『転生したらフルフルベビーでした』in ダンジョン   作:食品サンプル

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第14話 : 生存宣言

 闘争こそが生命だ。

 

 

 


 

 

 

 ──雷撃が、魔石に触れた。

 

 一瞬の静寂。

 張り詰める空気。

 時間が凍りついたかのような錯覚。

 

 そして──『蒼』が弾けた。

 

 爆音と共に、洞窟全体を覆い尽くす閃光。

 雷鳴が洞窟の奥深くまで轟き、蒼白い電光が奔る。

 空間が揺れる。地が震える。灼熱の波が岩壁を焦がしながら、あらゆるものを蹂躙していく。

 

 爆発の衝撃で空気が弾け、耳鳴りが周囲を支配する。

 石屑が吹き飛び、洞窟の天井が軋みを上げてひび割れる。

 

「──ッ!!」

 

 レグが咄嗟に叫ぶが、声は雷鳴に飲まれ、無慈悲に掻き消された。

 衝撃が、爆風が、襲いかかる。

 爆撃の圧が胸を殴りつけ、肺が悲鳴を上げる。

 

 風圧だけで体が浮いた。

 視界が乱れ、天地が反転する。

 岩屑が無差別に舞い、肌を切り裂く。

 

 ──次の瞬間、彼は背後へと吹き飛ばされた。

 

「──ッ、ぐっ……!!」

 

 景色が荒れ狂い、何が起こったのかすら理解できない。

 重力が崩壊したかのように、体が宙を舞う。

 意識がもつれる。

 

 轟音。衝撃。痛み。

 

 次の瞬間、背中が岩壁に叩きつけられた。

 鈍い音とともに、鋭い痛みが全身を貫く。

 肺が強制的に空気を吐き出し、視界が白く瞬いた。

 

 だが、それすらも一瞬。

 

 意識が暗転しかけるが、何とか踏みとどまる。

 脳が、戦場に引き戻した。

 

 ──痛覚など(そんなことは)どうでもいい。

 

 痛みなど、関係ない。

 

 崩れる呼吸の中、荒く酸素を求める。

 胃液がこみ上げ、口の端から滴り落ちるのを感じながらも、視線だけは前へ。

 

 そして──最悪の光景が、そこにあった。

 

「……セレナ!!」

 

 絶叫にも似た声が、喉から飛び出す。

 爆発の中心にいたのは──妖精(エルフ)の少女だった。

 

 無事なのか? 生きているのか? 

 それとも……。

 最悪の想定が脳裏をよぎる。

 

 だが、それを振り払うように、目を限界まで見開き、濃密な煙の奥を見据える。

 一刻も早く、状況を知りたいのに──見えない。

 

 視界を支配するのは、黒く渦巻く土煙。

 焦げた臭いと、硝煙の残滓が鼻をつく。

 視力に優れたパルゥムの目をもってしても、霞む輪郭しか捉えられない。

 

 心臓が痛いほどに脈打つ。

 焦燥が指先を冷やし、背筋を伝う汗が止まらない。

 

 頼む──いてくれ。

 

 必死の祈りとともに、視界が徐々に晴れていく。

 研ぎ澄まされた目が、ついに煙の向こうを捉えた瞬間──

 

 息を呑んだ。

 

「………………っ」

 

 金属が軋む、不快な音。

 黒く焼け焦げた、無残な鎧。

 深々と刻まれた、赤黒い裂傷。

 

 鮮血が滲み、滴り落ちる。

 庇護した者の背から、庇護された者へと、まるで紅い雨のように降り注ぐ。

 

 目の前の存在が血に染まろうとも、誰一人として、それを咎める者はいなかった。

 咎められるはずがなかった。

 

「カ、カインさん……!!?」

 

 赤く染まった少女の声が震える。

 涙が滲み、嗚咽が混じる。

 

 彼女は──無傷だった。

 あの身の毛もよだつ雷の爆撃の中で。

 死んでいても、おかしくない光の奔流の只中で。

 

 ──なぜなら、老兵が、その身を盾にして守り抜いたから。

 

 だが、その代償はあまりに重く。

 

 鎧は、黒く焼け焦げ、炭のように砕けている。

 肩から腹部にかけて、無惨に裂けた金属の隙間から覗くのは──赤黒く爛れた皮膚。

 そこから滲み出す血と体液が混ざり合い、鈍く光る粘ついた液体となって流れ落ちていた。

 

「……ぶじ、で……よかっ……た……」

 

 途切れ途切れの、掠れた声。

 震える身体。

 焦点の合わない目。

 それでもなお、カインは唇を噛み締め、膝を折ることを許さない。

 まるで、最後の意地を張るかのように。

 

 血に染まったセレナの指先が、震えながら彼女の腕にしがみつく。

 そして、触れて分かった。

 経験の足りぬ身であっても、それが分かってしまっていた。

 

 一撃で──致命傷。

 

 今もなお、立っていることが奇跡と思えるほどに。

 

「──ッ! カインさん、今、回復を──!」

 

 セレナが、焦燥に駆られながら腰のポーチへと手を伸ばす。

 指先が震え、もどかしく試験管を掴む。

 中には、輝く緑の液体。

 これさえあれば、彼女は助かる──そう信じて、蓋を開けようとしたその時。

 

「駄目だ!! まずは防御だ!!」

 

 鋭い叫びが、刃のように空気を裂く。

 レグの声だった。

 

 ──次の瞬間。

 

 空気が、震えた。

 

 耳をつんざくような、低く、重い振動。

 洞窟を圧迫するかのような、異質な圧力。

 

 煙の向こう。

 青白い閃光が脈打ち、奔る。

 

 熱と殺意が混ざり合った電流が、空間を支配する。

 

 そして、ゆっくりと、それは姿を現した。

 

 ──獲物を喰らう、獣の気配を携えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──仕留め損ねた。

 

 思考の第一声が、それだった。

 

 土煙の奥。

 鼻腔を満たすのは、焦げた肉の匂い。

 焼け爛れた鎧の隙間から覗く、赤黒く染まった裂傷。

 血が滲み、地に滴る。

 

 銀の槍が、力なく指先を離れ、岩肌を打つ。

 金属音が虚空に響き、静寂に沈んでいった。

 

 ──だが、違う。

 

 狙ったのは、あの耳長だった。

 けれど、俺の嗅覚は確かに捉えている。

 

 傷ついたのは、満身創痍の年老いた人間。

 

 ──邪魔をしたな。

 

 本来、あの雷撃は確実に、今もなお動けず、恐怖に震えている耳長へ届くはずだった。

 届かないはずが、なかった。

 だというのに──阻まれた。

 

(……間に合うはずが、なかった)

 

 直前までの距離、タイミング、閃光の速度。

 どれを取っても、阻止するには遅すぎたはず。

 

 なのに、アイツは──あの老兵(おんな)は、届いた。

 

 雷光が弾ける刹那、何を捨て、何を振り切り、どれほどの執念でその身を投げ出したのか。

 考えるまでもない。

 まるで、迷いがなかったかのように。

 ただ、それが当然であるかのように。

 それ(・・)を成した。

 

 ──この人間、褐色の人間よりも、また一段強い(・・・・)

 

 最初に感じた、あの息苦しい圧力。

 まるで壁に押し潰されるような、異様な気配。

 

 もしかすると……こいつこそが、その源だったのかもしれない。

 

 ──だが、それでいい。

 その選択が間違ってはいないと、俺の認識が肯定する。

 だって、そうだろう。

 

 結果的には、最も厄介な存在を、戦えぬほどに叩き伏せた。

 獲物を交わらせる事なく、一早くに。

 強者は弱者を守り、そして自滅する。

 

 あぁ、まったく。

 実に、人間らしい。

 

 それが人間の『強さ』でもあり、

 そして──致命的な『弱さ』でもある。

 

 今にも命の灯が消えそうなあの人間は、情に縛られた、哀れな犠牲者か? 

 それとも、運悪く雷撃に巻き込まれた、不憫な被害者か? 

 

 ──違う。

 

 これは、ただの必然だ。

 

 この結末に、偶然など存在しない。

 誰かが守り、誰かが傷つく。

 弱者は強者に依存し、強者はそのせいで隙を生む(・・・・・・・・・)

 

 ならば──

 その弱点を、利用しない手はない。

 

 俺は狩る。

 今までも、これからも。

 それが、『生きる』ということだから。

 

 だから──この好機、貪らせてもらおう。

 

(……卑怯とは言うなよ)

 

 お前たちが今も尚、その眼に瞋恚の炎を燃やし、死に抗おうとするように。

 俺もまた──『生きる』ために、お前たちを『殺す』。

 

 這い寄る。

 ゆっくりと。だが、確実に。

 

 四肢が地に沈み、湿った大地を這うように蠢く。

 粘ついた空気の中、静かに雷光が瞬く。

 青白い火花が弾け、身体を這い、地を這い、獲物へと触手のように伸びていく。

 

 俺の狩りは、まだ終わっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白き異形が迫る。

 

 決して逃がさぬと言わんばかりに、雷光が閃き、殺意を孕んだ大口からは、粘つく唾液が滴り落ちる。

 それはまるで、獲物を捕らえた捕食者が、次の瞬間には噛み砕かんと確信しているかのように。

 

 一歩。

 また、一歩。

 

 焦げた岩盤を這い砕きながら、じりじりと距離を詰めてくる。

 雷撃が迸り、宙を裂く。

 

 そして、今まさに跳躍し、襲いかからんとした──

 

 ──その刹那。

 

「──ぬぅんッッ!!」

 

 野太い咆哮が轟いた。

 

 土煙の向こうから、闇を切り裂くように巨大な戦斧が唸りを上げる。

 振るわれたそれは、白き異形を討ち据えんと一直線に飛翔した。

 

 ──しかし、届かない。

 

 刹那、異形の躰が滑るように翻る。

 まるで最初からその一撃を予見していたかのように、戦斧の軌道を躱し、悠然と回避する。

 

 そして──

 

 再び、煙の中へと姿を溶かした。

 

「やはり……当たらんか……」

 

 低く唸るような声が、戦場に沈む。

 戦斧を振るった巨体が、忌々しげに息を吐いた。

 

「ガルド! 無事だった……か……?」

 

 土煙の中から現れた仲間に、レグは安堵と驚きを滲ませながら声をかける。

 ──しかし、その言葉は途中で途切れた。

 

 確かに、ガルドは立っていた。

 意識もはっきりしている。

 だが──何かがおかしい。

 

 レグの視線が、自然とガルドの顔へと向かう。

 次の瞬間、彼の表情が、凍りついた。

 

 ──顔が。

 

 右顔の半分が、無惨に焼け爛れていた。

 

 炭と化した皮膚が裂け、血の滲む肉が剥き出しになる。

 傷口からは、血と体液がじわりと溢れ出し、焦げた皮膚の裂け目を伝って流れ落ちる。

 閉じられた右目の端から、一筋の赤が頬を伝い、滴となって落ちた。

 

 ──凄惨。

 

 その言葉が、脳裏を突き刺す。

 

「……お前……その怪我……」

 

 かすれた声が漏れる。

 尋ねるまでもない。

 まともに動ける状態ではないのは明らかだった。

 

 だが──

 

 ガルドは笑った。

 

 唇を吊り上げ、歯を剥き出しにしながら、涼しげに言い放つ。

 

「なぁに、大した傷じゃあないわい」

 

 軽口を叩くその態度が、余計に痛ましく映る。

 何が「大したことない」だ。

 こんな傷を負っておいて、そんな台詞がよくも出るものか。

 

 怒鳴りつけたかった。

「ふざけるな」「無理をするな」「お前が倒れたらどうする」

 そんな言葉が喉までせり上がる。

 

 だが──言葉を吐き出すよりも先に、異変が起こった。

 

 視界が、赤く染まる。

 

「……っ?」

 

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 だが、次の瞬間、じわりと温かい感触が広がるのを感じた。

 

 額から頬へ、頬から顎へ。

 ゆっくりと流れ落ちる、鮮やかな紅。

 

 ──血だ。

 

 自分のものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 頭がじくじくと痛む。

 壁に激突したときの傷か。

 それとも、今になって傷口が開いたのか──

 

 どちらでもいい。

 そんなことを気にしている場合ではない。

 

 視界が赤く滲む。

 額から流れた血が頬を伝い、顎先から滴る。

 けれど、それすら意識の外に押しやる。

 

 ──それよりも。

 

 頭の片隅にこびりつく、別の記憶が思考を支配する。

 焼き付いた映像が、脳裏で再生される。

 

 ──あの女は? 

 

 どこだ。

 無事なのか。

 さっきまで、あの異形に向かって拳を振るっていたはずの──

 

「──ミーナ!!」

 

 レグの叫びが、洞窟に響き渡った。

 荒い息遣いのまま、血走った視線を走らせる。

 

 ──どこだ。

 

 目が血の滲んだ瞳孔を拡げ、焦点を必死に合わせる。

 探す。探す。探し──

 

 ──いた。

 

 視線の先。

 爆雷の衝撃を受けたはずのその身体が、今もなお痙攣している。

 

 ──異形の雷撃は、直撃はしていない。

 けれど、その事実は、何の慰めにもならなかった。

 周囲に拡散した電流が、空気ごと焼き尽くしながら、彼女の体を貫いたのだろう。

 

 肌には焦げ跡。指先は小刻みに震える。

 目は開かれたまま、だが──焦点が合っていない。

 

「……ッ!」

 

 喉が、ひゅっと詰まる。

 駆け寄ろうとした足が、一瞬、動きを止める。

 

 悪い予感が、脳裏に爪を立てた。

 背筋が、氷の刃でなぞられたかのように凍りつく。

 

 ──反応がない。

 

 戦える状態じゃない。

 それどころか──

 

(……生きているのか?)

 

 考えたくもない疑問が、頭をよぎる。

 脳がそれを拒絶しようとする。

 だが、現実は残酷で、目の前の光景が答えを突きつける。

 

「……クソッタレ!!」

 

 怒りと焦燥が滲む叫びが、洞窟の空気を裂いた。

 重く、荒々しく、抑えきれない感情が剥き出しになる。

 

第二級冒険者(Lv.3)』と『上級冒険者(Lv.2)』が──共に、戦闘不能。

 

 ──ここにいる最大戦力が、だ。

 

 認めたくない。

 だが、事実として、ミーナは近接戦闘において最強だった。

 傷つこうが、倒れようが、彼女ならすぐに立ち上がるはずだった。

 だというのに──今の彼女は、動かない。

 

 カインも同じだ。

 経験と技術こそ一級品だが、今の彼女は『かつての強者』にすぎない。

 衰えた肉体、刻まれた傷跡、積み重なった年月が、否応なく『冒険者』という肩書きを蝕んでいた。

 それでも、彼女は前に立った。

 最後の最後まで、庇い続けた。

 その命が砕けようとも、誰かを守るために。

 

 ──だからこそ、痛む。

 だからこそ、どうしようもなく──悔しい。

 

 馬鹿げている。

 ふざけている。

 

 これが、『冒険』と呼ばれるものの結末だというのか。

 

 これが、何を意味するか、わかっているのか。

 

 ──パーティの(・・・・・)全滅(・・)だ。

 

(……今、意識がはっきりしているのは……俺と、セレナと、ガルドだけ)

 

 たった三人。

 それも、全員『下級冒険者(Lv.1)』。

 

 ──しかも、負傷者二名。

 

 俺も、ガルドも。

 痛みが刺すたびに、戦える時間が削られていくのがわかる。

 これで、一体……何ができる? 

 

 ──何も、できない。

 

 さらに、もうひとりは新人だ。

 駆け出しにも満たない、たったひとりの『見習い』。

 

 戦力として──数えられるはずも、ない。

 

 そして、最悪なのは、敵の雷撃。

 

 あの白き異形の雷は、接触せずとも、範囲ごと薙ぎ払う。

 地面すら焦がし、空気を焼き、肺の奥に電流を流し込む。

 まるで──そこに存在することすら許さぬように。

 

 逃げ場は、ない。

 勝機も、ない。

 

 ……もう、自分だけでも逃げてしまおうか。

 

 戦える者は倒れた。

 残されたのは、負傷者と未熟者。

 これが『逃亡の判断』なら、誰が責められる? 

 

 逃げることは、生き延びることだ。

 ここで無理をすれば、死ぬのは確実。

 死んでしまえば、何も守れない。

 

 ──だが。

 

 その瞬間。

 

「……カインさん……カインさんっ……」

 

 震える声が、耳を打った。

 

 顔を上げた。

 

 ──恐怖に濡れた瞳。

 ──絶望に揺れる、幼い顔。

 

 それは、まるで……

 

 かつての俺を見ているようで。

 

(……クソッ!!)

 

 奥歯を噛みしめる。

 唇が切れたことにも気づかない。

 

 ──何もできないまま、見捨てるのか? 

 ──今度こそ、守れないまま、逃げるのか? 

 

 違う。

 そんなはずが、あるものか。

 

 何もできない自分を変えたくて、ここに来たんだろう。

 誰かを守るために、戦い続けてきたんだろう。

 

 ならば、今こそ奮い立て。

 

 俺は、『都市の憲兵』。

 ──ガネーシャ・ファミリアだ!! 

 

「──聞けェッッ!!」

 

 咆哮が洞窟を震わせる。

 衝撃の余韻が壁を揺らし、砂が舞う。

 

 血の滲む唇で、それでも叫ぶ。

 全員に叩きつけるように。

 

 この小さな身体のどこに、これほどの声量が秘められていたのか。

 轟く怒声に、セレナとガルドが目を見開く。

 

 そして、魂を奮い立たせる宣言が叩きつけられる。

 

「──全員、生きて帰るぞッッ!!!」

 

 これは指示でもない。命令でもない。

 

 ──誓いだ。生存宣言。

 

 決して誰一人欠けることなく、必ず帰還するという、絶対の宣誓。

 

 その言葉に、空気が変わる。

 妖精の口が、息を飲み、

 矮人は、無骨な戦斧を担ぎ直し、

 女戦士の指先は震えながらも、拳を固く握った。

 

 そして──血まみれの老兵は、わずかに唇を歪ませ、静かに笑う。

 

 ──次の瞬間。

 

 雷鳴が弾けた。

 

「……くるぞ!!」

 

 警戒の声が響く。

 同時に、空気が張り詰めた。

 

 白き異形が煙を切り裂く。

 雷光を纏い、四肢を滑らせるように疾走する。

 狙いは──またしても、セレナ。

 

「──飛んでけオラァッッ!!」

 

 叫びと共に、矢が疾る。

 火線のように空を裂き、一直線に白き異形を貫かんとする。

 

 だが──

 

 異形は触腕を蠢かせた。

 雷撃を纏った閃光が瞬き、矢は容易く弾かれる。

 

 ──わかっていた。

 

 当然だ。

 そんなことは、最初から織り込み済みだ。

 

 この程度で足を止められる相手ではないことなど、百も承知。

 

 だからこそ──その先を用意していた。

 

 矢が弾かれた、その刹那。

 白き異形の視界の隅で、銀の閃光が軌跡を描く。

 

『──ッ!?』

 

 異形が、一瞬、動きを止めた。

 微かな戸惑い。確かに、息を呑んだ気配が伝わる。

 

 ──見えたのだろう。気付いたのだろう。

 

 矢に紛れ、ほぼ同時に放たれたもう一つの殺意(・・・・・・・)

 解体用のナイフ(・・・・・・・)が、獣を裂くがごとく空を切る。

 蠢く触腕が撃ち落とそうと閃くが、

 

 ──もう遅い。

 

 銀刃が、異形の肉を抉った。

 鈍く、嫌な音が響く。

 白き異形の中心──確かに、突き刺さった。

 

『──……ッ!』

 

 響くのは、悲鳴。

 雷鳴のような咆哮ではない。

 低く、絞り出された、苦痛の音。

 鋭く、短く、それでいて、確かに響いた。

 

(──届いた……!)

 

 これが、人間の『技』。

 これが、人間の『駆け引き』。

 

 ただの怪物には得られぬ、狡猾な一手。

 それが、確かに異形の肉を裂いた。

 

 ──だが、浅い。

 

 鋭く突き立ったはずの刃は、致命には至らず。

 力の弱いパルゥムの投擲では、深く抉るには足りず。

 解体用のナイフでは、鋭さが決定打にはならない。

 

 刃は、白き異形の皮膚を僅かに裂き、そこから滲むのは、紅い滴。

 

 ──それだけだ。

 

「チィッ……!」

 

 思わず、舌を打つ。

 

 ──瞬間。

 

 異形が、動いた。

 

 触腕が蠢き、鋭く弾けるようにナイフを引き抜く。

 白き肢体が痙攣するように震え、次の瞬間、雷撃が奔る。

 

 抜き去った刃を握り潰しながら──振りかぶった(・・・・・・)

 

 触腕が雷の刃と化し、狙いを定める。

 標的は、セレナ。

 

 振り下ろされる。

 

 致命の雷撃が、真っ向から襲いかかる──! 

 

「甘ぃぞォッ!!」

 

 轟音。

 

 刹那、巨影が弾ける。

 

 矮人の巨体が躍り、振り下ろされた雷刃へと真っ向から戦斧を叩きつける。

 

「──おおおおおッッ!!!」

 

 稲妻の閃光が、戦場を裂いた。

 

 血に染まったドワーフの姿が、雷光に照らし出される。

 右目を焼かれ、顔面を血に濡らしながらも、彼は雄叫びを上げる。

 

 雷を纏う触腕と、鋼鉄の戦斧が激突する。

 

 爆ぜる火花。

 炸裂する衝撃波。

 大気すら歪む、剛と剛のぶつかり合い。

 

 そして、轟音とともに──白き異形が弾き飛ばされた。

 

「はッ……ははァ!! 軽い軽い……ッ!!」

 

 嘘だ。

 軽いはずがない。

 

 ドワーフの圧倒的な膂力と鍛え抜かれた腕が、かろうじて(・・・・・)それを受け止めただけのこと。

 斧を握る手は、痺れで感覚を失いかけていた。

 全身の血が煮えたぎるような感覚──焼けるような熱が、筋肉の奥深くまで染み渡っていく。

 

(──ッ、化け物め……!!)

 

 痺れが這い上がる。

 腕の感覚が、指先から溶け落ちるように消えていく。

 たった一撃──それだけで、右腕が戦闘不能にされた。

 

 握れない。力が入らない。

 戦斧が、指の隙間から滑り落ちそうになる。

 歯を食いしばり、踏ん張る。

 ──落とすな。ここで、膝をつくわけにはいかない。

 

 雷の余波が、骨の奥で暴れ回る。

 軋む関節、焼き切れそうな筋繊維。

 耳鳴りが鼓膜を叩き、視界の端が霞む。

 

 それでも──それでも、倒れるわけにはいかない。

 

(……今の一瞬で、このザマか……ッ!!)

 

 怒りが込み上げる。

 悔しさと痛みを飲み下し、ガルドは震える指で戦斧を握り直した。

 

 だが、それでも──

 

 今の一撃で、セレナを庇うには、十分だった。

 

「ガルド!! 後退しろ!!」

 

 レグの怒声が飛ぶ。

 

 舌打ちしながらも、ガルドは即座に後退した。

 だが、その目はまだ異形を追っている。

 

 ──吹き飛ばされた先。

 

 白き異形が、微かに身を震わせた。

 生きている。

 だが、苦痛を感じている。

 

(……効いてる……!)

 

 確かに、奴に痛み(・・)が走った。

 だが、それだけじゃ足りない。

 あんな一撃では、討ち取る(・・・・)には程遠い。

 

 ならば──()を撃つまで。

 

 レグは、迷うことなく矢をつがえた。

 無駄かもしれない。意味がないかもしれない。

 それでも、撃たずにはいられない。

 

「──飛んでけ、オラァッ!!」

 

 弓弦が悲鳴を上げ、空を切り裂く矢が放たれる。

 

 そして、同時に叫んだ。

 

「クソ馬鹿女!! 起きてるんだろッッ!!」

 

 届かせる。声を。

 

「テメェが、ここでくたばるわけがねェ!!」

 

 響かせる。想いを。

 

「テメェが、これっぽっちで諦めるわけがねェだろうがッッ!!」

 

 背中が熱い。

 神の加護──刻まれたファルナが、まるで自ら燃え上がるように。

 ならば、神にも誓え。

 ──俺は(・・)仲間を見捨てない(・・・・・・・・)と。

 

「──意地を見せろ、ミィィィナァァァッッッ!!」

 

 そして──届いた。

 

 仲間の信頼が。

 

 瞬間、女が動いた。

 

 白濁した瞳。

 未だ焦点の定まらぬ意識。

 それでも、微かに残る戦意が、くすぶる火種のように揺れる。

 

 ──だが、それだけでは終わらない。

 

 これは、本能か。

 それとも、仲間の期待に応えようとする意地か。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 

 重要なのはただ一つ──

 

 彼女の脚が、大地を砕いた。

 

 誰もが、息を呑む。

 

 それは、一瞬。刹那の閃光。

 爆ぜる石片。響く轟音。

 土煙が空間を裂くように舞い、そして──

 

 その中心から、彼女が弾丸(・・)と化した。

 

 ──速い。

 

 速すぎる。

 

 まるで、疾風。

 否──閃光そのもの。

 

 白き異形の反応が、一瞬、遅れる。

 それは致命的な遅れ。

 

 本能が『死』を察知し、防御を選択。

 瞬時に全身へ雷撃を巡らせ、絶対の障壁を形成する。

 この雷の檻に触れたが最後、どんな獲物も炭と化す。

 

 ──だが、それすら、関係ない。

 

 女戦士(ミーナ)の身体を、再び貫く雷撃。

 焦げる皮膚。焼き切れる神経。

 だが、痛みなど、もはや只の情報に過ぎない。

 

 彼女の脚が、空間を裂いた(・・・・・・)

 雷光を浴びながらも、その身体は止まらない。

 稲妻の壁すら引き裂き、異形の中心へ。

 

「──いっけええええぇぇぇぇぇッッッ!!!」

 

 男の絶叫が轟く。

 そして──

 

 必殺の一撃が、炸裂した。

 

『──────!!』

 

 白き異形が、音にならぬ悲鳴を上げる。

 

 刹那、轟音。

 地響きが洞窟を震わせる。

 壁が陥没するほどの衝撃とともに、異形の身体が、壁面へと叩きつけられた。

 

 ──崩壊する。

 

 爆ぜる石片、舞い上がる土煙。

 亀裂が走る洞窟の壁が、悲鳴をあげるように崩落する。

 岩の塊が次々と砕け、無数の瓦礫が雨のように降り注ぐ。

 

 そして──

 

 ミーナの身体が、力なく崩れ落ちた。

 そのまま膝を折り、硬い地面に倒れ伏す。

 意識の灯火は、もはや尽きかけていた。

 

 焼かれた肌。

 焦げた衣服。

 指先すら、もう微かにしか動かない。

 ──今度こそ、本当に限界だった。

 

 それでも、彼女は最後の一撃を放った。

 それでも、奴を叩き伏せた。

 

「──ッッ!! よくやったッッ!!」

 

 レグの声が響く。

 叫ぶよりも先に、身体が動いた。

 即座に矢を番える。

 

 狙いは、もう決まっている。

 

(視界を遮断……!!)

 

 思考が研ぎ澄まされる。

 呼吸が深くなる。

 指先に宿る、極限の集中。

 

 ──今しかない。

 

 この一瞬を逃せば、誰も生き残れない。

 だから、撃つ。

 躊躇いも、迷いも、全て振り払って。

 

「……カスがっ、消え失せろ!!」

 

 弓が唸る。

 放たれたのは、麻痺矢と──煙幕矢。

 

『……ッ!!』

 

 瞬間、矢が突き刺さり、毒が白き異形の血管へと流れ込む。

 麻痺の痺れが肉を締め付ける。

 そして、黒煙が爆ぜた。

 視界が、一瞬にして闇へと沈む。

 

 だが──それだけでは終わらない。

 

「──セレナァッッ!!」

 

 レグの叫びが、洞窟の暗闇を切り裂く。

 その視線の先。

 

 震える指先で短杖を握りしめる、ひとりの妖精。

 駆け出しにも満たない、新米の少女。

 

 けれど──彼は知っている。

 

 確かに彼女は、未熟だ。

 剣を握れば凡庸。体術もまだ拙い。

 だが、それはあくまで──『冒険者』としての話だ。

 迷宮に潜る『狩人』としての話だ。

 

 本来の力、本来の『魔導士』としての彼女ならば──

 ──話は、別だ。

 彼女は、この状況を覆す『鍵』になれる。

 

 彼は、信じている。

 彼は、それを疑わない。

 

 ──だから、届く。

 

 その信頼に応えるように、

 少女は、震える唇を開いた。

 

「──【喚び醒ませ、沈黙せし風】」

 

 静寂が満ちる。

 それはただの言葉ではない。

 

 魂を震わせる、静かな『歌』が、始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──クソ馬鹿女!! 起きてるんだろ!!』

 

 喉が裂けるような怒声が、洞窟の壁に反響する。

 小さな人間が、まるで全てを叩きつけるように叫ぶ。

 

『テメェが、ここでくたばるわけがねェ!!』

 

 ……何をそんなに必死になっている? 

 死ぬのが怖いのか? 

 それとも──仲間を失うのが、怖いのか? 

 

『テメェが、これっぽっちで諦めるわけがねェ!!』

 

 ……笑わせる。

 

 これは鼓舞か? 

 それとも、ただの独りよがりな願望か? 

 どちらにせよ、無意味だ。

 

『意地を見せろ、ミィィィナァァァッッッ!!』

 

 ……無駄だ。

 あの褐色の人間は、もう終わっている。

 

 電撃を浴びた瞬間から、何も感じていない。

 焼け焦げた肌。焦点の合わない瞳。

 もはや立つことすら叶わぬ抜け殻。

 

 それでも叫ぶのか? 

 それでも──信じているのか? 

 

 ──愚かだな。

 

 電撃が身体を貫いた時点で、再起不能。

 事実として、あの人間は一歩も動けていない。

 

 だから、これはただの遠吠えに過ぎない。

 どれだけ喚こうが、どれだけ足掻こうが──奇跡なんて起こるはずもない。

 

 俺は、静かにその命を刈り取るだけだ。

 この場の支配者は、俺なのだから。

 

 そう思った。

 

 ──その瞬間。

 

 空気が、震えた。

 

 地盤が砕け、爆ぜるような衝撃が洞窟内を満たす。

 耳をつんざく音が響き、

 そして──気配(・・)

 

 感覚の端、土煙の向こう。

 

 気づけば、褐色の人間が、俺の真横にいた。

 

(……なんッ!!?)

 

 有り得ない。

 速すぎる。

 

 俺は、この()で見た。

 雷撃を浴び、全身を焼かれ、地に伏した姿を。

 肉体が、動けるはずがない。

 

 ──否、動ける(・・・)などという次元ではない。

 

 認識が追いつかない。

 脳が、理解を拒む。

 

 この速度は、もはや移動(・・)ではない。

 まるで──()()()()のような、異質な速さ。

 

(……クソがッ!!)

 

 現実が、俺の理解を置き去りにする。

 

 理屈ではない。

 脳が拒絶しても、本能が理解してしまう。

 

 ()()だと──。

 

 思考よりも速く、全身に雷撃を張り巡らせる。

 ただの防御ではない。これは──殺意。

 この瞬間に焼き尽くし、完全に()()()()()ための準備。

 

(……馬鹿が、自ら突っ込んできやがったッ!!)

 

 故に。

 今度こそ、確実に仕留める。

 先ほどのような()()()は、もう繰り返さない。

 

 だから、一瞬たりとも隙は与えない。

 奴の身体が踏み込む前に、俺の雷が奴を貫く。

 

 逃がさない。

 絶対に、逃がさない。

 

 ──次こそは、確実に殺す。

 

 そう、確信していた。

 なのに。

 

(……っ?)

 

 刹那。

 雷撃すらも飛び越えて、『何か』が俺を貫いた。

 

 理解が追いつかない。

 何が起こった? 

 感覚が揺らぎ、思考が途切れる。

 

 だが、理解する前に──本能(からだ)が悟る。

 

 これは、()だ。

 

 数瞬前に喰らった拳の比ではない。

 冗談みたいな質量が、俺の腹を抉る。

 

(────────ッッッ!!!?)

 

 内臓が悲鳴を上げる。

 胃がひっくり返るような感覚。

 熱いものがこみ上げ──口から、鮮血が噴き出した。

 

 一瞬の浮遊感。

 そして──轟音。

 

 ──棘のある岩壁へと、俺の身体が叩きつけられる。

 いや、違う。

 ()()()()()と言った方が正しい。

 

 骨が軋み、壁が砕ける。

 背中を貫く激痛。

 ()()が、ただの打撃ではなく、圧倒的な破壊力を秘めていたことを理解する。

 

 ──壁が陥没するほどの、ふざけた威力。

 

 世界が、明滅する。

 白黒がちらつき、脳が揺れる。

 意識が沈む。浮かぶ。

 何度も、何度も、際限なく繰り返す。

 

 ──動けない。

 

 動こうとするも、身体が言うことを聞かない。

 まるで、自分がただの肉塊に成り果てたかのように。

 

 痛みすら、もはや遠のいていく。

 熱が引き、冷たい何かが身体を侵食する。

 泥の底へ、意識ごと沈んでいくような感覚。

 

 その時。

 

(……ッ!!)

 

 激痛。

 矢が突き刺さる感触。

 

 直後、全身が()()()

 

 毒だ。

 体内に侵入する感覚がわかる。

 冷たい何かが、血管を這い上がる。

 

 触腕から身体、そして頭から尾へ。

 次第に自分の身体が他人のものになっていくような感覚。

 

 呼吸が、重い。

 視界が、狭まる。

 

 ──今度こそ、本当に動かない。

 

 そして、次の瞬間。

 

 空間が、黒く霞んだ。

 

 煙。

 ──いや、煙幕。

 

(……視界封じか)

 

 すぐに理解する。

 だが、それは無意味だ。

 

 俺に『目』はない。

 俺は『嗅覚』で獲物を狙う。

 

 ──黒煙ごときで、俺を封じられると思うな。

 

 そう思った、その刹那。

 

『──【喚び醒ませ、沈黙せし風】』

 

 ──『音』が。

 

 否。

 

 新たに生まれた『歌』に、俺は意識を奪われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔から、何をやっても駄目だった。

 

 駆けっこも、剣の素振りも、弓の扱いも。

 どれもこれも、人並みにすら届かない。

 

 魔法だって、まともに撃てやしない。

 

 ──そして今も。

 ただの足手まといでしかない。

 

 戦えない。

 守れない。

 それどころか、仲間の重荷になっている。

 

 ……でも。

 

 本を読むのは、好きだった。

 言葉を紡ぐのが、好きだった。

 そして──

 

 歌うことが、何よりも好きだった。

 

 だから、何度も歌った。

 喉が枯れるまで。

 声が涸れても、なお、続けた。

 身体が、頭が、魂が、覚えるまで。

 

 それだけが、自分にできることだったから。

 

「──セレナァッッ!!」

 

 名前が、叫ばれた。

 

 自分を呼ぶ、懸命な声が聞こえる。

 耳を刺すほどの必死な叫び。

 

 ──あの人が、私を見ている。

 

 血を流し、身体を傷つけ、それでも。

 こちらを信じて、名を呼んでくれている。

 

 無価値で、ちっぽけで、弱いはずの私を。

 

 ──だから。

 

 これだけは。

 これだけは、絶対に失敗しない。

 

 たとえ喉が裂けようと、声が枯れようと。

 たとえこの身が砕けようとも。

 

 この『歌』だけは、決して止めない。

 

「──【喚び醒ませ、沈黙せし風】」

 

 震える声が、洞窟の暗闇に溶け込むように響いた。

 掠れそうな喉から絞り出した、か細い声。

 それでも、言葉は紡がれる。

 

「【氷嵐(ひょうらん)の牢檻に幽囚されし我が慟哭(おもい)を乗せ、此処にて共鳴させ給う】」

 

 ──轟音が鳴り響く。

 爆ぜる雷鳴。

 崩れる岩壁。

 

 それでも、この声は消えない。

 

 息が苦しい。

 肺が軋み、喉が張り裂けそうだ。

 

 ──でも、止まるわけにはいかない。

 

 横に目を向ける。

 そこには、傷付き、血を流しながらも尚、死に抗おうとする恩人の姿があった。

 

 もし、間に合わなかったら? 

 たった一秒でも遅れてしまったら? 

 

 ──最悪の想像が、胸を締め付ける。

 

「【嗚呼、幾度も掬おうとした燦然たる希冀(ねがい)よ、指先を伸ばすたびに瓦解する無慙(むざん)悔恨(つみ)よ】」

 

 声が震えた。

 喉の奥が詰まりそうになる。

 嗚咽がこみ上げる。

 

 だが、それを振り払うように、両手で杖を強く握りしめる。

 

 ──迷うな。

 ──止まるな。

 

「──【目覚めよ、無慈悲なる嵐の檻。愁嘆(しゅうたん)鋒刃(ほうじん)と化し、瞋恚(しんい)を烈風と成し、無価値なる軟弱(おのれ)を打ち砕け】」

 

 紡がれる言葉が、空気を軋ませる。

 轟々と唸る風が、砂塵を巻き上げ、視界を塗り潰す。

 大気が震え、洞窟そのものが呻くように揺らいだ。

 

 ──けれど、目を閉じることはできない。

 できるわけがない。

 

 視線の先には、未だ倒れ伏したままの女戦士。

 傷つき、泥に塗れ、微動だにしない。

 しかし──彼女は、まだ『終わって』いない。

 

「【彷徨い続けた我が心に応え、虚無へと徒に(かざ)すその手に、真なる覇道の力を得よ】」

 

 魔力が暴風となって渦巻いている。

 奔流するエネルギーが荒れ狂い、空間そのものを軋ませる。

 洞窟の天井が震え、細かな石片が降り注ぐ。

 

 彼女の足元に刻まれた魔法円(マジックサークル)が、眩い光を放ち始めた。

 それは、まるで胎動する神威の如く。

 ゆっくりと、確実に、圧倒的な力を孕んでいく。

 

 けれど──焦燥が、胸を締め付ける。

 

「【吹き荒べ、凶風(きょうふう)。かつての私を容赦なく抉れ】」

 

 足が震える。

 魔力が全身を駆け巡り、血管が灼かれるように熱い。

 指先は痺れ、喉が焼けつくように乾く。

 それでも、退くことは許されない。

 

 ──もし、ここで失敗すれば? 

 ──もし、詠唱が間に合わなければ? 

 

 脳裏をよぎるのは、最悪の結末。

 誰かが死ぬ。

 それが自分であるかどうかは、もはや問題ではない。

 

 彼女は知っている。

 魔導士にとって、迷いは死を意味する。

 恐怖に囚われ、声が震えた瞬間に、詠唱は砕ける。

 魔力は不完全なまま爆散し、絶死の業火と成り果てる。

 

 だから──

 

「【忌まわしき者を閉ざし、万刃の凶災(きょうさい)と成りて切り刻め。我が宿命(さだめ)、退路なき誓約(ちかい)のもとに】」

 

 震えそうになる声を、喉の奥から押し出す。

 肺が焼けつくように痛む。

 呼吸が荒くなる。

 

 それでも、止めるわけにはいかない。

 ──これは、彼女にとっての『誓い』なのだから。

 

 だが、それでも──まだ足りない。

 

 この魔法を完成させるには、あと少しだけ……! 

 

 ──その瞬間、空気が軋んだ。

 

 白き異形が、微かに蠢いた。

 

 ただの痙攣ではない。

 それは、跳躍の予備動作。

 

 まだ間に合うと言わんばかりに、狙いは変わらず、詠唱を続ける者。

 獲物を捉えた狩人は、静かに、しかし確実に狙いを定める。

 

 ──絶望が、脳裏をよぎる。

 

「──復帰が速すぎんだろッッ!!?」

 

 レグの絶叫が洞窟に響き渡る。

 麻痺の効果が、想定よりも遥かに短い。

 

 間に合わない。

 この速度、この間合い、この距離──

 

「──ッッ!!?」

 

 閃光。

 目が焼かれるような眩い光の中、疾駆する異形の姿が視界いっぱいに広がる。

 

 圧倒的な速さ。

 轟く雷音とともに、白い影が空を裂いた。

 

 ──『歌』が、一瞬、途切れる。

 

 だが、それを咎めるように、荒々しい声が飛んだ。

 

「気にせず『歌え』!! 儂とレグが死んでも通さんッ!!」

 

 ガルドの怒声が、迷宮の壁を震わせる。

 戦斧を振りかぶり、雷撃の直撃すら覚悟で前へと踏み込む。

 レグもまた、矢を番え、呼吸を詰めながら狙いを定める。

 

 ──信じろ。

 ──信じて、詠唱を続けろ。

 

 セレナは、奥歯を噛み締めた。

 恐怖に縛られそうになる唇を、無理やり動かす。

 

 震える喉から、声を搾り出す。

 崩れかけた旋律を、もう一度繋ぎ直す。

 

 今、この場で──

 自分にできる、たった一つのことを果たすために。

 

「【もはや臆することはない、恐れるものもない。悉くを裂断(れつだん)し、悉くを蹂躙(じゅうりん)し、悉くを呑滅(どんめつ)せよ】」

 

 雷鳴が轟く。

 爆ぜる空気が鼓膜を打ち、洞窟全体が震えた。

 

 そして、その轟音の中、ガルドが吼える。

 巨躯が、咆哮とともに白き異形へと肉薄する。

 

 ──刹那。

 

 雷撃が炸裂した。

 空間が青白く染まり、瞬く間に影を呑み込む。

 

 その中心。

 戦斧と触腕が、衝突する。

 

 凄絶な力のぶつかり合い。

 轟く衝撃波が、岩壁を砕く。

 

 だが──勝ったのは、ガルド。

 

 雷撃を断ち切る咆哮が、迷宮を震わせた。

 

「ウオオオオオッッ!!!」

 

 矮人の雄叫びが、大気を揺るがす。

 怪物といえど、無尽蔵ではない。

 限界は、ある。

 

 異形の躯がぐらりと揺らぐ。

 散る雷撃。痺れる空気。

 

 ──そこへ、狙い澄ました一矢が放たれる。

 

 銀の閃光。

 

 疾風のように飛来したのは、槍だった。

 老兵が愛した、銀の槍。

 

 小人の投擲が、異形の胸を正確に貫く。

 そして、そのまま洞窟の壁へと縫い留めた。

 

 ──狙い通り。

 

「動けるとはいえ、まだその体の麻痺(しばり)は抜けきってねぇよなァッッ!!?」

 

『──────ッッッ!!?』

 

 雷鳴が悲鳴に変わる。

 雷撃の暴君が、地に縫い止められた。

 

「【いまや天響(てんきょう)を裂く絶対の風と成し、吾が新生をここに刻む】」

 

 だが、それでも。

 

 白き異形は、もがく。

 雷光を纏い、断末魔のごとく吠え猛る。

 決して諦めぬ、生存本能が、尚もその身を突き動かす。

 

 バチバチと弾ける雷撃が壁を焦がし、砕く。

 槍が軋み、そして──引き抜かれた。

 

 白き異形が、地へと落ちる。

 

 それは、膝を折る動作ではない。

 次の瞬間、跳躍するための予備動作。

 

 ──まだ、終わらない。

 

 そう、白き異形が叫ぶが如く。

 雷撃を纏い、膂力の限り跳躍せんとする。

 しかし──その前に。

 

『歌』が、すべてを凌駕した。

 

 魔法の円が光を放つ。

 緑と青の魔力が交錯し、臨界に達した暴風が空間を軋ませる。

 まるで嵐が目を開いたかのように、空気が震える。

 

 その中心。

 

 少女の瞳に迷いはなかった。

 指先は震えず、魔力の奔流がその身を包み込む。

 揺るぎなき意志が、世界に刻まれる。

 

 たとえ己が砕けようとも、この一撃で──

 

「【新たな私が──今ここに】!!」

 

 ──終わらせる。

 

「────【ヴォルテクス・エクシディウム】ッッ!!!」

 

 繰り出されるは、()()()()()

 ()()が終わった瞬間、嵐が世界を支配した。

 

 避けることなど、もはや叶わない。

 断罪の風が、すべてを切り裂いた。

 

 轟音が炸裂する。

 空間そのものが震え、大気が悲鳴を上げる。

 暴風が迷宮を蹂躙し、目に見えぬ刃が狂気のように舞う。

 

 ──世界が、悲鳴を上げる。

 

 迷宮の壁が、天井が、耐えきれずにひび割れ、

 空間を歪ませるほどの魔力が膨れ上がり、

 巨大な圧力が岩盤を軋ませ、崩壊が始まる。

 

 天井が、壁が、脆く崩れ去る。

 足元の大地すら、不穏な震動に揺らぐ。

 

 それは、まるで──神が振るう剣の如き嵐。

 

 その暴威は、ただの攻撃ではない。

 それは、裁きであり、審判であり、浄化である。

 

 視界を奪う煙幕すら、一瞬で吹き飛ばされた。

 黒の台風が猛り狂い、迷宮の奥深くまで浸食する。

 音が消え、ただ暴風の唸りだけが響く世界。

 

 崩壊は、止まらない。

 

 天井を支えていた岩盤が、次々と崩れ落ちる。

 地響きが鳴り響き、岩の瓦礫が雨のように降り注ぐ。

 迷宮そのものが、沈黙しようとしていた。

 

 ──これで、もう動けまい。

 

 誰もが、そう確信した。

 戦いは終わったのだと。

 だが、次の瞬間。

 

 崩れ落ちる岩塊の影、その奥。

 蠢く、白。

 

 ──まだ、終わっていない。

 

 異形が、死んでいない。

 

(……こいつ、まだ動くのか……!?)

 

 驚愕が、思考を凍りつかせる。

 もはや執念という言葉すら、生ぬるい。

 何が何でも生にしがみつこうとする、狂気の本能。

 

 視界を奪われ、全身を裂かれ、肉がはみ出し、血に塗れてもなお──

 それでも、異形は確かにこちらを()()()()()

 

 ──目がないのに。

 

 まるで、()()()()()かのように。

 

 違和感が、脳を掻き乱す。

 こいつは、一体何を基準に()を認識している? 

 どうやって、俺たちを()()()()()? 

 

 戦慄が背筋を這い上がる。

 何かが、おかしい。

 何かが──()()()()違う。

 

 そして、その刹那。

 

 閃いた。

 ただ一つ、唯一の可能性。

 

「……だったら……これもだッ!!」

 

 レグの手が、素早く通路の端へと伸びる。

 瓦礫の隙間に吹き飛ばされていたバックパックを乱暴に引き寄せ、中身をかき回す。

 

 そして、手にしたのは、小瓶。

 蓋を捻った瞬間──

 

(……くせぇ……ッ!!)

 

 刺すような悪臭が、瞬時に辺りへと広がった。

 鼻を突く腐臭。胃の奥からせり上がる吐き気。

 だが、そんなものに構っている余裕はない。

 

 レグは歯を食いしばり、小瓶の中身を布袋に叩き込み──

 それを、矢へと括りつけた。

 

強臭袋(モルブル)』──それは、鼻腔を焼くような激臭を放つ特殊弾。

 

 レグは迷うことなく矢をつがえ、弓を引き絞る。

 狙いは、目の前の白き異形。

 

「飛んでけェッ!!」

 

 弦が震え、矢が閃光のように疾る。

 次の瞬間──弾ける。

 

 異形の目前で炸裂した小袋から、凶悪な腐臭が爆発的に広がった。

 土埃とは違う、脳まで腐らせるような、地獄の瘴気。

 

 ──異形の動きが、止まる。

 

「……ッ!?」

 

 雷撃も、蠢く触腕も、何もかもが静止した。

 ピクリとも動かない。

 まるで、自身の感覚が崩壊したかのように。

 

(……効いた、のか!?)

 

 だが、確認している暇などない。

 今が唯一の好機。

 ここを逃せば、全滅──!! 

 

「ガルド!! ミーナを抱えて行け!!」

「──おうッ!!」

 

 巨躯のドワーフが即座に反応する。

 倒れ伏すミーナを、まるで羽根のように豪快に抱え上げた。

 片腕一本で軽々と担ぎ、重心を低く構える。

 

「セレナ!! ババアを背負え! 俺じゃ無理だッ!!」

「──分かりました!!」

 

 セレナが駆ける。

 肩で息をしながら、崩れかけたカインを懸命に支え上げた。

 老兵の身体は重い。

 けれど、立ち止まることは許されない。

 

「──急げッ!! このままじゃ全員、生き埋めになるッ!!」

 

 誰もが、迷いなく駆け出した。

 崩壊する迷宮の中、生き延びるために。

 

 ──そして、一斉に退却を開始する。

 

 轟音が背後で炸裂する。

 闇の迷宮を引き裂くように、岩盤が砕け、天井が崩れ落ちる。

 レグはそれを聞きながら、最後尾を駆け、振り返った。

 

 視界の端で、異形が蠢いていた。

 小人の鋭い視力が、その不気味な動きを捉える。

 

 ──まだ、生きている。

 

 白き怪物の裂かれた身体が、震えるように痙攣する。

 削がれた触腕が、空を彷徨う。

 探るように、名残惜しむように、だが確かに獲物を求めている。

 

 雷光がちらつく。

 かすかな稲妻が、闇を切り裂く。

 そのたびに、空気が軋み、洞窟全体が鳴動する。

 

 ──だが、遅い。

 

 もう、彼らの姿はそこにはない。

 

 残されたのは、崩れ落ちる迷宮と、怒りに震える雷鳴のみ。

 

 悔し気に轟くその音がだけが、空間には今も響いていた。

 

 

 


 

 

 

 孤独な奴は弱いって遥か昔から決まってんだ。

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