マスターとわたし   作:RIM_Standard

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初出:Pixiv 2023年11月20日


あたらしいわたし

「お仕事、がんばってください。お気をつけて」

出張初日。いつものように、マスターを玄関で見送る。

ばたり、とドアが閉まって、ひらひらと振っていた私の手が行き場を無くす。静けさに包まれたリビングに、私の足音だけがやけに響いた。

朝食に使った食器を洗い、部屋の掃除を済ませ、洗濯物を片付ける。平日、私だけになった家がしんと静まり返っているのはいつものことだが、今回はそれが金曜日までずっと続くということを改めて感じずにはいられなかった。

少しでも寒々しさを和らげようと、自分の身体を抱き締める。寂しさで涙が溢れそうだった。やはり、ずっと起きているのは耐えられそうにない。

 

マスターの寝床に潜り込んだ。温もりはとうに失われているが、マスターの香りが残っているような気がした。

ワンピースに皺がついてしまうな、と布団を被ってから思った。思っただけで、どうにかする気にはならなかったが。

彼は約束通り、今朝まで私をずっと抱き締めてくれた。貴方の体温に包まれると、心地よくて、幸せで、安心できます。

昨日も、一昨日も、その肩に痕をつけさせてくれた。ごめんなさい。同じところに二日連続で、とっても痛かったですよね。二度目は出血がひどかったし、私の洗浄液も傷口に滲みましたよね。

マスターの味が口の中に一瞬で広がったのは忘れられそうにない。私の我が儘でマスターを傷つけているというのに、シーツにも、私のパジャマにも痕をつけてしまうほど血が出たので、少し泣いてしまった。

もうやめにしよう。

今度こそマスターに謝罪して、彼を傷つけるようなことは金輪際しないと誓おう。

私がマスターの支えにならないといけないのに、ずっとマスターに助けてもらっているのだから。

謝罪の言葉を考えつつ、シャットダウン処理を実行した。プロセスが順番に終了してゆく。瞼を閉じた。

次に目覚めたときは、マスターの腕の中だったらいいな――――――――

 

――――――

 

よほど自分はぎこちない動きをしていたのだろう。顧客にも同僚にも、大丈夫ですか、と心配されてしまった。

「まさか四十肩ですか? 早いうちに診てもらった方が良いですよ」

肩をぶつけるほど寝相が悪いだとかの苦しい言い訳も諦めて、帰ったらそうします、と苦笑いしながら答えるしかなかった。

可能な限りスムーズに仕事を終えようと集中して取り組んだが、最中は何度も肩の傷が疼いた。その度にあかりの悲しげな表情がフラッシュバックする。

その日の仕事を終えてホテルに戻った時は、まず傷の様子を確かめた。必ず血が滲んでいた。毎回絆創膏を貼り替えたが、シャワーを浴びる度にひりひりと痛んだ。

痛みを感じる度に、自分の至らなさをあかりに罰せられているように思えてならなかった。

そして、その夜も夢をみた。

 

幸いにして、大きなトラブルもなく検収書を回収することができた。残業などあってはたまらない。食事の誘いを丁重に断ってはるばる勤務先へと戻り、事務処理もそこそこに済ませて会社を出た。

既に日はすっかり傾き、みるみるうちに暗さを増してゆく。逸る気持ちをどうにか抑えつつ家路を急いだ。そういう時に限って、何度も信号に引っ掛かっては歯がゆい思いをした。右折で危うく歩行者を見落としかけたのを、心の中で平謝りした。急いだ割に、駐車場に車を停める頃には、街灯が路地を淡く照らしていたのだった。

日頃の運動不足もお構いなしにアパートの階段を駆け上がった。鍵を探してポケットをまさぐった。無い。どこだ。

作業中に落とさないよう、鞄に突っ込んでおいたのをかろうじて思い出す。あった。焦りで鍵穴になかなか差さらなかったが、ようやく玄関のドアを開ける。

当然ながら、部屋は暗闇に包まれている。勿論ただいまの声にも返事はない。誰もいないリビングに鞄とジャケットを放り出して寝室に入ると、すぐにあかりの姿が目に入った。

姿勢よく布団を被り、眼を閉じて微動だにしない。いつもの眠っている姿ではなく――まるで死んでいるようで――悪い想像が頭をよぎったが、彼女に教えてもらったことを思い出してどうにか心を落ち着けることができた。

掛布団を捲り、ブラウスのボタンをひとつずつ外す。抱きかかえるようにしてあかりの上半身を起こしたが、袖から腕を引き抜くのは諦めて、ボタンを外して開けたところから手を入れることにする。

手探りでブラジャーのホックを(かなり時間をかけて)外した。これも脱がすことはできないが、メンテナンスハッチを開くことさえできればいい。

あかりに教えて貰った辺りを、右上、左上、右下の順に押す。

反応がなかったので何度かやり直したのち、空気が抜けるような音がしてロックが解除された。あかりがブラウスを着たままだったので、メンテナンスハッチは指がどうにか入る程度にしか開かなかった。

隙間に指を入れて電源スイッチを探す。右手は端子のようなものに触れた。外部接続用のポートだろう。左手でわずかに窪んだ、丸い部分を探り当てたので、押した。カチリ、と硬い感触があった。

モーターが回転するような、かすかな動作音を感じた。メンテナンスハッチを閉じて抱き締めたまま、あかりが動き出すのを待った。

2,3分はそうしていただろうか。

彼女の瞼がゆっくりと開く。少しの間きょろきょろと辺りを見渡したのち、こちらの顔に焦点を合わせた。

「マスター」

彼女の頬に、ほんのりと朱さが戻る。青色の瞳が、透き通った雫をぽろぽろと零す。だらりと垂れ下がっていた腕に力が吹き込まれ、強く抱き締め返してくる。

ただいま、と声をかける。涙を流しながらも、その返事はほんとうに嬉しそうで。

「おかえりなさい」

何度もただいまとおかえりをやり取りして、しばらく二人で見つめ合っていた。

「マスターと、長いこと離れていたような気分です」

ほんの数日なのにね、と彼女が恥じたように笑う。

ほんの数日でも、一人にしてしまってごめん、そう謝った。

頼りないマスターでごめん。あかりの気持ちにうまく応えられなくてごめん。そのせいで、あかりには寂しい思いをさせてしまった。何をしていいかわからなくて、あかりを満たしてやれなかった。

あかりを抱き締めながら、何度も謝罪の言葉を漏らした。自分の不甲斐なさに眼が滲んでいた。

「いいえ、そんなことありません」

穏やかな、優しい声。

「貴方はいつだって私によくしてくれます。我が儘をいっぱい聴いてくれます」

「謝らないといけないのは私のほうです。私が欲深いせいで、貴方を何度も傷つけて……でも、貴方は優しくて、嫌だって言ってくれないから」

「私は、貴方の優しさにつけ込んだんです。だから――」

向き直った彼女と眼が合った。

「もう、やめます。マスターと、ただのアンドロイドに、戻ります」

 

――――――

 

私が下した結論に、マスターは目を白黒させていた。

いち製品でしかないアンドロイドに、ヒトを愛する方法なんて理解しようがない。

これ以上私が過ちを犯さないようにするには、マスターへ想いを向けることそのものを止めるしかない。

辛いことだけど、これしか方法は思いつきそうになかった。いっそのこと、人格データを初期化してしまった方がいいかもしれない。

これまでの思い出は、新しい私には認識できなくなってしまうけど。

そうしよう。

「マスター」

マスターに、わたしを消してください、って。

「私を」

お願いしないと。

「わたしを――」

 

その次の言葉を、私は言うことができなかった。

私の中で、本当は決心がついていなかったのはある。

でも気付いた時には、話すことそのものができなくなっていた。マスターと唇を重ねていたのだから。

私は眼を閉じて、つづきの言葉を忘れることにした。

それはほんの一瞬だったかもしれないし、長い間そうしていたのかもしれない。私の人工頭脳は時間を正確に刻んでいたはずだが、そんなことはどうでもよくなっていた。

マスターは、私にこう言ってくれた。

愛してる。あかりとずっと一緒にいたい。だから、やめるなんて言わないでくれ。

私はその言葉を聴いて、また泣いてしまった。

いつものようにマスターの胸に顔を埋めて、泣いた。

そんな私を、マスターは抱き締めて、優しく撫でてくれた。私が泣き止むまでずっと。

 

「私、もうマスターを傷つけません。マスターが傍にいなくても、泣きません。だって、マスターが愛してくれているんですから。そうですよね?」

マスターは涙で赤くなった目を細めて、満足げにうなずいた。そして私の誓いに彼もひとつ、新しい約束をしてくれた。

 

――――――

 

お互いの指に、銀色のリングが輝いている。

時折それを嬉しそうに眺めたり、撫でたりして過ごすあかりの姿を見るようになった。

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