今期シーズンの終わりごろ。
そろそろ学年が一つ上がろうかという時期だ。
いのりちゃんがバッジテスト6級に受かった。
漫画からすると半年くらいは早い。
体作りや基礎的な技術の習得を前倒しに出来ていたことや、怪我を回避できていたことなどがはっきりと結果に表れていた。
全部を丸々1年前倒しとはいかなかったがその分は大会などに出て経験を上積み出来ている。
いのりちゃんのモチベーションがなんか漫画よりもさらにやばいというか。
え、あれより上ってあるの?
とか言いたくなるんだけど、はい、犯人は私ですね。
うん、流石にあんな目で見られたら分かるわ。
俺のプログラム見てからのいのりちゃんの俺を見る目って、出会ったばかりのころ光ちゃんが夜鷹純を見てた時の目だもんよ。
いや、しかし逆にそのことで今の光ちゃんと夜鷹純の関係が当初とはだいぶ違った感じのものになっていることを再確認させられたよ。
今の光ちゃんは夜鷹純の事を普通に等身大の人間としてみてるし。
夜鷹純も出会ったころとはだいぶ変わった。
言葉は難しいんだが、光ちゃんとのつながりがもうちょっと人間的というか。
スケートだけが絆という感じじゃない。
不器用なりに真っ当に叔父と姪みたいな関わり方をしているような感じだ。
見ていて微笑ましい。
司先生も全日本ノービスの日以来、顔つきが変わった。
なんというか、精悍というか大人の顔つきになった。
自分を卑下するような言葉や後ろ向きな様子も見せなくなったし。
俺の滑りで少しは前を向かせられたなら喜ばしい事である。
実に順調。
だったんだけどなあ。
「やめて! 理凰の前で、理凰のコーチもしているあなたが、犠牲を否定するようなことを言わないで!」
光ちゃんが俺の前で涙を流しながら司先生の口をふさいでいる件。
泥とかないけどこれあれだ、漫画で見た構図のマイナーチェンジだね?
事の起こりは、光ちゃんが俺と司先生の使っている時間の後に夜鷹純との練習の為にスケートリンクの予約を取っていた関係で俺の練習の様子を見に早めにやってきて、司先生とかち合ったことだ。
光ちゃんは、いのりちゃんなら今期の全日本ノービスに間に合ったんじゃないか、司先生がいのりちゃんに過保護にして成長を妨げていないかといった趣旨の発言をして、まあ、光ちゃん自身は犠牲というワードを避けていたが結果的に話の流れが漫画での司先生と犠牲の話をした時と同じ方向に流れてしまった。
今の司先生は俺の思っていた以上に過去を吹っ切れているみたいで大声を出すようなことはなかったけど、犠牲に否定的であるのは変わらない。
話の流れでまずいと思ったんだろう。
光ちゃんの顔色は急激に悪化していった。
そして、とうとう今の状況である。
口挟むタイミングがなかったんだ。
まあ、光ちゃんや夜鷹純が俺の前で犠牲の話を一切しないことには気づいていた。
気持ちもわかる。
俺だって逆の立場だったら避けるだろう。
俺の前では、犠牲を肯定するのも否定するのもどちらも憚られると思う。
それはつまり穿って言えば、君の記憶喪失には何の意味もなかったと言う事であるし。
あるいは、君は記憶喪失になったから今の全てを得たのだと言う事になるのだから。
どこかでちゃんと話さないとなとは思っていたが。
「すみません、司先生。事情はちゃんとあとで説明するので、少しだけ光と二人で話をさせてもらっていいですか」
困惑しながらも頷いてくれる司先生に軽く頭を下げる。
光ちゃんの涙をハンカチで拭いて、落ち着かせるように髪を撫でた。
「大丈夫、俺は別にこんなことで傷つかないし、そんな風に泣かなくていいんだ」
「でも…!」
「光が俺に何かを聞きたくても聞けないでいた事には気が付いていた。そして多分それが犠牲にまつわる話であることも。夜鷹さんの現役時代の話は父さんから漏れ聞いていたからね」
光ちゃんの目が見開かれた。
そうして手を強く握りしめて、歯噛みした。
気付かれていたこと、それによって俺に気をつかわせてしまっていたことに対する後悔の所為だろう。
俺はその手を取って手を解き、頬を撫でてあごの力を緩めさせる。
「大丈夫、俺は大丈夫だから。俺は光が聞きたいと思ってくれるならちゃんと答えてあげたい。ただそれだけで、気をつかっていたわけでもない。聞く決心がつくのを待っていただけだ」
まだ、納得はしきれていない様子だったが、一度目をつぶってから大きく息を吐いた光ちゃんは肩から力を抜いた。
そうして、諦めたように話し始めた。
「あのね、理凰。私はずっと理凰に聞きたかったの。犠牲についての話を」
不安からか、手が握られる。
強く握られたその手を、俺は優しく握り返した。
「でも、怖くて聞けなかった。理凰の傷に無遠慮に触れるようなことをして、痛みを与えるのが怖かったの。でも、理凰が待っていてくれたなら、聞いていいと言ってくれるなら、聞くね」
光ちゃんは語る。
夜鷹純から語られた犠牲の事を。
勝利に最も必要なのは犠牲であるという彼の哲学を。
「運命の女神は、生け贄を無視することができない、か」
漫画を読んだ時から思っていた。
厳しいが優しい哲学だな、と。
夜鷹純の哲学は犠牲になったものを無条件に悼むような、そんな哲学だと思うからだ。
そしてだからこそ、少し迷う。
だから、ちゃんとその迷いを伝えて光ちゃんに問う。
それでも聞きたいかと。
「光、俺はね。夜鷹さんほど優しい考えを犠牲に対しては持っていないんだ。だからこれを話すかどうかは正直迷う」
「それでも私は、理凰の考えが聞きたい」
そうか、そうだよな。
そう言われるとは思っていたのだ。
「俺はね。犠牲を支払うことそれ自体には、何の意味もないと思っているんだ」
俺の考えはある意味で司先生の考えよりも否定的で厳しく、残酷だ。
「犠牲になったもの、それ自体が無意味なわけじゃない。でも、犠牲として支払われてしまった時点で、支払った人間からその犠牲の価値も意味も喪失すると俺は思っている」
光ちゃんが息をのんだのが分かった。
きっと内容の厳しさにじゃなく、俺の記憶のことを想ったんだろう。
「だから大事なのは、犠牲を支払う行為そのものじゃない」
犠牲なんて、俺たちのように一つの道を究めようとすれば能動的であれ受動的であれ必然的に払い続けていく事になるものなのだ。
それは必要が命じるもの。
能動的な選択の先にある犠牲でさえ本質的には変わらないと俺は思う。
稀に支払うべきでないものや支払う意味のないものも紛れてはいるけど、それは例外の類で今は横に置こう。
「重要なのは、犠牲になったもの犠牲にしたもの、それら自体がもっていた意味や価値と向き合いそれを認めて、自分からは失われてしまったそれらに対して恥じぬように先の道へと歩いていく意思と覚悟を持つことなんだと俺は自分に任じている」
光ちゃんの手を握る力がさらに強まる。
「それこそが犠牲を本当の意味で無意味で無価値なものにしない、ただ一つの道だと思うから」
ああ、また泣かれてしまった。
まいったな、泣かせるつもりじゃなかったんだが。
また涙を拭いてあげながら、俺は少し声色を軽くして言う。
「まあ、犠牲なんて同じ成果が上げられるなら少ないに越したことはないし、どうしても支払わなければならない犠牲については敬意を払おうねという、まとめてしまうと凄く簡単な意見が俺のスタンスかな」
光ちゃんは少しの間、涙を流し続けて落ち着いた後に一度俺を強く抱きしめてから口を開いた。
「答えてくれてありがとう、理凰。私も自分なりの犠牲というものとの向き合い方を探してみる」
俺からも強く抱きしめた後に離れて向き合う。
うん、良い顔になった。
「ああ、それが良いと思う。俺の答えはあくまでも俺のものだからね」
光ちゃんはこれでもう大丈夫だろう。
後は俺たちの様子を見て涙ぐんでいる司先生をどうするかなんだが。
話さないわけにいかないよなあ。
でもこの人絶対泣くだろ。
号泣ですら済まないのでは?
「さて、それじゃあ司先生にも事情を説明しようかと思うんですけど、正直な話、あまり気分のいい話じゃないんですよね。それでも聞きますか?」
断ってくれたりしないかなあと、わずかばかりの期待を込めて言うけど、やはりその期待はかなわなかった。
「君が話しても良いと思ってくれるなら教えてほしい。俺の大切な生徒の事なんだから」
くそう、そんな風に言われたら話すしかないじゃないか。
「あーそれじゃあ、どこから話しましょうかね…」
記憶喪失の事を聞いて最初は俺の前で犠牲について否定的に話したことにちょっと青くなってたけど、司先生は俺と光ちゃんの話を聞いていたから、それくらいで済んでいた。
ヤバかったのはそのあとというか、今の俺はもう別に気にしていないし大丈夫だと分かってもらうために、その後の経緯を軽く話した時だ。
めっちゃ泣かれた。
引くほど泣かれた。
光ちゃんが俺の横で呆れた顔をして、やっぱり私この人苦手だなあという雰囲気を出していた。
しかし、脱水症状が心配になりそうな勢いだな。
まだ開けてないスポーツドリンクがあったはずだから飲ませておこう。
「ぁ、ありがとう理凰さん」
まだグスグス言ってるし。
しょうがない人だなほんとに。
「まあ、そんなわけです。今となってはもう、人より生まれた後の最初の記憶が遅めかな程度の感じなんで」
ほんとにそんな感じなのだ。
何なら、普通に暮らしているともうほとんど意識すらしない。
「本当に、理凰さんは凄いね」
「周りに恵まれたんですよ。俺視点で目覚めてほとんどすぐに光と出会えたのも良かった。今の俺にずっと寄り添ってくれましたから」
「寄り添ってくれたのは理凰の方だと思うけど」
「本当に仲がいいんだね」
いのりさん大変そうだなあ、なんて小さく呟いているけど、いのりちゃんのアレはそう言うのじゃないと思うぞ。
ずっと光ちゃんと夜鷹純を見てきた俺から太鼓判を押せるくらいには。
憧れのお兄さん、ただし年下、みたいなポジくらいに落ち着くつもりだったんだがなあ。
どこかの変な仮面被ったり、ノースリーブでサングラスかけたりする赤い人の声で、貴様の頑張りすぎだ、とか聞こえた気がする。
オーバーワークを何度も口を酸っぱくして戒めておいて本当によかった。
度を越した練習はかえって成長を阻害する要因にしかならないって、根気よく教えた甲斐があった。
そうじゃなきゃ絶対にあの勢いだと体を壊してただろう。
そんなこんなで、ちょっとした事件はあったが結果的には光ちゃんと必要な話をしっかりできたし、光ちゃんと司先生もある程度適した距離感みたいなものを見つける事が出来たみたいでその後はばったり会っても変に衝突することは無くなった。
トータルで考えれば悪くない結果に落ち着いたと言っていいだろう。