悪いお姉さんに飼われる話 作:たぶんエタル
どれだけの間走っていただろうか。外気の寒さに頰が真っ赤になった頃、ぽつんと佇む小屋の前で狼は止まった。
お姉さんが先に狼から降りて、その手を借りながら私も狼から降りた。
その後すっと手を離され、お姉さんは狼を撫でつけて褒めていた。それを見てどこか蟠るものを感じながら、私はそっと自分の首を触った。
狼はどこか不機嫌そうに唸ると私のへそ程の体高へと縮み、小屋の中へ消える。
私は目を擦り、疑った。その原因は狼が縮んだ事だけでなく、小屋の中にある景色が明らかにおかしかったからだ。
見間違いでなければ、このせいぜい二人が肩を寄せ合えば入れる程度の小さなボロ小屋の中にまるで貴族の屋敷のような大きな空間が広がっていた。
いや、貴族の屋敷にしては少し物が散乱していたようではあったが。
「目が痒いの?」
「ひゃあっ!」
急にお姉さんが私の顔を覗き込んでくる。目と鼻の先にお姉さんの顔があったものだから、びっくりして距離をとった。あまりに勢いよく後ずさったものだから足が絡まって尻もちをついてしまった。
当のお姉さんはぱちくりと目を瞬かせて、いたたと腰を摩る私を見ている。その様子がどこか人間的で、超然としたお姉さんが少しだけ身近な存在に感じられた。
「ポチは鈍臭いね」
お姉さんの口が少しだけ弧を描く。その仕草に思わずどきりと胸が跳ねたのは、もっと見たいと思ってしまうのは、きっと勘違いだ。
ふるふると頭を振って、勢いよく立ち上がる。
「抱っこする?」
「〜〜っ! だ、大丈夫ですっ!」
私は腕を広げて首を傾げるお姉さんを無視して通り過ぎる。小屋の扉に手をかけ、開け放つと、やはりと言うべきか、あの小屋ではないどこかに繋がっていた。
走り回れそうな程大きな広間の左右に階段があり、吹き抜けになった二階がその一部を覗かせている。
しかし、明らかに生活する場所でないその広間には椅子やテーブルが置かれ、その上には山積みの本が散乱している。テーブルに乗り切らなかった本が床の色がところどころ見えるくらいに積まれていた。
階段には埃が積もっており、二階や他の場所は使っていない事が窺える。
「わぁ……」
広すぎてぽかんとする思い、本を沢山読んでいて凄いなという思い、散らかりすぎていてむずむずする思い、それらが混ざり合ってよく分からない声が漏れ出た。
「ここがポチの新しいお家だよ。気に入ってくれた?」
「え、えっと……その、はい……」
「よかった。ポチは何か食べたいものある?」
「……特にないです」
「そっか」
食べたいものは本当になかった。あの日から何も口にしていないのでお腹は空っぽで今にも倒れそうではあるが、それよりも自分の意思で贅沢をするというのがあまりにも気が進まなかったのだ。あくまでも私は強制されてここにいて、強制されて従っているのだから、ここで自分の意思を出すとそれが揺らいでしまいそうだった。
「じゃあ適当に買ってくるよ」
「あ……」
お姉さんが言葉を発した時、首を絞めてくれるのではないかと僅かばかり期待をしたが、それは叶わなかった。お姉さんがこの屋敷には不釣り合いな小さな扉を開いて姿をその向こうへ消えた。外からは人々の喧騒が漏れ出ていて、恐らく今度は何処かの街に繋がっているのだろう。
この屋敷は元からそこまで賑やかではなかったものの、酷く静かになったように感じられた。
周りには散乱した本とあの狼。本来の大きさに戻った狼は大広間の一角にくるまっていた。
途端に寂しさが私を襲って、心を啄む。
誰かに会いたい。気がつけば私はお姉さんの後を追うように扉に手をかけていた。
「安いよ! 安いよ! 串焼き今ならどれでも百ナールだよ!」
「採れたての野菜はいかがですか! 王国産の野菜はいかがですか!」
「ふわふわの甘〜いお菓子! どうですか〜!」
喧騒が身を包む。見渡す限りの人、店、そして食べ物。
別世界だった。見える限りでも私が今までに知った人よりも多くの人が行き交っている。身が盛んで、慌ててもう一度扉を開ける。
「……あれ?」
そこには大きな広間も、乱雑に積み上げられた本もなく、簡素な内装の家があった。
「あれ? ……え? ……っえ、え、えぇえええ!」
ばたん、がちゃり、ばたん、がちゃりと扉を幾度も開け閉めするも、何も変わらない。
「……ど、どうしよう……」
呆然と立ち竦み、これからの絶望的な展望に思いを馳せる。お金もない、この場所も分からない、そもそも帰る場所も分からない。お姉さんはいない。守ってくれる人はいない。
逃げたって思われたら、お姉さんは私のことを嫌いになるのかな。
「っ……」
言いようのない孤独が襲いかかる。私はそれを納めるように首を触っていた。ざわめきが落ち着いていくのを感じた。
「君、大丈夫? さっきから──」
「うひゃあっ!」
頭上から声がかけられる。線の細い、優しそうな男性が私を見下ろしていた。
「……えっと、迷子とか、かな?」
「は、はい」
「やっぱり! 実はさっき君を探している人がいたんだ」
お兄さんは人好きのする笑みを浮かべて両手を合わせそう言った。きっとお姉さんだ。お姉さんが探しに来てくれたんだ。そう思うと嬉しくて、心が軽くなった。
「ほ、ほんとですか! どこにいますか!」
「あっちの方だよ。いっしょに行こうか?」
指差す方向には人だかり。少しの怖さを感じた私はその提案をなんの躊躇いもなく受けた。
「あ、えと、お、お願いします」
「そんなに畏まらなくてもいいよ。じゃあ行こうか」
手が差し伸べられる。私はその手を取り、歩き始めた。
♢♢♢♢♢♢
商店街を通り過ぎ、辺りには少し粗末な家々が並び立っている。すでに私の足は棒のようになっていた。
「あの……どこまで行くんですか?」
「まだまだ先だよ」
疑念が浮かび上がる。本当にこの人はお姉さんを知っているのだろうか。お姉さんは買い物に行った筈だ。このような場所にいるとは到底思えない。それに……よく考えれば、お姉さんが私の不在を確認するには一度屋敷に戻らないといけない筈なのだ。私はあの扉の前にいたが、お姉さんを見かけなかった。もちろん、あの摩訶不思議な力で別の扉から屋敷に戻った可能性は大いにある。しかし、私にはこの男がどうにも疑わしく思えてならなかった。
私は男に引かれるまま、細い路地に入る。
「わ、私、やっぱり、自分で探します……」
「いやいやいや、そんなこと言わないでさ」
手を振り解こうとすれば、万力のような力で、手を握られる。怖くなって、私はがむしゃらに抵抗したが敵うはずもなく、ずるずると引きずられながらどんどん暗がりへと向かっていく。先の見えない暗闇に叫び声は飲み込まれ、続くように私も闇へ飲まれていった。
そのまま何処かの店へと入り、地下へと向かう。複雑な道を通り、開けた部屋に着いた。
「ただいま〜!」
「えらい上機嫌じゃあ……おお!」
「どうだ? とんでもない上玉だろう?」
ソファにふんぞり返っていた大男が貧相な頭と同じくらい目を光らせて私を見下ろし、下卑た笑みを浮かべる。
「両腕の包帯は気になるが……こりゃ億はくだらないかもなぁ……!」
「そうだろう! 神に感謝だ! はははは!」
「……そんなキャラだったか? お前」
「突然脳裏に囁かれたんだ! 二番通りにとんでもないお宝があるって! これは神の啓示に違いない!」
「どんな神サマだよ……まぁいい。上手くいけば足を洗えそうだ」
「きっとこれまでの頑張りを神が評価してくださったのだ!」
「……そうだなぁ。頑張ったご褒美って訳か……」
感慨深くそう呟いて、大きな手で顔を覆った。束の間の静寂を下卑た笑い声が破る。手では隠しきれない程大きく歪んだ口元からは黄ばんだ歯がのぞいていた。
「どうした。いつにも増して汚いぞ」
「いやなに、神サマからのご褒美を味わないのは失礼だと思っただけよ」
じっくりと舐め回すような視線に私は最悪の未来を想像する。ぞわりと肌がざわめいて、言葉にならない声が漏れる。
「価値が下がるぞ」
「足を洗ったらもうこんなことは出来ないんだ。楽しまねぇと損ってもんよ」
「…………はぁ、傷を増やすなよ」
「わぁーってるよ」
ぱっと手が離される。私は脱兎のように走り出し、扉を開けようともがいた。鍵のかかった扉は私の意志に従わず、ガタガタと音を鳴らすだけだった。
「た、助けて! 誰か! 助けてください!」
ドンドンと扉を叩いて、助けを求める。こんな地下深くに人などいる訳もないと分からないわけではない。ただ、どうしても現実を受け止めたくなかったのだ。
「助けて! 誰か!」
「あぁ……身体が熱くなってきたぜ。いい気分だ」
「誰か! 助け……うぐぅ!」
視界が周り、天井が見える。背中を打ってじわりと痛みが走った。
大男がのしかかってくる。ギラついた瞳、だらしなく開かれた口元、熱く腐ったような吐息。全てが怖すぎて、気持ち悪かった。私は迫る顔を防ぐように腕を顔の前で交差させる。
「いやぁ……」
抵抗する気力もなく、ただ小さくそう呟いた。その呟きを聞きつけて誰かが助けに来る筈もない。どうやら神さまは私を嫌っているらしいから。やはりあの感情は間違っていて、神さまが私に罰を与えているだ。例えその果てに死んでしまうかもしれないとしても、薄情者の私には相応しい末路かもしれない。
でも、思わずにはいられなかった。
どうして私だけこんな目にあうのか。どうしてこの悪党どもには罰を与えないのか。
どうしてこんなにも世界は不公平なのかと。
♢♢♢♢♢♢
溢れる涙、弱々しい拒絶の声、香る小水。
その全てが大男の身体を熱くしてやまない。己の幸運に大男は満足げに頬を緩め、思う。
(こんなきれいな女初めて見たぜ……)
大男は仕事柄、顔の整った人間をいくらか見ている。だが、その男をもって目の前の少女は格が違うと言わざるを得ない。
さらりと流れる絹のような青い髪。新雪のように白い肌。そして何よりも、宝石のような大きな瞳。
男であれば絶対に相手にされないような、そんな女だった。昔日の屈辱が蘇る。大男は身体の芯に籠った熱を吐き出すように一際大きな息を吐いた。この熱さは劣情によるものだけではない。あの日の屈辱に対する怒りだ。沸々と湧き上がる怒りと、それを晴らすことができるという興奮が男の身体をより熱くしてやまない。
「はぁ……はぁ、はは。熱ぃよ」
それにしても本当に熱い。あまりの熱さに意識が朦朧としてくる程だ。
「あつい、あつい、あついあついあついあつい」
譫言のようにぶつぶつと呟く。
尋常でない様子に青年が大男の肩を触る。
「……‥おい、大丈夫か……っ熱! なんだこれ」
「あついあついあついあついあああああぁああぁああ"あ"あ"あ"あ"」
体の熱さから意識が朦朧としてくる。大男の身体が真っ赤に染まり、身体中から蒸気が立ち昇った。
「あ"、あ"、あ"つ"い"、あ"つ"あ"あ"あ"あ"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!」
「おい! しっかりしろ! おい!」
大男はビリビリと少女から離れ衣服を破り捨て地面にのたうち回る。その様子を呆然と少女は見ていた。
突然、ピタリと大男の動きが止まる。そして──
「ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア!!!」
──その身体が燃え上がった。
響き渡る叫び声と、メラメラと燃え盛る火の音。誰も、言葉を発さなかった。発せなかった。
「ウェルダンくらいかな」
静まり返った喧騒を鈴のような声が破る。背後──閉じられたはずの扉から響くその声に目を見開いた青年は次の瞬間大男の仲間となった。
「さぁ、帰ろう」
その声の主は炎を背後ににこりと微笑んで手が差し伸べる。涙で滲んだ目に、その姿はまるで─
「はい…………神さま……」
神さまのようであった。
その瞬間、声の主は紛れもなく、少女だけの……神さまだったのだ。
『大男』
過去に可愛い女の子となんかあったらしい。語られることはない。
『青年』
急に脳内に神の声が響いたらしい。いったい誰の声なんだ……