狼嵜光視点
最近慎一郎先生が理凰のレッスンに時間を取れなくなっていたこともあって、理凰に新しいコーチが付いた。
いのりちゃんのコーチをしているという明浦路司先生。
理凰のコーチ関係はちょっと複雑だ。
私と一緒に夜鷹純のレッスンも受けているが、その時はどちらかというと私のサポートにまわりがちで、夜鷹純も理凰に対しては課題こそ投げて手本は見せるが私以上に放任している。
だから、夜鷹純が理凰のコーチかと言われると微妙な線だ。
慎一郎先生も今みたいに忙しくなる前からそこまでの時間は取れていなくてずっと気にしていたくらいで、こちらもコーチであると言い切るのは難しい。
そもそも理凰はこの点においては多分私以上に夜鷹純と同類で、本質的にはきっとコーチを必要としていないと思う。
そんな理凰が自分からコーチを求めた。
しかもいのりちゃんのコーチ。
気にならないと言えば嘘になるだろう。
「んー司先生は人間としては良い人だし、俺は好きだけど、光はきっと苦手なタイプだよ?」
私が訊ねれば理凰はそう前置きしてから、その人について色々教えてくれた。
話を聞けば、なるほど確かに私が苦手とするタイプで、私がそう感じたことが分かったのか理凰は笑っていた。
「やっぱり、だと思った」
面白い人だし放っておけない人でもある、なんて言う理凰の話を聞いていると、ああまた理凰の悪い癖かとも思ったけど。
「ただし、スケートについてはスケーティングと、もって生まれた素質がヤバイ」
そう言った理凰の顔は、スケートで自分を高められる機会を得たときの楽しくてたまらないという顔をしていた。
心の中で溜息をつく。
これは、また私も頑張らないといけないパターンだな、というのと、理凰が頑張りすぎないように目を光らせておかないと、というので半々の感情からの溜息である。
時々テンションが上がった理凰はタガが外れてしまう時がある。
いつだったか慎一郎先生が急遽レッスンを見られなくなった日。
次の時間にリンクを予約していた夜鷹純と私が一人で練習している理凰の様子を見に早めにやってきたときに、その姿を見た。
普段は汗なんてほとんどかかない理凰が、びっしょりと汗をかいてプログラムを滑っていたのだ。
理凰があんな風になるなんて普通じゃない。
理凰は良くプログラムを何度もリピートするという練習をやっていたけどその日はいつもの比ではなかった。
いったいどれだけの間滑っていたのか、私には想像もつかなかった。
「理凰!」
言葉を失っていた私とは別に、大して驚いてもいない様子の夜鷹純が、意識を引くためだろう珍しい鋭い声で理凰を呼ぶ。
「光に夜鷹さん。二人とも来てたんだ。おお、もうこんな時間か」
リンクを降りて汗をタオルで拭きながら気楽な様子で言う理凰。
私は思わず呆れてしまった。
あの夜鷹純からすら、しょうがない奴だなという空気が漏れていた。
その日から私は理凰一人で練習させることは可能な限り避けるようにした。
放っておくとあの時と同じことになりそうな雰囲気が、今の理凰にはあった。
なお理凰は案の定無茶をしようとして、明浦路先生にストップをかけられたらしい。
うん、正直話を聞くだけでも苦手なタイプの人だけど。
それについては本当によくやってくれたと、私は思うのだった。
そんなことがあった後、私は不覚にもひどい風邪をひいてしまった。
長野とこちらの気候の違いのせいだろうか。
記憶にないレベルの不調で、どうしようもなく不安になってしまった私は、理凰に甘えきってしまった。
学校こそ休みだったけど、スケートの練習は休みの日ではなかったはずなのに、理凰はずっと私の傍にいてくれた。
もしかすると、理凰が自分の体調不良や外せない予定以外で練習を休んだのは初めてだったのではないだろうかと後になって気が付いた。
喉が渇いたと言えば体を優しく起こしてくれて、吸い飲みで暖かいレモネードを飲ませてくれる。
不安や寂しさを感じないようにずっと手を握っていてくれたし、優しく髪を撫でてくれた。
体は流石に拭いてくれなかったけど、後で冷静になって、それでよかったとほっとした。
氷枕を変えてくれるのは嬉しいのだけど、寂しいから手は離さないでほしい。
いつの間にか寝てしまったけど、理凰はずっと離れないでいてくれた。
うっすらとした意識の中で、理凰の手が本のページをめくる音が聞こえていた気がする。
お昼にはおかゆを理凰に食べさせてもらった。
「さあどうぞ、お姫様」
なんて、いつもの理凰らしい芝居がかった調子で言われてしまって、ちょっと照れてしまったけど。
そうして、食事の後に飲んだお薬のおかげで熱が大分よくなって氷枕がいらなくなったので、膝枕をねだってしまった。
理凰をより傍に感じて、少し心が落ち着く。
「ねえ理凰。もっとわがまま言っても良い?」
今日はもう、どこまでも甘えてしまおうと決めてそんなことを言うと、理凰は優しい笑みを浮かべて答えてくれた。
「言ってごらん。叶えられる範囲なら叶えるから」
「何か歌が聞きたい。理凰の声で」
私の好きな理凰のその声を今日は少しでも多く、少しでも長く聞いていたかった。
私のお願いに理凰はちょっと目を丸くして、そして少し考えた後に歌い始めた。
どれも優しい歌で、私の好きな理凰の声の響きと相まってすっかり聞きほれてしまう。
聞いたことのある歌も、聞いたことのない歌もあった。
理凰はいったいこんな沢山の歌をいつの間にどこで覚えたんだろうか。
まさか即興で作っているなんて無いと思うのだけど、理凰だとそれも絶対に無いとは言い切れない。
その日の夕食は、軽いものではあるけれど普通のものを食べる事が出来た。
理凰は私と同じものを私の傍で一緒に食べてくれた。
食後はまた膝枕をねだって、手をつないでもらって、髪を撫でられながら他愛のない話をした。
「あのね、理凰。今日は布団を別に敷くんじゃなくて、ベッドで一緒に寝てほしいの」
そんな私のお願いを理凰はとっくに予想していたみたいで、軽く笑って冗談を言いながら叶えてくれた。
その夜、私は長い長い夢を見た。
起きた後は幻のように消えてしまって記憶には残らない夢だ。
夢の中の私は今よりもっと小さくて、一人でどこかを歩いていた。
ふと気がついたら氷でできたお城の中にいた。
氷でできた人形たちに傅かれたドレスを着た私は心得た調子で、誰かのための人形のようにお姫様を演じる。
そうしてしばらくすると、ひょっこりと夜鷹純が現れた。
彼が氷の城の中で魔法のようなスケートを滑ってみせると、固く閉ざされていたお城の扉が開かれて、私は彼に抱き上げられてそのまま城を出た。
城の外は一面の雪原で、夜鷹純は私を抱きかかえたまま歩く。
あまりの寒さに夜鷹純にしがみつく私は、雪原の中をたった一人で歩いている私と変わらない年の男の子を見つけた。
こんなところをたった一人で歩いているのに、その子の歩みは夜鷹純のそれよりも確かで私は目を見張ってしまう。
その子が私と夜鷹純に気が付いて振り返る。
ああ、やっぱりと思った。
その子は理凰だった。
夜鷹純が私を雪の上に降ろしてくれて、私は理凰に駆け寄る。
理凰は、初めて出会った時のあの忘れられない優しい目と笑顔で私を迎え、手を取ってくれた。
その瞬間に、理凰を中心にしてまるで魔法のように雪原の雪は地平線の彼方まで吹き消された。
そうして空気は暖かくなり、雪原は草原へと変わり草木が茂り花が咲き誇る。
いつの間にか、慎一郎先生やエイヴァがいた。
他にもたくさんの人たちが。
みんな笑っていた。
夜鷹純でさえ、優しく微笑んでいた。
でも、私はふと気づく。
理凰だけは、仮面をつけている。
それはきっと理凰が私に教えてくれた通り、理凰にとって嘘ではない理凰の一部なのだろうけれど。
きっとそれは私のための仮面で。
その理凰の確かな一部も、私は大好きだけど。
それでもと、手を伸ばした。
「君にはまだ早いよ」
理凰は優しい声で言うけれど。
私は理凰を知りたいと願うから。
願わずにいられないから、その仮面を剥がした。
途端にまた場面が変わった。
私の姿も今の私の姿に。
森の中の夜の湖面が眼前に広がる。
空には満天の星に、冴え冴えとした月。
湖面は磨き上げた鏡のようにその空を映していた。
その湖面で今の姿の理凰が踊っていた。
あの忘れえぬ夜に見た理凰と同じ空気をした理凰だ。
私は少しも疑うことなく湖面に足を踏み出して、理凰のもとに走る。
理凰は、私のわがままを許すときの雰囲気を少し出してから、優しく手を取って私をリードする。
踊っていると、いろんなことがわかってきた。
夢の中だからだろうか。
それとも、この理凰が傍にいるからなのか。
今の私はきっと、全てが理凰に与えられたものでできている。
理凰は自分はせいぜい手助けしたくらいだと言うだろうけど、私自身はそう思わない。
スケートですら、今となってはきっとそうだ。
私と夜鷹純の間には確かに絆と呼べるものがあったと今の私は思える。
けれど同時に今の私には、それが私の幼さと夜鷹純の不器用さで少し不格好な形で結ばれてしまっていたこともわかるのだ。
理凰は何年もの時間をかけて、私も夜鷹純も変えてくれて、その絆も新たな形に結びなおしてくれた。
今の私は、かつての私では持ちえなかったものをたくさん手にしていると思う。
それらは確かに私の歩みで手にしたものではあるけれど、そこにはいつだって理凰が一緒に居てくれた。
理凰は私に世界の広さも、多様さも、そこに含まれた人間の一人一人の事も学ばせてくれた。
手に入れたすべてが、美しければ美しいほど、大切であれば大切であるほどに、私は思う。
理凰は、今の私にとっての世界の全てだ。
そして気が付く。
それらすべてを、何でもない事のように与えてくれるほどに、私はきっと理凰に愛されている。
ああ。
なるほど。
確かに。
これは今の現実にいる幼い私にはまだ早い。
大きすぎる自分の想いも。
与えられている大きすぎる愛も。
こんなに近くで手を取り合って踊っているのに、この仮面をはずした理凰の顔が私にはどうしても見えないことも、それは今はまだきっと当たり前のことなのだ。
「わかったのなら、今は帰ると良い」
今の現実の私には決して理凰がかけないような、身も心も溶けるような甘やかな声とともに、優しい口づけが額に落とされた。
一瞬の忘我の後、目の前に理凰の姿はなくて、湖面の向こうにだけその姿があった。
私は無意識に湖面の向こう側の理凰に手を伸ばそうとして――
外から小鳥のさえずりが聞こえた気がして目を覚ました。
何かとても長い夢を見た気がするけど内容は思い出せない。
熱はきっと下がっている。
でも、何か心がザワザワとしていて、私はまだ眠っている理凰の胸元に顔をうずめた。
きっと私が眠った後もしばらくは起きて様子を見ていてくれたんだろう。
起きる様子のない理凰を見て、私は今日くらいはと、自分に二度寝を許すことにした。
二度目の眠りでは夢を見る事はなかった。