狼嵜光視点
私は今でも時々、理凰が初めて高熱で倒れた時のことを思い出して、どうしようもなく叫んでしまいたくなる。
それは決まって理凰の傷みを垣間見てしまった時だ。
「死んだ理凰君だったらどうしただろう」
あの時聞いてしまったあの言葉を、きっと私は一生忘れられないだろう。
でも、それ自体はもう、良いのだ。
理凰のあの傷みも、苦しみも、私は自分の胸に抱いて理凰とずっと歩いていくともう決めているから。
でもだからと言って、その痛みに無遠慮に触れる事なんて絶対にしたくないし、しない。
だから、あの日の明浦路先生との成り行きは痛恨の出来事だった。
あの短期間で全日本に間に合わせるなんて無理な話だし、自分のわがままだと言うのはわかっていたのだ。
でも、いのりちゃんなら、という思いが抑えられなくて私は明浦路先生を詰った。
そのわがままの代償は、とても高くついた。
明浦路先生は、あろうことか理凰の前で犠牲に対して否定的な態度を示したのだ。
別にその考え方自体は良い。
昔の私はどう感じたかわからないけれど、今の私は人の価値観が千差万別でそのどれもが尊重すべきものであると理凰から学んでいるから、その価値観はその価値観で尊重しようと思える。
それでも理凰の前でだけは、それも理凰のコーチをしている身で、口にしてほしくはなかった。
わかってる。
これは私の失敗だ。
明浦路先生は、理凰の事情を知らない。
でも。
でも、お願いだから。
「やめて! 理凰の前で、理凰のコーチもしているあなたが、犠牲を否定するようなことを言わないで!」
ああ、これは良くない。
そう思うけれど、理凰に見せるべきじゃない種類の涙と共に私は叫んだ。
つとめて冷静でいようとする部分の思考がまるで悲鳴のようだな、と自己評価を下す。
実際それは、悲鳴だったのだと思う。
とっくに手遅れだと分かっていても、必死で明浦路先生の口を手でふさいだ。
そうせずにはいられなかったからだ。
「すみません、司先生。事情はちゃんとあとで説明するので、少しだけ光と二人で話をさせてもらっていいですか」
それでも理凰は冷静で、私の涙をハンカチで拭い、髪を撫でてくれた。
「大丈夫、俺は別にこんなことで傷つかないし、そんな風に泣かなくていいんだ」
かけてくれる言葉だって、私の心だけを案じるもので。
それがかえって悲しくて、私はイヤイヤをする子供のように首を横に振って言い募ろうとした。
「でも…!」
「光が俺に何かを聞きたくても聞けないでいた事には気が付いていた。そして多分それが犠牲にまつわる話であることも。夜鷹さんの現役時代の話は父さんから漏れ聞いていたからね」
何かを言う前に理凰から帰ってきた言葉に、私は時が止まった心地だった。
考えてみれば当たり前の事。
私が理凰に、こんな大きな隠し事を出来るはずがなかった。
気付かれたくないと思うあまり、気づかれていないに違いないと目を逸らしていたのだ。
ずっと、気をつかわせてしまっていた。
思わず手を強く握り、歯をかみしめる。
理凰はそれにすぐに気が付いて、私の手を取ってきつく握られた手を解き、頬を優しくなでて口に入った力を和らげた。
「大丈夫、俺は大丈夫だから。俺は光が聞きたいと思ってくれるならちゃんと答えてあげたい。ただそれだけで、気をつかっていたわけでもない。聞く決心がつくのを待っていただけだ」
自分の至らなさを悔しく思うけれど、理凰がそう言ってくれるなら、と今は強引に納得しておくことにした。
そして、怖くても。
聞くべきことを聞こうと勇気を振り絞る。
「あのね、理凰。私はずっと理凰に聞きたかったの。犠牲についての話を」
どうしても不安で理凰の手を強く握りしめてしまうけど、理凰は優しく握り返してくれた。
「でも、怖くて聞けなかった。理凰の傷に無遠慮に触れるようなことをして、痛みを与えるのが怖かったの。でも、理凰が待っていてくれたなら、聞いていいと言ってくれるなら、聞くね」
私は理凰に語って聞かせた。
夜鷹純が私に教えた犠牲についての事を。
勝利に最も必要なのは犠牲であるという教えを。
記憶に色濃く残る、運命の女神の話を。
「運命の女神は、生け贄を無視することができない、か」
少し目をつむって、理凰は夜鷹純が私に聞かせた言葉を噛み締めるように口にした。
不思議と、その口もとは綻んでいた。
「光、俺はね。夜鷹さんほど優しい考えを犠牲に対しては持っていないんだ。だからこれを話すかどうかは正直迷う」
夜鷹純の教えを優しいと、理凰はそう思うんだ。
それを聞いて、私は余計に理凰の答えを聞きたくなった。
「それでも私は、理凰の考えが聞きたい」
私がはっきりと目を見てそう言うと、理凰は私の答えがわかっていた様子だった。
「俺はね。犠牲を支払うことそれ自体には、何の意味もないと思っているんだ」
あまりに厳しい答えに心臓がきゅっとなる。
理凰が話すのを躊躇した理由が分かった。
でも後に続いた言葉ほどの衝撃ではなかった。
「犠牲になったもの、それ自体が無意味なわけじゃない。でも、犠牲として支払われてしまった時点で、支払った人間からその犠牲の価値も意味も喪失すると俺は思っている」
それは、誰にとって厳しく、誰にとって残酷な価値観なのか。
死んだ理凰君、と理凰は言っていたのだ。
胸がどうしようもなく痛んだ。
「だから大事なのは、犠牲を支払う行為そのものじゃない」
理凰は強い。
信じられないくらいに強い人。
知っていた。
知っていたけど。
「重要なのは、犠牲になったもの犠牲にしたもの、それら自体がもっていた意味や価値と向き合いそれを認めて、自分からは失われてしまったそれらに対して恥じぬように先の道へと歩いていく意思と覚悟を持つことなんだと俺は自分に任じている」
思っているではなく、任じていると理凰は言った。
理凰はそうせねばならないと、自分に定めているのだ。
理凰の手を強くさらに強く握りこむ。
「それこそが犠牲を本当の意味で無意味で無価値なものにしない、ただ一つの道だと思うから」
もうどうしようもなくて。
私は流れる涙を止める事が出来なかった。
理凰は、自分の犠牲に対する考えを優しくないと言ったけれど。
犠牲と向き合い、その意味と価値を認めようとするその在り方は、理凰自身が厳しくも優しいと評した夜鷹純の在り方とも根底では繋がっている、それでいて確かに理凰らしい在り方だと思った。
「まあ、犠牲なんて同じ成果が上げられるなら少ないに越したことはないし、どうしても支払わなければならない犠牲については敬意を払おうねという、まとめてしまうと凄く簡単な意見が俺のスタンスかな」
きっと泣き続けている私の為だろう、最後はすこしおどけてそう言った。
私は気持ちが落ち着いて涙が止まってから、理凰に強く抱き着いてお礼を口にする。
「答えてくれてありがとう、理凰。私も自分なりの犠牲というものとの向き合い方を探してみる」
私の決意を聞いた理凰からも強く抱きしめられてから、離れて二人で向き合った。
私の顔を見た理凰は優しい表情で一度頷いた。
「ああ、それが良いと思う。俺の答えはあくまでも俺のものだからね」
そのあと、理凰から事情を聴いた明浦路先生はちょっと引くくらい泣きじゃくった。
うん、私はやっぱりこの人が苦手だ。
大人にはちゃんと大人らしくして欲しい。
理凰みたいな人とずっと傍にいると余計にそう思うのだ。
「周りに恵まれたんですよ。俺視点で目覚めてほとんどすぐに光と出会えたのも良かった。今の俺にずっと寄り添ってくれましたから」
明浦路先生との会話の中で、そんなことを理凰が言ったけど、それは私のセリフだ。
だから私はすかさず返した。
「寄り添ってくれたのは理凰の方だと思うけど」
明浦路先生が私たちの事を仲がいいと感心していたけど。
私たちにとってはもう、これは当たり前の事だ。
当たり前だと、胸を張ることが出来るように歩いてきたのだから。
思いがけず理凰と犠牲の話をすることになったしばらく後の事だ。
寮暮らしを始めていたいるかちゃんから電話があった。
話を聞くと、理凰への恋を自覚したという。
とうとう来たか、という思いと、自信をもって恋を掲げられる事への羨望が入り混じって言葉に詰まった。
でもいるかちゃんは笑って、私に言った。
「恋は戦だなんて言うけど、それに倣うならこれはとっくに負け戦。だから私がしたいのは敗戦処理みたいなもの」
なんでそんな風に笑えるのか、今の私にはまだわからない。
「本当に、それでいいの?」
良くないと言われたら、とても困るのに聞かずにいられなかった。
「それで良いじゃなくてそれが良いの。大丈夫、別に無理してるとかじゃないから」
いるかちゃんの電話越しの声は優しかった。
「私には、ちょっとわからないかな」
悔しくて、少しだけ拗ねた声が出ているかもしれない。
「光は今はそれで良いんじゃない? 理凰は急かしたりする人じゃないでしょ?」
いるかちゃんは意にも介さず、いや、むしろ可愛いやつめとでも言いだしそうな笑いと共に言う。
私はなんだかんだでやっぱり、年上のお姉さんなんだなと思った。
「それはそうなんだけど」
「今まで通りには接するから、時々は嫉妬させちゃうような事はあるかもしれないけど、そこは許してね」
確かに嫉妬はきっとするだろう。
でも、それを妨げたいとは思わなかった。
「拗ねはする。でも、嫌いにはならない。私もいるかちゃんの事は結構好きだから」
私にとっても、いるかちゃんはもう大切な人の一人だから。
それから数日後に理凰といるかちゃんはデートをして。
いるかちゃんは自分の恋に決着をつけたらしかった。
敢えて詳しくは聞かなかった。
それはきっと、二人だけが知っていればいいことだと思ったからだ。
そのさらに数日後、今度は私といるかちゃんで遊んだ。
いるかちゃんは、また綺麗になったみたいに私には見えた。
そう伝えた私にいるかちゃんは言う。
「光ならきっと、自分の恋を認められれば私よりももっと綺麗になる。私が保証するよ」
そう言って私の額を人差し指でツンと押したいるかちゃんは、本当に素敵だった。
その後の長野合宿では、またいろいろなことがあった。
いのりちゃんといるかちゃんが実は昔の知り合いだったという事が発覚して、三人で話したり。
いのりちゃんが理凰を見る目に見覚えがありすぎて、ちょっとだけ笑ってしまったり。
『俺には一緒に育った大切な子がいる。悪いけど、その子と戦う時は最高の演技ができるようには応援できるけど勝利は願ってあげられない』
なんてセリフをいのりちゃん経由で聞いてしまった時は凄く嬉しくなってしまった。
理凰は私とは違う形だけど、わかりやすいくらいにいのりちゃんを大切にしているのに。
それでも一番に私の勝利を願ってくれるんだね。
そういえば、理凰はいつの間にか斑鳩くんとも仲良くなったみたいで、朱蒴君も一緒に三人で行動するようになっていた。
結構仲がよさそうで、私は少し安心した。
後はいのりちゃんだ。
理凰に特別扱いを受けていることで浮いたりしないかなと私は少し思っていたけど、理凰は心配していないみたいで不思議だった。
でも、結果を見れば納得した。
「似たもの師弟って、ああいうのを言うのかな。いのりちゃんて普段はそんな感じじゃないのに、氷上に上がると練習への熱量の凄さが理凰君にそっくりだよ」
これは愛花ちゃんのセリフだけど、概ね女子みんなの総意だった。
呆れ混じりの納得である。
そして、自分たちも頑張らないといけないなと、みんなに火が付いていた。
長野合宿では、間接的にだが得難い出会いがあった。
金弓美蜂さん。
理凰にストップをかけられる稀有な人。
何度かのちょっとした話す機会の中だけでも、理凰が苦手というか疎かにできないタイプだなというのはわかった。
理凰は誠意には誠意で返そうとするから、金弓さんのような人の言葉はよく効くのだろう。
既にこのころから、理凰は悩み始めていたから、体だけでもちゃんと診てくれる人が出来たのは僥倖だった。
理凰が大事であるという一点においては、私と明浦路先生は協力できるので、そこを経由して金弓さんに理凰の事をお願いしたのだ。
慎一郎先生も同じことをしていたみたいだったので、考える事は一緒かと思った。
金弓さんも理凰の事は気にかけてくれていたみたいで、快諾してもらえてほっとした。
そう、理凰は悩んでいる。
恐らく、移籍について考えているんだと思う。
異常事態と言ってよかった。
だって、あの理凰があんな風に誰にでも分かるくらいに悩んでいることなんて、今まで一度もなかったのだ。
悩みの深さが想像もできない。
自分で自分の精神のコンディションが良くないことに気が付いていたんだろう。
理凰は今までに無い位に練習量を減らしていた。
休養日も倍近くに増やしていて、周りがみんなびっくりしたくらいだ。
それでも、クラブの細々した手伝いや他の子の面倒を見る事については減らしていなかったのは理凰らしい。
でも、悩むという事、それ自体からはどうしても逃れられない以上、それは必然だったんだと思う。
理凰は、練習中に倒れた。
いつもみたいに、気を抜いている時でさえなかったことを考えるに、あれはきっと完全にストレスが限界を超えた結果なんだろう。
理凰は精神は強靭だけど、体がそれについてこない時があるのだと私はようやく気が付いた。
成長と共にあの熱が減っていったことを考えればいつかは体も追いついてくるのだろうけど、まだその時ではなかったようだ。
私も慎一郎先生もエイヴァも、そして当の本人の理凰も。
最近はあの熱を出すことがなくなり、普通の風邪くらいしかひいていなかったから油断していたのかもしれない。
肉体的な部分での配慮は理凰自身が金弓先生との出会いもあって今まで以上にしっかりするようになっていたのもある。
でも全部が今となっては言い訳でしかなかった。
一週間の入院。
それが結果。
中部大会の前には退院できるけど、ギリギリすぎて出場は出来ないだろう。
シードは取っているから、全日本には出場できるのがせめてもの救いだ。
理凰は気にするかもしれないけど、私も今回の中部大会には出場しないことに決めた。
理凰が入院している間は、なるべく傍に居たかったからだ。
私は理凰がどんな選択をしてもついていくと決めていたし、夜鷹純もそれを許してくれている。
だから、今回の事で私は誰も責められない。
慎一郎先生も、エイヴァも、コーチのみんなも。
私は理凰と離れることになるという苦しさを共有できないからだ。
誰もが背を押してあげられなかったことを悔いていたけど、私にはその権利もないのだ。
理凰についていく事を最初から決めていた私は、だからこそ理凰の選択に一切の口は出すまいとも決めていた。
決断の時まで寄り添い。
そして決断の先でも寄り添い続ける。
それが私の選択だった。
理凰がこうなってしまう可能性も、実は考えていた。
流石に入院までは想定外だったけど。
出来る事なら私が寄り添う事でなんとか回避してあげたかったけど、力及ばず。
そこはすごく悔しい。
理凰の入院から数日。
理凰のお見舞いに来た私は、理凰の病室の前で立ち尽くす雉多さんに会った。
雉多さんが私に気が付いてこちらを向いた。
目に涙の跡があった。
ああ、そうか。
理凰は道を決めたんだ。
「悪い、お姫様。少しだけ、十分、二十分で良い。病室に行くのは待ってやってくれ」
本当は、今すぐにでも駆け込みたい。
抱きしめてあげたい。
でも、それは我慢するべきなんだろう。
だって、あんなに理凰と仲が良かった雉多さんが、こんなに真剣に言うんだから。
「理凰と仲のいい雉多さんがそういうなら、そうします」
私は頷いてそう答えた。
そのあと、しっかりと二十分時間をつぶしてから病室に入った。
「いらっしゃい、というのは変か。毎日お見舞いありがとう、光」
理凰はいつもの優しい笑顔だった。
でも目はちょっと赤かった。
私はそれを見て見ぬふりをする。
「調子はどう? 熱は大分下がったように見えるけど」
「うん、だいぶ良くなったよ。心配かけてごめん」
「次からはもっと気を付ける事。約束だよ」
「うん、約束する」
正直今回の事は不可抗力だとは思うけど。
折角の機会だから、少し自分を大事にしてもらえるように約束を取り付けた。
「光。俺は移籍することに決めた。光にもついてきて欲しい」
雉多さんから私の意志は聞いているだろうに。
ちゃんと、こうして言葉にして言ってくれる。
そんな理凰がたまらなく好きだ。
「うん。一緒に行く。いやだって言われてもついていくから」
「いやだなんて、絶対に言わないよ」
少しの間、二人で笑い合う。
理凰は決めたんだね。
大切な人たちと離れても、前に進むことを。
あの夜の誓いの成就を、より確かにするために。
なら、私も一緒に前に進む。
私もみんなと別れるのは寂しいけど、私には理凰がいてくれる。
理凰も私が傍にいる事で、私と同じように感じてくれていたら嬉しいと、そう思う。
私はベッドの上の理凰に身を寄せて、目を閉じて理凰と額を合わせた。
まだほんの少しだけ、熱があるのかな。
少し熱く感じる。
「私は、ずっと理凰の傍にいるから」
理凰が息をのんだのが息遣いで分かった。
「ありがとう、光。俺もずっと光の傍にいるよ」
返ってきた言葉にたまらなくなり、額を伝って理凰の熱が私に押し寄せてくるような錯覚をおこす。
私と理凰は少しの間、言葉もなくその姿勢のままでいた。