野上武志先生『はるかリセット』(秋田書店チャンピオンRED/チャンピオンクロス)から
エッセイ風二次創作
「友達だと思えない、なんてひどくない?」
とある料理店で会食をした先日のこと。
適度にアルコールが回ったタイミングで、まひろが唐突に切り出した。
わたしが以前に書いたエッセイについて、彼女は蒸し返してきたのだ。その中で彼女との関係について『友達だと思えない』と言い切りで書いたつもりはなかったけれど、とっさのことで否定できなかった。
うまく会話のキャッチボールを続けられないのはいつものこと。自分の書いたものが話題であれば尚更だった。
ただこの時は『友達だと思えない』のが、わたしにとってある程度は事実を含んでおり、またエッセイをそのように読まれてしまったことについて、書いた人間として拒否できないという妙な矜持が起こって反論ができなかった。
「うんうん、ひどいよね。こんなに繰り返し僕たちは友達だって言ってるのに。きっと広瀬君はもう、お前たちみたいな下々の者共は友人なんかじゃないって、そういうつもりなのさ」
わたしが返事をできずに、もごもごしていると観音さんまで参戦してもう大変。ふたりとも本気で非難するつもりがない代わりに、本気でわたしをオモチャにしてからかってやろうという算段だ。
彼女たちは、わたしの関わりのある中ではコミュニケーション強者の最上位、トップオブトップ、ヘゲモニーであり、捕食者だ。
ひとりだけでも到底敵わないのに、そんなまひろと観音さんが意気投合して畳みかけてくるものだから、わたしは滅茶苦茶にしてやられてしまった。
とにかくわたしはひどいやつだと、そういう結論に相成りましたとさ。
皆と別れた帰り道。次第に酔いが醒めゆくなかで鬱々としながら、わたしはその時の会話を反芻していた。どのように答えれば良かったのだろうか。あるいは、どう答えるべきなのか。
これは口ではどうにもこうにもならなったし、今後も口頭では到底聞き入れて貰えないだろうから、文字を書いて弁明してやろうという魂胆なのです。
―――
とにもかくにも、わたしが実際どのように書いていたかを振り返らなければ始まらない。わたしはいやいやながら、エッセイのファイルを開く。
自分が書いたものを読み返すのは、格別の、鈍い苦痛を伴う作業だ。書いたものを商売道具にして、売文業を目指す人間としては相応しくない態度であるし、わたしの作品を読んでくれる稀少な人たちに対してあまりにも不誠実な態度だと思う一方で、こればっかりは昔から慣れない。
熱病に浮かされて、あるいは非情なる締め切りの刃を背中に突き立てられながらも書き上げた文章の数々は直視しがたい、できるだけ遠ざけたい、呪詛めいた何かに見えてくる。
それは書いている間に発せられた異常な質量をもった感情や焦燥感を思い出すから、というだけではなく、つたない文章、凡庸な表現、意味不明な繋がり等々の自らの執筆スキルの未熟さを目の当たりにするからだ。
加えて、筆者本人が不出来だと思えるものを人に差し出すという事実がつらい。とても堪える。稀に貰える感想も、飛び上がって泣きたくなるほど嬉しいのに、自分の書いたものを再び目にするのが恐ろしくて、見るのを先延ばしにしてしまう。
こんな心情を吐露したところ、かつて観音さんは
「そんなの当たり前だよ。その何かを書き切った分、数千字でも一万字でも、君は成長したわけだから。つたなく見えるに決まっている。だから既に書いたものをこねくり回すのではなく、常に新しいものを書くべきなのさ」
こう言っていたので、わたしは過去に書いたものをなるべく読み返さないようにしているのだが、今回は仕方ない。
どれどれ。
『付き合いの長いまひろちゃんとの間でさえ、友達だとわたしは思っていても、向こうはそうとは思っていないのかもしれない。わたしには確信がなかった。』
彼女たちを『友達だと思えない』とは書いていなかった。
なるほど。記憶というものは相当に当てにならないもので、書いた本人でさえロクに覚えていないのだからいけない。
だが、あの時にわたしが反論できなかったように、書いてあったか否かは問題ではないのだ。どう書けているのかよりも、どのように伝わったのかが重要だ。まひろが『友達だと思えない』と書いてあると感じたなら、わたしがそう書いたも同然なのだ。
何よりわたし自身が読んでも、この曖昧な書き様は遠回しに友達ではないと言っているかのようだった。だから、『友達だと思えない』、そう捉えられても仕方なかったという前提に立った上で、弁明したい。
わたしとまひろ、あるいは観音さんやはるか先生、二者の点と点を線で結んだ関係性を総合的に勘案すると、友達もしくは友人という言葉で示すのが最も近く、適切だと思われる。だから彼女たちは恐れ多くも、わたしの友達なのだと自身に言い聞かせてもいる。帰納的に。
友達か友人か、これらも微妙な言葉であって、使わざるを得ない時にはきまって居心地が悪くなる。後者の方がややビジネス的で、格式ばった言い方であるという形式的な問題に留まらず、そのニュアンスの違いは明白だ。友人は知り合いに近く、友達は知り合いと呼ぶには野暮過ぎる関係を指す。
彼女たちは、わたしにとって少なくとも知り合い以上だ。
それでも以前に書いたように、わたしには確信がないのだ。わたしが彼女たちを『友達だと思えない』のではなく、彼女たちがわたしを友達だと思っていることに確信が持てないのだ。
このふたつには大きな違いがある。双方向ではなく一方通行の関係性。双務的ではなく片務的な関係性。
片務的な関係性はとても恐ろしい。それは例えるならば、大国と小国の間に結ばれた同盟関係のようなものだ。
対等ではない同盟関係は、平時に両者がどれだけ良好な友好関係を装っていたとしても、常に不安が付きまとう。それは小国の抱える、大国に見捨てられる不安だ。大国が有事における介入を約束していても、いつでも大国は好きなタイミングで手を切ることができる。小国はそうされても為す術がない。わたしは小国で、彼女たちは大国だ。
言い換えれば、わたしが友達だと思っていても、向こうはそう思っていないのではないかという疑念が、そう、疑念がある。彼女たちはわたしを慮って、あるいはただ哀れんで、友達だと言ってくれているのではないかと考えてしまう。
だからわたしはいつ見捨てられてもおかしくない。
これはわたしが彼女たちを信用していないということを意味しない。
いや、そういうことなのかも。わたしが彼女たちを信じていないだけなのかもしれない。わたしにとって彼女たちは信用に足り得る人物ではないと、わたしは言いたいのだろうか。
いいや、それも違う。もう一歩、踏み込もう。わたしは彼女たちや彼女たちの言説を信じられないのではない。彼女たちが友達だと言ってくれている「わたし」自身を信じていないのだ。
そうだ。わたしはわたしを信じていない。
その一点によって、この友達かどうかについて、こんなに迂遠でこんがらがる面倒くさいことをだらだらと書き連ねているのだ。これは、わたしの恐れの発露だ。
わたしはいったい、自分に関する全ての自信を喪失していて、頼るべきものが自分という器の中に見つからない。これはポーズでもなんでもなく、嘘偽りなく、本当にそう思っている。今は酔っていません。ヒステリックに「わたしが悪いんです!」と言いたいわけでもない。実際に悪いのだから。
この世はすべてのものと人と、自分を比べられる、比べてしまう時代にある。同年代には成功した人間がわんさかいて、彼ら彼女らの輝かしい実績が毎日のように目の前に、それを望んでいなくとも、積み上げられる。もう見飽きた。わたしより十も低い年齢の学生たちが賞を取って作家になる。珍しくない。いつだって自分は見劣りする。
比べるまでもないのだ。わたしはいつまで経っても何者でもないまま。その事実に悲しくなったり、慰めを見つけようとする自己憐憫の段階はとっくの昔に通り過ぎた。この境遇を招いたのは他でもないわたしなのだから。今のわたしは、矮小な自分をしっかりと認識している。
だからこそ、自分にかけられる言葉の、わたしを友達だと言ってくれるあの言葉を、そのままの意味で受け止めることができない。
わたしは彼女たちの友達である資格が自分にあるように思えないのだ。
彼女たちが友達だと思ってくれている「わたし」は、彼女たちに見捨てられないように一生懸命に取り繕っているわたしであって、本当のわたしが見つかったら最後、見捨てられてしまうに違いない。それが恐ろしい。
改めて付言する必要もないけれど、わたしは交友関係が非常に狭い。わたしのことを嘘でも友達だと言ってくれる人は、両手両足の指、いや両手の指で足りるほどしかいないだろう。それ故に、友達を友達だと認めることを恐れるのだ。
友達が少なくて友達という関係に飢えているのに、友達を恐れる。わたしのあべこべの心理は、交友関係が広い人には理解できないだろう。
10人の友達がいるとする。10の関係があるわけだ。これに新しい1人が加わると、11の関係になる。しかし、その新しい関係は苦くも長くは続かなかった。11の関係が10に戻る。これは全体の1割に相当する喪失となる。一方で100人の友達がいれば、1人の喪失は1%に過ぎない。平たく言えば、こういうことだ。
喪失を恐れて、新たな出会いを拒絶する。こうやって文字にしてみると、死を恐れて生きるのを諦めるかのような幼稚なペシミズムで笑ってしまうけれど、長年の間わたしの中に染み付いた自己防衛的な考えは、簡単に拭えそうもない。
どうやらわたしは、彼女たちに見捨てられる可能性とその喪失を恐れて、友達だと認められることを拒んでいるらしい。わたしは自己中心的であるだけではなく、予定調和的な破滅願望の保持者であるようだ。
単純にそうやって人を遠ざければ、友達も友達のままではいられなくなるものだ。そして友達だと言ってくれていた人が友達でなくなったとき、「ああ、やっぱり本当の友達ではなかった」とひとり納得するのだ。自らが招いた結果にも関わらず。
なんだか急に、今のままではいけないという気がしてきた。
この際だ、わたしは喜んで自らの身体にメスを入れよう。問題は友達の多寡それだけではないのだから。
頼るべきものが己の中に見つからないからこそ逆説的に、わたしにとって誰かの言葉はこれ以上ない道しるべになる。私は君の友達だなんて、それ以上に心強い言葉はない。
しかし無力さに溺れるわたしは、誰かの言葉を藁として掴むのだ。それが藁であるか命綱であるかの判別がつかない。命綱は枷へと変わり、誰かの救いの手は、わたしを更なる奈落に突き落とそうとする悪魔の手にも見える。それもまた恐ろしい。
優しい言葉より厳しい言葉に笑う、わたしの倒錯がここにある。
けれど明らかに、今もこうして分不相応な夢を、作家になるという夢を追い続けられているのは、はるか先生や観音さん、まひろや周りの人たちのおかげだ。
だいたいにおいて、これより下に、わたしの足元に奈落は存在するのだろうか。誰にだって見劣りするのはわたしが一番よくわかっている。なのに、何を恐れているのだろうか。
なんてどうしようもないのだろう。
そう、だから、本当は友達でいてくれてありがとうと言うべきなのに、言いたいのに、言えない。こんな面倒なわたしに、それでも友達として声をかけてくれている人たちにひどい仕打ちじゃないか。
救われることを焦がれているにも関わらず、その手を払いのけようとする。どれもこれも、あべこべなのだ。
―――
以上をもって精査した結果、とにかくわたしはひどいやつ、という結論は変わりませんでした。
わたしは弁明するつもりだったのに、どうしてこうなった。
既に無駄な足掻きになっているのだから、最後に更に付け足してしまおう。
これはわたしの内部の問題であって、依然として外から見ると、わたしが彼女たちを信じていないように見える。けれどわたしが言いたいのは、わたしが『友達だと思えない』のは、全部わたしのせいということだ。
(終)