自分の欲望のために行動していた。愛しいマスターが私のため”だけ”に時間を使ってくれる。それだけで頭がいっぱいだった。
帰ってきたマスターがすぐ温まることができるように、帰宅する時間に完璧に合わせて毎回お風呂を準備しておいた。マスターがすぐお腹を満たせるように、いつでも食べられるよう晩御飯を準備しておいた。二人ですぐ布団に入れるようにあらかじめ敷いておいて、マスターのパジャマを前もって準備した。そして玄関でマスターが帰ってくるのを今か今かと待った。
帰宅したマスターからカバンと楽器を受け取って、マスターをお風呂に入れて、その間にテーブルに料理を並べる。お風呂から上がってパジャマに着替えたマスターがご飯を食べ終わって、歯を磨いている間に食器を片付け、私もすぐ着替えた。
そしてマスターと一緒の布団に入って、寄り添い合って、マスターが眠るまでお喋りをする。この夜だけは、本当の意味で私がマスターを独占していた。私だけのマスター。貴方だけのあかりはとても嬉しいです。
こうしてマスターとお喋りする時間が永遠に続けばいいのにと何度も思った。マスターが起きていられなくなって、途中でうつらうつらと舟を漕ぐこともあった。私はその様子もすべて記録していた。
でもたまに、朝まで一緒に起きているときもあった。二人で悪い事をしたみたいでわくわくした。そうした後のマスターは流石に寝不足で辛そうにしていたのだけれど、私の膝枕でお昼寝してくれるようになったのでそれも密かに期待していたのだった。
ごめんなさいマスター。私は悪い子です。でもマスターのすべてが愛しくて仕方ないんです。マスターの優しいところも、弱いところも、全部見ていたいんです。
合奏は個人練習と比べてハードなようで、帰宅したマスターは明らかに疲労している様子が多かった。それでも何も言わずに、私の誘いに応じてくれる。
本当ならすぐ寝てしまいたいだろうに、私とのお話に付き合ってくれる。
私がマスターを癒さないといけないのに、優しいマスターは私に付き合ってくれる。
こんな駄目なアンドロイドに、優しいマスターは眠くなるまで付き合ってくれる。
私の欲望に、愛するマスターは応えてくれる。
ほんとに、本当に優しいなぁマスターは……
――――――
カーテンを開け放した窓から、冷気とともに眩しいほどの月明かりが部屋に入り込む。冬の空に浮かぶ星も、この日は特によく瞬いて見えた。
すっかり恒例となった、二人で過ごす夜。もう何度目だっただろうか。
こういう時のあかりは、肩に寄りかかりながらお喋りをすることが多かった。
普段の子供っぽさのある性格は鳴りを潜め、こうして過ごす夜だけは、その表情に艶のある陰を落とすのだった。
「マスター、今日はずっとこうしてていいですか」
あかりが抱き着いて自分の胸元に顔を埋めてくる。人工筋肉の弾力とその奥に隠された機械部品の硬さが、アンドロイドの体温ともいえる排熱が、自分にもたれかかる重みと共に伝わってくる。
布団に引きずり込まれるように、二人してそこに倒れ込んだ。
「ありがとうございます、マスター」
あかりの背中に腕を回す。メンテナンスの時に見た、その体躯の細さを手で感じた。
「お疲れですよね。仕事に練習に。それにこうして私に付き合ってくれて」
抱き着くあかりの腕に、もう少しだけ力が入る。蔓が枝に絡み付くように、決して離すまいとしている。
「こんな重い私を傍に置いてくれて、ありがとうございます。こんな我が儘なアンドロイドに付き合ってくれて、ありがとうございます」
差し込んだ月の白い光が、彼女の青い瞳を輝かせる。その笑顔をぼんやりと照らす。
「こうしてマスターと一緒に居られて、触れ合えて、私はとっても幸せです」