「テラスタルだよ、ゼイユ君!」
「……落ち着いてください。」

ブルーベリー学園の生徒・ゼイユ。
クールで高飛車、けれど年相応の可愛げを持つ彼女は、なぜか残念天然巨乳美人教師・ブライアに振り回される日々を送っていた。

なぜなら、ブライアはこう言い切るのだ。
「この世のあらゆるオカルト現象はテラスタルで説明できる!」

「……はあ? 懐中電灯も光りますけど。」
「いやいや、ゼイユ君! その光もきっとテラスタルさ!」

オカルト現象とテラスタル研究を結びつける天然な大人と、ツッコミ体質な少女。
二人が挑む不可思議な事件の先に、本当に“本物”は存在するのか。

テラスタルか、ただの妄想か。
全ての答えは、彼女たちの物語の中にある。



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テラスタルだよ☆ゼイユ君!

 サザナミタウンの夏は、静かで、そして豊かだった。

 

 陽光を反射してきらめく海は、空の青を映し込み、一枚の透き通ったガラスのように穏やかな波を打っている。

 白砂のビーチには高価そうなパラソルが整然と並び、カフェテラスからは甘いフルーツの香りとともに、楽しげな談笑が潮風に乗って漂ってくる。

 

 空を優雅に滑空するトゲキッスの白い羽が、青空に美しい軌跡を描いていた。波間では、カイリューが子供たちを背に乗せ、沖へと向かう姿も見える。

 ポケモンと人間が調和するその光景には、リゾート地ならではの気だるい静けさと活気が同時に息づいていた。

 

 そんな中、一際元気な笑い声を響かせる少年たちの一団があった。

 

***

 

「なあ、もっと沖に行ってみようぜ。あっちの方が絶対に面白いに決まってるよ」

 

 リーダー格の少年がサングラスを額にずらし、海の向こうを指さした。

 身に着けた上質なラッシュガードとブランド物のサンダルが、この場所に集まる来客層を如実に物語っている。

 

 その言葉に、隣の細身の少年がわずかに表情を曇らせた。

 彼は一歩引いた位置から沖を見つめた。海の色は先へ行くほど深く濃くなり、底知れぬ深さを思わせる。

 

「でも、あんまり遠くに行くのは危険じゃないかな。ほら、流れも速そうだし」

「心配性だな。平気だって、俺のカメールがいるんだからさ!」

 

 活発そうな少年がモンスターボールを構えると、真っ青な甲羅のカメールが現れ、元気よく鳴いた。

 隣ではブイゼルがしっぽをぱたぱたと振り、水面に飛び込む機会をうかがっている。

 

 不安げだった少年も、カメールやブイゼルの頼もしげな姿を見て、わずかに顔をほころばせた。

 

「じゃあ、行ってみようか」

 

 言い終えるより早く、リーダー格の少年が海へと駆け出した。

 ブイゼルが器用に泳ぎ、カメールが力強く水をかき分けていく。少年達がそれに揺られる。

 

 水は驚くほど透き通っていた。珊瑚礁の鮮やかな色彩が、揺れる水面の下でゆっくりと揺れている。

 ハリーセンの群れが陽光を反射し、銀の矢のように海中を駆け抜けた。

 

 少年たちは声を上げ、波を蹴立てながら沖へと進んでいく。

 

***

 

 しばらく進んだ頃、風が止んだ。

 

 潮の香りを含んでいたはずの風が途絶え、空間そのものが静まり返ったような錯覚が広がる。

 少年たちの笑い声も、ポケモンたちが水をかく音も、不意に遠ざかったかのようだった。

 

 静寂の中で、かすかな音が聞こえた。

 

 それは、声とも旋律ともつかない、不思議な音だった。

 

 少年たちが互いに顔を見合わせる。

 波間から吹き上げる涼しい風にかすかに揺れるその旋律は、次第に明確な『歌声』として形を取り始めた。

 

 高く、透き通った声だった。

 言葉ではない。意味を持つはずもない旋律が、しかし耳ではなく胸の奥に直接響いてくるようだ。

 

 リーダー格の少年が声を低くして言う。

 

「聞こえたか?」

 

 返事はなかった。

 誰もが、その声に意識を引き寄せられていた。

 

 次第に、その旋律は確信を持って少年たちを誘うように響き渡る。

 

「行ってみようぜ。絶対、何かある!」

 

 リーダー格の少年が手を上げて叫んだ。

 ポケモンたちも、まるで合図を受け取ったかのように前へと進んだ。

 不安そうな顔をしていた少年も、誘われるようにポケモンの背を押し、沖へと向かっていく。

 

 その歌声が、どこか懐かしく優しい響きを持っていたからだ。

 

***

 

 しかし、海は急に表情を変えた。

 

 水面が波立ち、深く冷たい潮流が海底から吹き上げてきた。

 ポケモンたちが驚いたように声を上げ、泳ぎの勢いを失う。

 

「うわっ、なんだよこれ!」

 

 リーダー格の少年が慌ててカメールの甲羅にしがみついた。

 ブイゼルは必死に水をかき分けるが、潮の流れはあまりにも強く、押し戻されるばかりだった。

 

 その時だった。

 

 海中深くで、何かが光った。

 

 青白い光だった。

 波間をすり抜け、夜空に浮かぶ星のように一瞬だけ輝いたかと思うと、再び深い闇に沈んでいく。

 

「見ろ、あれ!」

 

 リーダー格の少年が声を張り上げた。

 

 その瞬間、歌声が再び響く。

 先ほどよりも強く、鮮明に、確かな意志を持つような旋律だった。

 

 潮流はさらに強さを増し、海がうねりを上げた。

 ポケモンたちはもはや前に進むこともできず、少年たちは必死で声を上げて指示を飛ばした。

 

「戻れ! 戻るんだ!」

 

 叫ぶ声をかき消すように、潮流は少年たちを強引に押し戻した。

 結果として少年たちはその場をあとにしたが、それは彼らの意思ではない。

 もし潮流に『悪意』があれば、たちまち彼らは海に消えていただろう。

 

***

 

 サザナミタウンの白砂の浜辺に、波音とともに少年たちが打ち上げられた。

 

 全身は濡れ、呼吸は荒く、ポケモンたちも砂浜で力なく座り込んでいる。

 

 少年たちは互いの無事を確認し、深く息を吐いた。

 危機が去ったことに安堵する声が漏れる。

 

 しかし、誰も言葉を発さないまま、全員が同じ方向を見ていた。

 

 海の水平線の、その先。

 

 青白い光が、一瞬だけ。

 まるで手を振るように、波間に現れては消えていった。

 

 そして、最後にもう一度だけ、あの歌声が風に乗って響いた。

 

 潮の香りが戻ってきた。

 波は何事もなかったかのように、再び穏やかに砂浜を撫でている。

 

 少年たちは黙って立ち尽くしていた。

 誰も口にはしなかったが、あの歌声が心に焼き付いて離れなかった。

 

 何かが、あの海の底で待っている。

 そんな確信だけが、少年たちの心に残っていた。

 

***

 

 ブルーベリー学園。

 それは、海中に築かれた学園都市だった。

 

 巨大なドームに覆われた学園の外側では、イッシュ地方の深海が静かに広がっている。

 時折、ドームの向こう側をマンタインやラブカスの群れが泳ぎ、そのシルエットが淡く壁を横切っていく。

 

 学園内の天井には全天スクリーンが張り巡らされ、オレンジ色の夕焼け空が投影されていた。

 まるで本物の地上にいるかのような光景が広がっているが、それはあくまで幻想に過ぎない。

 

 深海の静寂とは裏腹に、穏やかで温かな夕暮れの光景が学園全体を包んでいた。

 生徒たちはそれを何気ない日常の一部として受け入れている。

 

***

 

 ゼイユは、スクリーンに映された夕暮れを一度も見上げることなく、宿舎への通路を歩いていた。

 

 黒髪に鮮やかな赤のインナーカラーを揺らしながら、まっすぐな足取りで進んでいく。

 スレンダーで長身のスタイルが目を引く。何気ない立ち居振る舞いも、ファッション誌のモデルのようだった。

 

 制服の袖を軽く直す仕草も、どこか優雅で洗練されている。

 冷たい印象を与える端正な顔立ちと、鋭く整った目元。

 

 しかし、その視線は淡々としていて、周囲に特別な興味を示す様子はなかった。

 ゼイユはもともとそういう人物だった。否、そういう人物であろうと意識していた。

 

 冷静を装っているが、その実、高飛車。

 だが、その性格もハイティーンの少女としての域を超えるものではない。

 無意識に背負う立場とプライドが、自然とそうした振る舞いを作り出しているだけだった。

 

***

 

 ドアを開けた瞬間、 部屋の中から電子音と掛け声が響いてくる。

 最近ハマっている体感型のボクシングゲームの音だ。

 同時に、ゼイユの顔から冷静な表情が消え、わずかに目を細める。

 

 視線の先には、ゲーム機を前に全力でボクシングゲームをプレイしている女性の姿があった。

 それは、ブルーベリー学園教務主任、ブライア だった。

 

 ベッドの上には、彼女のジャケットとブラウスが無造作に放り投げられている。

 ブライアの上半身はフィットした黒のトップス一枚で覆われていたが、その豊かなボディラインが隠しきれずに浮かび上がっていた。

 

 トップス越しにもはっきりと分かるボリュームと曲線。

 ゲームに合わせてリズミカルに動く体は、ナイスバディと呼ぶにふさわしい存在感を放っていた。

 

 ゼイユはわずかに視線を逸らす。

 気にしていない素振りを装うものの、指先が一瞬だけピクリと動いた。

 

 無自覚なのが一番腹が立つ。

 冷たい表情を崩さずに内心でそうつぶやく。

 

「よし、右ストレート! ああ、違う、そこじゃない! 左フックを避けて!」

 

 ブライアはゲーム画面を見つめたまま、夢中で叫んでいる。

 

 ゼイユは無言でドアを閉めた。

 再び無音になった部屋に、ブライアの掛け声と電子音だけが響いていた。

 

 しばらくして、ゲームが終了する効果音が鳴った瞬間、ブライアがようやくゼイユの存在に気づく。

 

「おや、ゼイユ君。いいところに帰ってきたな!」

 

 明るい声とともに、ブライアは満面の笑みを向けた。

 そのあまりに無垢な様子に一瞬絶句しながら、彼女に問う。

 

「何をしているんですか」

 

 その声は冷たさを含んでいたが、その言葉の裏には呆れたような響きも含まれていた。

 

「何って、ゲームさ。最近のモニターは解像度が高いからな、反応も良いし最高だよ!」

 

 そう言って、ブライアは全く悪びれる様子もなく笑った。

 

 ゼイユはふと視線を落とし、ベッドの上に乱雑に置かれたブラウスを見つめる。

 

「人の部屋で勝手に脱がないでください」

「おっと、これは失敬!」

 

 ブライアは気まずそうな表情を見せることもなく、ベッドの上に散らばった服を軽く手で整えた。

 ゼイユは腕を組み、目を細める。

 

「それに、鍵は閉めたはずなんですけど」

「え? 開いていたが?」

 

 ブライアはあっさりと答える。

 

 ゼイユは一瞬言葉を失った。

 確かに、出かけるときは急いでいた。もしかすると、本当に鍵をかけ忘れていたのかもしれない。

 プライドの高いゼイユにとって、その事実を認めるのはかなりの屈辱だった。

 

「不用心だなあ、ゼイユ君。女子寮だとはいえ、気をつけないと!」

 

 ブライアが笑顔で言い放つ。

 ゼイユは両手で髪を握りしめ、かすかに唇を引き結んだ。

 おそらく明日からは、何度も確認することになるだろう。

 

 その内心の誓いは、誰にも知られることはなかった。

 

***

 

 ブライアはテーブルの上にタブレットを置き、急に真剣な表情を作る。

 

「さて、ゼイユ君。今日は君にとって極めて重要な話があるんだ」

 

「聞く前から重要じゃないことがわかります」

 

 ゼイユは冷淡に答えたが、ブライアは気にする様子もなく、わざとらしく大げさなジェスチャーで宣言した。

 

「テラスタルだよ、ゼイユ君!」

 

 その言葉が放たれた瞬間、明らかに部屋の空気が変わる。

 ゼイユは目を細めているが、その反応は冷淡というより、またか、という諦めに近いものだった。

 

 ブライアはある胸を張り、嬉々とした表情を浮かべて話し続ける。

 

「君ならば知っているだろう? テラスタルエネルギーについて」

 

 ゼイユは無言でブライアを見つめた。

 

 テラスタル。

 ポケモンが本来持つタイプや能力を超越し、新たな力を得る現象。そのメカニズムはいまだ解明されていない。

 故郷であるキタカミにそのエネルギーが存在するゼイユにとって、少なくとも他の学生よりかは知識のあるものだ。

 

 問題は、ブライアがテラスタルの話になると極端に知能が低下すること。

 

 基本的にブライアという教員は、教員としても研究者としてもあまりにも優秀だ。ブルーベリー学園のコアと言ってもいいテラリウムドームの管理を任されていることからもそれがうかがえる。

 

 だが、どれほど学術的な理論を語っていても、テラスタルの話題に触れた瞬間、全ての冷静さが吹き飛び、この世のあらゆるオカルト現象をテラスタルに結び付けるという、驚異的な思い込みモードに突入する。

 

「でな、ゼイユ君。イッシュ地方のサザナミタウンで、不思議『“歌声』が聞こえたらしいんだ!」

 

 ブライアの声は高揚していた。

 

「これは間違いなくテラスタルエネルギーの共鳴現象だと思うんだ!」

 

 ゼイユは静かに目を閉じる。

 また、始まってしまったのだ。

 

「サザナミタウンで『歌声』が聞こえた?」

 

 ゼイユは、つまらなそうに目を細める。

 ブライアはタブレットを操作し、そこに表示されたニュース記事をゼイユに示した。

 

「そう。夏の間ずっと、海の向こうから誰とも知れない歌声が聞こえていたらしい。しかも、歌声が聞こえた時、沖合で強力な水流が発生し、命からがら戻ってきた子供たちがいるんだ」

 

 ゼイユは腕を組んで椅子にもたれかかった。

 

「それが何か問題なんですか。潮の流れが強かっただけでしょう。ありがちな話です」

 

 淡々とした声だった。

 表情も変わらず、完全な無関心を装っている。

 

 しかし、ブライアは口角を上げた。

 

「だがな、その後なんだよ。『波導の勇者の末裔』を名乗る男が現れたらしいんだ」

 

 ゼイユの指が微かに動く。

 

「は?」

 

 声のトーンは変わらない。しかし、その瞳が一瞬だけ鋭さを帯びたことを、ブライアは見逃さなかった。

 

「その名も、アレクシオ八世!」

 

 ブライアが満面の笑みを浮かべて、堂々と告げた。

 

 ゼイユは顔を伏せ、髪を指でくるくると弄び始めた。

 視線を合わせようとしない。

 

「アレクシオ、八世?」

 

 その声には、わずかな嘲笑が混ざっていた。

 

「ええ、そうだとも。波導使いの血を引く者で、自身を『波導の勇者の末裔』と名乗っている」

 

 ブライアは真剣な表情でタブレットの画像を指差す。

 そこには、派手な青いローブに身を包んだ男が、信者と思しき人々を前に両腕を広げている写真があった。

 

「そして、こう言ったらしい。『歌声は波導の力の覚醒を告げるものであり、選ばれし者だけが遺跡へと辿り着くことができる』とね」

 

 ゼイユは指を止め、目を閉じた。

 

「……馬鹿らしい」

 

 小さな声だったが、その言葉には冷たさがこもっていた。

 

 ゼイユが椅子から立ち上がる。

 長身のシルエットが部屋のライトを受けて伸び、黒髪に走る赤のインナーカラーが淡く光った。

 

「そんなもの、ただの詐欺師でしょう。自分を『八世』なんて称して、オカルトにでもかぶれた成金相手に騙しを働いているだけです」

 

 口調は冷静だったが、その背筋はわずかに強張っていた。

 

「私は興味ありません」

 

 ゼイユは短く言い切ると、再び椅子に腰を下ろした。

 だが、ブライアは笑みを浮かべたまま、わざとらしくため息をつく。

 

「やっぱり、君は興味を持たないか。少し期待していたんだけどなあ」

「期待されても困ります」

 

 ゼイユはそっけなく言い放つ。

 

 ブライアはタブレットを操作しながら、わざとらしい口調で話を切り出した。

 

「サザナミタウン、君なら気に入ると思ったんだけどなあ」

 

 ゼイユの指がピクリと動いた。

 

「イッシュ地方の南にある、富裕層が集まる高級別荘地だ。海は美しくて気候も温暖、食事も最高級。まさにリゾート地の理想形だそうだ」

「ふうん」

 

 興味がないふりをしているが、その声色はわずかに和らいでいた。

 ブライアは気づかないふりをして話を続ける。

 

「しかも、今回の調査、課外授業扱いになって特別単位が付くらしいんだ。いいだろう? 学業にもプラスになるし、リゾートでゆったり過ごせる。ああ、そういえば今回は私のサポートという形になるから、報酬も出るらしいんだがなあ」

 

 ゼイユは無言でタブレットを見つめた。

 別荘地での課外授業、そして単位、報酬。

 しかも、十中八九テラスタルではないから、めんどくさいレポートを書く必要もない。『詐欺でした』と書けばいいだけだ。

 一瞬だけ視線を泳がせた後、腕を組んで何気ない調子を装う。

 

「別に、行ってもいいですよ」

 

 つまらなそうな声だったが、わずかに顔を背ける動作が、その言葉に含まれる下心を隠しきれていなかった。

 

 ブライアはニヤリと笑った。

 それに気づかれないよう、あえて視線を外し、わざと残念そうな声を出す。

 

「いやあ、でもなあ。ゼイユ君も忙しいだろう? やっぱりここは、カキツバタくんにでも頼んだ方がいいかもしれないなあ」

 

 わざとらしいため息をつき、タブレットを閉じる仕草を見せる。

 

「ほら、カキツバタくんも最近は暇そうだし、ああいう場所が似合うだろうしなあ」

 

 ゼイユの表情が固まった。

 

 視線を落とし、肩を震わせる。

 指先が小さく拳を握るように動く。

 

 しばしの沈黙が流れた後、その声が低く、だが確かに震えて響いた。

 

「行かせてください!」

 

 椅子から立ち上がり、声を張ったゼイユは、気まずそうに顔を背けた。

 

「私が行きます! 他の誰でもなく、私が!」

 

 声が少し裏返っていた。

 冷静さを装っていた態度が崩れ、感情が露呈した瞬間だった。

 

 ブライアは満足げな笑みを浮かべた。

 

「おやおや、やっぱりゼイユ君が一番頼りになるなあ!」

 

 ゼイユは慌てて視線をそらし、髪をかき上げた。

 

「別に、興味があったわけじゃありません。ただ、学業に有利な単位とあれば、断る理由はないだけです」

 

 口を尖らせたまま、赤いインナーカラーが揺れる黒髪を弄ぶ。

 だが、その耳元がほんのり赤くなっていることを、ブライアはしっかりと見ていた。

 

***

 

 サザナミタウン。

 

 夏が終わったばかりの海辺の町は、徐々に静けさを取り戻していた。

 ビーチ沿いの道には高級感あふれるヴィラが並び、その先には誰もいないプライベートビーチが広がっている。

 白い砂浜は陽を受けてきらめいていたが、夏の盛りを過ぎたこの季節、波打ち際に人影はほとんどなかった。

 

 遠くには、青く澄んだ海が静かに広がっている。

 その海の向こうから、かすかに潮風が香った。

 

「ふうん」

 

 ゼイユは無表情のまま立ち止まり、前方を見据えた。

 

 黒髪に走る赤いインナーカラーが風に揺れる。

 スレンダーで長身のシルエットはまるでモデルのようで、その立ち姿だけで視線を集めそうな美しさを持っていた。

 

 しかし、その顔には相変わらず無関心を装った冷ややかさが漂っている。

 

「悪くないじゃない」

 

 ゼイユは小さな声でつぶやいた。

 

 その表情からは読み取れないが、彼女がさりげなく周囲を観察している様子は、どこか落ち着かない。

 ビーチサイドに並ぶヴィラや、整然と配置されたデッキチェア。ラグジュアリーなカフェスペースや、ポケモン専用スパ。

 

「やっぱり良い場所だなあ、サザナミタウン!」

 

 後ろから声をかけてきたのは、ブライアだった。

 

 その姿を見て、ゼイユはほんの一瞬だけ目を細める。

 

 まただよ。

 

 ブライアはリゾート地らしくラフなシャツを羽織り、ショートパンツにサングラスをかけていた。

 だが、その豊かなボディラインは隠し切れず、歩くだけで周囲の視線を集めている。

 

 遠くで飲み物を片手にしていた見るからに富裕層な男たちが、さりげなくこちらに視線を送っている。

 中にはわざとらしくサングラスを上げて、もう一度確認する者までいた。

 

 ゼイユはため息をつきたくなるのをこらえ、そっぽを向く。

 

「ほら、ゼイユ君! 空気が違うだろう?」

 

 ブライアがある胸を張って笑顔を見せる。

 

「はいはい。環境は確かに整っていますね」

 

 ゼイユは淡々と返したが、内心では心が躍っている自分を必死で抑えていた。

 

***

 

 そんな中、ビーチサイドの一角に不自然な集まりがあった。

 

 高級そうなリゾートファッションに身を包んだ富裕層の男女が集まり、何やら話し込んでいる。

 その中の一人が、聞こえよがしに大声を上げた。

 

「ついに……ついにアレクシオ八世様がお越しになるそうだ!」

 

 ゼイユの眉がわずかに動いた。

 

「アレクシオ八世……?」

 

 ブライアはすかさずタブレットを取り出し、にこやかに答える。

 

「そうとも! “波導の勇者の末裔”を名乗る人物さ!」

 

 その瞬間、近くにいた富裕層の男が話に加わってきた。

 

「やあ、君たちも“選ばれし者”を目指しているのかい?」

 

 男は笑顔を作っていたが、その目はブライアの方をじっと見つめていた。

 特に胸元あたりをちらちらと。

 

「私たちは観察に来ただけです」

 

 ゼイユが即座に冷たい声で言い放つ。

 男は少し戸惑ったが、すぐに調子を戻した。

 

「いやあ、選ばれし者はすごいんだぞ? 何せ、波動に選ばれた者は所得税を払わなくていいんだからな!」

 

 ゼイユは一瞬、聞き間違いかと思った。

 

「はい?」

 

「そうそう! 他にもだ、波導の力を得ればポケモンリーグを生涯VIP席で観戦できるんだ!」

「最新型のポケモンバトルシミュレーターが無料で提供されるって話もあるのよ!」

「ブランド品の新作が、なんと先行で無料配布されるんだって!」

 

 次々と並べられる、極めて俗物的なメリット。

 波導や選ばれし者という言葉に込められる神秘性は、微塵も感じられない。

 

 ゼイユは冷たい視線をその場に向けた。

 

「俗物」

 

 心の声が、口に出る寸前だった。

 しかし、ブライアは全く意に介さず、明るい声で返す。

 

「なるほどなあ! これはきっとテラスタルエネルギーが関わっているに違いない!」

「はあ?」

 

 ゼイユが半眼でブライアを見る。

 

「いやだって、そうだろう? テラスタルと波導エネルギーが共鳴すれば、こうした奇跡が!」

「もう好きにしてください」

 

 ゼイユは疲れたようにため息をついた。

 

***

 

 ビーチの先端に停泊した白い豪華クルーザーから、一人の男が降り立った。

 

 豪奢な青いローブを身にまとい、手には波導を模した杖を持っている。

 サングラスをかけた顔には、妙に作り込まれた笑みが張り付いていた。

 

 波導を象徴するような意匠のついたローブは、どう見ても市販の安物を装飾しただけのものだったが、集まった信者たちは目を輝かせて男を迎える。

 

「我こそは『波導の勇者の末裔』アレクシオ八世であーる!!」

 

 芝居がかった声が響き渡る。

 その声と同時に、信者たちは一斉に拍手を送り、歓声を上げた。

 

「うおお! アレクシオ様だ!」

「ついにお姿を拝めた!」

「この力で税務署も我々を認めるはずだ!」

 

 富裕層たちが、まるでアイドルでも見たかのように騒ぎ立てる。

 アレクシオ八世は悠然と歩みを進めると、波打ち際で立ち止まり、両手を広げた。

 

「この海こそ、波導の試練を示す聖域である! 選ばれし者よ、その力を得よ!」

 

 信者たちが一層の歓声を上げた。

 

 ゼイユはただ、冷たい視線でその光景を見つめていた。

 

「胡散臭い」

 

 その声は、まるで冷え切った氷のように冷たかった。

 

***

 

 波打ち際で両手を広げたアレクシオ八世は、芝居がかった動作で群衆の視線を一身に集めていた。

 

「今こそ示そう! 波導の選ばれし者だけが目にする『奇跡』を!」

 

 信者たちが期待に満ちた声を張り上げる。

 

「ついに!」

「これが税務署も認める神の力だ!」

「所得税とさようならだ!」

 

 その声が一段と高まったときだった。

 海中の深くから、淡い青白い光がゆっくりと浮かび上がる。

 

 そして——。

 

 透き通るような「歌声」が、波間から響き渡った。

 

 高く、そして低く。

 誰かの声とも、何かの旋律ともつかない、不思議な調子で。

 まるで海そのものが、夜の静寂に向かって歌っているようだった。

 

「っ……!」

 

 信者たちが一斉に驚きの声をあげる。

 

「これが……波導の歌……!」

「神が語りかけているんだ!」

「あの歌を聴いた者は、税務署からも自由になれるって!」

 

 ゼイユはゆっくりと瞬きをした。

 

 足元の砂を軽く払い、音の出所を探すように首をわずかにかしげる。

 その瞳には、微かな違和感が映っていた。

 

 歌声は、あまりにも澄んでいた。

 途切れもなければ、乱れもない。

 まるで機械が再生しているかのように、完璧なリズムで続いている。

 

 ゼイユの指がポケモンボールにかかる。

 

「……くだらない」

 

 淡々とした声だった。

 

***

 

「ゼイユ君! 見ただろう!? これはテラスタル現象に違いない!」

 

 ブライアが声を弾ませて隣から覗き込んでくる。

 ゼイユは肩をすくめ、振り返ることもなく応じた。

 

「はあ?」

 

 その反応に、ブライアは続けた。

 

「テラスタルは光を放つんだよ、ゼイユ君! それに、この歌だって! きっとテラスタルが海と共鳴しているんだよ!」

 

 確信に満ちた顔だった。

 

 ゼイユはようやく首だけを動かし、ブライアを見た。

 長いまつ毛がわずかに震える。

 

「懐中電灯だって光るでしょ」

 

 冷たく呆れた声音で答えた後、ため息をひとつつく。

 

「光るだけで何でもテラスタル扱いしてたら、世の中テラスタルだらけになりますよ」

 

 ゼイユは再び海へと視線を戻した。

 歌声は依然として、一定のリズムで響いている。

 

 ゼイユの目がわずかに細まる。

 

「ポケモンがいたずらしてるに決まってるでしょ」

 

 それだけ言い残し、モンスターボールを取り出した。

 

 モルペコが軽快な動きで地面に着地し、短く鳴いた。

 ゼイユの表情は変わらない。

 

「モルペコ、あの光に向かって『10まんボルト』」

 

 何の説明もない冷たい指示だった。

 モルペコが電気を帯び、空気がビリビリと震える。

 電撃が一直線に青白い光へと走った。

 

「え、攻撃するのか!?」

「ま、待て、あれは神の光じゃ……!」

「あの女! 貧相な体のくせになんてことを!」

 

 ゼイユの耳にその声は届いていないかのようだった。

 

 ただ、歌声と光をじっと見つめていた。

 

***

 

 電撃が光に届いた瞬間。それは確かに海に沈み込み、穏やかな波に新たな波紋を生む。

 

 だが、歌声は途切れなかった。

 

 光もまた、同じリズムで明滅を続けている。

 むしろ、一瞬だけ輝きを強めたようにすら見えた。

 

 ゼイユは片眉をわずかに上げた。

 

 肩が一度だけ上下する。

 

 その静かな反応が、内心の驚きを隠しきれていないことを物語っていた。

 

 普通なら、攻撃による衝撃で生き物の声なら乱れるはず。

 だが、この歌は全く乱れない。

 

 ゼイユはほんのわずか、唇を引き結ぶ。

 

 指先がポケモンボールを握り締めた。

 

「生き物の声じゃ、ない?」

 

 そのつぶやきは、波音に紛れて誰の耳にも届かなかった。

 

 信者たちは一斉に歓声を上げている。

 

「すごい……電撃にも動じない……!」

「これが神の光と歌だ!」

「税務署も絶対にこの力を否定できない!」

 

 ゼイユは視線を伏せたまま、静かにこめかみに手を当てた。

 その仕草は疲れたようにも、苛立っているようにも見えた。

 

 顔を上げると、わずかに唇が歪む。

 

 そして、何事もなかったかのようにモルペコをボールへ戻した。

 その一連の動作には、普段通りの冷静さがあったが、指先はほんの少しだけ震えていた。

 

 アレクシオ八世は両腕を広げ、勝ち誇った笑みを浮かべた。

 

「見たか、選ばれし者たちよ! この光と歌こそ、神に選ばれし者だけが手にする波導の証であーる!」

 

 信者たちの歓声と拍手が一斉に沸き起こる。

 ゼイユは一歩後ろに下がり、モルペコのボールを手の中で転がした。

 

***

 

 サザナミタウンの海辺から少し離れた場所にある豪華な集会所は、信者たちの期待と欲望に満ちた声で満たされていた。

 

 高級リゾート地らしいシックな内装の中には、不釣り合いな装飾品が並んでいる。

 壁際には、『波導石』と書かれた札のついた安っぽい青い石や、アレクシオ八世の肖像画。その絵の中で彼は、波導を模した杖を掲げ、勝ち誇った笑みを浮かべてる。

 

 会場の中央には、青白い光がどこからともなく差し込んでいる。

 光源は見当たらず、ただ薄いスモークがたちこめた壇上を静かに照らしていた。

 

「これが波導の光……! なんて神秘的なんだ……!」

「この光を浴びたら、タワマンの抽選に当たるって噂なんですよ!」

「波導の力でSNSのフォロワーが100万人突破するんだって!」

 

 信者たちの声が交錯する中、ゼイユは会場の後方にある椅子に浅く腰掛けていた。

 

 足を組み、無表情のまま光を見つめている。

 黒髪に走る赤いインナーカラーが、ぼんやりとした青白い光を受けてほのかに揺れていた。

 

 隣に座るブライアは、期待に満ちた目で壇上を見上げていた。

 

「どうだい、ゼイユ君! やっぱりサザナミタウンは素晴らしい場所だろう?」

 

 ブライアの声は弾んでいた。ゼイユは視線を逸らし、わずかに肩をすくめた。

 

「まあ、面白いものは見れそうですね」

 

 その声音は冷たく平坦だったが、わずかに瞳が細められた。

 

***

 

 突然、会場の照明が落とされた。

 

 ざわつく信者たちの声を遮るように、青白い光が一層強さを増す。

 光源は依然としてはっきりしない。

 スモークがたちこめた壇上に光が乱反射し、まるで空間そのものが発光しているかのような錯覚を生む。

 

「ど、どこから光が……!?」

「神の奇跡だ!」

「これで相続税もゼロになるわ!」

 

 信者たちは歓声を上げ、その場にひれ伏す者まで現れた。

 

 ゼイユは足を組んだまま、じっと壇上を見つめていた。

 目の奥に、かすかな探るような光が宿る。

 

「いや、照明の具合でしょ」

 

 青白い光が最も強まった瞬間、スモークがゆっくりと晴れ、アレクシオ八世が姿を現した。

 青いローブを翻し、波導を模した杖を高々と掲げている。

 

「汝ら、耳を傾けよ! 今宵、汝らを波導の真髄へと導こう! これが選ばれし者だけに許された『波導の修行会』であーる!!」

 

 信者たちが狂喜乱舞するような歓声を上げた。

 

「アレクシオ様ー!」

「やっぱり本物だったんだ!」

「これで税務署も波導を認めざるを得ない!」

 

 ゼイユは無表情を崩さないまま、視線を少しだけ横に動かす。

 壇上の奥、スモークの向こう側。かすかに影が動いたような気がした。

 

 ゼイユはそれを見逃さない。

 おそらくは、ランプポケモンのランプラーだろう。

 このスモークや照明をコントロールしているのだろう。

 

「くだらない」

 

***

 

「では、第一の修行だ! 波導呼吸法。波導は呼吸と共にある!」

 

 アレクシオが腕を広げると、信者たちは全員で謎のポーズを取り、深呼吸を始めた。

 

「ふぅうぅ……はぁあぁ……!」

 

 奇妙なうなり声とともに、スローモーションのような動作が繰り返される。

 

「1回深呼吸するたびに、住民税が減る気がする!」

「これで健康診断も無敵だ!」

「俺は長く生き! 俺以外の一族は早く死ね!」

 

 ブライアが真剣な表情でメモを取りながら、満足げに頷いている。

 

「なるほど、テラスタルエネルギーが肺胞に取り込まれているんだな!」

「キタカミの住民は住民税払ってますよ」

 

 ゼイユはその様子に呆れ返る。

 視線を落とし、ゆっくりと髪をかき上げた。

 肩がわずかに上下している。

 

 それが笑いをこらえているのか、呆れを通り越した苛立ちなのかは分からなかった。

 

***

 

「次なるは『波導歩行』!」

 

 アレクシオの掛け声と共に、信者たちは片足立ちでスローモーション歩行を始めた。

 

 青いローブを着た大人たちが、真剣な顔でよたよたと歩く光景は、異様としか言いようがなかった。

 

「歩くだけで固定資産税が軽減されていく感覚がある!」

「この歩き方でブランドショップに入れば割引されるらしいぞ!」

 

 ゼイユは無表情を保ったまま、静かに口を開いた。

 

「その歩き方で歩けるの、ここだけですよ」

 

 淡々としたその声に、信者の一人が振り返った。

 

「黙れ! 貧相な体つきのくせに!」

 

 その言葉に、会場全体の空気が一瞬止まる。

 

 ゼイユの体がピタリと静止した。

 

 長い指がゆっくりと髪をかき上げたかと思うと、両手で髪をわし掴みにした。

 肩がわずかに震える。

 

「ゼ、ゼイユ君! 落ち着いて!」

 

 ブライアが慌てて間に入り、ゼイユの肩を掴んだ。

 

 ゼイユは顔を上げた。

 その頬は真っ赤に染まり、唇がわずかに引き結ばれている。

 鋭い視線が信者を貫いたが、結局言葉を飲み込み、後ろを向いた。

 

 髪を握る手が、力なくほどけた。

 

***

 

「最後の修行だ! 『波導共鳴の儀式』!」

 

 アレクシオ八世が手を掲げた瞬間、会場が再び暗転した。

 次の瞬間、青白い光がどこからともなく部屋を満たす。

 

「な、なんだ!? 光が……!」

「これが本当の波導の奇跡……!」

「波導の力で借金も消える……!」

 

 信者たちは一斉に声を上げ、陶酔したような表情で光を浴びていた。

 

 ゼイユは立ち上がらず、じっとその光を見つめていた。

 どこかにあるはずの光源を探るように、目を細める。

 

 そして、天井付近で忙しそうに動き回るランプラーを見つける。

 だが、それを指摘したところで信者の目は覚ませないだろう。

 彼女はため息を付き、光を浴びているブライアをジトッとした目で眺めた。

 

***

 

 サザナミタウンの一角にある、豪華な装飾が施された集会所。

 昨日までの『波導修行会』の熱気をそのまま残したかのように、信者たちの興奮した声が室内を満たしていた。

 

「今日こそ、覚醒の時だ!」

「これで完全に課税対象外の存在になれるんだ! タックスフリーランスだ!」

「ついに税務署ともおさらばだ!」

 

 ゼイユは人混みの最後方で壁にもたれかかり、無表情のままその様子を眺めていた。

 黒髪のインナーカラーが青白い照明に照らされ、わずかに光を帯びる。

 

 視線は前方の壇上に釘付けだった。

 そこに立つのは、ローブを翻したアレクシオ八世。

 

「選ばれし者たちよ! 真なる『覚醒』を果たす時が来た!」

 

 アレクシオが大仰な身振りで杖を掲げると、信者たちが一斉に拍手を送る。

 

「『最終覚醒の儀』! これこそが波導の真髄である!」

 

***

 

 アレクシオが両手を広げたまま、満足げに言葉を続ける。

 

「だが、この儀式に参加できるのは真に選ばれし者だけ。波導覚醒セットを手に入れ、波導と一体化した者だけが、この儀式に臨むことができるのだ!」

 

 壇上の後方から現れた数人の弟子たちが、大きな布をかけたテーブルを運んでくる。

 布が払われ、中からはいかにも安物なローブと杖、そしてただの青い石が並べられた。

 

 それでも信者たちは一斉に歓声を上げる。

 

「これが……波導覚醒セット!」

「特製ローブは高級ブランドとのコラボだ!」

「波導の杖は持つだけで銀行口座の残高が増えるらしい!」

「これこそが夢に見た絶対に勝てる投資だ!」

 

 ゼイユの肩がわずかに動く。

 しかし、その目は冷たいままだった。

 

***

 

「さあ、選ばれし者よ。この覚醒セットを手に入れるのだ!」

 

 アレクシオが声を張り上げると、信者たちは歓声をあげて前へと殺到する。

 

「500万!? 安いもんだ!」

「ペーパーカンパニー作り放題なんだぞ、これ!」

「波導の力でオフショア口座が勝手に作られるって噂もある!」

「これで法人税もゼロ! 中間層から合法的に搾り取れる!」

 

 ゼイユはそのやり取りを無表情のまま聞いていた。

 

 しばしの沈黙。

 

 やがて、ゼイユは視線を低く落とし、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

「そこそこの金を取りますね」

 

 静かで、しかし冷たさを孕んだ声だった。

 

 その言葉が信者たちの耳に届いた瞬間、空気が一変した。

 信者たちが一斉にゼイユの方を振り返り、冷たい視線を向ける。

 

「黙れ! 貧相なくせに!」

「その体つきじゃ波導に選ばれないわ!」

「下流層のくせに偉そうな口をきくな!」

「やっぱりこういうのは血統が重要なんだよな!」

 

 言葉のナイフが次々と飛び交う。

 ゼイユの体がピタリと動きを止めた。

 長い指がゆっくりと黒髪をかき上げ、次の瞬間、両手で髪をわし掴みにする。

 

 肩が小さく震えた。

 

 しかし、その顔は決して見せない。

 

「ゼ、ゼイユ君! まあまあ!」

 

 慌ててブライアが間に入る。

 ゼイユは小さく息を吐き、両手をほどくと何事もなかったかのように視線を海へと戻した。

 

***

 

「フフフ……見たか、選ばれし者たちよ!」

 

 アレクシオが両腕を広げ、満面の笑みを浮かべた。

 

「この波導覚醒セットを手にした者だけが、真なる覚醒を果たし、海底遺跡の扉を開くことができる!」

 

 信者たちの興奮は最高潮に達していた。

 

「これで資産も守られる!」

「中間層からもっと搾り取ってやる!」

「波導があればどこの国籍だって自由だ!」

「政治家への献金が合法になる!」

 

 ゼイユは薄く目を閉じ、ため息をひとつ。

 

「くだらない」

 

 そう言い捨てると、無言でその場を後にした。

 

***

 

 夜。

 

 サザナミタウンの海辺は静まり返っていた。

 月明かりが波間を照らし、昼間の喧騒が嘘のように静寂が支配する。

 

 ゼイユは砂浜に立ち、無言で海を見つめていた。

 潮風が黒髪を揺らし、赤いインナーカラーが月光にきらめく。

 しばらくの沈黙。

 

 やがて、ゼイユはモルペコのボールを取り出し、手のひらで転がした。

 

「光も、歌もないか」

 

 低く呟いた声は、波の音にかき消された。

 何も起きない静かな海。

 しばらく目を細めて海を観察した後、ゼイユはボールを握り締めた。

 

「潜るしかないようね」

 

 その一言を残して、ゼイユはゆっくりと踵を返した。

 月明かりが、彼女の背を静かに照らしていた。

 

***

 

 サザナミタウンの夕暮れは、遠く波の音を響かせ、潮の匂いを運んでいた。赤く染まった空が、リゾート地特有の気怠い空気を包んでいる。

 

 ゼイユは静かに海を見つめていた。黒い長髪の先に赤いインナーカラーが揺れ、弟から借りたモンスターボールを手にしたまま、微動だにしない。

 

 準備は整っていた。しかし、その黒い瞳に映る海は冷たく沈んでいる。

 

 後方から陽気な声が響いた。

 

「いやあ、やっぱりリゾートは最高だねえ!」

 

 ゼイユは振り返らず、小さくため息をついた。

 

「あなたは、何もしないんですね」

 

 呆れを隠すつもりもない声だった。

 

 声の主、ブライアは、胸元の開いたシャツにサングラスというリゾート気分を全開にした格好で、満面の笑みを浮かべていた。

 

「いやだなあ、ゼイユ君。私はテラスタルの研究者だよ。調査は君に任せるのが一番だろう?」

 

 サングラスを指先で押し上げると、ブライアは楽しげに笑った。しかしゼイユは一瞥もくれず、無言のまま視線を海に戻す。

 

 その海には、あの日のような光も、歌もなかった。ただの静寂が波間を揺らしている。

 

 ゼイユは手元のモンスターボールをひねり、軽く放った。そこから現れたニョロボンが、頼もしげに両腕を広げる。

 

「行くわよ。やることは分かってるでしょう」

 

 ニョロボンは大きく頷いた。

 

 ゼイユは一度だけ振り返り、ブライアを見やる。

 

「まあ、なにか掴んできますよ」

 

 その言葉を最後に、迷いのない足取りで海へと歩を進めた。

 海水が足元を冷たく包んだ。波が引いていくたび、ゼイユの黒髪が赤いインナーカラーを滲ませながら海面に広がる。

 

「行くわよ」

 

 低く抑えた声が、潮風にかき消される。

 次の瞬間、ゼイユとニョロボンの姿は、ゆるやかな波の向こうへと沈んでいった。

 

 海中は静まり返っていた。深くなるにつれて光が届かなくなり、視界を青黒い世界が支配する。ゼイユの髪が水中に広がり、ニョロボンが泡を吐くたびに小さな気泡が浮かび上がっていった。

 

 ゼイユの視線は前方に据えられたままだった。

 

 あのとき見た光も、歌も、今は何もない。

 

 と、そのとき。

 

 低い振動が水を伝って全身を包んだ。潮の流れが変わったことを、ゼイユは肌で感じた。

 

 次の瞬間、全方向から冷たく圧迫する水流が押し寄せてきた。

 

 ニョロボンが前に出てゼイユを守るように腕を広げる。しかし、尋常ではない強さの水圧が一気に彼らを押し戻した。

 

 ゼイユの視界が白くかすむ。呼吸もままならず、体が制御を失って引き戻されていった。

 

 海面が大きく盛り上がり、その波が勢いよくビーチに叩きつけられた。

 

 ゼイユとニョロボンは、砂浜に無造作に投げ出された。ゼイユは濡れた髪を払いのけ、ゆっくりと体を起こす。息を整え、再び視線を海へ向けた。

 

 その視線の先には、誰の気配もなかった。

 

 ゼイユはしばし考え込むように立ち尽くした。

 

 もしあの水流を作っていたのがポケモンなら、視界のどこかに気配があってもいい。だが、それはなかった。

 

 つまり、あの水流は。

 

「自然現象、だっての?」

 

 わずかに眉をひそめ、口元で言葉を転がした。納得はしていない。それでも、理屈としてはそれを認めるしかなかった。

 

 甲高い笑い声が後方から響いた。

 

「見たか、選ばれし者たちよ! これが神の意志に逆らった者の末路だ!」

 

 振り返ると、アレクシオ八世が信者たちを引き連れて現れたところだった。豪奢なローブをまとい、手に持った杖を高々と掲げている。

 

「やっぱり下流層だから拒まれたんだ!」

「あんなに潜りやすい体型をしているのに潜れなかったのか!」

「どうせ消費税しか税金を払っていないのだろう!?」

 

 信者たちの罵声が飛ぶ。

 

 ゼイユは反応を見せなかった。ただ静かに両手を頭に持っていき、長い髪をわし掴みにする。指先が小さく震えていた。

 

 どうしてくれようか。

 

 そのとき、ブライアがゼイユの前に立った。

 

「ゼイユ君は悪くない! これはあくまで調査の一環です!」

 

 言い切ったブライアの声がビーチに響く。

 次の瞬間、信者たちとアレクシオ八世の視線が一斉にブライアの胸元に集まった。

 

 沈黙。

 信者たちは顔を見合わせ、言葉を重ねた。

 

「いや、あの貧相な女も悪くなかったのかもしれない」

「あの豊満な女性の言うことにも一理ある」

 

 アレクシオ八世もにやけた顔で頷いた。

 

「その胸に宿る大いなる波動に免じて、今回は許してやろう!」

 

 ブライアは胸元に手を当て、ほっと息をついた。

 

「なんて寛大な方々なんだ」

 

 ゼイユは海に視線を戻し、深くため息をついた。

 

***

 

 信者たちが去った後、夕暮れのビーチには再び静けさが戻っていた。

 波打ち際で、ブライアが光沢のある小さな石を拾い上げた。

 

「ゼイユ君、この石、なんだか光っているように見えないかい? 光源を持つ微生物の集団でも付着しているのかなあ」

 

 ゼイユは無言でブライアに歩み寄った。石を一瞥し、そのまま海を見つめる。

 

 もし光源を持つ微生物なら、潮の流れに従って広範囲に光が広がるはずだ。しかし、あのときの光は一点から動くことがなかった。

 

 誰かが意図的に光を発していた。発光する『何か』がいる。

 

 ゼイユは立ち上がった。

 

 記憶が鮮明に蘇る。あのとき、モルペコの『10まんボルト』を浴びせた。通常なら何らかの反応があってもいい。しかし光は動じなかったどころか、むしろ強さを増した。

 

 電気を受けて、光が強まる。

 その事実が、ゼイユの脳裏でひとつの結論を形作った。

 

 ゼイユはモルペコのボールを手の中で転がし、ゆっくりと海を見つめた。

 

「見てなさい、目にもの見せてやる」

 

 冷たくも確信に満ちた声が、波間に静かに消えていった。

 

***

 

 サザナミタウンの沖合に設けられた特設ステージには、金と銀をふんだんにあしらった装飾が施されていた。潮風にローブの裾をなびかせ、アレクシオ八世がその壇上に立っている。

 

 その背後で、信者たちが波導覚醒セット、高額なローブや杖を誇らしげに身にまとい、並んで祈りを捧げていた。

 

 アレクシオ八世は両腕を広げ、芝居がかった口調で叫ぶ。

 

「いよいよだ! 最終覚醒の儀が始まる! 選ばれし者たちよ、神の光をその身に受けるがよい!」

 

 信者たちは感極まった様子で歓声を上げる。

 

「これで相続税もおさらばだ!」

「波導があれば会社の赤字もチャラになるらしい!」

「税務署もこれには手を出せまい!」

 

 その言葉を聞きながら、ゼイユはため息をついた。

 

「誰か本気で税務署を呼んでください」

 

 冷淡な声でつぶやいたが、信者たちは誰一人として聞いていない様子だった。

 

 アレクシオ八世が海に向かって杖を高々と掲げると、海中から淡い青白い光が現れる。

 

 光は水面のすぐ下で揺らぎ、同時に『神秘的な歌声』が響き渡る。歌声は海と空の境を越えて広がり、信者たちは恍惚とした表情でその光景を見上げた。

 

「光だ! 神が我々を認めたのだ!」

「あの歌声が心の波導を震わせる……!」

「退職代行の連中にも聞かせてやりたい!」

 

 その中で、ひときわ能天気な声が響いた。

 

「やっぱりテラスタル現象に間違いない!」

 

 声の主はブライアだった。嬉しそうに海を見つめ、確信に満ちた笑みを浮かべている。

 ゼイユはわずかに肩を落とし、視線だけをブライアに向ける。

 

「あなたは本当にテラスタルしか語彙がないんですか」

 

 あきれた声にブライアは笑って肩をすくめた。

 

 ゼイユは光を見つめたまま立ち尽くしていた。あの光と歌声。前回と同じ演出。しかし、心の中ではすでにある確信が芽生えていた。

 

 手元のモンスターボールを指で転がす。しばしの静寂の後、無言でそれを空中に投げた。

 

 放たれたボールから、ヤバソチャがふわりと現れる。カップの中で液体が波打つ音もなく、ヤバソチャは宙を漂い、ゼイユの前に静止した。

 

「ヤバソチャ、行きなさい」

 

 静かで迷いのない指示だった。

 その瞬間、壇上のアレクシオ八世が顔色を変えた。

 

「やめろ! やめろと言っている!」

 

 その声に信者たちが反応し、ゼイユに飛びかからんとした。

 だが、彼らの前にブライアが立ちはだかり「どうか調査にご協力ください!」と手を広げると、その反動でぶるんと震えた胸の波動に、その足が止まった。

 

 アレクシオ八世の余裕のある笑顔は消え「何をしているんだ!」と、声を荒げて叫ぶ。

 

 だが、そのとき。

 

 海の遠くから、かすかな“別の歌声”が響いた。

 

 それは今流れているス歌声とは異なる、より深く、柔らかな旋律だった。

 アレクシオ八世が一瞬、そちらの方角を振り返る。

 

「なっ!?」

 

 ゼイユはその様子を冷たい視線で観察していた。

 

「ヤバソチャ、あの光に向かって『エナジーボール』」

 

 静かな指示に従い、ヤバチャの周囲に緑色の光球が形成された。光球はゆっくりと膨張し、やがて確かな質量をもって振動する。

 

 ヤバソチャの小さな体がわずかに揺れた瞬間、エナジーボールが放たれた。

 空を切ることなく一直線に飛び、海面を割って光の中心に命中する。

 海面が大きく盛り上がり、水しぶきが一斉に上がった。

 

 同時に、歌声が途切れる。

 

 そして、次の瞬間。

 

 青白い光の発生源であった場所から、一匹のポケモンが水面に浮かび上がった。

 

 それは、ライトポケモンのランターンだ。

 その背中には防水加工されたスピーカーが取り付けられている。

 

 ランターンはヤバチャの『エナジーボール』により大きなダメージを負い、海面に弱々しく浮いていた。

 

 その瞬間、場の空気が凍りつく。

 

 あれほど崇めていた光と歌声が、単なる機械とポケモンによる演出だったことを示す証拠が、今まさにそこにあった。

 

 信者たちは騒然とし、声を荒げる。

 

「な、なぜポケモンが……!?」

「これは……演出だったのか!?」

「でも、税務署は……?」

 

 最後の言葉に、ゼイユは冷たくため息をついた。

 そのとき、ブライアがゼイユの肩越しに前へ出る。

 

「ゼイユ君、これは?」

 

 ブライアはランターンを指さし、首をかしげている。目の奥にはまだ理解しきれていない光があった。

 

 ゼイユは無表情のまま、少し疲れた声で答える。

 

「だからこのポケモンが、あの詐欺師と組んでフェイクしてただけなんですってば」

 

 声にわずかな苛立ちが混じっていた。

 

 しかし、ブライアはしばらく黙ったままランターンを見つめていた。

 

 そして、ふいに。

 

「しかし、ゼイユ君」

 

 その瞬間、ブライアの表情が変わった。

 

 それまでの呑気な様子は消え失せ、理知的で冷徹な分析者の顔になっていた。

 

 口調も淡々としたものへと変わる。

 

「それではまるで、スピーカーを用いて偽の歌声を流し、聴衆の信仰心を煽り。次に、このランターンを利用して発光現象を演出。ポイントはランターンが電気を蓄積する性質にある。最初に君のモルペコが『10まんボルト』を放ったとき、光がより強まったのは、その性質を逆手に取ったためだ。電撃耐性を証明して『神の光』の信憑性を高めたわけだね。さらに、電気を受けても光を放ち続けることで、不可思議な力が働いているように見せかけた。そしてそれを根拠に自らの神秘性を民衆に示し、それを背景に高額な献金や物品の売買を図る、完璧な霊感商法の構図じゃないか」

 

 場は完全に静まり返った。

 

 ゼイユはブライアを見上げる。

 

「いやまあ、そうなんじゃないですか」

 

 淡々とした声に、ブライアはケロリとした表情で肩をすくめた。

 

「これはシンプルに犯罪だよゼイユ君」

 

 ゼイユは心底呆れたようにため息をついた。

 

 沈黙を破ったのは、先ほどまで崇高な波導を信じ切っていた信者たちの怒声だった。

 

「やっぱり詐欺だったのか!」

 

 その叫びを皮切りに、次々と罵声が飛び交った。

 

「返金しろ! 波導覚醒セットを買ったのに!」

「特製ローブもただの高級バスローブじゃないか!」

「波導石って、これただの庭石だろ!」

「この杖の証明書はどこにある! 俺達は証明書にだけは異常にうるさいんだ!」

 

 壇上から信者たちが潮が引くように離れていく。先ほどまでの恍惚とした表情は、見事なまでの怒りと冷笑へと変わっていた。

 

 その様子を前に、アレクシオ八世は顔を真っ青にして壇上に立ち尽くしていた。

 

 あれほど自信たっぷりに『波導使いの末裔』を名乗っていた男の面影はどこにもない。額からは脂汗が流れ、握った杖は小刻みに震えていた。

 

「ま、待ってくれ! 落ち着け! 私は……いや、私は確かに波導の勇者の末裔ってことで売ってきたけどさ……!」

 

 言葉を探すように声を張るも、すぐに自分で誤魔化しきれなくなったようだ。

 

「だって、そのほうが信じてくれる奴が多いんだから、しょうがないだろ!? なあ! みんな欲しかったんだろ!?『波導に選ばれた存在』って称号を! 税務署を出し抜く最高の切り札を!」

 

 壇上に響くその声は、もはや威厳も何もない、ただの詐欺師の開き直りだった。

 

「まさか、ここまで来てバレるとは……。クソッ、税務署めぇ!」

 

 最後の叫びは、潮風にかき消されるように虚しく響いた。

 

「とりあえず、物販で得た利益はきちんと申告しなさいよね」

 

 そう呟いたゼイユは、冷たい視線を崩さず、モンスターボールを取り出し、ヤバソチャを静かに戻す。

 

 ブライアは横で変わらぬ笑顔を浮かべていた。

 

「全て終わったね、ゼイユ君。テラスタルじゃなかったのは残念だけど、なかなか面白い事件だったよ!」

 

 ゼイユは無言を貫いたまま、じっと海の方を見つめていた。

 

***

 

 信者たちが完全に姿を消し、サザナミタウンの海辺には再び静寂が戻った。

 

 空は群青色に沈み、波打ち際には静かなリズムだけが残っていた。潮風が二人の髪を優しくなびかせる。

 

 ゼイユとブライアは、並んで砂浜を歩いていた。

 

 ゼイユはしばらく何も言わなかった。

 そして、立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。

 

「しかし、遺跡は確かに存在していましたし。あの強力な水流も、本物でした」

 

 その言葉に、ブライアも足を止め、ゼイユの横顔を見つめる。

 

「アレクシオのトリックは見抜けた。でも、あの水流は、あの男の仕込みじゃなかった」

 

 ゼイユの声は淡々としていたが、その目には一瞬だけ迷いの色が浮かんでいた。

 

 そのときだった。

 

 遠く、海の彼方からかすかな歌声が届いた。

 

 耳を澄まさなければ気づかないほどの、優しくも深い旋律。

 

 ブライアが驚いたようにゼイユを見やる。

 

「ゼイユ君、今のは?」

 

 ゼイユも歩みを止め、じっと海を見つめていた。

 

 波の音に混じって届いたその歌声は、一瞬のうちに静まり返った。

 海は何もなかったかのように、ただ穏やかに波を打っている。

 

 ゼイユは目を細め、しばし海を眺めた後、背を向けた。

 冷たい風が髪を揺らす中で、口元にはごくわずかな笑みが浮かぶ。

 

「テラスタルなわけ、ないでしょう」

 

 低く、しかし確信を帯びた声が、波間に溶けていった。

 




この二人にはこの解釈がよく合うと思っていました

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