「いらっしゃいませ! ご予約のお客様ですか?」
ハキハキとした声の、よく見知った顔に出迎えられた。エプロンをまとい、長い髪を後ろでひとつにまとめている。
「19時の二名様ですね、席へご案内しま――わお」
そして自分の背後に立つ連れに目をやって、その動作を一瞬止めてつぶやいた。
「……わたしだ」
眼をぱちくりさせて驚いた様子だったが、すぐに「こちらへどうぞ!」と明るい声を取り戻し、奥まったテーブルへと案内する。
平日の、それも早めの時間に予約したかいあって客入りはまだ少なく、有線放送がささやかに店内を賑やかしていた。
それだけに彼女の声はよく響いた。そして店主の声も。
「おとうさん! わたしが居る!」
「こら! お客さんに聞こえるだろ!」
くすくす、と抑えた笑い声がどこからか上がる。初めて入る店だった。会社の同僚に教えてもらったもので、そこにアンドロイドが居るかどうかなんてまったく考えになかった。
この店は紲星あかりが給仕をしている。
自分の向かいに座ったあかりは、この店の紲星あかりを見てからずっと、居心地の悪そうな態度を続けていた。
しまったなと思った。彼女を連れてこの店に入るべきではなかったかもしれない。
やめておくかとあかりに訊いたが、彼女は「マスターが予約してくれたのに」と、マスターである自分以外は二の次という姿勢を崩すこともなかった。
紲星あかりが各々の目の前に水の入ったグラスを静かに置くと、あかりに向かってメニューを手渡す。
「どうぞ、わたしから私へ。精一杯おもてなししますから、どうかマスターさんと料理を楽しんでいってください」
あかりがおずおずとメニューを受け取る。紲星あかりはにこりと笑って、こちらにもメニューを差し出した。
「今回は席のみのご予約ということですので、こちらのメニューからご注文ください。……わたしたちを選んでくださって、ありがとうございます。どうぞ、あなたの紲星あかりとごゆっくりお過ごしください」
そう言って、紲星あかりが恭しく頭を下げる。
あかりの方はというと、先程よりは多少落ち着いているようにも見えたが、内心穏やかではないのだろう。以前に結月ゆかりと遭遇した時もそうだったが、彼女自身、他のアンドロイドと喜んで接したがる質ではないように思える。
やめよう。また別の店を探せばいいじゃないか。そう思って席を立とうとしたが、給仕の紲星あかりがにこりと笑った姿も目に焼き付いていた。
少なくとも、彼女は(そしてこの店は)自分たちのことを歓迎してくれている。あかりに対しても。
自分たちが途中で席を立つことで、あかりと同じ顔を悲しませることを嫌でも想像してしまった。
「マスター」
おそらく考えが顔に出ていたのだろう。あかりの声が自分を現実に引き戻した。
「注文、しましょう」
彼女はそう言ってベルを鳴らす。元気のいい返事とともに紲星あかりが伝票を手に現れると、あかりがメニューを指差しながら、サーモンのマリネと、マルゲリータと、炭酸水を注文した。
「追加はあとで考えます」
「かしこまりました!」
給仕の紲星あかりがぱたぱたと厨房へ駆けてゆく。
「マスターは――」
メニューを閉じ、スタンドに差し込む。
「あんな風に、明るい私のほうが良かったですか?」
そんなことはないとすぐに否定した。彼女は寂しげな笑みを浮かべている。
「私たちといえば、あの子の方がそれらしいでしょうから。私ではなく」
軽やかな足取りで料理を運び、輝くような笑顔を振り撒く姿。時折、客と冗談を交わしたり、店主の小言に軽口で返事する。
そんな紲星あかりを、紲星あかりが眺めている。
彼女は自らの性格にコンプレックスを抱いているのだと、これまでの付き合いでなんとなく感じていた。
あかりは自分に対してだけ、明るく元気のあるところも勿論見せてくれる。しかし、どんな相手とも親しく接することのできる、紲星あかりのステレオタイプから外れているのは間違いなかった。
口調を切り替えられなかったことも、未だに気にしているかもしれない。
そんな彼女が、目の前にいる”なれなかった自分”を見ているのだとしたら。
「お待たせしました」
紲星あかりがお盆を持って現れた。マリネが盛られた皿と、ワイングラスが目の前に置かれる。
ボトルから注がれた炭酸水が、囁くような音を立てる。無色透明の液体を通して見るあかりの姿は、弾ける泡のせいでゆらめいていた。
「あのう」
あかりがジェラートの器を空にした頃、給仕の紲星あかりがこちらの様子を伺うように声をかけてきた。
「おふたりは、長いんですか」
どれほどを過ごせば”長い”となるのかよくわからなかったが、あかりを迎えて2年はとうに過ぎたことを伝える。このことを聞いて、紲星あかりは「へーっ!」と随分わかりやすい反応を返した。
「わたしも、ここに来てだいたいそのぐらいになるんです。同期、ってやつですかね? こっちの私は、優しくしてもらってますか……って訊くまでもないですよね。だって私たちを連れて、うちに食べにくる人なんて見たことないので」
そちらも、この店の主人とは仲が良さそうだと伝えると、紲星あかりは頬を膨らませて答えた。
「とっても厳しいんですよ! お父さんには料理をちょっとずつ教えてもらってるけど、あーでもないこーでもないって毎回……」
「こら。お客さんにあんまり変なこと言うんじゃないよ」
コック帽を被った店主が、紲星あかりの背後から現れる。
「うちのあかりがすみません。これ、お土産です。あぁ勿論、これのお代は結構ですよ」
店主はそう言って、小さめのワインボトルと紙袋をテーブルに置いた。
「うちにアンドロイドを、それも紲星あかりを連れて来てくれたお客さんは初めてです。これも何かの縁と思って」
あかりをここに連れてきたのはまったくの偶然だからと断ったが、「まぁそう言わず」とかなり強引に手渡された。
「うちの味をいろいろと教えてるんですよ。いつかはあかりにも調理を担当してもらうつもりでいます」
ここの料理は確かに美味しかった。最初はあかりと二人して静かに食べていたのが、何だかんだで色々と追加してしまったのだった。それを聞いた店主は満足げにうなずいた。
「お父さん、注文」
「あいよ。それでは、ご来店ありがとうございました。また来てくださいね、その子も連れて」
――――――――
寝苦しさに目を覚ます。身体が重い、というよりは重いものが身体に乗っている。
「起きちゃったんですね。マスター」
パジャマ姿のあかりが自分の上に跨っていた。両手をついて覆い被さる。解かれた長い髪がカーテンのように降り、暗闇が彼女で埋め尽くされる。
「私、ずっと考えてたんです。マスターが私を愛してくれることに、私がマスターを愛することに意味があるのか」
「私はあとに何も残すことができない。貴方と一緒に居た証を、かたちとして残せるものがないんです」
「私は貴方を愛しています、マスター。世界中の何よりも。マスターは、マスターは私を愛していますよね?」
あかりの頬に手を添えて、勿論、愛していると伝えた。その手をあかりが掴む。
「マスター。私、証が欲しいです。貴方との愛を証明するものが欲しい。私がマスターとずっと一緒にいられるように。マスターが私から離れていかないように」
手首が痛いほどに締め付けられる。掴んでいる手に、明らかに力が入っている。離してくれと頼んだ。
彼女はその言葉を無視した。身体を起こして両手が自由になると、あかりは掴んだままの手を、その両手で包み込んだ。そして、指が熱く湿った感触に覆われたかと思うと――
思わず呻き声を上げた。
ぎりぎりと鈍い痛みが延々と続いた。
手を動かそうにもびくともしないので、歯を食いしばって耐えた。
あかりは満足するまでこの手を決して離そうとしなかった。
部屋の明かりを点けて、指の状態を確かめた。指の根元に、くっきりと歯形がついている。血が滲んでいた。
あかりは唇についた血を舐め取って、口だけでにっこりと笑った。目はこちらをただじっと見据えていた。
「マスター、明日に障ります。寝ましょう」
そう言って、誘うように両手を広げる。
あかりはその晩ずっと、薬指にできた傷跡を嬉しそうに撫でているのだった。