身体が、動かない。
四肢が、麻痺して、指一つ動かない肉体。
しかし、肉体の身動きが取れないのは物理的な問題ではない。
それは、精神的な問題であった。
されど、その問題の原因は自己には無い。
それは眼前の、青ざめた幻馬による働き掛けだ。
水怪・ケルピー。その怪物は、他者の精神に干渉する術を持っていた。
水馬のいざない。即ち、「魅了」と呼ばれる生態機能スキルである。
ケルピーは、魔術師たちが、「魔獣」と定義している幻想種だ。「魔獣」とは、幻想種の中では最も低いランクとしてカテゴライズされている。
だが、それはケルピーを舐めてよい理由にはならない。
「魔獣」の中にも、かのギリシャ神話の女怪、メドゥーサから生まれたペガサスなど、「幻獣」クラスの力を持ち、防御性能は、竜にも匹敵する恐るべき個体も存在する。そもそも、この迷宮に生息する幻想生物の殆どが、現代魔術師では対処不能な、文字通りの怪物のなのだ。
そして、ケルピーもまた、その怪物の一角なのであった。
ケルピーの「魅了」が、私の精神状態に作用する。駄目だ。抵抗が出来ない。「魅了」による精神干渉によって既に、私の精神は、ほぼ彼に下っているといっても良い状況なのだ。
そんな状態でありながら、自身の状態を正しく観測出来ているのは、一重に、私の「眼」のお陰だ。しかし、その「眼」を以てしても、自分の運命なんてものは変えられない。目の前の馬に、食い散らかされる未来は、変わらないのだ。
あぁ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。いや、原因は分かっている。
迷宮の探索中、いきなり生成された転移ポータルに、運悪く巻き込まれたからだ。
探索チームとの連絡が途絶えたまま、私は謎の場所へと飛ばされた。基本的に、迷宮探索において、チームと逸れるというのは、死と同じ意味を持つ。それでも、連絡用の礼装がきちんと作動していれば、合流の可能性は、万に一つぐらいの可能性はあった。
しかし、私の連絡用の礼装は、幾ら魔力を流しても、沈黙を押し通し続けた。連絡用の礼装が、繋がらない。そんな事態は、強力な幻想種の縄張りに入ったことによって生じる、ジャミングぐらいである。それぐらいしか、礼装の接続が乱される、なんてことは無い。
ということは。私は、強力な幻想種の縄張りに、転移してしまったのだ。
連絡礼装が作動しない、となった時に、私の顔は、青ざめた。
そして、私の顔が青くなった瞬間、獣の吠える音が聞こえた。その叫びは、威嚇であった。いや、威嚇という生温いものではない。それは、縄張りに立ち寄った、礼儀知らずの愚者を殺害する、という宣言であった。
声の主の方向へと、顔を振り向かせる。そこには、水怪・ケルピーが、こちらの方へと向かってくるではないか────!
そこからは、ケルピーとの追いかけっこが始まった。
相手は、人智の及ばぬ幻想種だ。私には、対抗し得るだけの対抗手段は無かった。私の魔術礼装、魔術では、あの怪物の生得領域を突破出来ない。
正攻法では、逃げ切ることは出来ない。故に、私は、分の悪い賭けをするしかなくなってしまった。
自身の「眼」のパラメータを、一気に初期化する。
魔力操作でチューニングしていた設定を、そこからさらに変更する。私の「眼」は、幻想の存在を誘うもの。故に、私は、神秘に関連する事象に巻き込まれやすい性質を持つ。今まで、浮上しないように制御していた、その性質を解き放ったのだ。
では、その性質を解き放つとどうするのか。迷宮に生息する神秘の存在、化け物どもが、寄ってくるのである。
つまり、今の私は怪物の誘蛾灯というワケだ。
化け物を倒すには、化け物をぶつけるしかない。
あの化け物を、「動物」と呼称するのには、違和感があるが。あの化け物を含めた、動物の縄張り意識というモノは、強い。なぜならそれは、法無き野生において、ケモノたちにとっての、ある種の秩序であり、ルールだからだ。故に獣たちは、この秩序に人一倍敏感なのである。
そんな中、私の異能で隣の縄張りに居座るライバルを、こちらから引っ張ってしまえば、獣はどのような反応をするのか。答えは簡単。
自分の縄張りにカチコんで来た外敵に、全力で対処するしかなくなるのだ。そうなったら、さっきまで追いかけてた虫ケラは、一旦、放置することを迫られる。いきなり家に入って来たゴキブリたる私を無視して、眼前のライバルに全神経を集中することとなるのだ。
そんな具合で、タイミングの良いところに、一匹の猪の魔獣が、ケルピーの領域に侵入した。
「■■■■■■!」
猪が私の走る前方から、駆け抜けてくる。
その猪の突撃を回避しようとするも。
「っ…」
片手に持っていた礼装に掠ってしまい、連絡用礼装が破損する。やば。これでは、連絡が完全に付かなくなってしまった。
猪は、ケルピーに対し、私に誘われた凶暴な本能を以て、攻撃を仕掛けようとする。ケルピーもまた、猪の襲撃に手を焼くハメとなり、私への追跡は中止。猪との戦闘に入った。
よし。
そのまま私は、強化した足で、ケルピーの領域を疾走する。今のうちに、ケルピーの領域から離れなくては。数分間、心肺、体幹、脚部を重点的に強化し、森林を疾走する。
しかし、残念なことに。
ぱからっ、ぱからっ、と馬が翔ける音がする。
私の後ろには、自身の縄張りに入った虫を排除しようとする怪物が、追跡を再開していた。
「嘘でしょう!?」
流石にここはケルピーのホームグラウンド。猪にとってはアウェーの領域。有利なのは、ケルピーだったようだ。にしても、倒すのが早くないか?もしかしたら、あのケルピー、相当に強力な個体なのかもしれない。
ケルピーが、私の倍の速度で、接近してくる。
不味い。
不味い。
ただでさえ、接近されていること自体が重なるというのに、不幸はさらに存在していた。
なんと。森林を駆け抜けた先には、湖が広がっていた。あぁ、なんてことだ。馬鹿!湖、水場は、ケルピーにとっての真のホームグラウンドだ。背後から迫るケルピーの、魔力が滾り始めているのを、感知する。私は、逃げてはいけない方向に逃げていたらしい。最悪の逃走経路だ。
不味い、不味い、不味い!
水辺に近づいたケルピーに、新しく魔獣が、背後から飛びかかる。背後からの、強襲。しかし、相手と場が悪かった。
その魔獣には一瞥も入れず、ケルピーは、その後ろ脚の蹄で、蹴り殺してしまう。
魔力が高まったケルピーが、一瞬、淡く光る。
その瞬間私の身体は、妙な浮遊感に包まれた。
身体が、崩れ落ちる。こうして私は、ケルピーの「魅了」によって、身体制御を手放すこととなってしまったのだ。
こうして、過去回想は終え、冒頭に戻る。
そうして、ケルピーが減速し、動けない私に対して、一歩ずつ、少しずつ近づいてくる。
怪物が。
化け物が。
私の死が、近づいてくる。
あぁ。駄目だ。
今は、悲鳴を出すことすら、叶わない。
この迷宮を探索する以上、死の危険からは避けられない。それを知った上で、私はここまでやって来た。
けれど、私には、叶えたいユメがあった。
果たしたい願いがあった。
そのために、私は生命を賭けた。
その渇望が、私をここまで駆り立てて来た。
なのに。
なのに。
なのに!
ここで、終わりか。
嫌だ。
嫌だ。
まだ死にきれない。
死にたくても死にきれない。
終わりたくない。
だって。
だって。
だって!
──────生まれてから、一度も空を見たこともないというのに!
迷宮生まれの私は、空の色すら知らないのに!
空の青さを、知る前に。
こんなとこで、終わって、たまるか────!
その瞬間。
目の前の死が、文字通り吹き飛んだ。
眼前の、青ざめた死の象徴が弾き飛ぶ。
弾き飛ばしたのは、白き流星。
宇宙を翔ける一条の流星じみた、ヒト型であった。
そのヒト型は、四肢を地面に接地させ、四つん這いの状態から、私へと問いかけた。
「ねぇ、君!」
声が、聴こえる。その言葉に、反応しようとする。しかし、まだ「魅了」が完全にレジストし切れてしない。
「────」
「おい、君!」
意識が、浮上する。その声掛けに、応える。その為だけに、私の全てを以て、専心する。
「────」
「聞こえてるか、君!」
そうして、私は、声に応えた。
「は、───はい!」
「アレ、倒してもいいかい!」
「───、お願いします!」
「了解!」
気持ちの良い声が、湖畔にて、返ってくる。
白き髪を揺らす人影が、その場から、音を残して、消えた。
あの人影は、徒手空拳であった。装備らしき装備もなく、丸腰であった。
そんな装備では、あの怪物には太刀打ち出来ない。矮小な人間の身体は、そんな強靭に造られていない。
けれど、何故だろう。
あの迫り来る私の死を、一瞬で引き剥がし、覆した様子を見ていたからだろうか。彼ならば、アレを打倒し得るのでは。そう思ってしまう。
おかしな話だ。あのケルピーを生身で、徒手空拳で打倒し得る現代の人間など、存在しない。
しかし、それを達成し得るような者が居るとするなら、それは御伽話にて語られるような英雄の類に違いない。
祖父がよく語ってくれた、物語をふと思い出す。それは、このロンドンにて、語り継がれた英雄達の物語。義を重んじ、人を守る、博愛の戦士、騎士。その中でも、名だたる騎士たちが集い、一人の騎士の王に仕えたというあの伝説。
その伝説の中にて、王に仕えた、一人の騎士を想起する。彼は、強き騎士であった。彼は、たとえ無手であっても、その手に、握るモノが無くとも、戦いに勝利した。「騎士は、徒手では死なず」、と祖父は詩を唄うように、私へ語りかけてくれた。
そして、彼は湖の騎士でもあった。
湖に縁を持ち、湖の二つ名を請け負った騎士であった。
祖父との思い出が、閃くように引き起こされる。
あぁ、でもそうだ。
人が絶体絶命の状況の中、湖にて突然顕れ、危機から救い出し、徒手で、幻想種と渡り合ってしまうようなヒト。
そんな英雄じみたヒトが居るとしたら。
多分、あのようなヒトのことを指すのではないか。
死の間際から引き起こされたからだろうか。
感傷めいた妄想をしてしまう。
そんな感傷をしているうちに、駆け寄ってくる足跡が聴こえてきた。
「───ケルピー、なんとか倒せたよ」
立ち直らず、尻餅をついたままの状態で、顔を上げる。
そこには、長い白髪を靡かせ、星のような蒼い瞳を携えた、一人の少女……否、少年が、私の前に立っていた。
「─────」
美しき、ヒトであった。
顔、そして肉体のパーツの一つ一つ、どれを切り取っても、美しい。
それら全てが、現代の普遍的な美的価値観において、至高の宝と呼んでも過言ではないない代物であった。
しかし、それ以上に、その姿はどうしようもない程の、"神秘的"な美しさを保持していた。
その姿を視界に入れる瞬間直前、反射的に、「眼」のピントをずらした。駄目だ。これは、霊的感度の高い者の精神を魅せる、最高峰の「魅了」だ。その姿を、「眼」で視てしまえば、私は多分、二度と立ち上がれなくなってしまう。
故に、霊的視力のピントをずらして尚、そのヒトの姿に私の目が吸い込まれる。
脳に、この光景が刻まれる。
その姿ならば、自身の死の間際であったとしても、鮮明に思い返すことができるだろう。
そんな、出会いであった。
空から隔絶された、遥か彼方の地下迷宮の、とある湖畔にて起こった奇跡。
私と彼が、初めて顔を合わせた瞬間であった。
誤字報告して下さる方々ありがとうございます。
いい加減な私としては、本当に頭が上がりません。
毎度本当にありがとうございます。
また、感想には返信出来ていませんが、全て楽しく読ませてもらっています。拙作の更新を、日々の楽しみにしてくだされば幸いです。