結束いのり視点
私がお兄さんと呼んでいるその人に出会ったのは四年生になったころ。
いつものようにミミズと交換にスケート場を使わせてもらいに行った日の事だ。
瀬古間さんにミミズを渡そうとしたその時に突然声をかけられたのが発端だった。
「瀬古間さん、それ、いったい何の闇取引の現場なんですか?」
私は思わず飛び上がりそうなくらい驚いて、変な声をあげた。
そのせいで瀬古間さんが呼んだその人の名前は聞き逃してしまって、その人の名前を知るのはずっと先の話になってしまう。
「いのりちゃん、だったっけ? 君はこれが良くないことだってわかってるよね?」
心臓がバクバクといったままの私に告げられたその言葉は、一瞬私の心臓を止めたかのように感じられるものだった。
わかっていた。
瀬古間さんは許してくれているけれど、これはホントは良くないことだって。
でも私は、スケートに触れられる時間が失われてしまうことがどうしても受け入れられなくて口をつぐんでしまった。
そんな私に、その人は優しい声で言葉を続けた。
「だから、俺と取引をしよう。俺はなんだかんだ瀬古間さんにはお世話になっていてね」
取引。
とがめられると思っていたのに、予想外に飛び出したその言葉に驚いて、私は顔をあげた。
「瀬古間さんの飼っている鳥の為にミミズを集めるのは結構大変…ええぇ、この量は結構じゃすまないんじゃ…いや、ともかく君がミミズを集めるのにかけている労力分の対価として、俺が入場料を支払う」
途中でミミズの入った袋を見て、何か言葉が漏れていたけど、私はそんなことよりも取引の内容に耳が釘付けだった。
「労働には対価が必要だ。君が瀬古間さんにミミズを届け続ける限り、君は堂々とスケート場で滑って良い」
それはこの方法でスケートをしていることをどこか後ろめたく思っていた私にとって、この上ない救いだった。
これで私はもう、この大好きなスケートの時間を後ろめたく思うことなく過ごすことができるようになるのだ。
きっとそれは、本質的には瀬古間さんが私にしてくれていたことと変わりがないのだけど。
その人は、はっきりと私にミミズを集めるという労働を要求し、それに対してお金を支払うという形を明確にしてくれた。
その違いは大きかった。
そして、それだけじゃない。
その人は私にもっとかけがえのないものを同時に与えてくれた。
「さあ、そういう事だから滑っておいで。俺も後で滑りに行くから君が嫌じゃなかったらだけど、少しスケートを教えてあげよう。これでも少しだけスケートが上手なんだ」
スケートをちゃんと教わることができる。
その人との出会いは、私にとっての最初の奇跡だった。
ずっとただのまねっこでしかなかった私のスケートは、その日から本物に変わった。
「あ!お兄さん!」
その人はいつも自分が来る日をそれとなく瀬古間さんを通じて私に教えてくれて、大体週に一回がお母さんに内緒のスケートレッスンの日になった。
私が呼んで駆け寄ると、いつも穏やかな笑顔を浮かべて私を迎えてくれた。
「やあ、いのりちゃん」
「今日もよろしくお願いします!」
その人は、私の前で滑りを見せる事はほとんどなくて、いつも自分の事を大したことはない人のように言うけれど、瀬古間さんの態度と私に対する教え方の上手さから、きっと只者ではないのだろうと察せられた。
年齢は、中学生くらい?
体格的に流石に高校生は無いかな?
でも言動だけで考えてしまうと、大人の人でしたと言われても納得できてしまいそうだ。
そんな推測がことごとく外れていることを知るのも後の話。
その人の教えは、体力や筋力などを鍛える体作りとスケートの基礎的な部分の特にスケーティングに重点を置いたものだった。
残念ながら、怪我をしてしまうとこの練習が続けられなくなるという理由もあってジャンプやスピンといった部分は教えてもらえなかったけど、その教えはしっかりと体系立てられていてとてもわかりやすくて、本格なスケートの練習が出来ているという喜びもあって私は夢中になった。
「あ、そういえば教えていたトレーニングはちゃんとやってる?」
「はい!大変だけど、頑張って続けてます!」
週に一回くらいしか練習を見られないことを気にしてくれて、自分が居ないときの練習のメニューまで用意して、私のオーバーワークまで気遣ってくれる。
「勝手に練習量増やしたら駄目だからね。それで体を壊したりするようなら、俺は教えるのをやめるから」
「はい!絶対にしません!」
そんな約束を破るはずもない。
確かに正しい形で積み重ねられているという実感は、私から形のない焦燥を打ち払ってくれていたから。
それに、氷の上以外でもスケートの為にできることがあるというその人の教えは、私の日々を大きく変えてくれた。
学校では体育を頑張るようになったし、ちゃんとスケートを学んでいるという自信のおかげで周囲の目がだんだん気にならなくなり、学校生活も少しだけ色合いを変える。
「今日はちょっと、バックスクラッチをやってみようか」
私が単調な練習に参ってしまわないようにだろう。
その人はそうして頃合いを見計らって新たなことを教えてくれる。
「まず一度やってみせるから見ていてね」
スピンやジャンプにつながるその練習は、すごくワクワクした。
「まあ、見本はこんな感じだね。それじゃさっそく、やってみようか。姿勢なんかは都度、俺が調整してあげるから、まず実践!」
凄く教えなれた調子で、私に指示を出し、的確な指示でどんどん不格好だった私のバックスクラッチを修正していって、気が付けば私は上手に回れるようになっている。
「やった!できました!できましたよ、お兄さん!」
上手にできればちゃんと褒めてくれて、その練習の意味もちゃんと伝えてくれた。
「ああ、上手にできてたよ。これから練習にこのバックスクラッチも組み込むね。これをやりこんでいけば、君がちゃんとスケートを始められるようになったその時に、ジャンプやスピンを覚えるための確かな助けになるから」
そしてしばらくたったある日にまた新たな練習を提案された。
「いのりちゃん、これから教える練習は正直な所効果がどの程度出るかはわからない。もちろん完全に無駄になるようなことはないけどね。だから無理にやることはないんだけど…」
「やります!」
当然即答した。
内容は目隠ししての振り付けの再現と、スイカ割りみたいな目隠し状態での移動を行う練習だ。
狙いとしては、映像記憶能力、身体操作の感覚、空間把握能力、これらを分解的に鍛えたうえで、それらを最終的に紐づけていくことだと言われ、訓練の大変さも併せて伝えられた。
その人は少し心配していたようだったけど、私は迷わなかった。
「それが少しでも、スケートを出来るようになった未来で役に立つかもしれないなら、私はやりたいです」
私がそう答えれば、その人も覚悟を決めた目で返してくれる。
「わかった。それなら俺も全力でサポートしよう」
その日から新たな練習が追加された。
その人との日々はとても充実していて、だからこそ一つの不安が募った。
「あの、お兄さん」
「ん? どうしたの?」
「私、スケートをちゃんと始められるでしょうか」
私はまだどうしても、お母さんにスケートをやりたいという事が出来ないでいたのだ。
そんな私に、その人は何でもない事のように言う。
「始めるだけなら、今日からだってできる。そのために背中を押してあげることは実は簡単なんだ」
「え?」
一瞬聞き間違えたかと思うほど簡単にその人は言う。
「いのりちゃんは親にわがままを言う事が悪いことだと思っているようだけど、わがままには実は二種類ある」
「二種類?」
「言ってはいけないわがままと、言わなければいけないわがままだよ」
続けられる話に私はますます混乱した。
私がそう言った反応を返すことが分かっていたであろうその人は、ゆっくりと私の理解を促すような口調でさらに話を続けた。
「わがままって言うのは、本質的には自分のやりたいことを相手にやりたいと伝える行為だ。内容によっては当然迷惑も掛かるし負担だってあるかもしれない。基本的には我慢したほうが良いと世間一般では教えられるし、実際それも間違いじゃない」
わがままの意味を改めて定義して。
「でも、物事には大体例外がある。わがままに関して言えばね、そのわがままが、それを通さなかったら自分が一生後悔してその後の人生に影が落ちてしまうような内容だった場合だ」
それをもとに例外を設けた。
その例外は、私にとって本当にぴったりの話で私は思わず期待を込めて聞いた。
「それは、なんでですか?」
その問いにはまず質問が返された。
「いのりちゃんがわがままを我慢するのは、何でかな?」
「私は不器用で、何にもできなくていつもお母さんにがんばってもらって、もうこれ以上はって」
「いのりちゃんはお母さんは好きかな」
「はい」
「お母さんはいのりちゃんを大切にしてくれる?」
「はい」
「ならいのりちゃんは、やっぱりそのわがままを言うべきだ」
いくつかの質問の後に、その人は強い口調で断定する。
その先に、きっと私の求める答えがある。
「どうして?」
私の再びの問いに、その答えが返された。
「君の好きな、君を大切にしてくれるお母さんが、君の事を不幸にしてしまわないように」
視界が、一気に開けたような気がした。
「親ってやつは、自分にちょっとやそっとの迷惑がかかったって、子供に幸せになってほしいものなんだよ。それが良い親ならなおの事だ」
そうか、そうなんだ。
お母さんが私を大事にしてくれていることを私は知っている。
だから、わがままなんてこれ以上言ってはいけないと思っていた。
でも違ったんだ。
わたしは、勇気を出してわがままを言わなくちゃいけないんだ。
「ちょっとはわがままを言う勇気が出しやすくなったんじゃないかな?」
「…今までよりは、言いやすくなったかもしれません」
それでもまだ、勇気は出し切れないけれど、確かに一つ扉を開けた。
そんな風に感じた。
「うん、それは何よりだ。でもまあ、いままでこの話をしなかったのはそれなりに理由があってね」
話はさらに続く。
「極論、いつだって一歩踏み出せばスケートを始めることは出来るけど、ただ始める事と、スケートで上を目指して戦い続けていく事は大きく違うからなんだよ」
その人は、私がいつか一歩を踏み出すことは少しも疑っていないようだった。
そして、その先の事を私に話してくれていた。
「君の可能性に賭けてくれる、君が自分の可能性を預けたい、そんな人に君が出会った時に今日の話を思い出して欲しい。そして君が一歩を踏み出すその時までは俺が助ける」
ああ、そうか。
この人に手を引いてもらえるのはそこまでなんだ。
「俺は見ての通り本当のコーチをするには未熟者だからね。その時までのほんの少しの手助けが精一杯で申し訳ないけど」
ほんの少しなんて、そんなことは絶対になかった。
私にとって、返しきれないような沢山のものをこの人は与えてくれた。
この日々はきっと、そう遠くない未来に終わる。
そんな予感とともに、私はこの人が私の可能性を預けられる人だったら良かったのにと、心の隅で思った。
そして、五年生に進級して少し経って。
私は2度目の奇跡の出会いを得た。
司先生。
最初の出会いは、ちょっと怖かったけど。
私にスケートの事でまっすぐに向き合ってくれた、二人目の人。
あの人が鍛えた私を見つけてくれた、私のコーチになると言ってくれた人。
司先生が、がんばってお母さんにわがままを言った私を助けてくれて、ようやく私はちゃんとスケートを始める事が出来た。
司先生にあの人が用意してくれていた手紙を渡すと、読んだ司先生は最初涙ぐんでいた。
「この人は本当にいのりさんの事を大切にしてくれていたんだね」
そしてそのあと少し難しい顔をしていた。
「いやしかし、本当に何者なんだ? このメニューの内容とか絶対素人じゃないと思うんだけど、いのりさんは見た目は自分とそんなに変わらないくらいだと言うし…」
悩む司先生の後ろで、話を聞いていた瞳先生がもしかしてと呟いている。
結局確信はないからと言って瞳先生ははぐらかしていたけど、司先生に会って話ができないか聞いてほしいとお願いされた。
私は、ちゃんとスケートを始められたことを報告したいし、その時に聞いてみることにした。
きっともうすぐ、私はあの人の手を離さなければならなくなるんだろうなと思いながら。