マスターとわたし   作:RIM_Standard

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初出:Pixiv 2023年10月11日


歩いて、またひとつ約束して

ふたつの影が轟音を響かせながら頭上を通り過ぎる。それは海の向こうへと一直線に、余韻を残しながら空一面に立ち込めた雲と溶け合ってゆく。

風車がいくつも立ち並ぶ海岸線を、人気のない展望台から望む。そこに吹きつける風が、銀色の長い三つ編みをぱたぱたとひらめかせている。

防風林の隙間から覗く砂浜と鈍色の海を、二人で立ち並んでただ眺めていた。

「さすがにちょっと寒すぎましたね」

あかりがはにかんだ。雲に覆われた空は差し込む日差しをいくぶん弱めていたが、その下でも黒いタータンチェックの真新しいマフラーが、銀髪とのコントラストを強調して輝かせていた。

コートのポケットに突っ込んだままだった手をあかりに差し出すと、それを彼女はそっと握った。人工皮膚の表面は冷たかったが、その芯からじんわりとした熱が伝わってくる。

「冬の海、見てみたかったんです」

どうして、と訊く。

「今ならわかる気がして。何かを見て、綺麗だとか、楽しいとか、悲しいとか」

そう話しながら、彼女の青い瞳は灰色が混ざり合って曖昧になった水平線をじっと見据えている。

「……はっきり理解できた、とは言えません」

その声色は暗くはなかった。あかりがこちらを向いて言う。

「でも、マスターがいてくれるから寂しくないんだ、というのはわかりました」

自分にとっても、この景色を独りで見るのはあまり楽しいことではないだろう。目の前の存在が、何かをする気にさせてくれる。そういう点では自分もすっかり離れられなくなってしまったな、と思わされた。

「また風邪を引いちゃう前に戻りましょう」

そう言って彼女が手を引く。展望台を降り、がらがらの駐車場へと戻った。

 

暦の上ではもうすぐ春というところ。

次の演奏会に向けて曲目も出揃い、本格的に練習が始まっている。

いよいよもって忙しくなる前に埋め合わせとして、あかりと少し遠くまで出かけている。

平日に休みをとっただけあって、道路も店も空いていた。遅めの昼食に寄った蕎麦屋で、自分は天ぷら蕎麦を、あかりはかつ丼を食べた。とんかつ一切れと海老天を交換した。

店を出て腹ごなしに、溶けかけた雪の残る街をすこし歩いた。山間のひっそりとした温泉街だが、歩道は石畳で綺麗に整備されている。点々と並び立つ古めかしいデザインの街灯が、周囲を照らすときを今か今かと待っていた。

観光客の姿もまばらだったが、まったくの無人というわけでもない。時折、すれ違う人の視線を感じたような気がしたが、それだけだった。

折角の温泉地ではあるが、あかりを待たせてしまうので温泉には入らない。ただ歩いて、街を見て周った。その中に小さな博物館を見つけたので入ってみる。受付の老人はあかりをアンドロイドだとは気付かなかったようで、二人分の入場料を請求された。訂正する必要性も感じられなかったのでそのまま支払った。あかりが裾をくいくいと引っ張る。手を差し出すと、やや強めに握り返してきた。周囲に人気はない。

館内はやや薄暗く、スポットライトのぼんやりとした光がショーケースを照らしている。この地域の歴史を解説したパネルや、百年以上前に使われていた生活道具が当時の暮らしぶりを伝えている。

手を繋いだまま、順路を進んだ。春の祭りで使われる山車が数台展示されている。実際に使用されているものを、持ち回りでここに置いているとのことだった。自分が説明を読む間中、あかりはもたれかかるように身を寄せてきた。展示物にはあまり興味がないらしい。

ひととおり見て周ったので、博物館を出た。冷たい風が吹き抜ける。暖かくなるにはまだ日を要するだろうか。

近くのカフェで持ち帰り用のコーヒーを買い、歩きながら少しずつ啜った。コーヒー自体は今でも好きというわけではないが、その時はなんとなくそれを選ぼうという気になった。あかりも両手を温めるように紙コップを抱えてときどき口をつけていたが、それよりも満足げな笑みを浮かべてこちらを見ていることの方が多かった。彼女がその理由を口にすることはなかったが。

そして二人して空にした紙コップを片手に、空いている手でお互いの温もりを感じながら宿へと歩いた。ところどころ、街灯の明かりがともり始めていた。

 

――――――

 

前日と打って変わって、眩しく輝く太陽が冷えた空気を温め始めていた。

高速道路も使わず、出勤ラッシュが終わった下道を急ぎもせずに走る。あかりは解いたマフラーを膝の上に置いたまま、ふだん見る機会の少ない朝の街の様子を、ぼんやりと眺めているように見えた。

並木に挟まれた通りを、トラックや営業車らしき車が行き交う。人々が活動を始めている時間。

「この前のこと、怒ってますか」

あかりがこちらの様子を伺いながら口を開いた。

この前のことと言うと、彼女が珍しく悪戯を企んだときのことだろうか。あかりがスケジュールや段取りを間違えることはないので、近くで見たときにすぐわかった。

自分に”何か”をしてほしかったのだろう、とその時は理解した。彼女の期待に応えられたかどうかはわからないが、嬉しそうな様子だったことははっきり覚えている。

怒ってもいないし気にしてもいないよ、と返事をした。それを聞いたあかりはにっこり笑う……のではなく、むすっとふくれっ面を見せていた。

「嘘。だってマスターから全然してくれないじゃないですか」

何を?

「……」

自分が思っていた話とは違ったらしい。謝って、何について話しているのかを問いただすと、

「……この前、勝手にキスしたこと」

と、おずおずとした答えが返ってきた。

「マスターにとって、どうでもいいタイミングでしちゃったのかなって。もっとロマンチックな瞬間にすべきだったのかなって思って」

正直、自分も照れくさかっただけにあまり考えすぎないようにしていたことだった。いつすべきだとか、そもそも必要なのかという事さえ考えたこともなかった。

「本当はもっとして欲しいです。ナデナデや、ハグと同じぐらい」

言葉とは裏腹に、あかりはそっぽを向いている。その頬が赤く染まっていた。

この前のことは驚いたものの、それ以降一度も彼女からねだられなかった。ましてや自分から誘うこともなかったが、これは単に自分が恥ずかしかっただけだ。

でも、あの時が特別な瞬間だったと思う自分もいた。お互いの気持ちを確かめ合えたのだから。だから自分にとってこれは、おそらく特別な事なのだと考えていたように思える。

そのことをあかりに伝えたが、すぐに少し後悔した。なぜなら――

「それなら、マスターが特別だと思うときにしてください。私、待ってますから」

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