開場から数分。ホールのエントランスから客席まで、観客が続々と流れてゆく。
私は舞台袖の通用口からエントランスに抜けて、その列に加わった。スタッフが着席を誘導する。スタッフと言っても、高校の吹奏楽部や他団体のメンバーがボランティアとして手伝いに来ているのだった。
そのスタッフを統率する楽団の人が、私に気付いて声をかけてきた。
「あかりちゃん! 彼が見える席がいいんでしょ? こっちがいいと思うよ、1階席はもうだいぶ埋まっちゃってるし」
そう言って2階の、ステージになるべく近い席に通された。確かに、マスターの座る位置がここからよく見える。
「ありがとうございます、初めてでよくわからなくて」
「なんのなんの。もうすぐ始まるから、はい。パンフレット」
私にパンフレットを手渡すと、すぐに階下へと戻ってゆく。私は一人で席に座ると、椅子と打楽器が並べられ、暗転しているステージを眺めた。よく見ると、舞台袖から団員が客席の様子をちらちら伺っている。
来客は600人を超えた程度だろうか。席はそれなりに埋まっていた。皆、パンフレットを読んだり、連れ合いと話したりして開演を待っている。
「お隣、ごめんなさいね」
「あ、どうぞ」
隣の席に老夫婦が腰掛ける。私は軽く会釈したが、なんだか妙にじろじろ見られている気がした。そして、
「あなた、ひょっとしてアンドロイド?」
「はい」
「やっぱり。うちにもアンドロイドのお手伝いさんがいるから、何となくわかるのよ。あなたお一人? ご主人はどちらに?」
「私のマスターは、この演奏会に出演します」
「あらそうなの、それは楽しみね。ここからだと舞台がよく見えるし、どこに座ってるかすぐ見つけられそう」
「だと思います」
「あなたのマスターさんはなんの楽器されてるの? それで大体の座ってる場所が――」
と老婦人が話したところで、ご主人が「おまえ、何でも訊きすぎだよ」とたしなめる。
「あらごめんなさいね。私ばっかり訊いちゃって」
「いえ」
1度目のチャイムが鳴り、注意事項のアナウンスが流れる。演奏中の撮影は禁止されている。
「うちの子供もここの団員なの。子供といってももう所帯持ちのいい歳だけど。毎年聴きに来てるのよ」
「そうなんですね」
このご夫婦は、自分の愛する人のためにここに来ている。そういう人は今この場所にどのぐらいいるのだろうか。家族、友人、あるいは恋人か。
開演のチャイムが鳴り、客席が一斉に静まり返る。そしてホールの暗転と入れ替わりに、照明が一斉に点灯してステージを浮かび上がらせた。
――――――
演奏会当日の朝。
昼間は汗をかかずにはいられない暑さになりつつあったが、この時間はむしろ寒いぐらいだった。
ほとんど田んぼしかないコンサートホールの周囲は、日曜日の朝ともなると車通りもかなり少ない。幹線道路に面しているにも関わらず、あたりはひっそりとした静けさに包まれていた。ホール裏口へ楽団員が集合する。この日は名簿に名前を書く必要もなく、いつもは練習室へ向かう階段を素通りして、ホール裏手の楽屋へ、荷物と楽器を運び込んだ。
楽屋は男女別になっている。あかり自身は気にしないだろうが、他の団員のほうが――女性型アンドロイドに着替えを見られたりすることに――気にしていたために、あかりを連れて入ることは自重した(そして彼女はやや不服そうだった)。
午前中いっぱい音響の最終的なチェックとリハーサルに費やし、開演を午後に控えた束の間の休息。ホール裏手のラウンジで、あかりと二人でサンドイッチをつまんだ。昼食を早めに済ませて、今のうちに着替えなければならない。
楽屋に戻り、かつての楽器と同様にしばらく仕舞いっぱなしだった礼服に久々に袖を通して、蝶ネクタイを着ける。首回りやお腹が苦しい、ということは幸いにしてなかった。むしろ以前より痩せただろうか。
「いかにも音楽家さんって感じですね」
あかりはもの珍しそうに、礼服姿の自分をしげしげと見つめて言う。こうして改まって向かい合うと、妙に照れくさかった。
「マスター、写真を撮りましょう。記念です」
それもそうだねと、通りがかった団員に自分のスマートフォンを渡して撮影を頼んだ。自分は楽器を構え、あかりはその隣に肩を寄せて並ぶ。背後には、楽屋前のラウンジ一面を飾るほどの大きさの和紙細工が掛けられていた。生命の誕生と進化、その営みを楽譜になぞらえたものだった。
「お二人さん、笑って―。3,2,1」自分なりに目いっぱい笑ってみせたつもりだが、どうだろうか。撮った写真を見せてもらうと、いかにもぎこちなかった。あかりは満面の笑みを浮かべている。
「ありがとうございます」あかりが頭を下げる。「いやいやそんな。こっちはお腹いっぱいです」と、スマートフォンを手渡しながら茶化されてしまった。
まだ時間があったので、二人で舞台袖からホールに入った。客席は暗く、ステージは明るく照らされている。誰もおらずしんとした空間に、コツコツとあかりの足音がよく響いた。
あかりに、演奏会は客席で聴いてほしい――と、掛け合ってみる。
正直なところ確信はなかったが、そうしたほうが良いと思った。あかりに色んな経験をさせることが、彼女自身に何かしらの影響を及ぼしてくれるんじゃないかと考えていたのだ。
「マスター、でも私……」
彼女は渋ったが、無理もない。あかりは音楽を聴いて、テンポや音程が合っているかどうかについては機械ゆえの正確さで知ることができるが、それが心にどう響くのかを理解することはできなかった。
でもわからなくたっていい。お客さんもみんな、こういう演奏会自体が好きで来てる人たちばかりじゃない。家族とか友達とか、近しい人の姿を見に来る人のほうが多いものだから。それに、舞台袖より観客席からのほうが、自分が座ってるところもよく見えるんじゃないかな。
きっと、無意味ではないはず。
あかりは少しの間考えると、「そうしてみます」と決心したようすだった。
これまで彼女をペットか何かのごとく、ほとんど家に閉じ込めていたようなものだった。であればあかりにとっては、家とマスターである自分だけが全てになるのは当然だ。それが楽団の練習に連れてきて、他の人と少しずつ関わるようになって。彼女の世界が広がりつつあるなら、彼女のために何かしてあげるべきだろうと思い始めたのだった。あかり自身がそれを良しとするかはわからないが、彼女をただの一体の家庭用アンドロイドとしてではなく、一人の”ひと”として扱うのであれば。
指揮台の横に立って、あかりはまだ誰もいない観客席を眺めていた。なんとなく、その姿を写真に収める。シャッター音に気付いて彼女がこちらを向くと、すぐに画像ファイルが共有される。スマートフォンを構えてあかりを捉えた、自分の姿だった。
「お返しです」
にっ、とあかりは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
直前のチューニングを終え、全員が各々の楽器を持って舞台袖に待機していた。
「開場時間です」ホールスタッフが告げる。
それじゃあ、あかり、また後で。はい、マスター。でもその前に、
「蝶ネクタイ、傾いてます」
あかりがネクタイを整えてくれる。誰かが口笛を吹いて、顔が熱くなった。
「マスター、がんばってくださいね」そう言うとあかりは長い三つ編みを躍らせながら、通用口からエントランスへと出ていった。
――――――
ゴトゴトと足音を鳴らしながら奏者が列をなして入場する。拍手が上がる。
「マス――すみません」その中にマスターの姿を見つけて思わず腰を浮かせ、声を上げかけてしまった。
「あらあら」隣の老婦人はくすくすと笑っている。やってしまった。恥ずかしい。
全員が席に着くのを待って最前列のクラリネット奏者が立ち上がり、その人が鳴らすB♭の音を基準にチューニングが行われる(と言っても直前にチューニングを済ませているので、これは儀礼的な意味合いが強い)。442Hzからちょっとずれてる人が何人かいるなと思ったが、ほとんどの人にはわからないだろう。
チューニングが終わるとホールに静けさが戻り、少しして下手側の扉が開き、指揮者が拍手で迎え入れられる。彼が一礼すると、ふたたび拍手が上がった。
指揮者が奏者へ向き直り、楽団全体をぐるりと見渡して指揮棒を構える。それに呼応して、奏者が楽器を構える。
その腕が振られると、ホールは一瞬で音に満たされるのだった。
さまざまな楽器の響きが洪水のように押し寄せたが、マスターの演奏はすぐにわかった。ある時は全体に溶け込み、ある時はアンサンブルを奏で、ある時は浮き上がって高らかに聴こえた。決して聴き逃すことも見失うこともなかった。
かつて私が独り占めしていた、彼の音色。
それが今、こうして聴衆の前で披露されている。曲の演奏が終わるごとに拍手が起こる。マスターの音色が私の手から離れていってしまう気がして、その度に胸に鈍い衝撃を受けるようだった。
もう私だけのものではない、彼の音色。
でも、この場で演奏され、それを聴くひとが集まっている。マスターの音を聴くひとが、ここには沢山いる。マスターの音は、私一人に無意味に消費されるものではなくなった。マスターの音楽が、価値のあるものに変わったんだ。
私は結局、マスターの練習の助けにはなれなかった。いつも我が儘を言って、足を引っ張ってばかりだった。彼にべたべたと纏わりついて、邪魔ばかりして。私はマスターにどれぐらい苦労をかけてしまっただろうか。何度マスターに謝罪しただろうか。
それでもマスターは私を練習に連れていってくれた。私のために時間を使ってくれた。えらいねって、言ってくれた。あれから何度も。
そして、今日ここで演奏を聴くべきだと、マスターはそう言った。私がここで聴くことに、きっと意味があるのだと。
混ざり、溶けあったハーモニーが、ホールをその響きで包み込む。輝かしいファンファーレが客席を突き抜けてゆく。跳ねるようなメロディーが空間を駆け巡る。私は無重力に身を任せるように、それらをただ座って一身に浴びた。マスターの音色は確かにその中に存在した。
そうか――私はマスターの奏でる音色が、好きなんだ。
気が付くと、私はぽろぽろと涙をこぼしていた。
隣の老婦人が、「大丈夫?」とハンカチを貸してくれる。
「ええ、大丈夫です……だいじょうぶ」
ハンカチで目元を抑えながら、私はどうにか返事をすることができた。彼女は私の背中を優しくさすってくれた。
演奏を終えて楽団全員が立ち上がり、指揮者が深々と礼をして、もう何度目ともわからない拍手が湧き上がる。
終演のアナウンスの中、マスターは客席にいる私を見つけて、にっこりと笑いかけてくれた。