狼嵜光視点
あの奇跡の夜からしばらくして。
夜鷹純が禁煙を始めた。
理由は、多分あの夜の理凰の演技を見た事ともう一つ。
理凰がノービスの大会に出場することを決めてから、あの演技を見たこともあるのだろうけど、夜鷹純は前よりもさらに理凰に無茶ぶりすることが増えた。
結果的に理凰との接触も増えて、ある日に理凰の前でタバコを吸った時に、理凰がいつもは出さないような固い声にいつもは使わないきつめの言葉で、自分の前でタバコを吸うことをとがめたのだ。
「悪いんですけど、俺のすぐ傍でタバコを吸うのはやめてもらっていいですか? なんか排気ガスの匂いを思い出して気持ち悪くなるし、頭が痛くなってくる」
言ってすぐ後に、しまったという顔をして口をふさいだ理凰は、自分でもどうしてそんな言い方をしたのかわかっていないようだったが、すぐに納得した顔をして夜鷹純に謝った。
「すみません、ちょっと失礼な物言いになってしまいました」
申し訳なさそうに謝る理凰を見て、理凰が自分で気が付いたことの内容に私も気が付いた。
恐らくだけどあの反応は、事故の時のトラウマじゃないだろうか。
理凰の中で煙たさか、別の何かでタバコと排気ガスが結びついていて、それが今は存在しないはずの事故の記憶を、あるいは体に刻まれてしまった傷みをかすめている。
ずっと一緒に過ごしてきた私は理凰が人に弱さを見せるのが嫌いで、その弱さを人に押し付けるようなことはもっと嫌いだって言うことを知っている。
だから、申し訳なさそうな顔をするだけにとどめているけど、きっと内心ではすごい自己嫌悪しているだろうことが察せられた。
「いや、いいよ。考えてみれば僕もタバコを吸うようになる前は、人が吸うタバコの煙は嫌いだった。それにちょうど、タバコは控えようかと思っていたんだ」
私と同じように理凰の内心が想像できたのかはわからないけど、夜鷹純は何でもない事のように理凰の言動を流してタバコの火を消した。
考えてみると夜鷹純に限らず誰かがタバコを吸っている時に理凰が傍にいた記憶がない。
それに車の近くにいるとき、なるべく排気ガスを避けている気もした。
夜鷹純も理凰の内心はともかくトラウマの事には気が付いたようで、練習が終わった後で慎一郎先生に注意を促していた。
その後、禁煙を始めた夜鷹純に理凰は良さそうな禁煙アイテムを教えたりしていた。
そうして世話を焼く理凰は申し訳なさそうだけど、少しうれしそうな顔だった。
理凰と夜鷹純の関係は不思議だ。
一見すると、だらしない兄と世話焼きの弟みたいな関係だけど、練習の時は一転して厳しい師匠と弟子みたいになる。
あの演技の夜以来また少し関係性が変わったみたいで、最近は表面上のやり取りは変わらないけど、どこか学校の男の子たちがふざけている時のような空気を出すことがある。
理凰に四回転の練習を始めさせた時のやり取りなどは、表面上はいつもの無茶ぶりとそれをしぶしぶ受ける理凰の構図だったけど。
「できないの?」
なんて挑発的に言った夜鷹純に対し即座に理凰が、
「できますけど?」
と返した時のやり取りは、私からはまるで同い年の男の子たちがじゃれ合っているようにも見えた。
その後、クラブの大人たちの間では禁煙が流行った。
そして慎一郎さんは車を電気自動車に変えようかエイヴァさんと話していた。
かえって理凰が気にするだろうからと、その案は結局無しになったけど。
理凰が皆を大事にしているように、皆も理凰の事を大事にしている。
そんな風に理凰は、人の輪を作るのがとても上手だ。
年長組からも男女問わず可愛がられているし、この前はオリンピック選手に選ばれたこともある鯱城さんに捕まって絡まれていた。
四葉ちゃんにもらったクッキーのお返しに、プリンを作った時に自分一人でできるのに私にも手伝いを頼んだり、四葉ちゃんにあーんをしてあげるように言ってきたのは、きっとどうしてもみんなとの間に距離が出来がちな私を自然にその輪に馴染ませる為もあったのだと思う。
理凰がそうして皆との間を取り持ってくれているおかげで、最近は同じ年頃の子達で休憩時間中に集まってご飯を食べたりすることもある。
今もちょうどみんなで集まって話している。
ちなみに今日、理凰はデビュー戦になる大会準備で練習時間が過剰気味になっていたので休養日とっていて不在だ。
「何か、光ちゃんと理凰が一緒に居ないと不思議な感じがする」
そういったのは夕凪ちゃんだ。
最近、夕凪ちゃんは理凰を呼び捨てにするようになった。
この前の慎一郎先生の執事化事件がトドメだったらしい。
「私自身そう言われちゃっても、ちょっと否定は難しいかも。今も実はちょっと落ち着かないから」
夕凪ちゃんの言葉に私はちょっと苦笑をこぼしながら返す。
今日もできれば一緒に居たかったのが本音だ。
でも私は休養日というわけでもなかったので練習もあったし、我慢するしかなかった。
そんな私に夕凪ちゃんは、口をもごもごさせて。
「なんでそんなにアイツがいいかな、いやわかるけど。わかるんだけど、でもやっぱりムカつく」
とすごく小さな声でこぼしていた。
夕凪ちゃんは気付いていないけど、無理をして大人ぶっている所のある夕凪ちゃんに雑に扱える相手を作ろうとしている節が理凰にはあったから、きっとこれは理凰の思うつぼだ。
理凰の手のひらの上で転がされてしまっている夕凪ちゃんを見ていると、理凰が夕凪ちゃんを見るときに何度注意しても微笑まし気な笑みを浮かべてしまっている気持ちが少しだけわかってしまうかもしれない。
「二人のそういう関係って、ちょっと羨ましいなあ」
ちょっと、というだけでは足りなさそうな羨望を感じる声で言ってくるのはりんなちゃんだ。
「でも、りんなちゃん、この前男の子に告白されたって噂で聞いたよ?」
四葉ちゃんが興味津々といった顔で、りんなちゃんに身を乗り出して言う。
りんなちゃんは奇麗な子だし、性格も大人しいから確かに男子に人気はありそうだと思った。
「あー、うん。まあ、告白されたのは、本当なんだけど」
言い淀むりんなちゃん。私には何となくと言わず、完全にオチが見えてしまった。
「どうしても理凰君と比べちゃって…」
『あ~~…』
がっくりと項垂れるりんなちゃんに、ここばかりは夕凪ちゃんすら合わせてみんなで納得の声をこぼした。
「一つ上の学年のりんなちゃんでもダメかあ」
四葉ちゃんが同情するようにそう言うと、話している内容が聞こえていたのか鯱城さんが寄ってきて笑いながら言った。
「あはは、そりゃそうでしょ。高校になったって理凰みたいな奴は一人もいないから! まあ、小中の時よりは多少大人びてきたやつもいるけど、理凰とは比べ物にならないね!」
「みんなにトドメを刺すのはやめてあげてください」
思わず苦言を呈してしまう。
恋に恋する女の子たちに、その現実はあまりに酷じゃないだろうか。
「そうはいってもなあ。理凰の事なら光が一番よくわかってるんじゃないか。その光から見てどうなの?」
そう言われてしまうと、私は目をそらすしかない。
正直、同じ学校の男の子たちは理凰と同じ生き物かすらも疑問だと思ってしまっている私が確かにいる。
『はぁ~…』
私のその反応に今度は鯱城さんまで深いため息をついた。
「お前らなあ」
そんな私たちの所に少し離れたところで食事をとっていた雉多さんが近づいてきた。
「理凰を基準に考えるのはやめとけ。みんな折角可愛いのに結婚どころか恋人も作れなくなるぞマジで」
可愛いとかさらっと言えるあたりに、少し理凰に通じるものを感じる雉多さんは、その似たところの所為かコーチ陣の中でも特に理凰と仲がいい。
たまにキスクラの子に贈る花束の事を理凰に相談していたりするくらいだ。
「あんないい男、俺だって今までで生きてきた中で理凰しか見たことねーからな。それでもしいて挙げるなら、鴗鳥先生くらいか」
ああ、確かにエイヴァと慎一郎先生はすごくいい夫婦だと思う。
「妻子持ちじゃん!」
思わずといった調子で鯱城さんが噛みつくが、雉多さんはどこ吹く風といった様子だ。
そして、少し意味ありげに私に目を向けてから言った。
「いい男ってのは、当然それだけ早く売り切れるのさ」
皆の目が私に向く。
そして私以外の全員ががっくりと肩を落とした。
「あはは…」
それが恋と呼べるものなのかはまだわからないけど、確かに私はもう理凰の隣を自分以外の誰かに渡すつもりがないのは確かだから、皆にかけてあげられる言葉はなく、ちょっとだけ困った顔で笑うしかなかった。
それから少し経って、出来上がったプログラムの練習を理凰が始めて。
そのあまりのカッコよさにクラブ中の皆が黄色い声をあげていたけど、一部の女の子たちの目がちょっとだけ遠い目になっていた。
そんなこんなで、うちのクラブの子達の恋人持ちの比率がスケートに忙しいことを差し引いても長い期間で低迷を続けることになるのだが、私にはどうすることもできなかった。
そんな日常をすごしているうちに、遂に理凰のデビュー戦の日がやってきた。
大会の会場が比較的近かったのもあって、クラブで理凰と関わっていたほとんどの人が応援に駆け付けていた。
どうしても外せない用事がある人達は、血の涙でも流し始めるんじゃないかってくらいに悔しがっていてちょっと怖かったのは秘密だ。
最終滑走の理凰の一つ前の選手の滑りは中々でかなり高い点が出ていた。
それだけに私は少しだけ気の毒になった。
理凰がいてくれるから、クラブ内でこそそういった事態は起こっていないけど、私の滑りと自分の滑りを比べて絶望感を抱いてしまう子がいたことに私は気が付いていたから。
でも、前滑走の選手の事を考えたのは少しの間だけ。
理凰がリンクに上がった。
「頑張って、理凰君!」
「ぶちかましてやれ、理凰!」
「理凰、無様なことしたら許さないからね!」
「理凰君、頑張ってね!」
「理凰、お前なら落ち着いてやれば大丈夫だ!」
皆が思い思いの声援を理凰へ贈る。
理凰と今、確かに目が合った。
「頑張れ、理凰!」
私も精一杯の笑顔と声で理凰へ贈った。
「っ!任せとけ!」
いつもより力強い言葉使いと仕草で親指を立てた理凰が私たちの声援にこたえた。
演技が始まる。
理凰に夜鷹純と慎一郎先生の二人が用意したプログラムは、ジャンプやスピンこそ理凰の使えるもので抑えているけど、それ以外はちょっと驚くくらいの高難度な仕上がりだ。
私のプログラムもノービスのものからは逸脱しているけれど、その比ではない。
あの夜のプログラムに懸けた二年間が、理凰を確かに鍛え上げていた。
きっとすぐに私も追いつく。そう心に決めている。
理凰が私を絶対に一人にしないと誓うなら、私だって絶対に理凰を一人にしない。
理凰の滑りを見ながら、私は決意を新たにした。
理凰の滑走が終わり、会場は拍手で包まれる。
ノービスの演技の後とは思えない歓声だ。
理凰はリンクを降りてきて、慎一郎先生と拳を合わせた。
その時にちらっと眼をやった先には、真っ白な顔をした一つ前に滑っていた選手。
ああ、折れちゃうかな、といつも見てきた私に負けた子たちの顔を重ねて思う。
でも。
「すごい! すごいよ理凰君!」
「みんな、声援ありがとう!」
りんなちゃんが思わず上げた声に、どこからしくない感じに理凰が答えて手を振ってみんなの声援を煽った。
黄色い声がクラブの女の子たちから上がったのを見計らって、理凰は確かに前滑走の選手に顔を向けた。
はぁ!? という声が黄色い声に紛れながらもわずかに聞こえた。
あ、何かやったな、と思ったころにはその選手は肩を怒らせて離れていく。
理凰に振り返った選手と一緒に居たコーチに理凰は何かジェスチャーをしていた。
どんな魔法を使ったのか、理凰は一発であの子を立ち直らせたみたいだった。
「やっぱり、理凰はすごいね」
私は誇らしくなって、笑みをこぼした。
その大会の後も、理凰は優勝を重ねた。
理凰自身も実績とともに名が今まで以上に売れて、私とセットでメディアに取り上げられることがさらに増えた。
そんな理凰は四年生になって一人での外出が許可されて、息抜きの為と言って一人で出かけるようになった。
寂しかったけど、理凰にも一人になりたい時があるのはわかるし、私が付いて行ってしまえば騒ぎになりそうだというのも事実だった。
そんな寂しさを感じてしまう日が何度かあった後、二人で理凰の部屋で一緒にアニメを見ていると理凰は不意に言った。
「この主人公たちのダンス、ちょっと再現してみない? 実は、面白そうだと思ってすでにちょっと練習してるんだよね」
見ていたアニメは競技ダンスを主題にしたアニメで、ダンスシーンのドレスに目を奪われていた私に理凰は狙いをすましたかのように、というかダンスの練習を事前にしていたということは実際狙って誘ったのだろう。
「折角だから、光の好きなヒラヒラのドレスを着て踊ろう。きっとダンスはフィギュアスケートにも生かせる部分もあると思うし、そこを抜きにしても楽しいと思う」
魅力的すぎる誘いに私は二つ返事で受けて、クラブのトレーニングルームへ連れていかれて、とても素敵な時間をすごした。
理凰が手本を見せてくれて、手をつないで踊り始めれば上手にリードしてくれる。
理凰と息を合わせて踊るのはたまらく楽しかった。
気が付けば理凰が用意してくれた振り付けはどれもそれなりに形になっていて、それだけでもう十分幸せだった私に、理凰はさらなるサプライズをくれた。
「実はあるダンスクラブが主催するイベントがあってね」
そう前置きしてから、いつもの気取った時にする片目をつぶった顔でつづけた。
「俺からプレゼントするからさ、一緒にドレスを買いに行こう。そのドレスを着て、父さん母さんとダブルデートってどうかな」
それは一人で出かける理凰に寂しさを隠せなかった私への贈り物で。
そして、理凰と同じようにメディアにさらされている私の気晴らしのためで。
さらには、きっと最近周りの目を気にして、大人しい服を着るようになってきていた私に対する気遣いでもあったんだろう。
私は、いつでも私の事をちゃんと見てくれる理凰の事がたまらなく嬉しくて、大きな声で返事を返した。
「うん、ぜったい行きたい!」
その日以来、イベントの日までたびたび時間を取ってダンスの練習をした。
二人っきりで踊るダンスは心が浮き立つようで、練習なのに私はそんなことを忘れて理凰と踊ることに夢中だった。
ドレス選びの日、理凰はやな顔なんて一つせず、むしろ自分でいくつもドレスを選んできて私に着せてくれた。
私がドレスを着た姿をすごく嬉しそうに見てくれて、沢山褒めてくれた。
そのあと、いくつもドレスを買ってくれようとしたときは、流石に申し訳なくて断ろうとしたら、その前にエイヴァに落ち着くように言われて、正気に戻ったかのようになった理凰は照れ臭そうに私に謝ってくれて、ちょっと可愛かった。
そして、イベント当日の日。
「さあ光、手を」
タキシードに身を包んだ理凰はいつにもまして紳士的でかっこよくて、私はドキドキしてまっすぐに顔を見るのに苦労した。
「ありがとう」
何とかお礼を言って、そのまま理凰に手を引かれて会場の扉の前まで連れていかれた。
「ダンスホールにようこそ、なんてね」
扉が開かれて、そんな理凰の言葉とともに招き入れられたそこは、まるで昔読んだ絵本の中の世界のようだった。
「わぁ!」
自然と歓声をあげる。
色とりどりのドレスを着た女の人たち。
タキシードに身を包んだ男の人たち。
天井に輝くシャンデリア。
物語のお城についているような窓と色鮮やかなカーテン。
理凰に手を引かれて、夢の中のような世界をしばし歩く。
そして、音楽が流れ始めた。
理凰は一度私から離れると正面から向き合ってまるで本物の王子様みたいに私をダンスに誘う。
「それじゃあ、光。 Shall We Dance?」
自分が本当にお姫様になったみたいで、くすぐったかったけど。
今の理凰にふさわしい私になれるようになるべく上品に、それでも喜びは隠せない声でダンスの誘いを受けた。
「喜んで」
音楽に合わせて踊りだす。
最初にワルツを。
理凰と手を取り合って、回って、見つめ合ったまま笑い合って。
時間を忘れる。
いつしか曲が変わって、今度はクイックステップを。
息を合わせて、ホールの中を踊り駆ける。
視線を交わし、ステップを交わし。
今、二人の間に気持ちが確かに伝わり合っているという確信がある。
ああ、幸せとはまさにこれだ、と陶酔する。
理凰以外何も見えない。
世界にたった二人だけになったみたいだ。
音楽が終わって、ダンスをやめてもまだ私は夢の中にいる心地だった。
理凰の腕に自分の腕を絡めたまま、その肩に頭を預けながら、踊るエイヴァと慎一郎先生を眺める。
「エイヴァ嬉しそうだね」
私も、理凰とあんなふうだったのだろうか。
そうだったらいいな。
「うん。ダブルデートは大成功かな」
言いながら、理凰は優しく汐恩ちゃんを撫でている。
「今日はありがとう、理凰。すごく楽しかった」
万感の思いを込めて、気持ちを伝えた。
「こちらこそだよ、光。俺も、とっても楽しかったから」
今もまだ、踊っていた時のまま気持ちがつながっている様なそんな気がした。
「まだまだ、お楽しみは残っているからね。今日は思いっきり羽を伸ばして楽しもう」
そう言ってくれる理凰に、私は幸せ過ぎて言葉は返せずに、ただ気持ちが笑いとしてこぼれた。
「ふふっ」
そのあともエイヴァ達と交代で踊って。
ドレスを着たまま、素敵なレストランで食事をして。
そのレストランでも理凰は私の事をずっとお姫様扱いで。
その日からこのダンスデートは、私と理凰の定番のデートコースになった。