狼嵜光視点
鴗鳥家に引き取られて理凰と出会ってから随分いろいろなことがあった。
出会ったその日に強烈なカミングアウトで驚かされ振り回されて、結局のところ私は理凰の前で気に入られるための演技をすることを断念した。
すでに素を晒してしまっていたというのもあるし、演技をしても見透かされるだろうと思ったのもある。
でも何より大きいのは、演技なんかしなくても理凰なら受け入れてくれると信じられた事だ。
出会ったその日にそう信じてしまえるくらいに、理凰は私のことを家族として大事にしていきたいと思っていることを行動と言葉で示してくれていたから。
そうして理凰を信頼して仲良くできていれば、慎一郎先生やエイヴァとの関係もスムーズに安定していった。
途中、どうしても気に入られようとして演技が入ってしまうことに悩んだりもしたが理凰に相談したらその悩みも解決した。
「どうしても演技が入ってしまう?」
「うん。 でも、二人を騙しているような気がして」
「つらく感じるわけか。 うーん、そうだな。 光はペルソナって知ってる?」
「ペルソナ?」
「直訳すると仮面って意味になるんだけど、この場合は心理学なんかで使われる用語としてのペルソナのことだね」
いつも思うけど、記憶喪失だという理凰はそれと引き換えるかのようにとても博識だ。
「まあ、おおざっぱに説明すると、人は親や友達、上司、部下、そういった関係性の違う相手に対して見せる性格というのはそれぞれ違っていて、そのそれぞれに見せる違った顔を仮面になぞらえてペルソナと名付けたわけだね。 つまり、光がやっていることは、学術分野で用語ができているくらい誰もがやっている普通の事なんだよ」
そうか普通の事なのか、と少し心が軽くなる。
「そもそも、光の演技の動機って仲良くなりたいとかそういう理由だろう? 誰かと仲良くなるために相手に好かれる自分を演じる事ってそんなに悪いことかな?」
「嘘の自分で相手に好かれるように振舞うのは騙してるのと同じじゃないの?」
「光に関して言えば、そもそもそれはホントに嘘の自分なのかって話だと思うよ。人間、特に僕らみたいな子供はそう簡単に自分の中にないものは演じられないよ。俺から見て演技をしているって言う時の光は言うほど自分を偽れてない。光のあれは俺に言わせれば、仲良くしたい人のために光が努力して身に着けた、嘘でも演技でもない光の新しい一面で光の中に確かに存在している光の一部だ」
ストンと、心に納得が落ちてくる。
理凰はいつもこんな感じで私が気づいていない私を教えてくれる。
しらない知識を、知識の使い方を。他にもたくさんのことを教えてくれる。
理凰と出会う前、私にはフィギュアスケートしかなくてそれを教えてくれる夜鷹純だけが私の導だった。
今でもフィギュアスケートについての導は夜鷹純だけど。
私にとって人間として生きる事の導は、きっと理凰だ。
理凰がそんな人だからだろうか。理凰の周りの人は皆が理凰を気にしている。
夜鷹純ですらそうだ。
理凰からいろいろなアドバイスを受けて、日常的に受けるストレスが減ったのか最初に出会ったころに比べてとげとげしい雰囲気が大分弱まった。
それに理凰は不思議と夜鷹純の考えていることを察するのが上手で、そんな相手と話すのが楽しいのか最近は鴗鳥家を訪れる動機の比重の割合が大分理凰に占められているように見える。
事故のことがあって本格的なフィギュアスケートの練習が後回しになっている理凰を気にして練習の見学に誘ったりもするほどである。
しかも練習に誘ってみたら理凰がすごい観察眼を発揮したりして、興味を持った夜鷹純は理凰にコーチみたいなことをするように要求していた。
無茶ぶりされて困っていたみたいだけど、私は理凰と一緒に自分の滑りを高めていけるのが嬉しくてつい便乗してしまった。
理凰の指摘はすごく的確で、最高の手本は示してくれるけど言葉は不自由な夜鷹純の教えの足りない部分を補ってくれる。
気づけば練習に夢中になりすぎて、私はシンスプリントになっていた。
「ごめん、もっと早く止めるべきだった」
すごく辛そうな顔でそう言われて申し訳なく感じる反面、大事にされている実感に喜びを感じなかったと言ったら嘘になるだろう。
その後に大人顔負けの言説で慎一郎先生と夜鷹純を説き伏せ練習方針を変更させた理凰はすごく格好よく見えた。理凰は何も言わなかったけど、そのことがあってから理凰の部屋にスポーツ医学関係の本が増えたことを私は知っている。
その少しあと理凰は6歳になって本格的なフィギュアスケートの練習を始めた。
基礎練習をずっと続けていたのも知っていたし、体力をつけ筋力鍛えるために頻繁に泳ぎに行っていたのも知っていた。水泳については私も体力づくりを兼ねてよく付き合っていたし。
だから滑りの基礎と、下地となる体力や筋力が身についていたのはそうなのだけど、そこを加味しても理凰の上達の早さは異常だった。
特に驚かされたのは一回転を初めて飛んだその日に、二回転アクセルを成功させた時。
夜鷹純が理凰にそれをさせようとしたとき、私は流石に理凰でも無理だと思った。
でも、理凰は無茶を言ってきた夜鷹純に少し驚いた後、夜鷹純に無茶を言われるといつもする恨めし気な目線を夜鷹純に向けて、何でもない事のように二回転アクセルを飛んで奇麗に降りてみせた。
本人が一番驚いていたのはちょっと面白かった。
そして、私は自分がまだ理凰を甘く見ていたことを思い知って、同時にとても嬉しくなった。
私が少しでも歩みを緩めたらきっと理凰はすぐに私を置いてずっと先へ行ってしまう。
負けられないと思った。
理凰が二回転アクセルを飛んでから周りは少し騒がしかった。
理凰が評価されるのは嬉しいけど、理凰に教えてもらいたがる子が増えてそれは少し嫌だった。
そして、その日がやってきた。
理凰が、倒れた。
夜、何かの物音がして目が覚めた私は、気になって音のした廊下に様子を見に行って理凰が廊下で倒れて起き上がれないでいるのを見た。
血の気が引くという言葉の意味を実感として知った。
「理凰!?」
慌てて駆け寄ると理凰は私を安心させようとしたのか「大丈夫、ちょっと転んだだけ」なんていうけど、そんなわけがない。そもそも声が弱弱しくて聞き取るのがやっとだったし、いまだに起き上がろうとしているのにそれが出来ていないのだ。
「慎一郎先生、エイヴァ! 理凰が、理凰が…!!」
必死で走って出せる限りの声で二人を呼んだ。今が真夜中だとか汐恩ちゃんが起きちゃうとかそんなこと少しも考えられなかった。
起きてきた二人は最初は何が起きたのかわからず混乱していたが、理凰の様子を見ると顔を真っ青にして息をのんだ。先に動いたのは慎一郎先生だ。
理凰を抱き上げてベッドへ連れていく。エイヴァもそのあとに続いた。
体温を測ると39℃近いという。
慎一郎とエイヴァが「まさか事故の後遺症…」と小声話しているのが聞こえてしまって私は眩暈を覚えて部屋の壁に寄り掛かった。
私の様子に気が付いたエイヴァが、そばに来て抱きしめてくれるが私を抱きしめたその手は震えていた。
理凰は結局、慎一郎先生を付き添いにして救急車で運ばれて行き、家には私とエイヴァと汐恩が残された。
結局一睡もできず、眠れたのは病院から検査の結果が出て脳に異常がなかったということがわかったという連絡が来てからだ。
理凰が家に帰って来てから私はなるべく一緒にいたかったけど、風邪をうつしたくないと理凰に遠ざけられて不満だった。それでも理凰が無事に帰ってきてくれたのが嬉しくて何か理由を付けては理凰の様子を見に行っていた。
エイヴァが理凰に桃缶を食べさせようとして、私もそれをやってみたくて役目を取り合ったり。
このままいつもの日常が返ってくるんだと思っていた。
でも夜鷹純に手を引かれ部屋を出ようとしたとき、私は聞いてしまった。
「死んだ理凰君だったらどうしただろう」
あるいはそれは、理凰が倒れているのを見つけた時以上の衝撃だった。
きっと、熱のせいで無意識に言葉がこぼれたんだろう。
でもだからこそ、その言葉は理凰の本心だ。
胸が詰まる。
「駄目だよ。我慢して。理凰やエイヴァに聞こえてしまう」
そう言う夜鷹純の手をきつく握って耐えた。
自分の部屋の近くまで来ると、私はつないでいた手を振りほどいて部屋に駆け込んだ。
夜鷹純が自分は帰るといった内容のことを言っていた気がするけど、今はそれどころじゃなかった。
扉を乱暴に閉じ、ベッドに飛び込み、万が一にも誰かに聞こえることがないように布団を頭からかぶる。
「――――――――!」
声を押し殺して泣いた。
あれは絶対に聞いちゃいけない言葉だった!
でも、でも!
気づいてあげなくちゃいけない痛みだった!!
きっと理凰は平気だって言うだろう。実際理凰にとっては平気なんだろう。
でも平気である事と、苦しくない事はイコールじゃない。
ある日突然、記憶の何もかもを失って。
自分自身の事すらわからなくて。
そんな有様で一人、世界に放り出されて。
本当なら頼りにできるはずの一緒に暮らしている自分を愛してくれる大事な家族も、クラブの仲間やコーチたちも、学校の友達も、かつての理凰を知っている人たち皆が、今の理凰にとってはかつての理凰を奪ってしまった罪悪感の対象だなんて—--!
辛い、苦しい、悲しい、気持ち悪い、許せない!
なんで、理凰がそんな思いをしなくちゃいけない!
なんで気づけなかった!
理凰は数えきれないほど沢山のものを私にくれたのに!
私は理凰に何もしてあげられてない!
あんな言葉聞きたくなかった!
あんな言葉なんて聞くことなく気づいてあげたかった!
ごめんなさい、今だけは。
明日からはきっと頑張るから。
だから今だけは。