第2次RATs事件終息宣言から10日後、長浦男子海洋学校に1隻の潜水艦が帰還した。
その艦はRATs事件の発生から終息まで、戦い抜いた唯一の武勲艦にして、教育艦として最大の戦果を挙げた潜水直接教育艦『伊126』だった。
着岸するなり、生徒たちは皆、浮き足だって上陸した。
事件前に出航し、1ヶ月以上かかってようやく帰還した母校、長浦。その感動は大きかった。
「やっっっっと……還ってきたぁ!」
「地面久しぶり……」
「陸だ、陸だ!」
はしゃぐクラスメイトたちを見届け、最後にラッタルを降りていくのは艦長の深海翼。艦を離れ、陸に足をつけた途端、これまで彼女に重くのしかかってた艦長としての緊張感がするすると降りていく感覚がした。
ようやくに、怒涛大ピンチの連続だった『伊126』の初航海は終わったのだ。
一息どころか、全部の息が抜けてその場にへたりと座り込む翼。
15歳の少女の小さくはない背中が、より小さくなったように見えた。
「陸……還ってきたんだ、私……私たち……!」
疲労感の次に押し寄せたのは達成感だった。航海をやり遂げた。還ってきたのだ。
「そうだよ、かんちょ……私たち、やり切ったんだよ!」
隣で跳ねるように喜ぶのは副長の草川ひばりだ。彼女の目頭に涙がたまっていた。
「ひばりさん……ありがとう……みんな、ありがとう!」
自然とこぼれたのはクラスメイトたちへの感謝の言葉だった。
「どーいたしまして!」
「何言うのさ、艦長が一番頑張ったよ!」
「お疲れ様でした!」
「よーし、我らが艦長を胴上げだぁ!」
「おう!」
「よしきた!」
航海長の春雨愛沙の提案で、クラスメイトたちは一斉に艦長の翼に群がる。
「え、え!? いや、ちょっと! うわぁ!」
有無も言わさぬクラスメイトたちの連携で、翼はあっという間にもみくちゃにされる。
「それ、わっしょい!わっしょい! 艦長、ありがとう!」
「お陰さまで!」
「還ってこれた!」
「もっとシャンとして!」
「これからも!よろしく!」
思い思いにクラスメイトたちは翼に感謝の言葉を伝える。
いきなり胴上げされて面食らう翼だが、クラスメイトたちのこの気遣いか、感謝が、激励が、なにより堪らなく愛おしくて嬉しくなった。
艦長として乗員を預かる。その信用を得る。そして、何より運命共同体となる。
その艦長としての責務が、苦悩が、楽しさが嬉しさが。いっぺんに感じられるその瞬間は翼が艦長として大きな成長を遂げた証であった。
溢れる涙が止められない。
でも、堪らなく嬉しい。
翼は涙で前が見えなかった。
胴上げされながら、クラスメイトたちにもっといっぱいの感謝を伝える。
「みんな……ありがとう!」
激動の航海が終わり、日常が戻る。締めくくりとしてこれ以上にないエンディングだった。
同日、市ヶ谷フロート地下第4甲板。海上安全整備局総合庁舎協同大会議室。
会議室にはブルーマーメイド、ホワイトドルフィンの高官が集まっていた。事件は終息したが、今度は事件の原因を究明しなければならなかった。
時系列順に情報が分析されている。
「しかし、学生に死者が出なかったのは幸いだな」
「だが大竹の『りんどう』は危なかった。撃沈された学生艦はあれが唯一だ」
「重傷者は出たが命に別状なし。二重三重の安全装置は伊達ではないな」
「正規隊員についてもそうだし、民間人の死者もゼロだ。これだけの大事件で、奇跡だよ」
「いや、必然だ。安全装置の性能の高さが証明されたのだ」
高官たちは会議の進行もろくにせず、それぞれに楽観的なことを話すだけだった。
世界経済が停滞するほどの大惨事にあって、これだけの被害で済んだのはまさに奇跡。しかし高官たちはそんなこと露とも思わず、自慢の安全装置神話の信仰心を深めるだけだった。
確かに、1999年の新型安全システム搭載義務化から早24年。完成されたシステムの普及により海洋事故の死亡率は大幅に低下した。神話とされるほどの安全性への信頼は軍事組織であるブルーマーメイド、ホワイトドルフィンにも根拠のない驕りと慢心を授けていた。
「……監督、よろしいでしょうか」
誰も聞かない会議の進行をしていた若手ブルーマーメイド士官の蒼垣が上席の隊員に意見具申する。
彼女は億劫そうに蒼垣をにらむ。
「なんだ」
「安全神話を信じるのは結構です。しかし、今は事件の原因を探ろうという厳粛な会議の場ではありませんか。なのに他でもない監督が……!」
「蒼垣監督正!」
他の高官に発言を制止される蒼垣一等保安監督正(大尉)。
「原因を探るのは君たちの仕事だ。私たちは今、事件がこれだけの被害で済んだことに安心しているのだよ。それとも、なにか? 君はもっと被害が大きければ良かったと思っているのかね?」
その高官は嫌みのように言葉を付け加えていく。部下の揚げ足を取っていびるようなその高官の言葉に蒼垣は隠す気もなく顔をしかめさせる。
「そんなことを、いつ小官が申し上げたでしょうか! 今会議の目的をお忘れなきよう、意見具申したまでです!」
机の上で握る拳が震える。
「しかしだね、事件は会議室でなく、現場で起きているのだよ。我々が会議室で議論したところで、全てが解決するわけではないだろう? 君は報告を上げ、我々はそれを審議している。それが会議のあるべき姿だ」
また他の高官がしたり顔で言う。その発言で、蒼垣の眉間はさらに険しくなる。
「……で、あればここはシェーンブルン宮殿ということですか?」
「蒼垣くん! 口がすぎるぞ!」
冷たく怒気放つ蒼垣に、1人の高官が叱責する。しかし蒼垣は素知らぬ顔で高官をにらむ。悔しさと怒りで震える彼女の横で、またもうもう1人の高官がケタケタと笑い出す。
「なるほど……! シェーンブルン宮殿とは! 会議は踊る、されど進まず……か! こりゃケッサクだ!」
まるで他人事のように笑い飛ばす高官にまたしても怒りが収まらない。むしろ2倍にも3倍にもなって増長する。
そうして言葉にならない激情がこぼれて溢れそうになる蒼垣。地獄のような会議場で、議長である任務部門第2課長が場を納める。
「蒼垣くん、それまでだ。さっき参謀次長が言った通り、この会議は君らからの報告を聞き、それを精査するためのものだ。……だが、なによりこれだけの被害で済んだのは事実だ。それを喜ぶくらいで何の問題がある?」
腑抜けた発言だ。蒼垣は喉元まで出かけていた言葉を腹に飲み込む。もはや何を言ってもわかるまい、と諦めたのだ。
「ふふ、第2課長もきつい言い方をなさる。蒼垣監督正の言うことも一理あろう」
「よく言う。先刻の自分の発言をお忘れか」
「そもそも原因と言ってもRATsとてウィルスだろう。自然発生したとかそんなところではないか」
「ペストの再来ですか」
「それは縁起が悪い!
高官たちはもはや誰も議論する気などなかった。税金泥棒と国民に罵られても文句は言えない惨状。少女たちの憧れ、ブルーマーメイドも。真の海の男たちと言われるホワイトドルフィンも、この程度なのだ。
自分もその一員だという事実がなにより嘆かわしい。吐き気がする。
握られた拳に力がこもる。蒼垣の中にある信念が、確信へと変わる。
やはり、ダメだ。この無能者どもは人の死がないと動かない。動こうとしない。
るいが死んだとき、頑なだった世界は機敏に動き出した。
なんでるいが死ぬ前にそうして動かなかったのか。疑問だった。でも、私が一番学んだのはそこじゃなかった。
人が死ねば、頑なな世界もすぐに変わる。安全神話なんてものがある現代ではなおさらのこと。
人の死は最も効果的で、最も速効性のある治療薬だ。
もっと、多くの、もっと強烈な死を。
それがなければ、るいを殺したこいつらは、変わらない。
蒼垣は