「普通にいるのね、理凰くん」
何か呆れた声で瞳先生に言われるが、そこは仕方がない。
「そりゃいますよ。別れ際もちゃんと、またねって言ったじゃないですか」
あの日から一週間ちょっと。
俺は再び大須リンクに来ていた。
いのりちゃんは無邪気に喜んでくれたが、今は練習に行っている。
「そもそも息抜きに来るのにちょうど良い所はどうしてもここになりますし。とはいえ今日は司先生に呼ばれてきたので、不満はそちらへ」
そう、今日は連絡先を交換していた司先生からの電話でここにきている。
「不満というわけじゃないのよ。変に聞こえたならごめんなさいね」
「いや、気持ちはわかります。でもほら、狭い業界ですから」
「そうね、どう考えても、遅かれ早かれって話よね」
そんな俺と瞳先生の所へ、缶コーヒーをもって司先生が戻ってきた。
「本当にブラックでよかったのかい、理凰さん」
「ええ、香りと苦みを楽しみたい気分だったので」
呼び出しに応えてやってきたお礼なのかわざわざ買いに行ってくれたんだよね。
で、それを休憩室で待っていたところに瞳先生に見つかったわけである。
「で、相談って言うのは何でしょうか」
缶コーヒーを受け取って司先生が椅子に座ったところでさっそく話を切り出した。
「うん、実はいのりさんと話して今度の名港杯に出場しようという話になっていてね」
ああ、初級は受かったって言っていたから、確かにその時期か。
「なるほど、初級枠で出場ですか。今の出来は?」
「うん、とても順調だよ。ちょっと人前で振り付けを踊るのに苦戦したけど、俺が一緒に滑ってそれも何とかなったし」
そうかあ、司先生の滑りは見損ねたかあ。
まあ、そこは仕方がない。
「まあ、正直今のいのりちゃんなら、ちゃんと実力を発揮できれば十分優勝を狙えると思いますよ」
なんなら、漫画とは土台が違うから二回転も間に合うかもしれない。
まあ、司先生の滑りを見たなら、とりあえず全体の出来を固めるほうのたい焼き作戦を選んだんだろうけど。
「そっか、ずっといのりさんを見てきた理凰さんもそう思うなら…!」
鷹の目取得が目的の訓練が思った以上にちゃんと効果出て、振り付けの覚えとかも良くなってたからなあ。
うん、むしろ同じ大会に出場になる三家田涼佳ちゃんとそのコーチの那智鞠緒先生が心配なくらいかもしれない。
とはいえジャンプが揃わない今の段階ならそこまでの差にはならないはず。
二回転のコンビネーションをきっちり成功すれば涼佳ちゃんにもワンチャンあるとは思うけど、どうだろう。
あの二人なら今回の結果がどうなってもきっと最後には良い形に収まるだろうけども。
なんだかんだ良いコンビだからな、あの二人も。
「しいて言えば、いのりちゃんは体幹が良いしバックスクラッチを結構やりこませていましたから、ジャンプだけに目をやらずに、スピンの方で勝負するのもありかもしれませんね」
ちょっとだけ、漫画の内容を思い出しつつ、ジャンプだけに囚われないように助言を投げると、司先生ははっとした顔をした。
きっと涼佳ちゃんの二回転を意識し過ぎてジャンプの方に考えが寄りすぎていたことに気が付いたんだろう。
これで、うっかり迷い犬と出会わなくても大丈夫。
え、突然に迷い犬って何の話だって?
冗談みたいな話だけど、迷い犬との出会いが割とガチで大事な気付きに影響するんだよなあ。
「そっか、スピンか、その手があった!」
あ、司先生が走っていった。
まあ、これでもう大丈夫だろう。
あとは氷上に立ったいのりちゃん次第だ。
よしよし、いい仕事したぜ。
自分へのご褒美ってことで、手で持ったままだったコーヒーのプルタブを開けてコーヒーを飲む。
「名港のコーチ達からいろいろ話を聞いていたけど、実際に見るとまた感じ方が変わるわね」
ホントにあの人たち、俺の事をどれだけ外で吹聴しているんだろう。
あんまり期待値上げられても、応えられる自信がないんだけど。
「内容はあまり気にしないことにしておきます」
コーヒーを飲みながら目をそらして、瞳先生に答えた。
「悪い話じゃないわよ?」
瞳先生は俺の答えが面白かったのか、態度が面白かったのかクスクス笑いながら言う。
知ってますけども。
「だから聞くのがかえって怖いんじゃないですか」
また笑うし。
何かどうも年上の女性にはいじられがちなんだよなあ。
見た目と中身のギャップのせいかなあ。
「瞳先生からみて、あの二人はどうですか?」
ここはひとつ話を変えよう。
まあ、実際に気になっていることでもあるしね。
「とても相性がいいんじゃないかしら。いのりちゃんにとっても、司くんにとっても」
「瞳先生から見てもそうであるなら安心ですね」
その後はしばらくいのりちゃんと司先生の普段の練習中の様子などを聞いて過ごす。
そのうち司先生が帰ってきて謝られた。
呼び出しておいて、話の途中で突然走り去っていったからね。
瞳先生からもきっちりお小言を頂戴していた。
「まあ、瞳先生が相手をしてくれていましたから。むしろ、瞳先生も忙しいでしょうにすみませんでしたね。司先生も、ちゃんと瞳先生に感謝しないといけませんよ。その様子だと、普段から何かとフォローしてもらっているんでしょう?」
「ぐふっ」
あ、司先生が胸を押さえてうめき声を漏らした。
流石に小学生からも注意を受けると堪えるらしい。
「ほんっとに、理凰くんは大人ね! 司くんにも見習ってほしいくらい!」
瞳先生は、もっと言ってやって、といった勢いである。
まあ漫画でも普段から司先生の暴走に悩まされている様子がちょくちょく描写されてたもんね。
司先生は人間としてはとても良い人だし魅力的でもあるんだけど、大人として社会人としては割と問題大ありな人なのだ。
とはいえ、あんまりシオシオになられちゃってもいのりちゃんが心配するだろうから、そろそろ話を変えてあげるか。
「で、いのりちゃんはどうでしたか?」
そう俺が話題を投げてあげると、司先生は生き返ったみたいに表情が明るくなって話し出した。
「そう! そうなんだ! いのりさんがフライングシットスピンに成功したんだ! トラベリングなしで!」
お、おう。
この時点で一発成功しちゃったのか。
まだ名港杯まで結構時間あるのに。
流石に、名港杯までに仕上がりそうくらいの話かと思ってた。
「フライングシットスピンが出来た!? 確かに元々軸取りは洗練されていたけど、そっか、そこまでかあ」
瞳先生もびっくりである。
これマジで、二回転が間に合ってしまうかも。
「これなら、二回転が間に合わなかったとしても、十分優勝が狙える!」
喜ぶ司先生に俺は深く頷いた。
「助けになれたなら何よりです。コーヒー分の仕事くらいは出来ましたかね」
言って立ち上がって、ゴミ箱へ飲み終わった缶を捨てた。
「あ、そうだ。実は名港杯のノービスBの枠に俺も出場するんです。ちょっと時間は遅いんですけど、出来ればいのりちゃんが見れるように計らってあげてください。卒業祝いというかなんというか。俺の滑りを一度ちゃんと見せておきたいので。 司先生も、いのりちゃんが目指している光も出場しますし、いのりちゃんのコーチとして光の滑りを見た後のおまけにでもどうぞ」
これでいのりちゃんの方は大丈夫なはずだ。
後は、自分の方をきっちり仕上げていかないとな。
既に目にしたであろう司先生の滑りと、名港杯での光ちゃんの滑りで十分と言えばそうなんだけど、折角だから一年間まがりなりにも先生をやっていた者として。
同じ年の人間の中でも最高峰の滑りってものをもう一つ見せてあげて、これからの選手として人生における未来の指針のその一つを贈ろう。
そうして、俺は大須リンクを後にした。
なお後日。
迷い犬には、なぜか俺が遭遇した。
なんでさ。
いや、俺の行動範囲とか考えたら十分あり得る可能性ではあるけども。
まあ、飼い主さんに引き合わせられてとても喜ばれたから良い事なんだけどね。