陸軍省のとある一日のお話です。
ダークエルフの氏名に起因する様々な混乱が落ち着いてきた頃、気づけば三月は残り数日を残すのみとなっていた。
「いたいた。おいフェリックス、調子はどうだ? 大活躍だったみたいじゃないか」
そんなことを言いながらホフマンのデスクにまでやって来たのは、お馴染みの同期であるのっぽの少佐だった。ホフマンは作業する手を止め、同期の方へ笑みを向けた。
「おお、久しぶりだな。なんだ、世間話をしに来れるほど暇ができたのか?」
ホフマンの言葉に、のっぽの同期は声を上げて笑った。
「言うねえ。でも、その様子じゃ、そっちも落ち着いたみたいだな? お互い大変だったな」
「まったく、どこかの誰かさんが大量に仕事をくれるお蔭でな?」
ホフマンがわざとらしく圧のある視線を送ると、自身もホフマンにスペルチェックを依頼していたこの同期は、「ぎくっ」と言いながらわかりやすく視線を逸らした。そして、二人して声を上げて笑い合う。
「まあ、暇というにはほど遠いが、だいぶ余裕ができたよ。そっちはどうなんだ?」
ホフマンが聞くと、同期は肩をすくめながら言った。
「こっちも、ホフマン大先生が作って下さった『氏名一覧』のおかげで、なんとかなってるよ。
「大先生はやめてくれ。でも、順調そうならよかった」
ホフマンの言葉を聞いて、同期は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「まあな。被服部とかの連中に比べたら、よっぽどマシだ」
それを聞いて、ホフマンも思わず苦笑いしてしまう。
旅団編成はなにも名簿や書類上だけの話ではない。旅団に必要な物資の供給を受け持った陸軍省や参謀本部の各部門は、人事部に負けず劣らずの忙しさを誇っていた。
中でも、陸軍管理局の被服部や、その管轄下の被服廠は、八〇〇〇名分の軍服や軍靴の製造を受け持つことになったため、先月からずっと目が回るほどの大忙しだった。特に軍靴を製造する革工部の負担が大きいようで、近頃では、市井の職人まで動員しているにも関わらず製造が間に合わない、といった悲鳴じみた話がホフマンのところまで漏れ聞こえてくるほどだった。
ホフマンがそんなことを考えていると、のっぽの少佐が思い出したように言った。
「そういえば、このまえ参謀本部の兵站局にいる友達と話したんだが、あそこの連中も今月はかなり忙しかったらしいぞ」
「兵站局? ああ、ヴァルダーベルクへの物資輸送か。あちらさんもご苦労なことだ」
旅団の物資、例えば小銃や砲、それらの弾薬などの調達は、参謀本部の兵站局が請け負っていた。てっきりホフマンはその話だと思っていたのだが、同期の話はどうやら少し違うようだった。
「いや、それもそうなんだが。ほら、先週、師団対抗演習があっただろう? 首都大演習場で。その準備が旅団編成の作業にもろに重なっちまったみたいでな。なんでも、第七擲弾兵師団の輸送とかもあったらしいじゃないか。その辺の調整が大変だったって、その友達がぼやいてたよ」
「第七擲弾兵師団? 北部軍か」
ホフマンはぴくりと左の眉を上げた。第七擲弾兵師団といえば、北はエルフィンドとの国境近く、メルトメア州の州都ラピアカプツェに駐屯している部隊だ。
「そうそう。なんだ、知らなかったのか。ほら、この前シュヴェーリン上級大将が北から
それを聞いて、ホフマンの眉間に皺が刻まれる。
「ちょっと待て。北部軍司令が、首都の師団対抗演習を見に来たって?」
「ああ、そう聞いたよ」
同期が頷くので、ホフマンは腕を組んで考え込んでしまった。ただの師団対抗演習に、わざわざ北部軍司令官が出張ってくる? しかも、演習に参加した師団は、国境近くの部隊ときた。これが意味していることとは……?
ホフマンが一人で難しい顔をしていると、のっぽの少佐は何かを思いついた表情を浮かべた。
「演習で思い出した。面白い話があるんだ。聞いたところによると、今回の演習はだいぶ『豪華』だったみたいでな」
「豪華、というと?」
「びっくりだぞ。なんと、ゼーベック上級大将以下、参謀本部のお歴々がほぼ勢揃いだったって話だ」
ホフマンの眉間の皺が深くなる。いよいよもって、この演習は
ホフマンが口を開きかけた時、同期が右の人差し指を立てながら続く言葉を口にした。
「まだあるんだ。これは、あくまでも噂なんだが……」
そう言うと、同期はその大きな背をかがめ、声のトーンを一段下げた。
「……演習の参加者の中には、仮称ダークエルフ旅団の将校たちも入ってたらしいんだ」
今度こそ、ホフマンは思わず天を仰いでしまった。その噂が本当だとすれば……。
「……やる気か、
「確証は持てないが、俺もそう思うよ。ただの演習にしては、面子があまりにも本気すぎる」
ホフマンは唸った。確かに、参謀本部というのは、平時のうちから有事を想定して戦争計画を作成することを主だった業務とする部署ではある。だが、仮想敵国と接している国境付近の部隊やその上位に位置する軍司令官を演習に呼んだり、その仮想敵国から亡命してきたばかりの将校陣にもその演習を公開するというのは、参謀本部が何かの強い目的をもって動いていると考えるには十分な材料だった。
―――エルフィンドとの戦争は、思ったよりも近い。
ホフマンがそう考えたのは、無理もなかった。
「……この話、陸軍省内ではどれくらい広まってる」
ホフマンが同期に顔を寄せて囁くと、同期は背をかがめたままで答える。
「まだあまり。でも、遅かれ早かれみんな気づくだろう。そのうち演習の講評も出てくるだろうし、それに、ある意味既定路線だしな」
「まあな。しかし、やっぱり去年の暮れから潮目が変わった感があるな」
ホフマンがそう言うと、同期は黙って首肯した。そして、かがめていた背を伸ばすと、今度は打って変わって明るい声を出した。
「まあ、噂は噂だ。そんなこともある、程度に思っておいた方がいいぜ。本当に戦争をするって決まったわけじゃないからな」
ホフマンは鼻を鳴らす。確かに、開戦が確定したわけではないし、また、事態が開戦直前まで進行してしまったとしても、外交努力によって開戦を回避できた事態もあるのだ。
「備えあれば憂いなし、ってことか。さすがはうちの軍だねえ。……にしても、毎度毎度よくそんな噂を聞きつけてくるな。その演習の詳しい内容とかも知ってたりするんじゃないのか?」
ホフマンが半ば感心しながらそう言うと、のっぽの少佐は半笑いでかぶりを振った。
「まさか。流石の俺でも、軍機に首に突っ込むような真似はしないさ。危ない橋を渡る趣味はないからな」
そう言うと、同期の少佐は一息ついた。
「まあ、一つ言えるのは、何が起きても大丈夫なよう、俺たちも備えをしておくことだろうな」
「違いない」
ホフマンは大きく頷く。ひとたび戦争が始まれば、直接戦闘に関わることがない人事部とはいえ、今月の比ではないほどの忙しさになることは明白だ。
予備役の呼集に始まり、戦傷者の配置転換、戦死者の除籍作業、損耗した部隊の補充のための人事異動、障害年金や遺族年金の処理に、戦勲を挙げた者への勲章・名誉章の授与や昇任人事、または懲戒の対象になった者の降格人事など……。ざっと思いつく業務を並べただけでも、片手で足りないほどの仕事がある。
今の仕事が一段落したら、部下の二人には長めの休暇を取らせることにしよう。口には出さなかったが、ホフマンはこの時そう決心した。
「そういえば、今は何をしてたんだ? 掃除中か?」
のっぽの同期が思い出したようにそう言って、ホフマンは作業中だった自分のデスクに視線を戻す。旅団の名簿作成の混乱が広まるにつれて、ホフマンのデスクの上は荒れ放題となってしまっていた。今となっては、最低限の書きものができるスペースを除いて、大量の書類や羊皮紙の束で埋めつくされている。
「ああ、流石にそろそろ綺麗にしておこうと思ってね」
ホフマンはそう言いながら、まとめておいた紙きれの束を床に置いた廃棄用の箱に突っ込んだ。その箱は、作成済みの名簿の下書きなど、不要になった書類ですでに半分ほどが埋まっていた。
「へえ。さすが、几帳面だねえ……。この本は?」
のっぽの同期は、ホフマンがどかした書類の山の下から、埋もれていた一冊の本をつまみ上げた。古臭い装丁で、表紙には低地オルク語で「現代アールヴ語解説」という題が書いてある。
「アールヴ語の教科書だよ。古本屋で見つけて、ダークエルフ族の名前の勉強になるかと思って買ってみたんだが、あんまり役に立たなかったな。欲しかったら持っていっていいぞ」
ホフマンの言葉に、同期はページをパラパラとめくりながら「いや、遠慮しとく」と答えるのみだった。
国交のない国の、それも仮想敵国の言語についての本など、なかなか手に入るものではない。ほうぼうを探してやっと手に入れることができたのだが、ホフマンがこの本を読んで唯一役に立ったのは、『エルフ族やダークエルフ族の氏名は、現代アールヴ語ではなく古代アールヴ語で表される』という知識だけだった。結局この本は、二月半ばからの混乱にかまけて、書類の山の下に埋もれるままとなっていた。
しばらく本を眺めていた長身の同期は、満足したのか本をぱたんと閉じると、ホフマンのデスクに置き直した。
「さすがは元駐在武官! 勉強熱心だな」
その言葉に、ホフマンは眉間に皺を寄せて訂正した。
「駐在武官
「ええっ!? ホフマン少佐って昔駐在武官やってたんですか!?」
後ろから素っ頓狂な声が聞こえて、ホフマンと同期は振り向く。すると、たまたまそばを通りかかったコボルド族の大尉が、手に書類を持ったまま直立不動の姿勢をとっていた。
「なんだシュターミッツ君、知らなかったの」
そんな呑気な声を上げたのは、デスクでパイプを燻らせている課長だ。
「課長まで。やめてくださいよ」
呆れ声を出して、ホフマンはまたデスクの上の書類を一束つかんではゴミ箱送りにする。そんなホフマンの様子とは対照的に、コボルド族の部下はそのつぶらな目をキラキラさせながら興奮気味に喋った。
「でも、でも、なんか合点がいった気がします。駐在できるほどの外国語力があるんだったら、ダークエルフの名前をあれだけ早く理解したり、すぐに間違いに気づけたりするのも、全然不思議じゃないなって」
「こいつがグロワール語を喋るところを聞いたことがあるか? あれは一級品だぞ」
ホフマンのことを指差しながら同期がそんなことを言うので、ホフマンはついつい苦言を呈する。
「よしてくれ。それに、俺はどっちかといえばキャメロット語の方が得意なんだ」
「何か国語も喋れるなんて……、凄いですね」
コボルド族の部下は相変わらず感心した様子だ。ホフマンは面映ゆい気分を打ち消すように、少し強めの口調で言った。
「別に、キャメロット語やグロワール語は士官学校でも勉強するだろう? オルクセンの軍人たるもの、多少の外国語はできてしかるべきだって教わるじゃないか」
それを聞いて、コボルド族の部下は横に首を振った。ふさふさの毛で覆われた大きな耳が、パタパタと揺れる。
「そりゃ、確かに勉強はさせられましたが、国外へ出て行って使えるにはほど遠いですよ。なにせ、実際に使う機会なんてそうないんですから」
コボルド族の大尉はそういうと、後ろを振り返ってオーク族の大尉に話を振った。
「リヒター、君は知ってたのか? ホフマン少佐のこと」
オーク族の大尉は、微妙な角度に首を傾げた。
「噂には聞いたことがあったんですが……、本当だったんですね。確かに、最初に会った時に『なんか参謀本部にいそうな人だな』と思ったのは覚えてるんですが」
「『いそう』も何も、こいつは実際に参謀本部にいたことがあるぞ。なぁ?」
のっぽの同期がホフマンに顔を向けながらそう言うと、ホフマンが反応する前に、コボルド族の大尉が甲高い声を上げた。
「そ、そうですよね! だって駐在武官補佐官といえば、参謀畑の出世コースじゃないですか! なのに、ホフマン少佐、なんで
「おい、失礼だぞ」
オーク族の大尉に肩を小突かれ、コボルド族の大尉は慌てて口元を両手で押さえた。その姿を見て、ホフマンは穏やかに笑う。
「いいんだ。事実だからな」
そう言うと、ホフマンは天井を仰ぎ、一息ついた。そして、
「まあ、簡単に言えば出世競争に負けたんだ。同じ時期に駐在武官補佐官だった連中はみんな優秀でな、その中の一人に上のポストを取られてしまったのさ。それまではなんとか這いあがろう、這いあがろうと思って頑張ってはいたんだが、そこで気持ちが切れてしまってな」
そこまで話すと、ホフマンは一度言葉を切り、ポケットから煙草を取り出した。そして、それに火をつけながら、後を続ける。
「その時に、……ちょっと色々あって、私は陸軍省に転属になった。そうして、今に至るってわけさ」
その話を聞いて、二人の大尉は目を丸くする。オーク族の大尉が、口をあんぐり開けて言った。
「ホフマン少佐より優秀な人って、存在するんですね……」
「参謀本部は化け物の巣窟だぞ? 私なんかじゃ逆立ちしても敵わないような連中が、あそこにはいくらでもいる」
ぴしゃりと言ってのけたホフマンの言葉に、部下たちが顔を引き攣らせる。それに気づいた様子もなく、ホフマンは煙草の煙を盛大に吐き出した。
「わかりやすいところだとグレーベンとかだな。あいつは私よりも何十コか年下なんだが、あっという間に昇進してしまって、今や少将閣下、参謀本部の次長さまだろう? おまけに作戦局長なんて肩書きまでついてる」
そこまで喋った後、ホフマンは賞賛するように首を横に振った。
「あいつは本物の天才だ。作戦立案に関しては、あそこまで頭の切れる
そこまで話し終えて、二人の部下がすっかり絶句してしまっていることにようやく気づいたホフマンは、雰囲気を誤魔化すように皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「まあ、あいつの下で働きたいとは思わないがな」
それを聞いて、二人の部下はわずかに口元を緩めた。ホフマンは肩をすくめながら後を続ける。
「グレーベンまでいくとちょっと突き抜けすぎだが、他の連中も、似てる……とは言わないまでも、近しいところはあったな。まあ、今になって考えてみれば、あそこの雰囲気は私には合わなかったのさ。まだ
ホフマンの言葉を聞いたオーク族の大尉が、ほっとしたような表情を浮かべた。
「でも、そのおかげで、我々は大助かりしてるわけですからね。だって考えてもみて下さいよ、今回の仮称ダークエルフ旅団の編成にあたって、うちの課に少佐がいなかったらどうなってたと思います?」
皆がそれに同調する中、珍しく課長も声を上げた。
「その通り! だからホフマン君、次の士官任命状交付式の準備も頼むよ! 君ならできる!」
「課長はそうやって仕事を押し付けたいだけなんじゃないですか!?」
ホフマンがそう言うと、課員の皆はどっと笑った。ホフマン自身も半ば笑いながら、手に持っていた煙草を灰皿に突っ込んだ。
「まったく。ほら、お喋りは終わりだ。仕事仕事! とっとと任命状の準備を終わらせるぞ!」