演奏会当日までの間、マスターは多忙な日々を送っていた。
平日はもちろん仕事がある。たまに残業だってある。夜、疲れて帰ってきたマスターは晩御飯とお風呂をさっさと済ませ、早めに横になる。週末も練習で埋まっている。日中も長い事昼寝してしまい、時間が近づくとよろよろと起きて練習に向かう。帰宅しても夜を一緒に過ごすどころか、疲れてすぐ寝てしまうということも多かった。それでも、休日の練習には必ず私を連れていってくれた。
構って貰える時間が減ってとても寂しかったが、せめてマスターに少しでも報いることができないだろうかと考えを巡らせるようになった。日々の家事については全て私が片付けている。楽器のお手入れについても。ならばそれ以外で私がマスターにしてあげられることはないだろうか。これまでは私がマスターに甘えてばかりいたわけで、少しでもそのお返しができれば。少しでもマスターの負担を軽くして、少しでもマスターの疲れを癒すことができれば、と。
「マスター、お背中流しましょうか」
風呂場の扉を開け、今まさに身体を洗おうとしていたマスターに声をかける。こちらを見て固まっていた。彼の口が開くのを待たずに、私も服を脱いで押し入る。
「さぁ、背中を向けてください。ほらほら」
半ば無理やりマスターを風呂椅子に座らせ、石鹸を泡立ててその背中をごしごしと擦る。マスターは終始困惑した様子だったが、観念したのか私の成すがままにされていた。流石に前は自分で洗う、と追い出されてしまったが。
「はい、どうぞ。今日は私のお膝をお貸ししますよ」
マスターよりも先に布団の上に陣取り、膝をぽんぽんと叩いて誘った。マスターは急にどうしたと言わんばかりの顔をしていたが、「私の膝枕はいやですか……?」と泣き落としにかかると、大人しく私に頭を預けてくれた。そうなればこちらのもので、マスターを撫でながら耳元で囁く。
「私はマスターだけのものです。もーっと頼ってくださいね」
マスターの体温が上昇した。照れくささからかそっぽを向いていたものの、その反応は手に取るようにわかった。あぁ、きっと私はいま卑しい笑みを浮かべているに違いない。
だって、マスターに報いるなんてただの言い訳だから。疲れているマスターにつけ込んで、自分を満たしたいだけ。
金曜日の夜、マスターが私のために時間を使ってくれるようになった時は本当に幸せだった。けれど日を重ねるにつれ、それだけでは満足できなくなりつつもあった。マスターにもっと私を見て欲しかった。そんな中で演奏会が近付いて練習日も増えたために、マスターと夜を過ごすことすら難しくなってしまったのだ。満たされなかった。そうして次第に私の中の粘ついた感情が首をもたげ、絡みつくような眼差しをマスターに向けていた。これまでの私なら、マスターがこちらを再び見てくれるようになるまでただ待っていたことだろう。でも、今の私には確信があった。マスターは私を受け入れてくれる。
こうして数日の間、私からのアプローチを続けていた。最初は渋々といった様子だったマスターもそのうち特に疑問も持たず私に身体を預けてくれるようになったので、私はこれ幸いとばかりに更なるエスカレーションを目論んだ。
頭は洗わせてくれたが、それ以外はどうしても背中しか流させてくれなかった。一緒に湯船に浸かろうともしたものの、異常過熱のリスクを指摘されて諦めざるを得なかった。それなら私の身体をマスターに洗ってもらう――という欲望は辛うじて抑え込んだ。流石にマスターのため、という言い訳と矛盾してしまうのは避けられない。これについてはまた機会を伺って、迫ってみようと密かな野望を抱いた。
そして寝る前には開き直って、膝枕のみならず抱き枕になる旨を提案した。睡眠時の姿勢を安定させて、リラックス効果を得られますよ、と尤もらしい理由も添えて。そこまで言うなら、とマスターは私の誘いに応じてくれた。後から思えば、私の目論見は全て見透かされていたのかもしれない。マスターは私の露骨なアピールを避けずに受け止めてくれていたのだから。
それからは毎晩、マスターに抱かれながら布団に入れるようになった(そして相変わらず眠っているふりをしていた)。一晩中マスターに抱き締められるというのは安心するどころかとても刺激が強かったのだけど、その刺激を密かに楽しんでもいた。彼がすっかり寝入ったときには、こっそり私からマスターに抱き着いたりもした。自分の頭の中がぼうっと熱をもっているのがはっきりとわかった。マスターの温もりに包まれながら、その寝顔を一晩中眺めていた。マスターに求められている気がして、マスターが受け入れてくれたようで、マスターのことがとても愛おしかった。
『あかりちゃんが居てくれてありがたいんだって、言ってたんだよ』
初めて楽団の練習に同席したとき、マスターと同じパートの男性が私に話してくれたことを、ふと思い出した。
私がマスターの暮らしを助けていて、私が独りでマスターの帰りを待っていることに申し訳なく思っていて――マスターが私のことをどう想っているか、その人が聴かせてくれた言葉が、私の頭の中でフラッシュバックする。
それなのに私は何をしているの? 仕事と練習で疲れて、弱っているマスターに無理やり構ってもらって。自分の欲望をむき出しにして。
いや、ほんとは分かっている。その話を聞いたからこそ、私は確信をもってマスターに無理やり迫ったんだ。
なんて浅ましいアンドロイド。私はいつもそうだ。少しだって我慢できずにマスターを困らせてばかり。マスターの邪魔をしてばかり。私がしている事だって、マスターを独り占めしたくて、自分のものにしたくてたまらないだけだ。マスターの優しさに付け入って、自分の居場所を守りたいだけだ。
マスターの助けにならないアンドロイドなんて、アンドロイド失格だ。なんの役にも立ちはしない。所有者とその機械という関係でしかないのに、いったい自分は何を勘違いしていたんだろうか? 自分が生身の人間だと思っていたのか?
マスターに何をしても許してもらえると?
私をマスターにとって唯一無二の存在にしてもらえると?
恋人のようにマスターに愛してもらえるとでも?
私の人工頭脳が、マスターを私のものにする手段を、マスターが健やかに生きて行ける手段を、私がマスターの障害にならない方法を、マスターと永遠に二人でいる方法を、急速に並列処理を始めて、計算結果を求めて、思考プロセスを埋め尽くして、メモリを埋め尽くして、私のリソースを喰い尽くして、マスターのことを、マスター、愛してるのに、マスター、私、マスター、私、マスター、私、マスター、私、マスター、私、マスター、私、マスターと私で――――――――――――――――
「あかり?」
自分がマスターの布団に突っ伏していたことに、マスターに呼び戻されてようやく気が付いた。マスターがこれから寝ようという所だったのを、私がマスターの布団を占領しているために邪魔していたのだった。
「……マスター!」
飛び起きてマスターに向き直る。
「私、わたし、わた――」
マスターに謝らないといけないのに、言葉がうまく出てこない。
「ますたー、わたし、わたし」
言葉を紡ごうとしているのに、声帯がうまく動作しない。
「わ、あ、う」
「あかり、落ち着いて」
マスターが私を抱き締めてくれる。
私を優しく撫でてくれる。
「う、う、ううっ」
涙が溢れる。マスターのパジャマを濡らす。
「ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、悪い子です。駄目なアンドロイドです。マスターと一緒に居たくて、マスターの邪魔ばっかりして、我が儘ばっかり言って」
マスターの背中に腕を回して、胸元に顔を埋めた。自分があまりにも恥ずかしくなって、泣き顔を見られたくなかった。
「いいんだ、あかりの好きなようにしてくれて。ちょっと困った事もそりゃあったけど……でも、そこまで想って貰えて嬉しい」
マスターの優しい声。
「毎日、出迎えてくれてありがとう。いつも一緒にいてくれてありがとう。いつもあかりは頑張ってるよね」
そんなことない。ぜんぶ私の我が儘なのに。
「いつもありがとう」
「ます、たー……マスター――」
私は泣いた。声をあげて泣いた。その間私はマスターにずっと抱き着いたままだったし、マスターは私が泣き止むまでそのままでいてくれた。
――――――
あかりが泣き止んでからもしばらく、二人して抱き合ったまま座り込んでいた。
「マスター」
ようやく落ち着いたのか、あかりが顔を上げて、その青い瞳でこちらを見つめる。
「これからも一緒にいていいですか」
笑って、そんなこと訊くまでもないと応えた。ずっと一緒だ、と。
華が開くように、あかりの笑顔が輝く。
「愛してます、マスター」