午後5時。この時期になると外は既に真っ暗で、家々の明かりや車のヘッドライトがガラス窓を通して私に時刻を知らせるのだった。カーテンを閉める。もうしばらくすれば、マスターも仕事から帰ってくるはず。
思えばここ数日起きっぱなしで少し”眠気”を感じる(未だにマスターの寝顔を夜通し眺めるのは止められなかった)。家事も一通り終わったし、充電残量も減ってきているので、彼が帰宅するまでスリープモードに入ることにする。
1時間後に再起動するようタイマーを設定して自分をコンセントに繋げ、テーブルに突っ伏して目を閉じた。
再起動すると、もうすぐ6時半。いつも通りなら、時間に几帳面なマスターはそろそろ帰ってくる頃。
起き上がって玄関で出迎えを――と考えたところで、家庭用アンドロイドとしてあまりよろしくない発想がちらつき始める。
このまま寝たふりを続けたら、マスターはどんな反応をするか知りたくなってしまった。ただの悪戯心といえばそれまでだが、マスターをお世話するという最大の存在価値を放り出すことになってしまう。
いや、マスターだってあれから何度か私のお風呂に付き合ってくれたけども、未だに変に恥ずかしがって私のことをしっかり見てくれないし、もっと触ってほしいのになぜか遠慮してしまうし。おかげで何度、私がマスターの腕を捕まえて「もっとしてください」とお願いすることになったか。
それならば寝坊してしまって仕方なく、という体でマスターの困った様子を見てみるのもいいかもしれない。目を瞑ったままだから直接見ることは叶わないけど、私が拗ねて彼を直接困らせるという形はとっていないという言い訳はきく。
などと考えているうちに、玄関の扉が開く音がした。ただいま、というマスターの声。いつもの足音。間違いない。
もう出遅れてしまったので、このまま狸寝入りを決め込むことにした。照明のスイッチが入る、パチンという音。足音が近づくとともに、音波センサもマスターの接近を感知する。
珍しいな……とマスターの声。マスターってば、一人でいるときもよくつぶやいてるんですか?
彼の存在感が洗面所の方向に遠ざかる。マスターのいつもの行動パターンだが、まず手を洗って次はクローゼットへ向かう。私の後ろを通り過ぎて、衣擦れの音。着替え終えると、今度は台所に気配が移動する。
なんだか平然としているようで悔しい。早くも計画倒れになりつつある。
蛇口を捻って水を何かに注ぎ、コンロの火を入れる。やかんを火にかけたのだろう。戻ってくるとようやく私に近づき――隣に座り込んだようだった。マスターがどうしているのか確かめたかったが、薄目を開けて気付かれるリスクはとりたくなかった。
ただ、マスターが私の傍にいるということは伝わってくる。何を言うでもなく。スマートフォンを触っているのかとも思ったが、直後にごとん、という音がしたので、それはテーブルに置かれていることになる。部屋の中をぼんやり眺めているのか。
それとも、私を眺めているのだろうか。
ただ状況から推測したに過ぎなかったが、それを意識した途端に頭が熱を発し始めた。私は欲をかいてもう少し様子を伺うことにした。
そのうち、やかんがカタカタと音を立てる。マスターが立ち上がり、やかんのお湯を保温ポットに移す。そして台所でごそごそと何かを漁って――おそらくティーポットとマグカップ、それと買い置きの茶葉――それにお湯を注ぐ。
マスターが戻ってくると、テーブルにそれら”マスターのお茶セット”が置かれる音がする。段々と紅茶の香りが漂ってきた。マスターは抽出をほんの少し待って、愛用のマグカップにいつものごとく紅茶を並々と注ぐ。彼がそれを一口、音を立てて啜ると、部屋には再び静寂が戻った。いつもだったら、とりあえず夕方のニュースを観ようとテレビを点けているだろうに、それもしていない。
時折、家路を急ぐであろう足音や、車の音が外を通り過ぎてゆく。
マスターは何度かマグカップに口をつけて、あとはただじっとしている様子だった。単に本当にぼんやりするだけなら、マスターはPCデスクに向かって普段からよくやっている。それが、わざわざ私の隣に座って。寝たふりがばれてしまわないよう、自分の感情が顔に出てしまわないよう維持するのにそれなりのリソースを必要とした。
突然、ふわりと暖かい感触が私の頭に添えられる。マスターの手が、私の髪を愛でるように撫でる。
身体が熱くなる。まずい。顔が赤くなっているのもきっとバレてしまう。
そんな焦りを知ってか知らずか、マスターは髪を指で梳いてみたり、いつものように頭を撫でたりして私の心を騒めかせる。やめてくださいマスター、悪戯した私が悪かったですから。
耐えきれず、薄目を開けてみる。
静かに笑みを浮かべたマスターが気づいて、おはよう。疲れちゃった? と私に呼びかける。
「……いえ。おかえりなさい、マスター」
きっと、私のささやかな企みはとっくにお見通しだったのだろう。マスターはポットを手にして立ち上がると、新たにティーバッグを入れてお湯を注ぐ。そして私のマグカップも持って、また隣に腰を下ろす。
こぽこぽ、と音を立ててふたつのカップにお茶が注がれる。マスターの好きなダージリンの香りがふんわりと広がる。
二人して湯気を立てるそれに口をつけた。
マグカップがふたつ、テーブルに並ぶ。彼は白色。私は黄色。
マスターは私に、たまには紅茶もいいだろうと言わんばかりだった。きっといつかの仕返しのつもりで。
その顔を見て衝動的に、私は彼の頬に手を添えて唇を重ねた。悪戯してごめんなさいと言わなければならなかったのに、なぜそうしたのかは私にもよくわからなかった。
あの時の私が、マスターにコーヒーを勧めたくてそうしたのではないことは確かだった。
「マスターは、私がいて幸せですか?」
不意を突かれたマスターは流石に驚いていたものの、そのうち破顔して、勿論、と答えてくれた。
「私も」
力いっぱい抱き着いて、彼の胸板に顔を埋める。
紅茶の香りと、マスターの香り。
機械の私が願い事をするのは変かもしれないけど、これからもずっと、私の好きなものに包まれていられますように。