岡崎いるか視点
そいつの名前を最初に知ったのは、五里先生の伝手で名港のリンクを初めて借りたとき。
もうだいぶ前になるけど、世間で有名になる前から名港ではすごく有名な奴だった。
曰く、天才少年。
曰く、年齢詐欺。
曰く曰く曰く。
名港に出入りしていると、そいつの話を聞かないときはない。
恐ろしいのはこれだけ噂されているのに、悪い話を一つも聞かない事だ。
しいて言えば時々大人でもびっくりするような悪戯を仕掛けるとか、失恋付き初恋泥棒だとかそれくらい。
前者はともかく、後者はなんだそれと思ったので妙に印象に残っている。
私はそいつと年齢が少し離れていたし所属のクラブも違っていたから、リンクを借りる時もすれ違いで直接会ったことはなかった。
そいつの名前は鴗鳥理凰。
銀メダリストの息子にして今年ノービスに上がったデビューしたてにもかかわらず、すでに時代を牽引すると目されている程の天才少年。
実は私は、見たものが口を揃えて異次元というそいつの滑りを一度もちゃんと見たことがない。
性別が違うから競うことはない相手だったし、誰からも愛され認められているそいつへの反発もあった。
そしてその反発は、直接会って決定的なものになった。
名港と愛西の合同合宿で初めて見たそいつは、知れば知るほど神様とか運命とかに愛されているとしか思えない奴で。
正直に言おう。
私はそいつに、まだ9歳の子供に、どうしようもない羨望と妬心を抱いた。
良い奴なのはわかる。
年齢詐欺って言われるのも納得だ。
才能は練習だけ見ていてさえはっきりと分かるほど。
端から見ていてさえわかるような数々の美点は、私にとってはむしろ暗い心をより強く燃やす燃料でしかなかった。
特に私の心をかき乱したのは、あいつの親との関係。
お互いを信頼し合って慈しみあっているその様子は、親との関係に悩み続けている今の私にはどうしようもなく腹立たしかった。
こんな小さな子に何をやっているんだと思いつつ、自分ではどうしようもない衝動に背を蹴とばされて、私はそいつに何度も絡んだ。
でも、そいつは口が悪くて態度の悪い私を少しも怖がらない。
むしろ、表面上は大人な対応で無難にかわしつつも、その目にはしょうがない子供のわがままを許すような、今までの私に与えられたことのない優しい色があった。
だんだん反発心すら突き抜けて、怖くなっていった。
五里先生は、きっと私の才能を愛してくれているし、そしてそれなりに長い付き合いで培った情のもとで大人の責任をもって私の事を助けてくれている。
でもこいつは、違う。
何で自分に悪意を持ってくる相手にそんな風にできるのか。
人に愛されて育つと、こんな風になれるのか。
それなら、親からさえ愛されていることに自信を持てない私は?
ぐちゃぐちゃな感情に引っ張られて、練習場を出ていくそいつを追う。
今なら周りに止めるような相手もいない。
「調子乗ってんなよクソガキ」
出た声は自分で思った以上に暗い色をしていた。
それでもこいつはどこか困ったような顔をするだけで、その優しい色を目から消さない。
やめて。
「何? お前、あたしの事舐めてんの?」
そんな、見たことがないような、実叶ちゃんに似ていて、でもそれとも違う、そんな目で私を見ないで。
「理凰に何してんだ!?」
そいつに意識を持っていかれていた私は、怒声とともに肩を引っ張られてようやく人が近づいていたことに気が付いた。
鯱城さん。オリンピック選手に選ばれた事のある、私にとっても憧れを覚える人。
そんな人が、そいつを本気で庇っていた。
再び噴き出す黒い感情。
「は、こうやってすぐ助けが来る。ほんと、良いご身分だね」
あこがれている相手から怒りを向けられても、どうしても我慢出来ずに。
「銀メダリストの息子で、才能あって、誰からも愛されて。何でも持ってて、不幸なんて一つもないって感じでさ。親にだって、小さなころからさぞ大事にされてきたんだろうね」
私はそいつに、自分の羨望と嫉妬を吐き捨てた。
反応は激烈だった。
鯱城さんは数瞬絶句して、目が吊り上がって、すごく強い力で私の胸ぐらをつかみ叫ぶ。
「ふざけるなよ、お前!? よりによって、理凰にそれを言うのか!?」
よりによって?
思考の隅で疑問に思うが、あまりに強い反応が返ってきて混乱する私はただ茫然と鯱城さんの剣幕に竦む。
「理凰が! どんな思いをして! どれだけ頑張ってきたと思ってる! 理凰が自分の努力で手に入れた今を、何も知らないやつが勝手なこと言いやがって!」
浴びせられる言葉の意味は何一つ分からなかったけど、自分が何かを決定的に間違ったことだけはわかった。
鯱城さんの手が振り上げられ、あ、叩かれると思った瞬間、そいつが私と鯱城さんの間に飛び込んだ。
私の代わりに鯱城さんの平手を食らって、地面に腰をついたそいつ。
思考は凍り付いたように動かない。
「お前ら何やってんだ!?」
そうしてやってきた五里先生に、鯱城さんとそいつから引き離されて、説教を受けて。
でも私は、上の空だった。
これまでの付き合いで鯱城さんの人となりをそれなりに知っていた私は、鯱城さんのあの尋常じゃない反応がどうしても気になってしまっていたからだ。
そして、五里先生とともに鴗鳥先生と鯱城さんの四人で話をすることになった。
鯱城さんは最初に私に頭を下げた。
「事情を知らない相手に一方的に感情をぶつけてすまなかった」
事情、そう事情だ。
鯱城さんが手まで上げようとした事情。
私はそれを知らないといけない気がする。
「その事情って、俺たちが聞いても良い奴か、慎一郎」
五里先生が鴗鳥先生に聞くと、鯱城さんがばつが悪そうな顔をして鴗鳥先生に謝る。
「ごめん、先生」
「いえ、私も君が怒ってくれてうれしかったのだから、謝ることはありません。とはいえ、こういった騒ぎになってしまった以上、全く説明しないというわけにはいかない」
鴗鳥先生は、自分の心を整理するかのように前置きを置いてから話し出す。
「これは、名港でも家族とコーチ陣と、理凰と昔から関係が深かった一定以上の年齢の生徒だけが知っている話です」
そうして私は、そいつの、理凰の事情を知ることになった。
記憶喪失。
それを知って私の思考は一瞬で漂白された。
その後の話も上手く入ってこない。
脳が理解を拒んだのだと後で理解した。
そのせいで、その後に続いた理凰の記憶を失ったあとの歩みについての話の記憶は断片的だ。
それは一人の少年の、失ったものを再び一つ一つ拾い集めていく歩みの話だった。
まるで、別人のようになってしまった少年は、自分を隠すことがとても上手になって、それでも最初のうちはその上手さでも思い出せない親に対する申し訳なさを隠しきれていなかった。
―――嫌だ。
それでも、今の自分に少し遅れて家にやってきた女の子を慈しんで、優しく手を引いてあげていた。
―――わかった。
スケートに本当に真摯に向き合って頑張って積み上げて。
―――もう、わかったから。
話が進むたびに心が悲鳴を上げた。
自分が口にしてしまった言葉がどれほど無神経で、残酷なものだったのかいやが応にも理解させられる。
聞かなくてはいけない、耳をふさいではいけないとわかっていても、今すぐに耳をふさいでうずくまってしまいたくなる。
世界との関わり、人との関わりの、その一つ一つを宝物のように大切にする生き方。
理凰という少年は、多くに愛されているからああなのではなく。
多くを愛しているからああなのだ。
羨んでいいものじゃなかった。
妬心なんて抱くだけでも罪深い。
私はずっとずっと口の悪い親に言葉で踏みにじられてきたのに。
そのつらさを知っているのに。
よりにもよって、その私が、すべてを失って、それでもなお世界を愛することを諦めなかった、自分より小さな少年が築き上げてきたすべてを、言葉で無造作に踏みにじったのだ。
自分のやったことが理解出来てくるにつれて、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
五里先生が体を支えて、何かを言ってくれているのはわかったが、頭に入ってこない。
罪悪感と、言葉にしたらあまりに簡単なそれは私の心を圧死でもさせかねない重圧を持っていた。
その後しばらくの事は正直よく覚えていなくて、いつの間にか鯱城さんは居なくなっていて、そして、理凰が部屋に入ってきた。
心臓が嫌な跳ね方をずっとしている。
謝らなくちゃいけない。
でも言葉が出ない。
そんな私をわかっていたのか、五里先生が先に理凰に頭を下げた。
謝罪の言葉に、困ったような顔の理凰は、鴗鳥先生の方を見てから本当に軽い調子で言った。
「わかりました。謝罪を受け入れます」
なんで、どうして。
「そもそも、謝罪は絡んだ分だけで十分なので。 事情を知らなかったことを考えれば、いるかさんの発言は別にそこまで問題になるようなものでもありません」
そんなわけない。許されていいわけがない。
「俺の生きた時間は、もう失った時間を超えていますし、今更ですから」
お願いだから、そんな風に、自分の痛みを隠して飲み込まないでよ。
うつむいてしまいそうな顔を、それでも何とか押さえつけて、せめて理凰に向き合う。
「まあ、それでは気が済まないだろうと思いますので、一つ要求を聞いてください」
ようやく何か罰を得られるかもしれないと思いつつも、そのあとの要求に私はつい肩を跳ね上げた。
「いるかさんと二人で話をさせてください」
怖い。と思った。
責められることじゃない。
許されてしまうことが怖い。
でも理凰は、そんな私を逃がさない。
「いるかさんは、また俺に絡みますか?」
「…からまない」
もう絡むわけがない。そんなことは出来ない。
「また、あの時のような言葉を俺にかけますか?」
胸が鋭く痛んで、それをかき消すように必死で首を横に振った。
「…絶対にしない…!」
二度としない。一度目だって、もし過去に戻れるなら自分を殴り倒してでもさせない。
「なら問題ありませんね。ここだと息が詰まりますので、そうだな、屋上にでも行きましょうか」
そういった理凰は、子供にしては強い力で私の手を引いた。
歩く途中の自販機でカフェオレを二つ買って。
何も言えないでいる私に責める言葉もなく、視線もむけないでくれる。
年齢が逆転したみたいだった。
手をずっと引かれて、階段を上って、屋上に出た。
屋上の端の方まで着くと手が離されて、理凰は口を開く。
「絶好の天体観測日和ですね。まあ、しないんですけど」
おどけた調子で言う理凰は、明かりの少ない中で月明かりに照らされているシチュエーションと日本人離れしたハーフとしての容姿も手伝って、どこか浮世離れした超然とした空気をまとっていた。
今初めて理凰という人間をちゃんと見たような気がして戸惑う。
そんな私に理凰はペットボトルを投げ渡して言う。
「どうぞ。あ、拒否権はありませんので。一応聞きますけど、アレルギーとかないですよね?」
言われるままにカフェオレを一口飲んで、その甘さと温かさに知らず息がこぼれた。
それを見計らったのか、理凰は聞いてきた。
「俺の事どんな感じで聞きました?」
「事故にあって、それでそれ以前の記憶を全部失ったって聞いた。そのあと、ずっとずっと頑張って、今のお前になったって」
端的に、聞いた内容を答えた。
「まあ、そんなわけです。悪かったですね、こっちの事情でこんな騒ぎになって。理依奈さん迫力あるから怖かったでしょ?」
簡単に返ってきた言葉に、どうしようもなく感情が高ぶっていく。
「っ、なんで…!」
「まあ、でも許してあげてください。ちょっとデリカシーに欠けるとこありますけど優しい人―――」
これ以上言葉を続けさせたくなくて叫んだ。
「なんで、お前が謝るんだよ!」
ああ、ひどい八つ当たりだと思いつつ言葉が止まらなかった。
「悪いのは私だろ! まだ子供のお前を、羨んで、妬んで! あんな言葉を吐き捨てたんだぞ!?」
「俺の事情しらなかった時の話じゃないですか」
やめて。
許さないで。
そんなことされてしまったら、私はもう立っていられる自信がなくなってしまう。
「知らなかったですむわけあるか! 羨んだことすら最低じゃないか! お前みたいな子供が! 何もかも全部一度失って、ようやく拾い集めたもの全部…! 不幸一つなく、何でも持っているだなんて…!」
ほとんど悲鳴のように吐き出した言葉を、理凰は何でもない事のように受け取って、優しく返してきた。
「その通りじゃないですか。今の俺は全部持っています。何一つ不幸なんてありませんよ。どうです、羨ましいでしょう?」
手を広げて、いっそ歌うように言われた言葉に頭が真っ白になった。
「あんなの今の俺には誉め言葉でしかありません。家族や仲間に恵まれましたし、それにあれだけ羨んでもらえたら頑張ってきた甲斐があるってもんです」
堂々と真正面から、自分の歩みを誇ってみせる理凰に私は何も言えなくなる。
「とはいえ、俺の事情をはからずも聞かれてしまったわけですし。ここはひとつ、いるかさんも話をしてくださいよ。なんで俺がそんなに羨ましいのかを」
「そ、れは…」
「まさか話せない、なんて言いませんよね」
そんな風に言われて、話さない選択肢はなかった。
どう話そうか、どこから話そうかと迷う私を、理凰は決して急かさずにカフェオレを飲みながら待ってくれる。
「私は、私の親は…」
そうして私は私の話を理凰に語って聞かせた。
理凰は言葉は挟まず、カフェオレを飲みながら時々優しい声で相槌だけ打つ。
まるでずっと年上の人に甘えている様な、そんな気分になった。
とりとめのない自分の語りは、私に自分の気持ちを改めて確認させる。
そして、高校に入って一人暮らしを始める予定であるということを話した時、思わず声が震えた。
察した理凰は、今の私の顔から視線をはずすためだろう。
空の月を見上げてくれた。
私は親から逃げる。
それは今の私には必要なことだった。
でも、あの人たちが優しくしてくれた時もあったことが忘れられない。
三人で笑い合った、普通の家族のような幸せな時間も確かにそこにはあったのだ。
ああ。
「私は、お前が羨ましかった。家族と幸せそうで、信頼し合っててっ」
ようやく本当の意味で自分の気持ちに向き合って認められた気がする。
でもその感情の重さで崩れ落ちてしまいそうで、理凰の胸元に縋り、縋った手に額を預けた。
「それが、お前の努力の上にあるものだなんて、想像すらしなかった!」
そうして全部吐き出して、ようやく正しく謝ることができると、自分の心が認めた。
「ごめん…ごめんなさい…!」
「…はい。俺はあなたを許します。…今までよく頑張りましたね、いるかさん」
理凰は、私の謝罪を優しすぎる声と言葉で受け入れてくれた。
私は、理凰よりずっと幼い子供になったみたいに泣きじゃくった。
その間、理凰はずっと優しく頭を撫でてくれた。
泣き止んで、理凰の胸元から顔を離した私は照れ臭さに笑う。
「お前みたいな子供相手に何やってんだかね、私」
本音ではとっくに子ども扱いなんてできなくなっていたけど、口ではそう言った。
ちょっと意地悪な顔をしている理凰は、体こそ小さいけど、私にはもう到底子供には見えない。
「目元真っ赤ですから、冷やしてから寝ると良いですよ」
からかうような調子のその言葉にも、確かな気遣いがあって少しも腹が立たなかった。
だから私は笑って素直に返した。
「ありがと。そうする」
次の日から私は時間があれば理凰についてまわった。
理凰に学べば、いつかあの両親とも上手くやっていけるようになるんじゃないかと思った。
それに、理凰の傍は居心地がいい。
理凰といつも一緒に居る光には悪いけど、たまに一緒に居られる時くらいは少しだけその場所を貸してもらおう。