えーただいま私、鴗鳥理凰は。
医務室で、頬を冷やしております。
いやぁ、理依奈さんの平手打ちは強敵でしたね!
流石オリンピアン。
よく鍛えられたスナップの効いた見事な平手でした。
「ごめん理凰」
「ああいや、平手を食らったのは、とっさで上手く間に入れなかった俺の不手際というか」
「我慢できなかったんだ」
「わかってます。気持ちは嬉しかったですよ。でもほら、お相手は事情を知らないわけなので」
「わかっちゃいるんだけどね」
そう言って、気持ちを落ち着けるためか自分の髪をぐしゃぐしゃとして深く溜息を吐く理依奈さん。
「気持ちが落ち着いたら、後でちゃんと謝っとくよ」
「そうですね、そうするのが、理依奈さんにとっても良いと思います」
うん、いきなりこんな状況でごめんな。
訳が分からないよな。
まあ、何が起こったのかと言いますと、慎一郎さんと何かと交流のある五里誠二さんの間で話があって名港ウィンドFSCと愛西ライドFSCの合同合宿が行われましてね。
紆余曲折あって、理依奈さんがいるかちゃんに平手打ちかましそうになったところを何とか割って入って止めたわけです。
おかげでちょっとまあ、派手に平手食らってこの有様と言いますか。
男の子とはいえ9歳ボディではオリンピアンのマジ平手を華麗に止めるのは無理があった次第です。
あんまり人のいないとこでよかったわ。
そこまで騒ぎにならずに済んだ。
理依奈さんも今はまだ高校生。年下の中学生相手とは言え完全に大人な対応というわけにもいきませんよねえ。
そして、もう一度深く溜息をつくと理依奈さんは腰かけていた椅子から立ち上がった。
「ほんとに理凰は大人だな。私はちょっと頭冷やしてくるよ」
そう言って理依奈さんは医務室を出ていった。
落ち着いたところでちょっと改めて事態を整理しよう。
何で今回のこの事態に至っているかというと、まあ、タイミングが悪かった?
うん、そうだな。
時期が悪かったとかタイミングが悪かったとか、そう言ってしまうのが一番正解に近いと思う。
いるかちゃん。
フルネームを岡崎いるかちゃんと言って、未来のジュニアグランプリファイナルの覇者。
漫画では途中衝突がありつつも、いのりちゃんの姉的ポジションに落ち着く子だ。
この子がまあ、表面上はなんというか言動ヤンキーな子なんだけど、根の部分は優しかったり、いのりちゃんに対してデレを見せ始めてからは口が悪いのはほぼそのままだけど行動が愉快だったりで、実に良いキャラなのだ。
ただこの子、メダリストにチラホラいる背景が重い系キャラの一人で、端的に言ってしまうと家庭環境がバチクソ悪い。
漫画の登場時点では環境が改善されていたが、今はまだバチクソ悪い家庭環境真っ只中な時期。
まあそんな状態の、しかもただいま中学生の思春期真っ只中ないるかちゃんが、周りから愛されまくっている俺を見たら、そりゃ色々とコンプレックス刺激されるのは避けられないわけで。
なるべく刺激しないように距離は置いておいたんだけどね。
それがまた気に入らないのか、たんに気に入らないからこそ目に入るし突っかかってしまうというのか。
日が経つごとにかえって絡まれることが増えるという始末。
そして、ちょっと練習場を離れたときにとうとう一対一で捕まりましてね。
「調子乗ってんなよクソガキ」
うーん、見事なヤンキー! でもまだ幼さが残る美少女がやってもなあ!
と、中学生女子に絡まれてもかえって微笑ましいだけで、怖がりもしなかったのが良くなかったんだろうなあ。
「何? お前、あたしの事舐めてんの?」
とまあ、壁ドンですよ。
トゥンク。とか言ってる場合じゃなくて。
そこに理依奈さんが通りがかって、肩を掴んで俺から引き離し。
「理凰に何してんだ!?」
ってね。
まあ、当然俺へのコンプレックスやら嫉妬やらで拗れている子には余計にこのシチュは気に入らないわけで。
「は、こうやってすぐ助けが来る。ほんと、良いご身分だね」
まだ俺にからもうとするいるかちゃんに、怒り心頭な理依奈さん。
うわぁ、これどう止めよう。
どっちも火が付くと止まらないタイプなんだよなあ。
とか悠長に構えていたのも良くなかった。
それは、いるかちゃんとしてはただ妬ましくて羨ましくて言わずにいられなかった言葉なんだろう。
「銀メダリストの息子で、才能あって、誰からも愛されて。何でも持ってて、不幸なんて一つもないって感じでさ。親にだって、小さなころからさぞ大事にされてきたんだろうね」
あっ、こりゃいかん。
と思った時には遅かった。
「ふざけるなよ、お前!? よりによって、理凰にそれを言うのか!?」
年齢的にも俺との接触頻度的にも事情を話さないわけにいかなかった理依奈さんは、俺の事故の事もそれによって失われた記憶の事も知っている。
いるかちゃんの言ってしまったセリフは、その理依奈さんにとって完全に逆鱗のど真ん中だった。
胸ぐらをつかんで激昂する理依奈さんに、事情を知らないいるかちゃんは何でそこまで切れられているのか分かっていない顔で唖然としている。
「理凰が! どんな思いをして! どれだけ頑張ってきたと思ってる! 理凰が自分の努力で手に入れた今を、何も知らないやつが勝手なこと言いやがって!」
完全に頭に血が上っている理依奈さんが目じりに涙さえ浮かべて脈絡の怪しい感情のままの言葉とともに手を振り上げたところで何とか飛びつくように間には入れたが、まあ、平手は俺が食らっちゃったよね。
平手の勢いでふらっとよろめいた俺は思わず地面に腰をついて、真っ青になった理依奈さんに、唖然としたままのいるかちゃん。
「お前ら何やってんだ!?」
で、五里さんが騒ぎを聞きつけてやってきて、理依奈さんといるかちゃんを引き離して、俺と理依奈さんは医務室へ。
で、冒頭のやり取りに戻るわけだね。
うーん、この、何?
不幸な背景の玉突き事故とでも言えばいいの?
誰も悪くないのがヒドイ。
いや、いくらコンプレックス刺激されたからって、9歳児に絡むなって話はあるんだけど、俺って満場一致で9歳児と思えないって言われるある意味年齢詐欺少年だからなあ。
今にして思えばだけど、ちょっといるかちゃんの絡みを上手くかわし過ぎてたんだな。
もうちょっと上手く発散させてあげるべきだったかあ。
そこは俺も反省する必要がある。
そんなこんなで流石にその日のそのあとの練習は、休むことになった。
頬が結構腫れてたし、まあ、頬とはいえ頭部付近への強い衝撃なわけだしね。
少しした後、慌てて駆け込んできて俺の頬の腫れ見た時の光ちゃん、ちょっと怖かったわ。
一瞬で表情が抜け落ちて一言。
「誰にやられたの?」
ってね。
うん。もめごとの仲裁に入ってしくじっただけだって説明してね。
流石にもめごとの詳細な内容は話せなかった。
今の光ちゃんに言ったら、割と本気で血の雨が降りそうで。
なのでこっちから甘えて、俺のお世話に意識を持っていきましょうねえ。
「悪いんだけど、そろそろ手が疲れてきててさ。氷を頬にあてるの代わってくれない?」
「あ、うん、そうだよね。わかった」
俺が頼むと光ちゃんは隣に座って氷を受け取って、それを頬にあててくれる。
「ひどい腫れ。これ、かなり痛いんじゃない?」
まあ、そこそこには痛い。
口の中も切れてるっぽくて、夕食の時が今から思いやられる。
だが、男の子は時にはやせ我慢でも我慢が大事である。
というか、光ちゃんの怒りが再燃するとまずい。
「大丈夫だよ大したことはないから」
あんまり信じてない顔だが、俺の意図を察してくれたのか軽く溜息をついた光ちゃんは、その後は他愛のない雑談をするくらいでいろいろ詮索することはなく、ただ傍にいてくれた。
そのうち顔の腫れは引いて、ちょっとあざが残るくらいになった。
そして、光ちゃんや理依奈さんに心配かけないように口の中の痛みを顔に出さずに夕食を終えると、個室に呼び出された。
部屋の中には、慎一郎さん、五里さん、いるかちゃんの三人が。
理依奈さんは、すでにいるかちゃんに謝ったそうだ。
「事情を知らない相手に一方的に感情をぶつけてすまなかった」
って。
うん、やっぱあの人かっこいいわ。普通はあの勢いで衝突してすぐに切り替えて謝れんよ。
そして、いるかちゃんの顔がヤバイ。
ああ、俺の事情を聞いちゃったかあ。
五里さんもかなり顔色がヤバいが、いるかちゃんのこんな顔は漫画でも見たことがない。
「本当に、本当に申し訳なかった!」
扉が閉まって向き合うと、開口一番に五里さんが謝ってきた。
腰は九十度以上曲がり、今にも土下座に移行しそうな勢いである。
「うちの選手が、まだ9歳の君に絡んだばかりか、あまりにも心無い言葉を聞かせてしまった!」
うん、まあ、事情聞いちゃったらそうなるのはわかる。
でもそれ、事情聞く前の事なんですよ。
慎一郎さんの方に目を向けると、軽く頷いてくれた。
そっか、俺に任せてくれるか。
「わかりました。謝罪を受け入れます」
「っは? いや、しかし」
五里さんは一瞬何を言われたのか分からなかったようで、一瞬止まってから顔だけこちらに向けて戸惑った様子だ。
「そもそも、謝罪は絡んだ分だけで十分なので。 事情を知らなかったことを考えれば、いるかさんの発言は別にそこまで問題になるようなものでもありません」
「いや、だが、事情を知らなかったとはいえ、いるかが君にかけた言葉はあまりにも…!」
「俺の生きた時間は、もう失った時間を超えていますし、今更ですから」
愕然とした顔で五里さんが絶句する。
そして、うぅん、言えば言うほどいるかちゃんの表情がヤバく。
さっきから一言も発言しないけど、これはあれだな謝れないとか謝りたくないとかじゃなく、罪悪感がヤバすぎて謝罪の言葉すら絞り出せないって感じか?
喚いて詰ってあげたほうが少しは気分マシになるのかもだが。
んー、どうしたもんかな。
…そうだな、こうしようか。
「まあ、それでは気が済まないだろうと思いますので、一つ要求を聞いてください」
「っああ!できる限りのことをするから言ってほしい!」
「いるかさんと二人で話をさせてください」
俺の要求に、いるかちゃんが肩をびくりと跳ねさせた。
「あ、いや、それは」
返事に詰まる五里さん。
だが逃がさん。
「いるかさんは、また俺に絡みますか?」
「…からまない」
蚊の鳴くような声でかえってくる返事。
「また、あの時のような言葉を俺にかけますか?」
首を強く横に振って再びかろうじて絞り出される返事。
「…絶対にしない…!」
オーケーだ。
「なら問題ありませんね。ここだと息が詰まりますので、そうだな、屋上にでも行きましょうか」
戸惑いつつも動こうとした五里さんを慎一郎さんが止めてくれる。
俺を信じてくれているんだろう。
さっすがマイダディ。かっこいいぜ。
ちょっと強引に手を取っているかちゃんを引っ張って歩く。
途中自販機でホットのカフェオレを二つ買った。
いるかちゃんはずっと何も言わない。
俺も何も言わずに、顔を覗くようなこともせずに。
階段を上り、屋上への扉を開いた。
うん、今日はいい天気で月も星もきれいに見えるな。
屋上の端の方まで引っ張っていき、手を離した。
「絶好の天体観測日和ですね。まあ、しないんですけど」
ふざけて言う俺に、どこか戸惑った様子になるいるかちゃんへ向かってホットカフェオレのペットボトルを投げ渡す。
「どうぞ。あ、拒否権はありませんので。一応聞きますけど、アレルギーとかないですよね?」
いるかちゃんは頷いてからペットボトルの蓋を開けて、一口飲んだ。
ほう、と吐き出される息に、こわばっていたのが少しはマシになったような肩。
それを確認してから言葉を投げた。
「俺の事どんな感じで聞きました?」
「事故にあって、それでそれ以前の記憶を全部失ったって聞いた。そのあと、ずっとずっと頑張って、今のお前になったって」
なるほど。
端折ってそうだが大体そんな感じか。
「まあ、そんなわけです。悪かったですね、こっちの事情でこんな騒ぎになって。理依奈さん迫力あるから怖かったでしょ?」
「っ、なんで…!」
「まあ、でも許してあげてください。ちょっとデリカシーに欠けるとこありますけど優しい人―――」
「なんで、お前が謝るんだよ!」
フィッシュ!
「悪いのは私だろ! まだ子供のお前を、羨んで、妬んで! あんな言葉を吐き捨てたんだぞ!?」
「俺の事情しらなかった時の話じゃないですか」
「知らなかったですむわけあるか! 羨んだことすら最低じゃないか! お前みたいな子供が! 何もかも全部一度失って、ようやく拾い集めたもの全部…! 不幸一つなく、何でも持っているだなんて…!」
「その通りじゃないですか。今の俺は全部持っています。何一つ不幸なんてありませんよ。どうです、羨ましいでしょう?」
ちょっとオーバーアクションに手を広げて自慢げにして。
そう言ってあげると、いるかちゃんはポカンという顔になった。
「あんなの今の俺には誉め言葉でしかありません。家族や仲間に恵まれましたし、それにあれだけ羨んでもらえたら頑張ってきた甲斐があるってもんです」
うーん、ザ・間抜け面って感じ。
少しはいろいろリセットできたかな。
ようやく本題に入れるってものだ。
「とはいえ、俺の事情をはからずも聞かれてしまったわけですし。ここはひとつ、いるかさんも話をしてくださいよ。なんで俺がそんなに羨ましいのかを」
「そ、れは…」
「まさか話せない、なんて言いませんよね」
この状況でこう言われて、まさか口は噤めまい。
折角の機会だ。
精々吐き出してしまうと良い。
俺は、自分の分のカフェオレの蓋を開けて一口、二口と飲んでいるかちゃんが話し出すのを待つ。
「私は、私の親は…」
そうして始まるいるかちゃんの話。
親の口が悪いこと。
すぐにからかわれるのが嫌なこと。
虐げられることもあって辛いこと。
実はスケートを始めたのは母親が吐いた嘘が原因だったこと。
俺は、言葉は挟まずに、時々相槌だけ打ってカフェオレを飲みながら話を聞く。
そして話は続く。
クラブで出会った女の子に救われたこと。
その女の子がスケートをやめてしまって寂しかったこと。
親のトラブルで以前のクラブを離れたこと。
たまたま五里さんと出会い、愛西ライドに入ったこと。
高校から親元を離れて寮で暮らすことになる予定であること。
ちょっと涙声になってきたので、空を向いて月を眺めた。
親が心穏やかな時は優しかったこと。
三人で仲良く笑い合った幸せな思い出が忘れられないこと。
とりとめのない語りはかえっているかちゃんの散らかった気持ちを表しているように感じられた。
そして話が終わり。
「私は、お前が羨ましかった。家族と幸せそうで、信頼し合っててっ」
感情が激したのか、胸元を掴まれる。
でもそれは、どちらかというと縋るような有様だった。
「それが、お前の努力の上にあるものだなんて、想像すらしなかった!」
俺の胸元を掴んだ手に額を預けて、いるかちゃんは嗚咽をこぼす。
「ごめん…ごめんなさい…!」
「…はい。俺はあなたを許します。…今までよく頑張りましたね、いるかさん」
俺はそうとだけ言葉をかけてから、泣きじゃくるいるかさんの頭を泣き止むまで撫でた。
泣き止んだ後、いるかちゃんは赤くなった目元のまま照れ臭そうに笑って言った。
「お前みたいな子供相手に何やってんだかね、私」
まあ、すっきりした顔をしているし、これならもう大丈夫だろう。
「目元真っ赤ですから、冷やしてから寝ると良いですよ」
ちょっと茶化すつもりで言ったが。
「ありがと。そうする」
と、カラッと笑顔で返されてしまった。
なお次の日から、なぜか距離感がいのりちゃんと仲良くなった後みたいな感じになっていた。
いや下手するともっと近いか?
Oh。
光ちゃん筆頭に、なんかうちのクラブの面々皆に深いため息をつかれた。
事情を知っていた理依奈さんだけは、やっぱりそうなったかと笑っていた。
うんまあ、コラテラルダメージってことで、ひとつお願いします。