今回の長野合宿から、いのりちゃんには正式にメディカルトレーナーが付く事になった。
漫画通りに金弓美蜂さんだ。
一応断っておくと、司先生に土下座外交させたわけではない。
ちょうど今回の合宿に同行していた金弓さんを見かけて、いい機会だから福岡パークのヘッドコーチである布袋野兎太さんに俺と司先生で普通にお願いに行ったんだよね。
決して土下座なんてさせていない。
なのに話が二つ返事で通りそうになって、かえって俺が慌てた。
なんというか、まさかお前断ったりしないよな? みたいな空気が周りのコーチ達から出ていたんだ。
何なら金弓さんも結構な目で布袋野さんを睨んでた。
いや、こんなことになると思わないじゃん?
「いや、他でもない理凰君の頼みなら、そりゃ受けるよ。本人も乗り気だし」
「当たり前です。あのメソッドに関する研究の発起人の頼みなのですよ? 断ったらどうしてくれようかと」
「断るわけないだろ!? この業界で居場所なくなるって!」
流石にそこまではないだろ。
ないよな?
何か周囲のコーチ達が深く頷いていて、怖くなってくるんだけど?
「そのあたりの話はちょっと大げさだとは思いますが、受けていただけるならとても助かります。俺もこの先、ジュニア、シニアと上がって行ったら流石に自分以外の手伝いは出来なくなっていくのが目に見えているので」
なお金弓さんに話をもっていったのは、漫画を見ていたからというだけでなく、性別や人柄、能力や価値観などを考慮したときに、いのりちゃんのメディカルトレーナーにはやっぱり金弓さんが一番適していると判断したからだ。
「とはいえ本来は横紙破りな話ではあるので、こちらからもお返しは用意しました。こちらの司先生なんですが、実は俺のスケーティングのコーチをしてくれていまして。瞳先生にも話を通したので福岡パークで定期的にスケーティングのレッスンを行う用意があります。ちょっと厳しめではありますけど、効果は俺が保証しますよ」
何か、周りのコーチ達がソワソワしてるな。
まあ予想通りといえばそう。
蛇崩先生とか、案の定やられたって顔してるし。
いのりちゃんの挙げている成果の上に、俺のスケーティングのコーチなんて情報が上乗せされればそりゃそうなる。
交換条件として、十分な箔付けになっただろう。
なお、ルクスの資金状況はいのりちゃんの活躍が早かった分、早めに余裕ができている。
実は例の機関からの援助なんかもあったらしいから、漫画よりも余裕がありそうである。
「へえ、それなら確かにウチにもメリットがある。凄いな理凰君。そして司先生はそんなに落ち込まなくていいと思うぞ? これは理凰君が異常なだけだから」
あ、すっかり司先生を置いてきぼりで俺が交渉してしまった。
「すみません、司先生。予想外の反応に焦って勝手に交渉進めちゃいました」
いやほんと申し訳ない。
あんまりな反応だったから、内心大分焦ったんだ。
「謝らなくていいよ。最高の結果に落ち着いたし。というか焦ってたんだ?」
「いや焦りますよ。脅迫したみたいになってたじゃありませんか。快く受けてくれたおかげで誤魔化されてただけで」
あ、周りのコーチ達が一斉に目を逸らした。
ちょっとは悪いと思っているらしい。
「配慮が足りなかったと反省しました。今後は気を付けないといけませんね」
流石に読み違いが過ぎた。
まずは断られて、交換条件出してお互いの条件擦り合わせてって予定が丸ごとおじゃんである。
瞳先生が、俺と司先生の作戦会議を横で見ていて微妙な顔していたのこれが予想出来てた感じかあ。
「いやあ、それはどうかなあ。場所や状況変わっても、君が頼んだ時点で内容が余程じゃなければみんな受けると思うけど」
えぇ、そんなに?
迂闊なこと言えなくなっちゃうじゃん。
勘弁してほしい。
何か頼みごとをするときは必ず事前に交換条件を用意することにしよう。
そうしよう。
なお、いのりちゃんと引き合わせると、やっぱり相性は良いようだった。
ちなみに漫画通り西日本小中学生大会の時に金弓さんはいのりちゃんを目撃していたらしい。
体温めるための運動の様子からバランスのいい体作りが出来ているのが見て取れて気になっていたとか。
話を聞こうとして追いかけて、水筒直撃は結局この世界でも起きていたそうな。
うわぁ、漫画でも見ていて引いたけど、現実の話として実際に聞くとなおの事、ドン引き感が半端ない。
聞いているだけでぞっとするんですけど。
そしてやっぱり見るようになる悪夢。
金弓さん、それちょっとトラウマになっていると思うので、後でお話しをしましょうね?
まあ、目的のいのりちゃんとも現実で話せたし、漫画の時のような怪我を見逃したって言う罪の意識もないから、徐々に夢は見なくなっていくとは思うけども。
「睡眠時間短くなってたりしませんよね? 医者の不養生、というと違うんでしょうけど、自分の事もちゃんとケアしましょうね?」
いやマジでね。
「本当に、しっかりしていますね理凰君は」
ちょっと目を丸くされてしまった。
まあ、直接会うのは初めてだもんね。
「いのりちゃんは女の子ですし、いつまでも俺が見ているのもどうかと思っていたんです。ましてや、プロからお墨付きを貰っているとはいえ、何の資格もない素人ですからね。これで肩の荷が下せます。金弓さん、これからいのりちゃんをよろしくお願いしますね」
「ええ、お任せを」
胸に手を当てて軽く頭を下げる金弓さん。
うーん、ホントに騎士みたいだ。
めっちゃ格好良くて様になる所作である。
「理凰君、今まで本当にありがとう。それで、その…」
いのりちゃんがお礼を言ったあとに何か言い淀む。
まあ予想はつくので、安心させてあげよう。
「大丈夫、今まで通りに顔はだすよ。もとより半分は息抜きみたいなものだったんだし」
不安げだった表情が輝く。
これであとは洸平君の代わりのコーチを探すだけか。
瞳先生がいのりちゃんだけに付きっ切りと行かない状況を考えると、いっそ女性コーチ探すのが正解か?
うん、それが良い気がするな。
でも漫画だとめぼしい人っていた記憶がない。
ここは割り切って、漫画とは切り離したところで探すべきだろう。
瞳先生と話して、知り合いのコーチの伝手を使ってよさそうな人を探そう。
ちょうど瞳先生も忙しくなってきたからもう一人二人コーチを増やしたいと言っていたしな。
なお、そのことで話をした瞳先生には手を取って感謝された。
当たることのできる伝手が増えるのは、呼べる人の質に大きく影響するだろうからね。
うん、瞳先生にそんなに喜んでもらえたら俺としても嬉しい。
ルクスからしたらほとんど部外者の俺が、いのりちゃんに色々干渉するのを打算はあるだろうが快く許してくれていた事にはとても感謝しているのである。
なお後日談。
金弓さんの件では、一つだけ誤算があった。
「理凰君。また、ギリギリを攻めましたね?」
じっとりとした眼で、金弓さんに睨まれる俺。
ルクスに顔を出した時に、金弓さんに会うと俺は必ず体を診察されるようになった。
しかも明らかに遭遇頻度が高い。
「あ、いや、えーと」
何故バレたし。
いや、金弓さんは優秀だから診ればわかっちゃうのはしょうがないのだが。
「その知識と自分自身の体で積んだ経験があれば分かるはずです。安全マージンの大切さは」
あ、司先生がめっちゃ頷いてる。
さては、司先生の差し金だな?
「理凰さん。これは慎一郎さんや光さんからも頼まれていることなんだ」
そこもグルなの!?
というか、光ちゃんと司先生、微妙な距離感のくせにそこは結託するんだ!?
「数日間は練習量を制限するように。わかりましたね?」
うぬぅ。
どうも金弓さんは苦手だ。
真摯でまっすぐに、誠心誠意で向き合ってくる。
あんまり、気分からくる程度のわがままを通す気にはなれなくなる。
慎一郎さんは練習をあまり見れない負い目からそんなに言ってこないし、光ちゃんは自分も似たようなところがあるからか余程じゃないとストップをかけてこない。
夜鷹純は言わずもがな。
今まで俺にこんな風に諭してくる人はいなかった。
必要と思った時は、自分の判断を通す。
でも、それ以外は従っても良いかと思わされてしまう。
金弓さんが俺に対してまで特攻とか思わないじゃん?
「ワカリマシタ」
俺は諦めて金弓さんの指示を聞くことにした。
うん、ついついやってしまうけど、あんまり良くない類の悪癖だという自覚はあるのだ。
いい機会だし少し見直さないといけないだろう。