日はすっかり傾いていたが、数か月前の同じ時刻と比べればかなりの明るさだった。あかりと夜を過ごすようになったのは寒さも厳しい頃であったが、今では暑さを感じる日が度々訪れるようになっている。
彼女を助手席に乗せ、日曜日の市内を通り抜ける。平日のような帰宅ラッシュもないため、渋滞に巻き込まれることもなくスムーズに進んでゆく。ほとんど隣の市との境に建っているコンサートホールには15分程度で辿り着いた。
ホール裏手の駐車場に車を停め、楽器を降ろす。あかりは楽譜や小物が収められたバッグを持っていた。
メインのエントランスと比べるといささか飾り気のない(地域の市民会館よりはまだ小洒落ている方かもしれないが)、搬入口を備えた裏口の扉を開けた。
入館者リストに自分の名前を書く。アンドロイドについては未だ入館の規定が定まっていなかったが、守衛はあかりにも念のため記入を求めた。彼女はとりあえず『紲星あかり』とだけ書いておいた。
裏口から真っ直ぐ進めばホール裏の楽屋だが、そこには行かず階段を上がる。2階に並ぶ練習室の、その中でも一番広い部屋が楽団の主な活動場所である。
既に何人か来ていることが漏れてくる音からわかった。合奏の開始時間まではあと1時間弱はある。入ると、団員の中でもとりわけ熱心な顔ぶれが、各々ウォーミングアップを始めていた。
「こんばんは。その子は見学者?」一人がこちらに気付いて、こちらに声をかける。
そうではない事を伝え、あかりを紹介する。へぇ、お人形さんみたい。座ってゆっくりしててね、とあかりの分の椅子を出してくれた。
自分もウォーミングアップのため、楽器をケースから取り出す。手入れはあかりが事前に済ませているため、そのまま音出しを始められる。
楽器を構え、マウスピースに唇を軽く当てて息を入れる。そこまで力を入れなくとも、楽器が響き出した。今日の調子は悪くなさそうだ。
自分の横に座ると、あかりはきょろきょろするでもなくいつも通りこちらをじっと見つめている。他人にはそこまで興味がないのだろうか。
定期演奏会。開催時期は団体によって様々であるが、この楽団では例年、初夏ごろに催されていた。
いつも県営ホールの練習室を活動場所としているが、そこの大ホールを借りて行われるこの催しは、楽団にとって一年の集大成となるイベントであった。
演奏会当日まではまだ数週間の猶予はあるものの、これまで金曜のみだった練習日が、それに加えて土日のどちらかにも設定されていた。本番直前には週末のみならず、木曜日、水曜日と平日にも合奏が行われることとなる。
当然ながら、練習日が増えるほど家で過ごす時間は削られるわけで――あかりを一人にする日が増えることに他ならない。あの虚ろな表情を思い起こさずにはいられなかった。
せめて休日の練習だけでも同席させられないだろうかと考えた。彼女は二人きりで過ごすほうを好むだろうが、家で留守番しているよりは自分と離れずに済む。
思い立ってパートリーダーに連絡を取り、そういう事なら仕方ないと、二つ返事で了承を得た。そしてあかりにも話した。
練習日が増えることについては落胆の色を顕わにしていたものの、休日であれば自分と離れずに済むことにはやや安堵した様子だった。
しかし帰りが遅くなる日が増えるのは間違いないので、演奏会が終わったあとに埋め合わせをする、ということにもなった。
――――――
マスターがウォーミングアップを続ける間に、練習室には更に色々な人が集まってくる。
大学生らしい若い男女、仕事を切り上げてきたであろうスーツ姿の中年男性、その顔に年季の入った皺を刻んだ老年と思しき女性。
私の事を一瞥して素通りする人もいれば、この子が例の?とか、本当にアンドロイドだ、といった反応を示してマスターと二言三言交わす人もいた。
「へぇこの子が。よろしくねあかりちゃん」
「お邪魔します。マスターがいつもお世話になってます」
マスターと同じ楽器の、おそらくマスターよりも年上の男性が私に挨拶をして、マスターの隣に座る。
こうしてマスター以外のひとと話をする機会は滅多になかったので、どう反応を返せばいいかよくわからず事務的な受け答え以上の返答ができなかった。
マスターは私の反応の薄さについて、こういう場は初めてで緊張しているんです、ということにしておいた。
「では、練習番号5番から。ある人は入ってきてください」
なよっとした雰囲気の指揮者がハーモニーディレクターを操作すると、機械的な音が拍子を刻み始める。奏者が各々の楽器を構える。
彼が指揮棒を構え、ワン、ツー、スリー、と合図する。指定テンポよりもやや遅めの速度で、一斉に音が広がり出す。マスターも同じく、スピーカーから流れる機械的なテンポに合わせて自分の音を響かせていた。
そんなマスターの様子を隣から眺める。
合奏は19時から始まり、21時半に終わる予定だ。2時間半の間に、演奏会のレパートリーを可能な限り練習に盛り込まなければならない。
既に2曲ほど、比較的簡単だという曲を流すように確認していた。それでもまだ完璧とは言い難いようで、さらう時間がないので指揮者の指摘だけに留める場面も多々あった。
残りの課題は自主練で、ということになる。ちゃんと自主的に練習してくる人もいれば、どうも練習を怠っていると思われる人もいた(あとでマスターに訊いてみたところ、人によってモチベーションがいろいろなので、アマチュアバンドの腕前というのは”そんなもん”ということだった)。マスターは合奏開始前の時間をそうした課題の解決に充てていた。
そして、いま練習している曲は(マスター曰く)演奏会のメインという位置づけになる。ただし完成度について現時点では今一つらしく、数週間後に控える本番に向けて、ここ最近の練習はずっとこの曲を追い込んでいるとのことだった。
本来なら指揮者の振りに合わせるところが、現時点でハーモニーディレクターのメトロノームに頼っている所からもこの曲に苦戦していることが伺える。
それでも、マスターの横顔は真剣ながら、とても楽しげだった。私が見たことのない表情をしていた。
曲の注意点や表現について、隣に座るパートメンバーと相談し、意見を交わす。家にいる時には見せない姿に、私のなかで渦巻くなにかを感じた。
マスターを楽団に送り出さなければマスターのこんな姿を見ることは叶わなかっただろうと思うと、嬉しい感情が湧き上がるようだった。それと同時に、私だけではマスターのこんな表情を引き出すことはできなかったのだと思うと、マスターが居るこの場所を妬ましくも思った。本来であれば、休日の残り少ない時間を安らかに過ごそうと努力するマスターと二人きりでいられる貴重な時間なのに。
でも、マスターが楽しんでいることに私に口を出す権利なんてないことはわかりきっているし、むしろこうして練習に同席させてもらっていること自体、マスターの配慮に他ならない。
家で待っていろと命令されれば、私はそれに従わなければならない。でもマスターはそうしなかった。モノでしかない私に、私のマスターはそこまで気を遣ってくれているのだ。
おそらく他の誰よりも、マスターの優しさを一身に受けている。それなのにもっと甘えたいし、もっと一緒にいたい。もっとマスターを独占したい。
しかしそれは叶わない。私はマスターだけのモノだけど、マスターは私だけのモノではないからだ。
ふと、私よりももっと正常な、”弁えている”アンドロイドであればマスターに迷惑をかけずに済んだだろうかと考えた。
私はマスターに甘えて、邪魔ばかりしている。私じゃない、まともなアンドロイドならもっとマスターを幸せにできたかもしれない。
駄々を捏ねずにマスターの帰りを待って、マスターに手間をかけさせずに助けになれて、癒すことができて――マスターの横顔を眺めながら、そんなことをぐるぐると考えていた。
「じゃあ、10分休憩。50分から再開します」
指揮者が号令を出すと、奏者は各々スマートフォンを開いたり雑談をしたり、上手くできなかったところを自主的に確認し始めた。マスターはお手洗いにと、席を立って練習室を出ていく。私はただ座って待っていた。
「あかりちゃん、どうだった。きみのご主人が演奏してるところは」
マスターの隣席に座る男性が話しかけてきた。
「とても……楽しそうでした。マスターのあんな姿は初めて見ます」
「そうだろう。結構長い事ブランクがあったって言ってたから、こうして楽団に入って活動するのはかなり久しぶりなんだと思うよ。やっぱり合奏できると楽しいから」
「そう、なんですね」
私はうつむいた。
彼の言う通りだった。私を連れて個人練習をしている時のマスターは黙々と練習に取り組んでいるといった様子だったが、合奏中のマスターはそれとはまるで違い、ただ楽しそうだった。
私がマスターを縛り付けていたら見られなかっただろう。悔しかった。
マスターの音楽を、私が理解できたらと思わずにはいられなかった。この感情が表に滲み出ないよう、手を強く握りしめた。
「実はあかりちゃんのこと、彼からよく聞いてたんだよ」
男性が続ける。
「暮らしを助けてもらってるし、あかりちゃんが居るからすぐに家に帰りたくなるって。それと、自分がここで遊んでるのに留守番させるのは申し訳ないって、よく言ってた。あかりちゃんが居てくれてありがたいんだって、言ってたんだよ」
あ、この話をしたことは本人には内緒ね、と彼がことわった。
「いやーウチの娘もこんぐらい可愛げがあれば……オホン」
そう話したところでマスターが戻ってくる。どうしたの、ときょとんとした様子だった。
その後はマスターがその男性とあれこれ雑談をしていた。私はその間、友達同士らしい若い男女二人組がやって来て一緒に写真を撮ったり、お年寄りの女性に「これ食べね」と、飴玉を貰ったりした。
そして休憩時間が終わり、ふたたび合奏が始まった。
――――――
すっかり車通りもまばらになった帰り道。練習について来てみてどうだったか、あかりに訊いてみた。
「皆さん、優しかったです。私の事をアンドロイドだと思ってないみたいに」
あかりの事を楽団に相談して――所帯持ちの多い団の運営部は、どちらかというと幼い子供の扱いのような問題に近い認識をした。むしろ、あかりはアンドロイドなので分別もつく。合奏に同席しても問題ないだろう。子供なら練習中は親族に面倒を見てもらうか、留守番できるようになるまで練習の参加を控えるかしないといけないが。
勿論、これがいつもの二人で過ごす時間の代わりにならないことはわかっている。でも演奏会が終わるまでは付き合ってもらうしかない。
これが終わったら二人でどこか出かけようかと、あかりに持ちかけた。
マスターが一緒なら、どこへでも。ただし、
「マスターと二人きりが、いいです」
それが唯一の条件だった。