前編
……
目の前に置かれた名簿には、見慣れない異国の人名が所狭しと並んでいた。
オルクセン陸軍省の人事部に勤めるフェリックス・ホフマン少佐は、名簿から視線を外すと、本日何度目かわからない伸びをした。オーク族特有の短い首をぐるぐると回した後、ホフマンは恨めしそうな目つきでデスクに載った名簿の束を眺める。
それは、オルクセン王国陸軍に新たに編成されることになった、ダークエルフ騎兵を中心とした旅団―――非公式に”仮称ダークエルフ旅団”の名で呼ばれていた―――への所属が予定されている兵士達の名簿だった。そして、彼はちょうど、今日の業務が始まってから三十個目の
「少佐。ホフマン少佐」
再び名簿の束に取り組もうとした矢先、開け放っていたドアをノックする音とともに彼を呼ぶ声がした。ホフマンが顔を上げると、彼の視線の先には隣の部署に務める同期の少佐が立っていた。ホフマンが気づいたのを認めると、同期は右手で手招きする仕草を見せた。その手にも、ホフマンがにらめっこしているのと同じような紙の束が握られている。
ホフマンは嘆息すると、デスクの脇に置いてあった眼鏡をかけながら立ち上がり、同期のもとへと近寄った。
「またか。今度はどうした」
ホフマンと同じオーク族ながらかなりの長身であるこの同期は、いつものようにホフマンを見下ろすような格好で、手に持った書類を差し出してきた。
「何度も悪いな。山岳猟兵連隊の住民名簿がようやく出来上がってきたんだが、その中にいくつか怪しいやつがあってな」
ホフマンは無言で同期が差し出した名簿を読み込む。この長身の少佐が務める部署では、ヴァルダーベルクに建設中である仮宿営地において、誰がどの宿舎に住んでいるのかを管理するための住民名簿を作成していた。そしてしばしば、住民名簿にスペルミスがないかを、部隊の名簿を管理しているホフマンの部署に―――たいていはホフマン本人に―――尋ねにくるのだった。
「怪しい」スペルのいくつかは問題ないもので、残りのいくつかは実際にスペルが間違っていた。名簿をめくりながらそれを順に指摘していったあとで、ホフマンは改めて名簿の一枚目に目を通した。そして、俄かに目を見開いた。
「おいおい、最初にもスペルミスがあるじゃないか。いいか、
「なに? ……本当だ。なんで気づかなかったんだ」
ホフマンが持った名簿を覗き込むような恰好で、隣の部署の同期は眉間に皺を寄せた。その同期に名簿を返しながら、ホフマンは肩をすくめる。
「まあ、確かにëはレアだからな。間違えたとしても別に不思議じゃないさ」
そうホフマンが声をかけると、同期は納得したような表情を浮かべた。
「そうか。毎度ながら博識で助かるよ」
「やめてくれ、持ち上げ過ぎだ。何度も言ってるが、俺はアールヴ語は専門外なんだぞ」
「分かってる分かってる、頼りにしてるからな」
ホフマンの肩を軽く叩きながら軽い調子でそう言い残すと、隣の同期は去ってしまった。
今度はホフマンが顔をしかめる番だった。仕事で必要だから、仕方なく慣れないアールヴ語人名と向き合っているだけなのだが、気づけば周りの人間は彼のことを専門家扱いするようになっていた。それがなんとも居心地が悪い。
なにせ、アールヴ語のスペルはある程度わかるようになってきたものの、発音の仕方までは習得していないのだ。さっきの山岳猟兵連隊長の名前だって、低地オルク語の発音で「エレンヴェ」と読んでいたに過ぎない。正しい発音が「エレンウェ」であることを彼は知らなかった。
まったく、なんでこんなことになってしまったんだ……。そんなことを考えながら、ホフマンは自分のデスクへ戻って、重たい身体をどっかりと椅子に沈めた。そして、眼鏡を外してデスクの右端に置くと、デスクの左側に積み上がった書類の山の奥から、一枚の紙切れを引っ張り出した。それは、仮称ダークエルフ旅団の幕僚陣に内定している人員の名簿―――の精巧な写しだった。
達筆で、他人の筆跡を真似るのが上手い部下に頼んで作らせたそれを、ホフマンはじっと見つめる。旅団長を務める予定の人物が直々に書いたとされるこの名簿には、旅団を構成する騎兵連隊や歩兵連隊、砲兵大隊などの指揮官の名が、流れるような美しい筆跡で記されていた。
独特な異国の雰囲気を纏った筆記体の羅列を、ホフマンは妙な感慨と共に眺めていた。何故なら、この名簿こそが、数週間前から今まで続くこの“騒ぎ”を引き起こした元凶と言ってよいものだったからだ。
* * *
数週間前、陸軍省人事部はまだいたって平和だった。その時は、ホフマンが隣の部署を訪れて、長身の同期と世間話をしていた。話題は当然、隣国エルフィンドから脱出してきたというダークエルフ族と、そのダークエルフ族達によって編成される旅団のことだった。
なにせ、およそ八〇〇〇名からなる一個旅団を今から新しく編成するのだ。編成に伴う実務のほとんどはダークエルフ族自身が担うことになっていたが、名簿の作成と管理、被服や装備の供給、軍馬の調達など、陸軍省が行うべき仕事は山ほどあった。
そして、ホフマンのいる部署は名簿や任官の書類作成を担当することになり、同期がいる隣の部署はダークエルフ族が入居する仮宿営地の管理を行うことになっていた。
「しばらくはお互い忙しくなりそうだな」
同期のデスクにもたれかかりながら、ホフマンは煙草に火をつけた。同期は苦笑とも失笑ともつかない笑みを浮かべ、煙草を燻らせていた。
「そうだな。これを見てくれよ。もう
「ほう」
ホフマンは煙草を咥えたまま、同期が差し出した書類の束を受け取った。そのまま、ぱらぱらとめくってみる。
「そちらさんは仕事が早いな。これで全部?」
「まさか! それは先行で送られてきた分だよ。司令部要員と騎兵連隊の一部だそうだ」
「それでこの量か! これは骨が折れるな」
ホフマンが大袈裟に驚いた仕草をすると、長身の同期はケラケラと笑った。実はこれと似たようなものを先ほどホフマンの部署も受け取っている。ただし、ホフマンが扱うのは旅団に所属する約八〇〇〇名分であるのに対し、ヴァルダーベルクに入居するのは軍に属することを望まなかった者も含めた一二〇〇〇名に上る。単純な量で言えば、同期の部署の方が上だった。
「まあお互い頑張るとしよう。そっちは名簿だけじゃなくて辞令交付だってあるんだろう?」
煙草をふかしながら同期がそう言うと、今度はホフマンが唸る。
「ああ、腕が鳴るよ」
そうして二人は声を上げて笑った。来るべき大仕事を前にして気が引き締まるのは事実だったが、むしろ楽しみに思う部分も少なからずあった。なにせ、部隊の再編などではなく、全くの新規から一個の旅団を編成するというのは、滅多にない大仕事なのだ。いくら長寿命のオーク族といえど、このような仕事に巡り合えるのはある意味幸運とも言えた。
そんなことを考えながら、ホフマンはまた名簿を眺めた。その時、急にホフマンの顔から笑みが消え、眉間に皺が刻まれた。
「どうした?」
ホフマンの様子に気づいた同期が声をかけてくるが、ホフマンは返答する代わりに、咥えていた煙草を同期のデスクに置かれた灰皿に突っ込んだ。その間も、彼の両目は名簿の中のある一点に釘付けになっていた。
「ちょっと待ってろ」
「おい?」
それまで握っていた名簿の束を同期の手に押し付けたホフマンは、言うが早いか、足早に立ち去ってしまった。一体どうしたんだ、と同期が煙草を燻らせながら名簿をぱらぱらとめくっていると、すぐにホフマンは戻ってきた。今度はその手に、別の名簿を握りしめている。
「これはさっきうちの部署に届いた名簿だ。ここを見てくれ」
ホフマンはそう言って、自分の持ってきた名簿を同期に突き出した。同期はそれを覗き込む。彼が持ってきたのは、仮称ダークエルフ旅団の士官に任命される予定の人員の名簿で、氏名と階級、役職、出身地などの項目が書かれていた。彼はその中の、一つの名前欄を指差していた。そこには、手書きの文字で“Iavasril Ainalind“ という名前が書いてある。
「さっきのやつは?」
ホフマンに言われるがまま、同期は先ほどの名簿を取り出す。こちらはヴァルダーベルクの居住地の住民名簿で、氏名と居住する区画名、詳細な番地名などが書かれていた。
「ほら、これだ」
ホフマンはその中から、同じ名前を見つけ出した。いや、完全に同じではない。住民名簿に書かれていた名前は、“Javasril Ainalind“ となっていたのだ。
「
「ああ、なんとなく怪しい気がしたんでね」
感心した様子で言う同期の横で、なんでもない風に言ったホフマンは、ポケットから新しい煙草を取り出して火をつけた。
「で、どっちが正しいんだ?」
同期が視線をこちらに向けてくる。ホフマンは同期の方をちらりと見ると、胸いっぱいに吸い込んだ煙を盛大に吐き出した。
「知らんよ。俺だって知りたい」
首を振りながらホフマンが言うと、同期は目に見えて狼狽えた様子を見せた。
「何? じゃあ、どうすればいいんだ」
同期が不安がるのも無理はなかった。彼らが慣れ親しんだ低地オルク語の氏名だったら、スペルミスを見つけて修正するのはそれほど困難ではなかった。しかし、ダークエルフの氏名は話が別だ。慣れていない以上、何が正解かわからないのだから。
ホフマンは煙草をもう一服すると、落ち着いた口調で答えた。
「どうするも何も、名簿の原本を確認するしかないだろう」
「原本?」
「ああ、うちの課長が管理してるやつだ」
首をかしげる同期に向かって、ホフマンは煙草を持った右手で部屋の外を指すような仕草を見せた。
ホフマンの上司が持っている『名簿の原本』というのは、ダークエルフの氏族長が書いた、仮称ダークエルフ旅団の人員リストだった。各部署はこの手書きの原本をもとにそれぞれの名簿を作成しているはずだった。
自分の課に戻り、所定の手続きを経て上司から名簿の原本を借りてきたホフマンは、また同期のデスクで原本を広げて突合せを始めた。例の名前はすぐに見つけることができた。
「これだこれだ。……こりゃ”I”が正解みたいだな。どう思う?」
「……うん、これは”I”だろうな。ただ、”J”と間違えた気持ちもわからんではないな」
ホフマンと同期は、一緒に原本をのぞき込みながら頷き合った。
そもそも、筆記体のIとJはその形がよく似ている。そして、ダークエルフの書き癖をオーク達が見慣れていないというのもあっただろう。それに加えて、低地オルク語の単語や人名には、”Ia-”から始まるものは珍しいのに対し、”Ja-”から始まるものは多数ある、という事情もあった。これらの要因が重なった結果、アールヴ語に馴染みのない担当者が読み間違えてしまった、という可能性は十分に考えられた。
「しかし、これは骨が折れるな。いちいち原本と突き合わせないといけないのか」
ぱらぱらと原本をめくりながら、同期が嘆息する。ホフマンは肩をすくめた。
「ああ。しかし、やらんわけにもいかないだろう。陸軍の名簿に間違いがあっちゃいかん」
「それはそうだ」
ホフマンの言葉に、同期は深く頷いた。彼らは栄えある陸軍省で働くことに誇りを持っていた。そして、よりにもよって軍の名簿や辞令に間違いがあったとなったら、それは陸軍省の名折れだ、と考えていたのだ。
「ただな、これは先が長くなりそうだぞ」
渋い顔をしながら、住民名簿を眺めていたホフマンが言う。名簿を何枚かめくってみただけで、さっきの"Iavasril"の他にもいくつかの相違点があるのを見つけたのだ。この調子だと、名簿全体を精査した時に、いったい何個のスペルミスが見つかるのだろう。考えたくもなかった。
そんなことをしていると、同期の部下にあたるドワーフ族の大尉が声をかけてきた。
「少佐。新しい名簿が届きましたよ」
大尉はそう言うと、手に抱えていた書類の束をどさりとデスクに置いた。ホフマンや同期が見ていた名簿と比べて、厚みが一・二倍程度ある。書類の一番上に書かれた文字列を見れば、それが別の騎兵連隊の名簿であることが分かった。
ホフマンと彼の同期は、言葉に詰まり、どちらからともなく顔を見合わせた。当然だが、新しい名簿が増えれば、その分追加で確認作業が発生する。
その上、軍で使用する名簿や書類は、彼らが見ていた士官用名簿や住民名簿だけに留まらない。用途に応じていろいろな種類の名簿を作成するのが普通であるし、それとは別に、任官や備品の調達のためには専用の書類が必要だ。それらすべてで、今やったような姓名のチェックが必要になる可能性があるのだ。
ホフマンは、手に持った名簿の重さが、急に数倍に増えたように感じた。
(続く)
※注:本文中に登場したダークエルフ人名のスペルは、エルフ人名の一覧やシンダール語人名の命名ルール、および英語ーシンダール語辞書などを参考に作成したものです。
(シンダール語:トールキンによって作られた人工言語で、『指輪物語』に登場するエルフが使う言語のひとつ)
原作のカタカナ表記に基づき、なるべくシンダール語人名の命名ルールに沿うようにしたつもりですが、一部逸脱してしまったものや、語源が分からなかったものもあります。あくまでも非公式ですので大目に見てください……。
(有識者の方、もしご指摘があればコメントを頂けますと幸いです)
※2025/03/11 修正: 「人事局」→「人事部」 原作に合わせて表記を改めました。