とあるクラブのコーチ視点
俺が鴗鳥理凰という選手の事を知った時期は、世間に彼が知られ始めた時期よりかなり早い。
名港ウィンドFSCに学生時代からの悪友がアシスタントコーチとして勤めていたからだ。
理凰選手の名前がその悪友の口に上り始めたのは数年前。
最初のころは、大した話じゃなかった。
「筋のいい子がいる、しかも根気があって地味な練習を嫌がらないんだ」
とかそのくらいの話。だから俺も軽い感じで、
「そりゃ教えやすそうでいいなあ」
なんて返していた。
それが時間が経つにつれ、
「あの子は天才だ」
といった評価に変わり、しまいには
「理凰は、夜鷹純を超えるかもしれない」
なんて言い出した。
流石にそりゃないだろと、話半分に聞いていたのを覚えている。
そしてさらに時間がたって、内容がだんだんおかしくなっていった。
理凰選手のスケートの事はあまり話さなくなり、彼のクラブでの日常話が増えていったのだ。
後になんでスケートの話をしなくなったのか聞いたことがあったが、
「理凰の才能の事なんて今更わざわざ話す必要がないだろ」
と曇りなき眼で返ってきて、俺はドン引きを禁じえなかった。
酒が入るともう、理凰が、理凰が、と、お前は子煩悩の親バカかそれとも恋する乙女か何かかと突っ込んだら。
「俺なんかまだまだだ、一番のファンは実父の鴗鳥先生だ」
などと言ったあと何故かふと、スンっとなり。
「あ、一人ダントツの例外がいるけどそこは別枠で」
と、のたまった。
なぜかその時だけ真顔でちょっと怖かった。
そして真顔から遠い目をした顔になって、
「大分前から自販機のブラックコーヒーの売上が凄く良いんだよなあ」
などと何の関係があるのかよくわからない言葉をこぼす。
どういう事だよ。
普通は自分が受け持っている生徒の話が多くなるもんだと思うんだが、こいつが受け持ちの子の事を話すときは、大体理凰選手の話もセットなのだ。
ジャンプに悩んでいる子をちょっとしたアドバイスと指導で飛ばせてみせたとか。
進路に悩む子に寄り添っていい答えに導いてくれたとか。
「あの子が他の子達と関わるようになってから、挫折や諦めみたいな悲しい後ろ向きな理由でクラブを離れる子が一人もいなくなったんだ」
なんて言い出した時は、流石にそれは酔ったうえでの誇張表現にしても言い過ぎじゃないかと思った。
そんなある日、俺の担当している選手と理凰選手の参加大会がかち合った。
俺の担当している子はひいき目抜きに才能のある子だ。
このままちゃんと育っていけば、シニアに上がるころには全日本、そしてオリンピックだってきっと夢じゃないとそう思える才能がこの子には確かにあった。
大会でも連戦連勝だった。
全国規模ならともかく地方の参加選手に有力選手がいないような大会では大体が2位以下の子に大差をつけての優勝で、他の子たちがかわいそうな事になるのも珍しくない。
その日も絶好調で、ノーミスの素晴らしい最高の滑りを見せてくれた。
最近世間で騒がれ始めた狼嵜光選手とセットで注目されているとはいえ、鴗鳥選手は今回がデビュー戦。
勝利は確実だと思っていた。
その滑りを見るまでは。
隣で唖然とした顔でその演技を見ている選手の手前、なるべく表情に出ないようにしたが、内心は酷いものだ。
訳が分からなかった。
俺には理解できない何かが、氷上を踊っていた。
そもそもの段階で、振り付けがノービスに滑らせるような内容じゃない。
鴗鳥慎一郎は一体何を考えてあんな振り付けを自分の息子に滑らせているんだ。
俺はあれがオリンピックに内定している様な選手用のプログラムだと言われても信じる。
なんで、あれで体力がもつんだよ、子供の体だぞ。
なんで、あんな高速ターンの後に高い完璧なジャンプができるんだ。
なんで、あんな完璧なジャンプの後に、あんな華麗にステップが踏める。
あの子の周りの重力は一体どうなっているんだ。
ふと、悪友が言っていた言葉を思い出す。
「理凰は、夜鷹純を超えるかもしれない」
思い出した瞬間に背筋を何か得体のしれないものが通っていったような感触がした。
うちの選手は間違いなく才能のある選手だ。
天才と言っても過言にならないと贔屓目抜きで言える。
でもそうだとしたら、俺の目の前で滑っている理凰選手は、いったい何と呼ぶべきなのか。
結局、理凰選手は一つのミスもなくプログラムを終えた。
これがうちの選手が今まで他の選手たちに与えていた痛みなのか、と深く目を閉じて息を吐く。
なまじ才能があるがゆえに、その差がわかってしまううちの選手が、今にも崩れ落ちそうな顔で理凰選手を見ていた。
一瞬、理凰選手がこちらに目をやった気がしたが、勘違いだろう。
悔しいが、あれだけ滑れる選手にとって、うちの選手は今はまだ気にかけるような相手じゃない。
でも、これからも続けていれば、可能性はあるはずだ。
簡単とは言わないし、追いつけない可能性も当然ある。
こいつにだって間違いなく才能はあるんだ。
しかし、立ち上がれるだろうか。
今の自分の最高の滑りを、あんなふうに完膚なきまでに上回られて。
俺なら、まだ9歳の時にそれが出来たか?
こいつに今、俺はなんて声をかければいい。
「すごい! すごいよ理凰君!」
「みんな、声援ありがとう!」
ああ、やめてやってくれよ。
そんな無邪気に喜ばないでやってくれ。
理凰選手の応援に来ていたと思われる女の子たちが挙げる声に、思わずそんな恨み言が浮かぶ。
そんな時、理凰選手がうちの選手に目を合わせて、煽るような顔で笑った。
は?
いや、なんだそれ。
あの野郎、どこが凄くカッコイイやつだよ。
優しすぎて時々心配になる?
どこがだよ。
性格最悪じゃ――――
「はぁ!?」
頭に血が上り切る前に、うちの選手のその声で思考が止まった。
思わず振り返って選手の顔を見ると、今はもうさっきまでの絶望なんて無く、ただ怒りに染まっていた。
「くっそ、チャラチャラしやがって、なんだあの顔! 俺、あんな嫌な奴に負けたってのか!?」
場所を考えて声を抑えているが、今にも叫びだしそうな怒りを込めて早口に言う。
声を抑えるなんて発想が出る位にはちゃんと物が考えられるくらいに持ち直している。
「くそ、次、はまだ無理かもしれないけど! それでもいつかぜったい勝ってやる! 勝って泣かす!」
そこには、闘志を取り戻した選手がいた。
信じられない。
まさか、声援を煽るとこから全部狙ってやったってのか。
いや、でも、とにかく今はありがたい!
「ああ、あんなヤナ奴に負けっぱなしじゃいられないよな! 俺もちゃんと手伝うから、絶対いつか負かそう! 今度はこっちが笑ってやる番だ!」
そういって、選手の頭をかき回すように撫でる。
理凰選手に背を向けて、うちの選手は肩を怒らせながら歩いていく。
俺は理凰選手に振り返った。
さっきとは違う、悪戯っぽい顔で笑っている理凰選手の目はどこか優しかった。
やっぱり、と思い頭を下げようとすると、片目を閉じて口に人差し指を当てる仕草で制止された。
そしてその指が、うちの選手の背を指す。
追ってやれとも、ちゃんと面倒見ろよとも言われてるような気がした。
ちょっと泣きたい気分になった。
なんだよそれ、カッコ良すぎるじゃないかよ。
ホントに9歳かよ。
あいつがいつもいつも、理凰選手の事ばかり話す気持ちがわかってしまう。
理凰選手の気遣いを無駄にしないように、軽く頷くだけにとどめて、俺は選手の後を追う。
足早に選手の後を追いながら歩いている中で、俺は次にあいつと飲むときにはもっと理凰選手の話をちゃんと聞いてみようと決めた。
そして、うちの選手をちゃんと見てやってくれてありがとうと、とりあえずはあいつから伝えてもらうのだ。
俺がもっとちゃんと、理凰選手と向き合う時にだってあいつの事を支えてやれるようになったら、今日の本当の事をあいつに伝えて、二人で礼を伝えよう。